雲の先
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
お~、雲があんなに早く流れていくか~。上空じゃあ結構な強い風が吹いているんだな。
雲って速いときには時速100キロを超えて、動くこともあると聞くな。それがまるでこちらが歩いていても追いつけそうな速さに見える、というあたり雲がどれだけ遠くにあるかわかるな。
雲自体、速く動いているように思えるが実際には同一の雲がずっと流されているわけではない。元あったものが消えつつも、新しいものができあがり続けて、あたかも動いているように思える……というのが科学的な仕組みらしい。
しかし、科学的な事実は必ずしも今この時の真実とは一致しない。
未だよく知られていない条件がととのったならば、よく知られていない現象が現れるのも、また道理。
私が友達から聞いた話があるんだが、耳に入れてみないか?
友達いわく、速く空を流れていく雲は不吉の印だと、地元では噂されていたらしい。
なんでも、大きな雲というのは天上の人々を乗せる乗り物の一種であり、それの足が速いというのは急を要する大事が起こっているためだ、みなされていたからだと。
天上の人というと、何も死者ばかりとは限らない。八百万の神様だとか、地上には降りていないあやかしの類だとか、我々の手が届かない相手の総称だという。
その者たちの移動手段のひとつが、異様な速さで空を駆けていくなど、よほどの一大事が起こっているに違いない。なれば、雲の向かう先には大きな凶事が待ち受けていて、こちらの人の世に流れてくるのではないか……と考えられていたのだとか。
友達自身、小さいころからそのように聞かされてから、しばしば空に浮かぶ雲の様子をうかがっていたようだ。
凶事が来るかどうかは問題じゃない。その凶事とやらが本当にあるのか、あるとしたらどのようなものなのか、それを確かめてみたかったんだ。
やがて気が訪れたのは、当時の土曜日登校。いわゆる半ドンの折だ。
この日はそのまま学校の友人などと遊びに行くことも珍しくなく、親たちの間でも帰りが遅くなるのはほぼ黙認されていることだったという。
されど友達が用ある相手は同級生にあらず、空を走る雲たちにあった。
朝方に見る空は、雲はちりぢりに存在し、いずれもさしたる動きを見せなかったという。
それが半日授業を終えて校舎を出たおり、西の空からずんずんと、校庭を横切らんとする軌道で走る大きい楕円型の雲を見かけたのだとか。
空のおおよそ7割を占めるその巨体に対し、昨晩に食べたサーモンフライだかに似た形だな、などと考えながら眺めているうちに、友達の目にもはっきり見える速さで、そいつは流れ始めていく。
校庭の西端にも、うっすらと雲のものらしい影が差し込み出したのを見て、友達は直感した。こいつは天上の人が乗っているものじゃないのか、と。
思い立つや、友達は雲に先行するかっこうで、行先になるだろう東へ、東へと急ぎ始めた。
もし伝え聞いた通りなら、この向かった先に「凶事」となることがあるのだろう。それを目にしてみたい、と。
空を行く雲と、地を這う友達とじゃ、その道のりの難易度は大きく違う。
壁、敷地、車の行きかう道路……ところどころで、友達の直進を妨げるものが立ちはだかった。それらをかわし、迂回していくとなれば、いくら急いだところで雲に追いつかれ、抜かされたあとは水をあけられていくよりないのだ。
学校から数キロほど。水の張った田んぼのあぜ道を通っているところで、これまで日差しを遮っていてくれた空の雲が外れる。見上げた限りでは変わらず頭上にあるように思えながら、決定的な差を付けられたことを意味していた。
それでも友達はやめない。なおも去っていく影を追ってあぜ道を越え、用水路をどこかしらから回り込んでいく。
すでに昼は優に過ぎ、お腹の虫はぐうぐう鳴っている。普段、歩くことがめったにない、よその学区まで余裕でまたいでいった。
その先で見たものを、友達はいまも半ば信じられずにいるらしい。
いよいよ二つの学区をまたぐかといったそのとき、流れ続けていた雲が唐突に崩れていったというんだ。
全身が散っていくような、他の雲たちがよく見せるような終わり方とは違う。友達の向かう先、東の先端から砕けていったのだとか。
流れるのさえも、自らの目で確認できたほどだ。その砕ける様は、さながら目の前で展開されている映画のごとき、滞りのなさだったという。
まるで、見えない壁にぶつかり、そこから壊れていってしまうかのごとき姿。そうして雲がめったに見せない散り方をしていくのをのんきに見ている友達……とはいかなかった。
友達ははるか前方に見た。
田んぼに植えられて、延々とかなたへ肩を並べている青い苗たち。そのごく一部が不自然に揺れているのを。
彼らは身体を揺すった先から、たちまち背を折ってしまい、黒く変じて枯れていく。長く続いてこちらへ迫るそれは、はっきりとした黒い帯として視認できる。
そして、来る。
車道を走るバイクのごとき、見た目以上の速さでこちらへ向かって来る。まっすぐに。
友達はゆとりをもってかわしたが、先の延長線上。自分の立っていたあぜ道もまた、苗たちと同じようにたちまち本来の色を失って黒ずみ、しなびていってしまう。
黒い帯はそれからも背後へ伸び、変わらず苗たちの未来を奪い続けていったらしい。もし、これが田園ではなく民家立ち並ぶ住宅地の真っただ中なら、どうなっていたか……。
雲はすっかり四散してしまっている。
これが自分の出会うことのできた凶事だろうと、友達は感じているそうだ。