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紅蓮

作者: 中原まなみ

 花のように咲き、花のように散れ。

 それが、母から最初に賜った教え。


 絶望は朝と共に来た。

 寝床についた赤の染みは、子供の時が終わったことを示していた。数え十二の蓮花にとって、それは絶望であった。子供の時が終わった。十二の歳月は儚い夢の気泡のように、その朝消えた。

 鵜族。

 数多の人種、部族が入り乱れるこの国の中においても鵜族は数が少なく、また特異であった。乱世を生き抜く部族の中、ただ唯一と言って良いであろう――女が戦場に赴くのである。戦を仕切り、勝利を収めるのは女の仕事であり、役割であった。家は、男が守る。

 鵜族は決して戦を好む部族ではない。寧ろ、集落や他部族とは関わりを持たぬのが常である。その鵜族が戦に赴くというのは平常ではないという事だ。

 乱世である。

 かつての帝は崩御し、新帝もまた命を狙われている。王室を守ろうと働く力もあれば、それを討とうとする力もある。民は宗教に溺れ、宗教はまた新たな災いを呼び、民は疲弊し、土地は腐る。目まぐるしいほどの速さで、州は人から人の手へと渡り行く。腐った土地は、幾十万もの兵の血を吸っていく。そんな時代だ。しかし、華州の東側にある鵜山でのみ暮らす鵜族が戦う理由は、一つである。

 鵜山を守ること。

 鵜山は国の中でも神霊山と称される場所である。そして鵜山は鵜族における大いなる母で、父であった。鵜山は鵜族にとって誇りであった。誇りを尊ぶこと。鵜族の者ならば赤子でも知っている。

 初潮を迎えた時、鵜族の子供は女になる。女になると言う事は、紅を引き、戦装束に身を包み、戦場に赴くと言うことであった。

 誇りである。母は良く口にする。鵜族の女たるもの、鵜山を守り、子を守り、誇りを守り、死んでいくべきなのだと。

 女中が来た。印を認めると、報告へと行った。母は直ぐに来てくださり、祝いの言を口にした。

 蓮花はその日初めて、紅を引いた。

 身を清め、戦装束を纏い、小刀を渡された。それらを身につけたまま、蓮花は家を出た。足は自然と、鵜山の中の湖へと向いていた。華湖と呼ばれるその場所には、先客がいた。

 男童だ。輪郭にまだ幼い丸みを引きずり、髭も生えていない容貌は、子供であることを確かに示していた。

「蓮花、遅かったではないか」

 子供は、笑った。昨日までのように、屈託なく笑った。

「応灯」

 答えた声は、震えていた。応灯の顔が、怪訝に歪んだ。

「蓮花。その紅は」

「応家長子、灯よ」

 顔を上げ、紡いだ言葉に、応灯は口を閉ざした。応灯の闇のような双眸が、蓮花を見据えていた。

「私は蓮家の花である。今朝、紅の儀を済ませた」

 応灯の眼が、見開かれた。紅の儀が、何を示すのか。応灯には分かったのであろう。一歩、足が出た。手が伸びる。

「触れるでない」

 叫んでいた。応灯の手が、止まった。その指を見つめ、蓮花は紅を引いた唇を震わせた。

「紅の儀を、済ませた。分かるな、応灯」

「分からぬ」

「応灯」

「分かろうとも思わぬ」

 手を、握られた。強い力だった。振り払おうとした。敵わない。

「応灯」

「確かに私は、応家長子の灯だ。しかしそれが何だと言う」

「手を離せ、応灯。無礼が過ぎるぞ」

「離さぬ」

「応灯」

 もう一度、叫んだ。慣れぬ紅を引いた唇が、煩わしくさえ思った。顔を上げ、応灯を見た。強く、歪なほどに熱のある眼差しがそこに在った。

「私はもう、子供ではない。分かれ、応灯。離してくれ」

「離さぬと言った」

「なら私は、おぬしを斬らねばならぬ」

「蓮花」

「乱世だ、応灯」

 応灯の手が離れた。鳥が微かに鳴いていた。高い音で鳴く鳥は、百舌であろうか。泣いているように聞こえた。誰の声を、真似ているのか。

「父上は、確かに鵜族を嫌っている」

 応灯が、低く呟いた。その顔を見ることが出来なかった。朝影を見下ろす事だけで、精一杯であった。

「女が戦をするのが我慢ならぬと言うが、滑稽だと私は思う。私は、蓮花、お前が美しいと思う。美しくなると思う。気高くとも」

「応灯よ」

 朝の絶望は、この言葉を吐くことを分かっていたからだ。

「もう、逢えぬ」

 風が吹いた。乾いた、秋の風だ。木々の間をすり抜けていく。

 もう逢えぬ。それが、全てであった。応家と鵜族は、長年危うい均衡を保ってきた。だが、今の応家の長であり、灯の父である安は鵜族を嫌っている。乱世の中、いつ牙を向いてくるとも知れなかった。その長子と、共に居られる訳がなかった。そんな事は、分かっていた。分かっていた筈だ。

 今までは子供であったから、過ごせたのだ。過ごしていても、両家ともが眼を瞑っていた。ただ、それだけであった。だがもう、子供の時は、終わった。朝と共に、終わりを告げた。

「蓮花」

 風に乗るように、応灯の声がした。その頃には、駆け出していた。応灯に背を向け、蓮花は鵜山の奥へと駆け出していた。その背中に、声が掛かる。

「いつか、お前を迎えに行こう。蓮花よ」

 それが、十二の秋だった。


 応灯が実父である応安を殺害し、その軍を纏めたと言う知らせが入ってきたのは、それから二年後の事だった。

 暫く、鵜族は安泰かとも囁かれた。だが、その期待は裏切られた。

 鵜山に応灯軍が入り込んだと言う知らせを受けたとき、蓮花はただ静かに空を見上げた。

 月が出ていた。

 篝火が、遠く揺れている。夜霧の向こうで、微かにながらも確かに揺れていた。

「逃げてきたか、応灯」

 一人、蓮花は呟いた。護身の者もつけていない。時折こうして、寝台を抜け出しては灯りひとつ持たず外へ出た。今夜も、同じだった。ただ一つ違うのは、遠く見えるのが月明かりばかりではないと言うことだ。

 鵜山に入り込んだ応灯軍は、大きな動きを見せていない。数も、二千程度か。酷く少なかった。理由は、直ぐに知れた。華州の直ぐ隣、清州軍との戦いで敗走したのだ。逃げ込んだのが、この場所だったと言うだけだ。国の中でも神霊山と呼ばれるここには、どの軍もおいそれと手は出さない。

「生きておろうな、応灯」

 戦のことも、鵜族のことも、世のことも、二年前よりは知っている。だが二年前から、あの男の事は何も知らないままだ。

 短く、息を吐いた。ゆっくりと、歩を進める。応灯軍の事は気にはなったが、考えるのはやめた。放っておいても、鵜族に手を出してくることはないだろう。それだけの余力が、あの軍にあるとも思えなかった。

 清かな月明かりだけを頼りに、夜道を歩く。木の根が、草が、影を伸ばしている。自らの影は、霧の中に映りこんでいて、さながら幻のようだ。幻夜。そんな単語が、脳裏を掠る。

 こんな夜、歩を進めるのはいつもあの場所だ。霧に覆われた視界では、まともに物も見えはしないが、そこに行くべき道程は眼を瞑っていたって身体が覚えている。幼い頃から繰り返し足を運んだ場所。

 華湖。華州の中で最も小さな湖でありながら、華州の名を受け継いだその場所。

 ふいに声がした。

 耳を澄ませる。幾つも鳴き交わす虫たちの音色の向こう、確かに、声がする。

 幻聴ではなかった。不意に蓮花は泣きたくなった。だから、笑った。

 唄が、聴こえる。

 擦れた、低い唄声だ。視界を閉ざす霧の向こう、誰かが小さく、唄っている。

 懐かしい調べだ。まだ子供だった頃、母が寝床で唄ってくれたそれと同じ旋律だ。華州に伝わる、古い子守唄だった。湖の畔で、誰かが調べを口ずさんでいる。

「良い唄だと、思わぬか」

 霧の向こうから、声がした。闇夜の中だ。月明かりさえ頼りなく、ましてや霧の出ているこんな場所では、相手の姿さえ見えぬ。見えぬが、蓮花はそれが、嬉しかった。

 見えぬのなら、逢う事にはならない。

「良い唄だ。しかしおぬしは、唄が上手くない」

「悲しいことを言ってくれる」

 声の主は、そう言って笑った。

「唄ってくれぬか、誰かよ」

 声の主が、霧の向こうで言った。そして、その言葉尻に、僅かに咳が混じった。ふと、悪寒がした。足が、一歩前に出る。

「近寄るな、誰かよ」

 咳の中、声の主が言った。蓮花は知らず、足を止めていた。

「それ以上近寄ると、互いの顔が見えるぞ」

 優しい声音だった。蓮花は足を止めたまま、空を仰いだ。月が、霞んでいる。

「怪我を、しているのか。誰かよ」

「酷くはない。死なぬよ」

「真だな」

「私は、死ねないのだ、誰かよ。約束がある」

「約束とは」

 風が、吹いた。ひやりとした空気が鼻腔に入り込む。懐かしい匂いがした。この風の香を、霧の向こうの誰かも感じているであろうか。

「好いた女を、迎えに行かねばならんのだ」

 誰かが、笑う。霧の向こうで。夜の向こうで。

「何年掛かるとも知れぬがな。なあ、誰かよ。唄ってくれぬか」

 秋の風が、頬を撫でて過ぎる。

「おぬしは、好いた女と声がよく似ている。下手な私が唄うより、月も華湖も喜ぶであろう」

 蓮花は笑った。誰も、見咎めるものはいない。

 夜が、今は味方だ。夜も。月も。霧も。風も。全てが味方だ。

「仕方あるまいな」

 微笑んだ。ゆっくりと、口を開く。

 せめてこの夜だけは、許してくれるであろうと、蓮花は願った。


 応灯軍の敗戦の知らせは、その夜を境にぱたりと絶えた。

 代わりに入ってくる知らせは、応灯軍の勝利のものばかりであった。

 清州軍に再度の戦を挑んだ応灯軍は、良い軍師を得たのか、犠牲も少なく勝利をもぎ取ったという。

 清州を得た応灯軍は、新帝を狙う一派と完全に袂を分かつことになった。そしてそのまま、新帝の護衛のように付き従った。

 その頃の新帝はもう童ではなかったが、心は童のように幼いとよく揶揄された。酷く、臆病なのである。己はなく、ただ強いものについた。国の発展も滅びも、新帝には興味がないようであった。だからこそ、周りは応灯軍も嘲笑った。あれを守っても、何の意味もないだろう、と。

 しかし、日に日に変わりゆく世の流れを見つめ、蓮花は自身の中に募る恐怖に目をそらせなくなっていた。

 応灯は、何を考えているのか。

 幸いなことに、鵜山も鵜族も、応灯は狙ってはこない。だが、それすらも一時だけではないのか。

「何を想う、応灯」

 寝台の上、揺れる月を見上げて呟く夜を幾度も、過ぎた。

 母が亡くなる直前、蓮花に男を用意した。刻という男だった。刻は鵜族の男であり、戦は好まなかったが誇りはある男だった。

 もう十七になっていた蓮花にとって、身を固めることは早すぎることもない。すぐに婚姻を結ぶことになったが、奇妙しなことに、刻はひとつの条件を出した。

「お願いがあります、花よ」

「願いとは」

「戦場を見せていただきたい」

 その申し出に、蓮花は眉を寄せた。

「正気か」

「無論です」

「戦は女がするものぞ。男の出る場ではない」

「分かっております」だからこそ、と刻は続けた。

「女性が戦場に赴き、男が家を守る。だからこそ、私は知る必要がある。貴女の家を、貴女自身を、何から守るべきなのかを」

 刻は奇妙しな男だった。呆れながらも、蓮花はその申し出を飲んだ。

 鵜山の見晴らし台に立てば、華州の殆どを見渡せた。その日はちょうど、帝の一行が州を移る日だった。清州から、華州へ。都を移したところで何が変わるとも知れぬが、そう決まったようであった。行列の先頭に、見知った旗が揺れていた。

「応灯軍ですね」

「そうだな」

「私は」

 ふと、刻の声音が変わったことに気が付き、蓮花は刻を見やった。刻は落ち着いた声音で、揺れる旗を見据えたまま告げた。

「私は知っております」

 何が、とは言わなかった。だから蓮花も問わなかった。問うたところで答えるとも思えず、またそのことに意味があるとも思えなかった。

 契りを結び、床を共にし、十八の春、子を成した。

 生まれたのは女で、凛と名付けた。刻は蓮花を愛し、凛を愛した。はじめは距離があるように思えたが、刻はその距離をゆっくりと心地よいものにしてくれた。

「本当なら、貴女を戦場へ赴かせたくはないのです」

「鵜族の男たるものの台詞ではないな」

 寝入りばなに、刻はよくこういった話をした。凛の髪を愛おしげに撫でながら、目を細めていた。

「代わりになれるものならば、なりたいと思う時があります」

「愚かな。男は、家を守るのが仕事ぞ」

「分かっております。しかし、花よ。家とは何でありましょう」

「謎かけか」

「いいえ、単純な疑問です」

 それは寝言と大差ない呟きだったのかもしれない。

「家とは、家人のある場所でしょう。貴女であり、凛であります。私の守るべきものは」

「――寝ろ、刻。お前たちは、私が守る」

 譲れぬものがあると、母が良く口にした。譲れぬものは三つ。鵜山と、子と、そして誇りだと。

 かつて母の繰り返した言葉を胸中で繰り返した。今になってようやく、母として譲れぬものの意味を真に理解している気がした。

 凛の穏やかな寝顔を静かに撫で、蓮花は瞼を落とした。


 華州の中で戦は絶え間なく繰り返された。応灯軍は確実に力をつけていき、華州と清州、それに隣国の阿紫羅州まで手に入れた。しかし、短い期間で手に入れた分、内部は固まっておらず、不穏因子はいくらでもあるようだった。裏切りも、策略も、起こっては潰し、潰してはまた生まれた。

 そして、その夜が来た。

 初めに鵜族の長である蓮花の家に火矢が投げられ、炎は瞬時に家屋を包み込んだ。

 騒ぎの中、凛とも、刻ともはぐれた。生きていてくれ。蓮花は繰り返し叫んだ。

 赤く燃ゆる視界は、やがて全てを飲み込まんとしている。

 応灯軍による山焼きである。

 軍を出してきたところで、一万や二万程度では鵜族はどうにもならない。剣を佩かぬ代わりに、鵜族の女は身軽で、鵜山を知り尽くしている。山間を駆け、散り、そして音もなく背後に忍び寄り小刀で敵の命を絶つ。だからといって大群で押し寄せて来たくとも、あちこちで燻る内乱の火種を抱えた応灯軍にそれだけの余力はない。

 だからこその山焼きと言えた。

 炎は赤々と燃え上がり、山を焼いていく。爆ぜる樹の音の中、小動物の声はもうしない。

「愚かな事よ」

 呟いた。哀しみとも憤りともつかぬ揺らぎが、心中深くにたゆたっていた。愚かな事よ。蓮花は再度呟いた。確かにこうすれば、鵜族は滅びるであろう。だが、自らの領地であり、国の中でも神霊山のうち一つとも数えられる鵜山を焼くとは、愚の骨頂であった。

「応灯よ。鵜を焼くか。鵜を滅ぼすか、その手で」

 炎の揺らぎは東風に煽られ、蓮花の髪を焼いていく。焼けた匂いが鼻につき、蓮花は頭をふった。迷いも、問いも、今は必要ない。

 子を探し、蓮花は山を駆けた。しかし、凛は死んでいた。

 逃げ出した最中に、矢で射られたようだった。そして、炎に呑まれたのか。

 焦げた死体では顔は判別つけられなかったが、それでもその小さな手を握れば、凛であるとすぐに知れた。傍らに、刻がいた。端正な顔立ちに、今血の色もない。ただれた背中が、削がれた頬が、刻の身に起きたこともただ事ではなかったと告げていた。

「家を、守れませんでした」

 力ない声に、蓮花は奥歯を噛んだ。

「刻も、酷い怪我をしておるな」

「これしきの事。私は、まだ生きております。子を守れず、生きております」

「――立て、刻。直にここも燃える」

 炎が眼に沁みる。山焼きの中、応灯の部隊が鵜山を駆け回っている。鵜山の悲鳴が聞こえた気がした。ざわめきは戦の声だ。

「私を滅ぼすか。応灯よ。鵜を滅ぼすか。私を滅ぼすか、応灯よ」

 叫んだ。かすれた叫びに、肺は悲鳴を上げた。幾度か、敵に見つかった。その度に逃げた。傷を負った。流れ出る血は、炎より赤い。それでも、逃げた。鵜は滅びたか。その言葉が蘇るたび、蓮花は否を唱えた。

 滅びぬ。私は滅びぬ。

 滅びとは何ぞ。死することか。否、譲れぬものを譲ること。それが滅びだ。ならば鵜は滅びぬ。私も滅びぬ。譲れぬことは三つ。鵜山と、子と、誇り。しかし凛は失った。そして鵜山は今、悲鳴を上げている。

 刻は彼自身が死したような面立ちのまま、それでもちいさな亡骸を抱えて蓮花とともに駆けた。

 ふと、声がした。

 足は知らずに止まっていた。炎の赤は、ここまでは押し寄せてきていない。鵜山の中の、湖。足が勝手に、ここに向かっていた。

 声がした。

 幻聴ではなかった。不意に蓮花は泣きたくなった。だから、笑った。

「久しいな、蓮花」

 湖の向こう、赤く燃ゆる鵜山の木々を背に、男は立っていた。蓮花は目を細めた。最後に見たときの少年の素振りは、どこからも感じられなかった。当然だ。心の中で誰かが告げた。この乱世を生き抜いてきた男だ。少年のままであり続けられたわけがない。

「久しいな、応灯」

 口をついた言葉は、妙に優しく響いた。

「美しくなった、蓮花。見違えたぞ」

「おぬしはいささか、老け込んだな」

「そういうところは変わらぬな」

 応灯が笑った。つられて、蓮花も笑った。そして、泣いた。

「鵜を焼いたか、応灯」

「ああ、焼いた」

「何故だ」

「分からぬか?」

 分かっているであろうと、応灯が微笑む。吐息が、炎風に混じった。

「鵜は、お前を奪っていった」

 熱い。蓮花は思った。言葉は憎しみを帯びていて熱いのか、それともこれは、炎の熱さなのか。鵜が滅びていこうとする、その熱さなのか。

 ぐっと、肩を抱かれた。刻だ。知らず落ちていた視線を向けると、刻は柔らかく、笑んだ。愛し子の亡骸を抱いたまま、それでも、笑んでくれた。

「私はここにいます、花」

「――蓮刻か」

 応灯が告げた。刻は静かに一歩、前に出た。

「ええ。お初にお目にかかります。応灯殿。我が子の敵よ」

 応灯がふと鼻で笑った。

「幼子が死んだか」

「おぬしが、殺めたのだ」

 我知らず、蓮花の唇から言葉が漏れていた。

「そうか」

 それだけだった。

「忘れたか、蓮花。この湖で共に遊んだ日の事を。十二のとき、お前は私の元から姿を消した。私はこの地に足を踏み入れることが許されなくなった」

「乱世だ」

 全てはその一言で事足りた。刻は何も言わず、傍に居てくれた。

「乱世は、終わるかな。蓮花」

「分からぬ」

「そうだな。しかし、私は終わらせようと思う」

 応灯が微笑んだ。ゆっくりとこちらに歩んでくる。その様を見ても、蓮花は動くことが出来なかった。傷のせいか。それ以外のせいか。

「蓮花よ」

 応灯の手が、頬に触れた。しかし同時に、刻が動いていた。

 一瞬、応灯の瞳が揺れた。直ぐに口の端に、笑みがのぼる。

「隠し刀か」

「ええ」

「男であれども、鵜族ということだな」

 応灯が身を引いた。その腹から、鮮血が滴っている。向かい合う刻の手には、小さな刀が握られていた。刻は短く息を吐くと、そっと抱えていた凛の亡骸を地に横たえた。

「私は鵜の男です。家を、守るのが仕事です」

「家か。それは私が焼いた」

「知っております。しかし家とは、帰るべきところの事です。まだ、家は全て滅びてはいない。そうでしょう、花よ」

 炎はもう、すぐ傍まで迫っていた。刻の言葉は、痛いほどに熱かった。蓮花はしゃがみこみ、凛の遺体を抱いた。熱かった。同じ熱さの雫が頬を伝っていく。それは、命の熱だ。

 しばし、泣いた。木々が爆ぜる音が近くに迫った時、応灯が口を開いた。

「嫁に来ぬか、蓮花よ」

「花は、私の妻です」

「知っておる。だが、お前がいなくなれば構うまい」

 言葉に、弾かれるように蓮花は顔を上げた。身体が、自然に動いた。風。剣先が、空を切った。僅かな紅が飛散する。額を縦に裂かれた刻は、静かに応灯を見据えていた。

「邪魔をするか。蓮花よ」

「おぬしは、私から全てを奪うつもりか。応家の長、灯よ」

「それは少し、違うな。私は灯であり、お前は花である。それだけでは、いくまいか」

「私は、蓮花。鵜族の長であり、刻の妻であり、凛の母だ」

 声音が、少し震えた。腹から血を流しながらも、応灯は息を切らしている様子もない。それよりも、刻や自分のほうがくたびれて見えるだろう。目前にある応灯の顔は、少年期のそれとは程遠い。それでもその目には、確かに見覚えがあった。

 譲れぬもの。蓮花は胸中で繰り返した。

 母から受け継がれたもの。その母もまた、母から受け継がれたもの。鵜山が、鵜族にもたらして来たもの。それを、忘れるわけにはいかなかった。

「私には、譲れぬものがある」

「譲れぬものとは?」

「三つ」

「それは?」

「鵜山、我が子、そして誇りだ」

 湖が揺れた。紅に染まりかえった湖に、月が揺れている。風が押し寄せてきている。この湖も、間もなく炎に呑まれるであろう。長くは持たない。

「なるほど、鵜はおぬしから私を奪ったのかも知れぬ。だが、おぬしは私から、鵜を奪い、子を奪った」

 誇りは、まだ、消えてはいない。

 収めていた小刀を抜いた。応灯が深く微笑んだ。視界が揺らぐのは、炎のせいか、涙のせいか。

「誇りは、譲らぬ」

 そして蓮花は、応灯の胸に刀を突き立てた。


「何故、避けなかった」

「おぬしこそ。そこは少しばかり、急所からは外れておる」

 知っていた。しかし放っておけば死ぬだろう。治癒するつもりは全くない。そして、楽に死なせるつもりもなかった。

 ふっと息を吐き、応灯は地に座り込んだ。前のめりになった身体から、夥しい血が流れていく。

「帝は、死んだ」

 応灯が血を吐きながら呟いた。

「この国はいささか、腐りすぎたな。帝を含め、この地全てを、一度無に帰さねばならぬ。乱世はそうでもないと、終わりそうにない」

「殺したか」

「ああ」

 ひゅうっと応灯の喉が鳴った。刻は静かに応灯を見据えていた。しかしすぐに、膝をついた。

「花よ。申し訳ありません」

「どうした」

「私も、長くはないようです。少し、血を流しすぎたようだ」

 蓮花は慌てて刻の背に手を回した。ぬるりと、血がまとわりつく。この怪我をしたまま、同じように走ったのだ。凛を抱いたまま。

「刻」

「応灯よ。貴方に言わなければならない。花は、私の妻です。そして力づくでは、花は得られまい」

 その言葉を最後に、刻は息絶えた。目を見開き、片手に凛の手を握ったまま、挑むように応灯を見据えたまま、事切れた。

 炎が、迫っていた。亡くなった夫と、子を前に、蓮花はその場に座った。応灯の耳障りな呼気だけが、響いていた。

「蓮花。私にも、譲れぬものがある」

「譲れぬものとは?」

「ひとつ」

「それは?」

 答えはなかった。死んだか。重い体を持ち上げ、蓮花は応灯の傍へと寄った。

 同時に、腕を引かれた。唇にぬくもりが触れた。

「お前だ」

 それが、応灯の最期の言葉だった。


 ――花のように生きよと母は言った。

 花のように咲き、そして散れと。それが鵜族の女たるものぞと。

 鵜山は燃えている。子も夫も、亡くなった。そして、応灯も死んだ。

 全てが手を離れていく今、散ることだけが誇りを守る術だと知った。一線。横に引いた刀は紅の花を散らせた。

 誇りとは、何ぞ。

 自問が、押し寄せてくる。誇り。それは、花が花のままであることか。視界がいつの間にか黒くたゆたっていた。熱い。瞼を開けた。

 眼前、炎が揺れていた。湖があった。月が揺れていた。湖には自らから流れ出た命が赤々とした斑紋を浮かべていた。

 瞼を下ろした。

 湖の中揺れる血の紅が、瞼にこびりついていた。


 花のようだと、蓮花は思った。


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