執務室
エルドレットのことを好きだと自覚すると、彼のことをもっと知りたくなった。いつもはセシリアが話し手で彼は聞いてくれる側だが、彼にいろいろ質問するようになった。
好きな色は?好きな本は?好きな食べ物は?
好きな色は青。
好きな本は歴史書。
好きな食べ物はグラタン。
エルドレットは何でも答えてくれたが、何で騎士になったかと訊いた時に「儲かるから」と答えたのは意外だった。セシリアの読む物語に儲かるから騎士になったという男は出てこない。みんな立派な御託を並べる。しかしセシリアは、エルドレットの理由の方が人間らしくて好ましいと思った。
セシリアは何でも訊いたが、栗色巻き毛の彼女については訊けなかった。彼女のことは相変わらずよく見かける。エルドレットと一緒のことも多々ある。エルドレットが彼女と結ばれるなら、祝福しようと思った。彼の幸せなんだから、喜んで当然だ。きっとその時自分は強くもないアルコールに手を出して、甘いものをやけ食いしながらサラに泣きついているのだが。
絶対泣きわめくのはわかっているのに、エルドレットに対して踏み込む気は起きなかった。いいお兄さんに可愛がって貰える自分という地位を捨ててまで何かをするのが怖かった。
だって今でもエルドレットは優しい。
今で十分満足なのに、これ以上求めたらバチが当たる。
そう信じていた。
「あー、くそっ。なんだこの大嵐は!」
外から帰ってきたアルヴィンが忌々しげに濡れた髪の毛をがしがしとかきむしった。
「突然降ってきたわね。うちは訓練中だったから良かったけど、巡回中や警備中の隊は笑えないわ」
隣でサラも金髪から雫を滴らせ、真っ黒い雨雲を見上げている。
たまたま通りかかったセシリアも同じように空を見上げ、アルヴィンとサラに風邪をひかないように言ってから図書室へ戻った。
図書室も雨雲のせいで薄暗く、風が強いので窓がガタガタ鳴っていた。時折雷鳴も聞こえる。あまり気にせずに返却された本の配架をしていたが、突如ものすごい破壊音が背後から聞こえた。次いで突風と冷たい雨にさらされ、ようやく窓が割れたと気付く。カウンターの書類が一気に舞い上がり、本がいくつか落ちた。
このままでは吹き込んだ雨に本がやられてしまう。貴重書もあるのに。カイン船長に手に入れて貰った本も、窓の近くの棚に置いている。
最初は窓を塞ごうとしたが、風が強すぎるうえに破損が大きすぎて諦めた。それなら一刻も早く本を避難させなければ。
吹き込む雨でびしょ濡れになりながら本を移動させ始めた時、扉が開く音がして「どうした」とミケルが入って来た。事情を察すると、一度廊下に向かって何事か声をかけ、大股で図書室に入って来てセシリアをつかまえ、自分が着ていたマントでセシリアをくるんでくれる。それから無言で作業を手伝ってくれた。
そのあとまもなく数人の騎士とエルドレットが姿を見せ、彼らも手伝ってくれたので窓側の本は全て避難させられた。
しかしこのままでは図書室が洪水になってしまう。何とか窓を塞ごうと窓際に近寄ったセシリアの腕を掴んだミケルが、ぽいとセシリアを後ろへ放り投げるようにした。よろめいた身体を受け止めてくれたのはエルドレットだ。彼の身体を覆うマントも髪もぐっしょり濡れていた。
彼は手近にあったタオルでセシリアの濡れた髪をがしがしと拭き始めたが、セシリアが小さくくしゃみをしたのを契機に「ミケル、ここ任せていいか」と訊ねた。ミケルが無言で頷くと、エルドレットはセシリアを連れて図書室を出、セシリアの部屋まで引っ張って行った。
とりあえず着替えろと言われて部屋の中に押し込まれ、ぐしょぐしょの服を脱いで乾いたワンピースを着る。扉を開けるとエルドレットが問答無用でセシリアを自分の執務室へ連れて行った。
部屋に入ると、ぐっしょり濡れたマントを脱いで椅子の背にかける。マントは防水らしく、それを脱ぐと服はほとんど濡れておらず、濡れているのは髪だけだった。黒髪から雫を滴らせ、エルドレットは部屋の暖炉へ向かった。暖炉の様子を見、脇にあった薪を組んで火をつける。執務室に来た理由はこの暖炉らしい。
「身体を暖めろ。風邪ひくぞ」
そう言われて暖炉の前のラグに靴を脱いで座る。同じようにしたエルドレットが、セシリアの後ろにまわってがしがしと髪を拭き始めた。
「エルド様、自分で‥」
「いい」
エルドレットは髪を拭き続ける。セシリアは遠慮したものの、エルドレットに髪を拭かれるのは気持ちが良かった。
膝を抱いて座るセシリアを挟むように、両脇に長い足を立てて座ったエルドレットが優しく髪を拭いてくれる。
まるでーー‥みたい。
「大体乾いた。あとは夕方、風呂で温まれ」
そう言ったエルドレットは、濡れたタオルで自分の髪をぞんざいに拭いた。
もっと触っていて欲しかったな。
しかしそんなことが言えるはずもなく、セシリアはお礼だけ言って、後ろに彼の体温を感じながら座っていた。
「セシリア、手がお留守よ」
サラに指摘され、セシリアははっとしてチキンソテーを切るのを再開した。サラはセシリアが見ていた方に視線をやる。食堂にエルドレットとカイルが入って来たところだった。
「分隊長、お仕事終わったのね。いいの、話しかけに行かなくて 」
「いいの。エルド様もお忙しいだろうし、あんまりお話してもご迷惑かも‥」
「あら、私はエルドレット分隊長とは言ってないわよ」
サラにしれっと言われ、セシリアは顔をしかめた。
「いじわる」
「ふふ。セシリアは顔の方が正直ね」
サラは笑って、すうっとセシリアに顔を寄せてきた。
「頑張って。私、応援するわよ」
「でもエルド様はあたしのこと妹ぐらいにしか思ってないよ」
「それは本人に聞いてみないとわからないでしょ。努力はしてみないと」
セシリアはきゅっと首を縮める。
「サラなら知ってるかな。エルド様、時々すごく暗い表情をするの。怖いぐらい」
「どんな時に?」
「街の娘さんたちにはしゃがれてる時とか、かなあ。頼りになる騎士様だって言われてる時。照れてるのかと思ったんだけど、そうじゃないみたいで」
サラは黙って聞いていたが、少しだけ表情を険しくした。苦しいような、痛いような、辛いようなーー‥。
「分隊長にもいろいろあるんだと思う。それは私が推測で言えるようなことじゃないわ。きっと分隊長が自分で話すから」
サラの真剣な声音に、セシリアはこくりと頷くしかなかった。
その数日後、昼食をエルドレットと一緒にとり、食堂から出たところで城の門番をしていた騎士に声をかけられた。後ろに初老の女性を連れている。
「この方が、エルドレット分隊長にお会いしたいと」
門番の後ろにいた女が、ぺこりと頭を下げた。旅をしてきたのか、服は埃まみれである。
「初めまして。ガイの母です。ガイに会いに来たんですが、こちらにおりますか」
エルドレットの肩がぴくりと動いた。横にいたセシリアには、彼が緊張したのがわかった。
「ガイの‥」
「はい。お恥ずかしながら、あの子は家を飛び出したんです。それっきり何の連絡もなくて。それが先日、ヴァルトガルドに商いに出ていた村の者が帰って来て、ヴァルトガルドで騎士になったガイを見たって教えてくれて。それで会いに来たんです」
頭に白いものが混じり始めたその女性は、嬉しそうに目元に皺を寄せて話した。
ガイという名前の騎士は知らないが、エルドレットの部下だろうか。
そう思って彼を見上げると、彼の顔から感情が消え失せていた。
「ガイは、三年前に殉職しました」
冷酷ともとれるような声音に、女性がびくりと身体を震わせる。
「え‥‥‥?」
エルドレットが一瞬唇を噛みしめ、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「戦死でした。城の墓地に仲間と一緒に。故郷がわからなかったので、お知らせできずにいました。申し訳ありません」
「戦死‥‥‥?」
女性の声は無機質で、それを肯定したエルドレットの声も無機質だった。
「部下に案内させます。どうぞ」
彼は門番の騎士に墓地まで彼女を案内するように言い、するりとその場から離れていった。
セシリアは迷ったが、今にも膝から崩れ落ちそうな女性を支えることを選んだ。
彼女を支えながら、騎士の案内で共同墓地へと向かう。息子の墓の前まで来ると、彼女は呻き声を洩らして崩れ落ちた。
息子の名前を呼びながら、後悔の言葉を並べる母の背中を擦ってやる。
「ガイは本当に良い子だったんですよ。それが突然やるべきことがあると言って飛び出して行ってね。いつか帰って来ると、またもう一度会えると信じていたのに‥ガイ‥」
咽び泣く母の背中を撫でながら、ふと視線を感じて振り返るのと、城の二階からエルドレットがこちらを見下ろしていた。
表情は相変わらず読めなかったが、その目が今にも泣き出しそうに見える。
セシリアがじっと見つめていると、彼はふっと姿を消してしまった。
その晩、セシリアは城の入り口にいた。サラに確認すると、彼は夜半まで城壁の警護だと言う。しかも本来担当だはなかったのに、自分からやると分隊長権限で押し切ったらしい。
夜半までならそろそろ戻る。こんな夜中に待ち伏せなど本来有り得ないが、夜中なのでみんな寝ているから見つかる確率は低い。それでも目立たぬように黒のショールを被り、無駄な抵抗をして彼を待った。
律動的な足音が聞こえてきて、セシリアは立ち上がった。足音はどんどん近付いてきて、セシリアの目の前で止まる。顔を上げると、驚いたようなエルドレットの顔があった。
「どうしたんだ、こんな夜中に。具合が悪くて眠れないのか。それとも、何か怖いことが‥部屋に誰か入って来たんじゃないだろうな。暗闇が怖いなら俺が部屋まで送って‥」
動揺しているからか、いつもより饒舌なエルドレットが言う台詞はやはり保護者の台詞だ。
妹なら妹でいい。迷惑だと思われても、押し付けがましくても。事情を知らないセシリアには、何もできないかもしれないけど。
セシリアは手を伸ばしてエルドレットの腕に触れた。
「お帰りなさい」
エルドレットが僅かに目を見開いた。そして思わずといったようにセシリアの腕を引き寄せ、逞しい腕でセシリアをぎゅっと抱き締めた。






