村
夕陽が眩しくなってきて、セシリアはぱたんと本を閉じた。そろそろ帰らないといけない。足元に置いていた薬草の詰まった篭を持って立ち上がる。少し遅くなってしまったかもしれない。森の小道を急ぎ、「ただいま」と言って家の扉を開ける。
「セシリア!随分遅かったじゃない」
見つかった。セシリアは咄嗟に持っていた本を背中に隠した。
「ちょっと遠くの方まで行っちゃって。父さんは診療所?薬草届けてくるね」
「ジャンなら街に往診に行ってるわ。貴方は早く手を洗ってらっしゃい。あら、スカートに染みができてるじゃない。また変なところに座ったでしょ。女の子なんだから‥」
「手洗って来る。薬草お願いね母さん」
篭を押し付けてセシリアはまた表へ飛び出した。
父の後妻として三年前にきた新しい母がセシリアは苦手だった。女の子は女の子らしく。母親は母親らしく。そういうことを気にするのはセシリアの性に合わず、最近は良い嫁ぎ先まで探される始末で辟易していた。
家にいると母がうるさいので、父の手伝いと称して森へ薬草を摘みに行き、薬草摘みが終わった後に森でのんびり大好きな読書をするのが日課だった。
「あのね、この前来た隊商にいた方の息子さん、セシリアにどうかと思うのよ」
「母さん、あたしまだ結婚する気ないから」
「何言ってるの。貴方もう二十歳でしょ。父さんのことは心配しなくても母さんがいるわ」
「そうじゃなくて、無理に結婚したくないって言ってるの」
いつもこの話で揉める。ぐちゃぐちゃ言われるのが嫌で、今日も早めに夕食を切り上げて部屋に引っ込んだ。
蝋燭に火をつけてベッドに寝転び、読みかけの本を開く。塔に閉じ込められたお姫さまを王子さまが迎えに来て、二人で冒険に出る話だ。
こういうことがあたしの人生でも起こらないものかしら。でもあたしお姫さまじゃないし。
そんなことを思いながら目が疲れるまで読んで、蝋燭を消して眠りに落ちた。
随分強引なところがある母は、セシリアの見合いの話を進めてしまった。勝手に決めないでよ、と文句を言ったがどこ吹く風で全く意に介さない。
腹を立てたセシリアは薬草を摘みに行くでもないのに本を持って森へ逃げ込んだ。
本の中ではお姫さまと王子さまが仲違いをしている。せめて貴方たちは幸せになってよ、と思いながらページをめくっていると、森の奥の方から馬の蹄の音が聞こえてきた。
何だろう。盗賊じゃないでしょうね?
切り株から腰を上げたセシリアの前に現れたのは、黒い馬に乗った黒い髪の騎士だった。
「村の者か」
騎士が低い声で馬上から問い掛けてきた。セシリアは彼を見上げたが、怪訝な表情は隠せない。
「そうですけど‥貴方は?」
「ヴァルトガルドから来た騎士だ。街の近くで野営をすることになったので村長に挨拶に来た」
こんな辺境の地までご丁寧なことだ。村まで案内して欲しいと言われて、セシリアは馬から降りた彼を村へ連れて行った。
彼が村長の家にいる間、セシリアは彼の馬に飼い葉と水を与えた。本の王子さまの馬は真っ白だが、この馬は真っ黒だ。しかし優しい目をしており、馬の首筋を撫でてやりながらとりとめもないことを話しかけていると、村長の家から騎士が出てきた。彼は飼い葉と水の礼を言って、同じように馬の首筋を軽く叩いた。
「案内ご苦労。しばらく出入りすることがあると思うが、よろしく頼む」
彼はそう言ってひらりと馬に飛び乗り、森へと消えていった。
騎士団が来たのは、ヴァルトガルドから盗賊を追ってきたかららしい。しばらくこの場を拠点にして大規模な捜索をするとのことだった。
しかし騎士団が森の向こうにいようがいまいがセシリアの生活には変わりがない。母の結婚攻撃をかわしつつ、森へ逃げ込んで読書をする日々だった。
唯一変わったのは、森で読書をしている時に食糧調達の騎士に出くわすことだった。たいてい初日に会った黒髪の騎士がいるので、お互い出会ってもびっくりすることはない。彼の部下らしき騎士は森の中で読書に勤しむセシリアを見て不思議そうにしていたが。
ある日、森の中でセシリアに会った黒髪の騎士は、包帯を分けて欲しいと頼んできた。部下が獣に襲われて怪我をし、包帯が足りなくなったのだという。父が医者だということは話していたので頼んできたのだろう。
一緒に家まで戻り、父に話をして包帯や膏薬を分けて貰う。彼は代金を払うと言ったが、父は受け取らなかった。
セシリアは騎士と一緒に野営地まで行くことにした。今読んでいるのが、吟遊詩人の語る騎士の話で、騎士に興味があったのである。連れていって貰う代わりに、食糧を持つので手一杯だった騎士を助けて荷物を持ってやった。
「なぜ野営地に興味がある?」
そう聞かれて、馬鹿にされるかと思いつつ訳を話すと、彼は少し眉を上げた。
「そういえば、いつも本を読んでいるな。随分読むのが速いと思っていた」
意外とよく見られていたようで驚いてしまう。彼は思案するようにしばらく無言で歩いていたが、ふとまた口を開いた。
「おまえが読むのは物語だけか」
「物語が多いですけど、他にも読みますよ。歴史書とか簡単な医学書とか。何でも好きです。家のは全部読んじゃったんですけどね」
「そうか」
彼は短く答えてそのあとは騎士の本拠地があるヴァルトガルドについて少し話してくれた。
森を抜けて野営地に出ると、セシリアは天幕の多さにほうっと息をついた。その天幕の一つから赤毛の男が出てきて、彼に手を挙げた。
「お帰りエルド。どうしたんだその子」
「村の娘だ。野営地が見たいっていうから連れてきた」
エルドというのが彼の名だろうか。そういえばセシリアは名乗っていないし、彼の名前も知らなかった。
赤毛の彼はセシリアの前まで来て、にやりと笑った。
「むさ苦しい野営地にようこそ。何もねえけどな。名前は?」
「セシリアです」
「俺はアルヴィン。よろしく。エルド、荷物受け取るわ。ご苦労さん」
エルドは容赦なくアルヴィンの腕の中にどさどさと荷物を落とした。セシリアの荷物も受け取って同じようにする。
「少し案内しよう。こっちだ」
「ありがとうございます。あの‥エルドっていうのが貴方の名前?」
訊ねてみると、彼は少し驚いたように目を見開いてから決まり悪そうに頭をかいた。
「そういえば名乗っていなかったな。エルドレットだ。長いと言ってエルドと呼ぶ奴もいる。好きな方で呼んでくれ」
「じゃあエルド様。あたしはセシリアです。今さら、ですけど」
エルドレットは微かに照れたような笑みを浮かべて、セシリアを一つの天幕に連れて行った。何かと思って入ってみると、思わず感激の声がもれた。
「すごい!本がいっぱい!」
「今回の遠征は待機が多いと踏んで持って来た。あまり面白いものはないかもしれないが‥」
「これ戦術書ですか。わあ、すごい!」
パラパラとページをめくって歓声をあげるセシリアに、エルドレットは「まだしばらく駐屯するから好きなものを持って行っていい」と言った。
***
目の前に座るにやにや笑いの男を、セシリアは背中を毛虫が這いまわるようなおぞましい感覚で見ていた。正確にはあまり視界に入れないようにしていたが。
母はこんな男と結婚しろと言うのか。寝言は寝てから言ってくれ。
試しにどんな女性が好みか聞いてみると、自分の言うことを聞いてくれる大人しい女性と言われた。
無理無理無理。絶対無理。
生返事を繰り返して毛虫男と母をげんなりさせ、さっさと見合いを切り上げたセシリアは、エルドレットに借りた神話の本を持って森へ逃げ込んだ。
神話に熱中していて、エルドレットが近付いて来たことに気が付かなかった。声をかけられて顔を上げると、エルドレットが少し驚いたように眉を上げた。
「‥今日は祭りか何かか?」
何を言っているのかと思ったが、ふと自分がお見合いのために化粧をして髪も結っていることに気が付いた。よく考えたら服もよそゆきのワンピースだ。まずいと思って確かめると、ワンピースの裾は思った通り汚れていた。これはまずい。
慌て出すと、ますますエルドレットが怪訝な顔をする。セシリアは半分やけくそで事情を話した。後妻の母と折り合いが合わないことから、お見合い相手の毛虫男のことまで。
見合いの相手を毛虫と言うと、彼は少し渋面になったがすぐにいつもの表情に戻った。
「なかなか大変そうだが、おまえはこれからどうしたいんだ?ずっと母御をごまかしていくわけにもいかんだろう」
「あたし、働いて自立しようと思って。王都に行って仕事を探そうかと思ってるんです。次に隊商が来た時に村を出ようかなって」
「何の仕事がしたいんだ」
「本屋、とか」
セシリアの返事を聞いたエルドレットが束の間考え込む。
やっぱり無謀な話なのかな。馬鹿な娘だと思われたかしら。
セシリアがしゅんとした時、エルドレットがセシリアの腕を掴んだ。いきなりのことに驚くが、彼はそのまま来た道を歩き出す。一体何だと思っている間に、エルドレットはセシリアを野営地へ連れてきてしまった。
「何?何?何なんです?」
「アルヴィン、いるか。相談がある」
エルドレットが天幕を覗いて呼び掛けると、アルヴィンががしがしと頭をかきながら現れた。
「何だよエルド、早かったな」
「いや、別件で引き返して来た。アル、今うちの図書室どうなっていたか知ってるか」
「知るかそんなもん。‥サラ、図書室どうなってるか知ってるか」
アルヴィンが天幕を振り返って訊ねると、金髪をきれいに纏めた女性騎士が出てきてアルヴィンの横に並んだ。
「この間ジュリアンが病気になってやめてからそのままよ。もう何が何だかわからない状態。師団長が卒倒しかかってたわ」
「新しい司書を見つけた」
そう言ってエルドレットがセシリアを前に押し出した。
司書?図書室?
「セシリア、ヴァルトガルド城で働く気はないか」
そう訊かれて、セシリアは思わずぽかんとしてしまった。
翌日、セシリアの家をエルドレットと彼の部下であるトラヴィスが訪ねて来た。父と母とテーブルを挟んで向かい合った騎士の二人は、セシリアを司書として城で雇いたい旨を申し入れた。
予想では、父は簡単に折れてくれるが母の説得が大変だと思っていた。女の子が結婚もせず働くなんてとんでもない。そう金切り声をあげると思い、エルドレットにもそれは告げていた。アルヴィンは、「最悪おまえが色仕掛けでいけ!」とトラヴィスをけしかけていた。
しかし意外にも母は簡単に了承した。曰く「騎士さまが迎えに来てくれるなんて素敵!」だそうで、思ったより夢を見る体質だったことが今さらわかった。
父も寂しがったが、娘が望まぬ結婚をするよりは良いと思ったようで了承してくれた。
「やったあ!」
両親と話がついて、家を出たセシリアは思わず手をあげて飛び跳ねた。エルドレットがその頭をぐっと押さえてそれを止める。
「エルド様、トラヴィス様、ありがとうございます!」
喜びを抑えきれず、セシリアはあと少しで二人に飛び付くところだった。それは何とか自制したが、嬉しい気持ちはおさまらない。セシリアはしばらくにやにや笑うのを止められなかった。