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「忌み子」として辺境に追放された令嬢ですが、最強精霊にベタ惚れされました~森の主として悠々自適、無能王子と悪女の妹はもう助けません~

作者: 猫又ノ猫助

 凍えるような雨が、セシリア・ローズウッドの細い体に打ち付けた。夜会で魔力が暴走したあの日から、もう何もかもが変わってしまった。かつて公爵令嬢として暮らしていた屋敷は、今や遠い幻のようだった。目の前にあるのは、底なしの泥濘と、鬱蒼と茂る不気味な森。「迷いの森」——そう呼ばれるその場所は、死と絶望が支配する、王国の辺境にある追放地だ。


「さあ、とっとと行け! お前のような忌み子に、これ以上王都の空気を汚させはしない!」


 衛兵の罵声が背中に突き刺さる。彼らにとって、セシリアはただの厄介者でしかなかった。見送りも、餞別も、何もなかった。ただ、泥にまみれた粗末な服と、使い古されたボロ布が数枚。それが、公爵令嬢セシリア・ローズウッドの、全ての所持品だった。


「お姉様、どうか安らかに……ふふ」


 背後から聞こえたのは、妹リリアーナの甘ったるい声。その声に混じる嘲笑が、セシリアの心臓を抉った。リリアーナは、セシリアの全てを奪った。婚約者である第一王子エドワードも、家族の寵愛も、そしてセシリアがわずかに抱いていた希望も。エドワードは、セシリアを公衆の面前で「醜い出来損ない」と罵り、リリアーナとの婚約を一方的に発表したのだ。


「セシリア、貴様はこのまま……死んでしまえ」


 セシリアの胸中には、生ぬるい憎悪と、鉛のように重い絶望が渦巻いていた。幼い頃から、セシリアは家族にとって邪魔者だった。魔力の色が地味だという理由で「忌み子」と呼ばれ、虚弱体質ゆえに屋根裏部屋に押し込められた。食事は残飯、冬は凍え、夏は蒸し暑い部屋で、ただひたすら耐え忍んできた。メイドや使用人からも陰湿ないじめを受け、心身ともに深い傷を負っていた。


 泥濘に足を取られながら、セシリアは森の奥へと進む。生い茂る木々の枝が、まるで嘲笑うかのように彼女の顔を掠める。やがて、雨ざらしの朽ちかけた小屋が見えた。ここが、今日からセシリアの住処となる場所だった。


「……もう、終わりだ」


 小屋の入り口で、セシリアは力尽きて倒れ込んだ。熱と空腹、そして心身の疲弊が彼女の意識を朦朧とさせた。このまま、ここでひっそりと死んでいくのだろう。誰にも知られず、誰にも悼まれずに。それが、自分のような出来損ないの末路なのだと、セシリアは諦めかけた。


 その時だった。

 セシリアの閉じかけた瞼の奥に、眩い光が差し込んだ。それは、単なる月の光でも、雷光でもない。暖かく、しかし力強く、まるで生き物のように脈打つ光だった。セシリアの心臓が、微かに、しかし確かに鼓動を始める。


(…何、これ…?)


 体中の痛みを忘れ、セシリアは光の源へと這い進んだ。深い森の奥、ひときわ大きく聳える古木の根元から、その光は放たれていた。近づくにつれて、光はさらに強くなり、セシリアの体全体を優しく包み込んだ。


 光の中心に、一人の青年が立っていた。透き通るような銀色の髪は月の光を反射し、深い翠の瞳は森の奥深くを映しているかのようだった。その顔立ちは完璧なまでに整い、肌は雪のように白い。彼は、ただそこに立っているだけで、森の全てを支配しているかのような圧倒的な存在感を放っていた。


 青年は、倒れ込んでいるセシリアにそっと手を差し伸べた。その手は温かく、触れるだけで体の痛みが溶けていくような心地がした。


「よく来たね、私の愛しい人」


 その声は、森の囁きのように優しく、しかし確固たる意志に満ちていた。セシリアは、その瞳に見つめられた瞬間、これまでの人生で感じたことのない、深い安堵と安心感に包まれた。


「君をずっと、待っていた」


 青年は、セシリアを優しく抱き起こした。その腕の中で、セシリアは、自分がどれほど孤独で、どれほど傷ついていたのかを思い知る。そして、同時に、初めて本当に「生きている」と感じた。


 青年――森の精霊王レオンは、セシリアの顔を覗き込み、その翠の瞳をまっすぐに見つめた。


「君の魔力は、この世界のどんなものよりも深く、広大だ。だからこそ、君の世界の制御システムでは扱いきれず、暴走してしまった。だが、もう大丈夫。私がいる」


 レオンの手が、セシリアの額に触れる。その瞬間、セシリアの体内に、規格外の魔力が奔流のように流れ込んできた。それは、彼女の本来の魔力を覚醒させるだけでなく、これまでの人生で受けた全ての傷を癒していくようだった。セシリアの疲弊しきった肉体が活力を取り戻し、心が安らかに満たされていく。


「君はもう、孤独ではない。私が君を守り、愛し、永遠に共にいるだろう」


 レオンの声が、セシリアの心に深く響く。彼の言葉は、これまでセシリアが望んでも得られなかった、絶対的な肯定と愛情に満ちていた。


 セシリアは、彼の腕の中で、静かに涙を流した。それは、絶望の涙ではなく、安堵と、そして希望の涙だった。この森で、この精霊王レオンと共に、セシリアの新しい人生が始まったのだ。かつて彼女を追放した王国など、もうどうでもよかった。彼女には、もう、新しい「居場所」ができたのだから。



 ◇




 レオンの腕の中で、セシリアは意識を取り戻した。小屋の薄汚れた天井ではなく、煌めく光に満ちた、まるでクリスタルの洞窟のような空間に寝かされていた。体から痛みは消え、深い眠りから覚めたような清々しい感覚に包まれている。


「目覚めたか、私の愛しいセシリア」


 優しい声と共に、レオンがセシリアの傍らに現れた。彼の銀色の髪は、洞窟を満たす神秘的な光を反射して輝いている。セシリアは身を起こそうとしたが、まだ少しふらつく。レオンはそれを察し、そっと彼女の背に手を添え、優しく支えた。その手は温かく、セシリアは彼の存在そのものが自分にとっての安寧だと感じた。


「ここは……?」


「私のねぐらだ。君が快適に過ごせるように、少しばかり手を加えてみた」


 レオンが指を鳴らすと、洞窟の壁に色とりどりの花々が咲き乱れ、清らかな泉が湧き出した。小鳥たちのさえずりが響き渡り、空間全体が生命の息吹に満たされる。セシリアは、そのあまりの美しさに息を呑んだ。


「君は、私の魔力を受け入れた。これからは、君の魔力は完全に覚醒し、私の魔力と共鳴するだろう。つまり、君はもう、この森の真の主となったのだ」


 レオンの言葉に、セシリアは自分の体が変化していることに気づいた。体内を巡る魔力の奔流は、かつて感じたことのないほど力強く、しかし同時に、彼女の意思に素直に従うように流れている。そして、鏡代わりになった泉の水面に映る自分の顔を見て、セシリアは驚きに目を見張った。


 汚れていた顔は清められ、やつれていた頬には健康的な血色が戻っている。何よりも、これまで地味で平凡だと思っていた自分の顔が、まるで花が綻ぶように美しくなっているのだ。瞳は輝きを増し、肌は透き通るように白い。


「これは……私、ですか?」


「ああ。君の本来の美しさが、ようやく顕になっただけだ。そして、君はこれからも、さらに輝きを増していくだろう」


 レオンはセシリアの髪にそっと触れ、まるで宝物を扱うかのように優しく撫でた。その眼差しには、惜しみない愛と、深い慈しみが宿っていた。


 数日後、セシリアはレオンに導かれ、森を巡った。彼の言葉通り、セシリアの魔力は規格外の力を発揮した。彼女が触れるだけで枯れた木々は息を吹き返し、病に侵された動物たちは癒された。森の精霊たちは、セシリアを自分たちの主として認め、彼女の周りを飛び跳ねて歓迎した。


「セシリア様、ようこそ!」


「私達の新しい主!」


 彼らはセシリアの命令に忠実に従い、彼女の意のままに森の植物を操り、清らかな水を生み出した。セシリアは、精霊たちとの交流を通じて、かつて自分が教えられてきた「魔力」の概念が、いかに矮小なものであったかを悟る。ここでは、魔力は生命そのものであり、愛と調和の象徴だった。


 レオンは常にセシリアの傍らにいた。彼女が魔力を使うたび、優しくその手を包み込み、そっと唇を寄せる。


「素晴らしい……本当に素晴らしいよ、セシリア。君は、私が待ち望んだ唯一の存在だ」


 彼はセシリアのどんな些細な行動にも喜び、彼女の小さな成長すらも心から讃えた。セシリアがうっかり転びそうになれば、すぐに腕を伸ばして抱き留め、少しでも顔色が悪くなれば、心配そうに額に手を当てる。彼の愛情は、セシリアがこれまで受けたことのない、絶対的で無条件なものだった。


 セシリアは、レオンの深い愛に包まれることで、心の傷が癒されていくのを感じた。公爵家での冷遇、エドワードの罵倒、リリアーナの嘲笑……それらの記憶が、レオンの愛によって薄れていく。彼女は、初めて心からの安らぎと幸福を知った。


「レオン……」


 ある夜、満天の星が輝く中、セシリアはレオンの胸に顔を埋めた。彼の温かい腕に抱かれ、セシリアは初めて、涙ではなく、満ち足りた幸福感に震えた。


「君は、この森の全てだ。そして、私の全てでもある」


 レオンはセシリアの髪に口づけ、甘く囁いた。彼の瞳には、セシリアだけが映っている。迷いの森は、もはや死と絶望の地ではなかった。セシリアの魔力とレオンの愛によって、そこは生命力に溢れる、かけがえのない楽園となっていた。そして、セシリアはもう、かつての弱々しい公爵令嬢ではない。彼女は、この森の真の主として、圧倒的な魔力と、精霊王レオンの絶対的な溺愛に包まれていた。



 ◇



 セシリアが追放されてから、一年以上の月日が流れた。王都は、以前の華やかな活気をすっかり失っていた。かつて高らかに響いた楽の音は途絶え、貴族たちの笑い声も消え失せた。通りを行き交う人々の顔には疲労と不安が色濃く浮かび、活気に満ちていた市場からは生気が失われていた。


 魔物の大量発生は日ごとに深刻さを増し、国境近くの村々は次々と壊滅。王国内でも、不可解な疫病が蔓延し、多くの民が命を落とした。かつては難なく対処できていたはずの危機に、王国は全く対応できていなかった。


 その原因の一端は、セシリアを追放した張本人たちにあった。


「どうしてだ!? リリアーナの魔力は、王国で一番のはずだろう!」


 第一王子エドワードは、自室で癇癪を起し、机の上の書類を叩きつけた。彼の顔には苛立ちと焦りが浮かび、以前のような自信は見る影もなかった。


 彼の婚約者となったリリアーナは、自室でうずくまっていた。派手な魔力を持ち、幼い頃から「天才」と称されてきた彼女だが、今の王国が直面している危機には、その魔力は何一つとして役立たなかった。魔物の討伐に出向いても、大した成果を上げられず、疫病の治療も全くできない。


「わ、私には無理よ……こんな、こんな恐ろしい魔物たち、私にはどうすることもできないわ……」


 リリアーナの魔力は、見かけこそ華やかだが、あくまで限定的なものだった。セシリアの膨大な魔力を無意識に抑制し、隠していたに過ぎない。そのセシリアがいなくなった今、彼女の魔力の限界が露呈し、王国の期待と国民の失望が、重くのしかかっていた。


 ローズウッド公爵家もまた、風前の灯だった。セシリアを虐げ、不正を繰り返してきた彼らの悪事が、国の混乱に乗じて次々と明るみに出始めていたのだ。彼らは領地の魔物被害を報告せず、税を私腹を肥やすために使い込み、国民からの信頼は地に落ちていた。


「このままでは、我が家も終わりだ……!」


 公爵は震える声で呟いた。かつてセシリアを忌み嫌った家族は、今や自らの行いが招いた報いに怯えるしかなかった。


 そんな中、国内で奇妙な噂が囁かれ始めた。


「なあ、聞いたか? 迷いの森が、まるで別の場所になったって話」


「ああ、何でも、木々が青々と茂り、花が咲き乱れているとか……」


「そして、そこに、恐ろしい魔物すら近づけない、聖女のような存在がいるらしいぞ」


 当初、誰もが荒れ果てた「迷いの森」が豊かになるなど信じなかった。しかし、日に日に増す魔物の脅威と、王国の無策さに絶望する人々は、かすかな希望を求めて噂に耳を傾けるようになった。


「なんでも、その聖女は、枯れた大地を癒し、病を治す力があるとか……」


「まさか、そんな馬鹿な。あの忌み子が追放された森だぞ?」


 噂は尾ひれをつけ、瞬く間に王都中に広まった。国民は、かつて魔物を封じる森として恐れられていた「迷いの森」が、まるで楽園のように変化したという話に、一縷の望みを抱き始めた。


 王宮でも、その噂は当然のように耳に入っていた。しかし、エドワード王子やリリアーナ、そしてローズウッド公爵夫妻は、その噂の出どころが、まさか自分たちが追放した「出来損ない」のセシリアだとは、夢にも思っていなかった。彼らは、王国の危機を救うため、その「森の聖女」の力を借りることを決断する。


「どんな手を使ってでも、その聖女を連れてこい! この国の危機を救えるのは、もうその者しかいない!」


 エドワード王子の命令のもと、王国の精鋭部隊と、ローズウッド公爵夫妻、そしてリリアーナも加わった調査隊が、「迷いの森」へと派遣されることになった。


 彼らは知る由もなかった。自分たちが今向かっている場所が、かつて自分たちが最も蔑み、追いやったはずの場所であり、そこで待つ存在が、彼らにとっての「希望」であると同時に、最も恐ろしい「因果応報」の体現者であることを。



 ◇



 深い森の奥へと足を踏み入れた調査隊は、目を疑うような光景に言葉を失った。鬱蒼とした不気味な森は消え去り、そこにはまばゆいばかりの緑と、色とりどりの花々が咲き乱れる、まるで絵画のような世界が広がっていた。清らかな水の流れはせせらぎ、小鳥のさえずりが響き渡る。一年前、セシリアが追放された時の、あの死と絶望に満ちた森の面影は、どこにもなかった。


「ば、馬鹿な……! こんなはずはない……!」


 第一王子エドワードが震える声で呟いた。彼の顔は恐怖と困惑に歪んでいる。リリアーナもまた、信じられないものを見るかのように目を見開いていた。


「な、なぜ、森がこんなに……まさか、本当に聖女がいるとでもいうのか……?」


 その時、彼らの前に、一人の女性が現れた。


 月明かりのように透き通る白い肌、艶やかな銀色の髪は風になびき、深い翠の瞳は森の全てを映し出すかのように神秘的に輝いていた。その容姿は完璧なまでに美しく、以前の地味で粗野な印象は微塵もない。彼女が纏う魔力は、大地の脈動のように力強く、しかし同時に、優しく世界を包み込むようだった。彼女の傍らには、銀色の髪を持つ、精霊か神かと見紛うばかりの美青年が寄り添っている。


「――セシリア……!?」


 公爵夫人が、掠れた声でその名を呼んだ。その声は、驚愕と、そして微かな恐怖に震えていた。


 セシリアは、レオンに優しく抱き寄せられながら、ゆっくりと彼らの前に姿を現した。彼女の瞳は、かつて自身を虐げた者たちを冷徹に見つめていた。その視線に、エドワードもリリアーナも、そして公爵夫妻も、足がすくんで動けない。


「ごきげんよう、皆様」


 セシリアの声は、かつての怯えたものではなく、森の湖のように澄み渡り、涼やかだった。しかし、その声には一切の感情が宿っておらず、まるで凍りついた刃のようだった。


 エドワードは、セシリアの変貌ぶりに戦慄した。かつては醜い出来損ないと罵った女が、今や自分など足元にも及ばないほどの美しさと威厳を放っている。そして、その傍らに立つ精霊王レオンの存在感に、本能的な恐怖を覚えた。


「セシリア! その、無事であったか! 何という、何という奇跡だ! お前が生きていてくれたとは……!」


 公爵が、わざとらしく涙ぐみながら一歩踏み出した。かつてセシリアを「忌み子」と罵り、屋根裏に閉じ込めた男の、醜いまでの保身の言葉だった。


 セシリアは、そんな彼を一瞥し、冷ややかに言い放った。


「私の無事を、今さら喜ぶのですか、父上。一年以上前、私をこの泥濘に突き落としたのは、あなた方ではありませんでしたか? あの時、私に死ねと願ったのは、どなたでしたか?」


 その言葉に、公爵の顔から血の気が引いた。


 次に、リリアーナが震えながら口を開いた。


「お姉様……ごめんなさい! 私が悪かったわ! あなたを……あなたの魔力を奪ってしまった私を、どうか許して……!」


 リリアーナは涙を流しながら許しを乞うが、その言葉にはどこか芝居がかった響きがあった。


 セシリアは鼻で笑った。


「私の魔力? あなたに奪われた魔力など、元々あなたのものではありません。あなたは、ただ私が無意識に抑え込んでいた膨大な魔力を、その華やかなだけの表層的な魔力で覆い隠していたに過ぎません。その結果が、今の王国の惨状でしょう? あなたの『天才的な魔力』は、どこへ行ったのです、妹よ?」


 リリアーナは、セシリアの言葉に顔を真っ青にした。国民から「天才」ともてはやされてきた彼女の魔力が、実はセシリアの魔力の隠蔽に過ぎなかったという事実を突きつけられ、そのプライドは粉々に打ち砕かれた。


 そして、エドワード王子が震える声で懇願した。


「セシリア! 頼む、この国を救ってくれ! お前の力が必要なのだ! 婚約破棄の件も、追放の件も、私が全て間違っていた! どうか、どうかもう一度、私の……いや、王国の元へ戻ってきてはくれないか!?」


 セドワードは、地に膝をつき、必死にセシリアに手を伸ばした。かつてセシリアを蔑み、嘲笑った男の、情けないまでの懇願だった。


 セシリアは、そんなエドワードの姿を、まるでゴミを見るかのような目で冷徹に見下ろした。彼女の隣で、レオンがセシリアの腰を優しく抱き寄せ、その頬にそっと口づけを落とす。レオンの愛情が、セシリアの冷酷さを、より一層際立たせた。


「今さら国に戻ってこいと泣きつかれても、私はもうこの森の主ですから」


 セシリアはきっぱりと言い放った。


「あなた方には、私の心も、この森の真の姿も、決して理解できないでしょう。かつて私を『出来損ない』と罵り、この泥濘に突き落としたあなたが、今、私に命乞いをするところを見るのは、なかなか愉快ですわ、エドワード王子。あなたの無能さが、この国を破滅に導いたのですね」


 セシリアの言葉は、エドワードの心臓に深く突き刺さった。彼の顔は羞恥と絶望に染まり、これまでの人生で感じたことのない屈辱に打ち震えた。


「私はもう、あなた方とは住む世界が違うのですよ」


 その一言が、彼らにとって何よりも重く、そして永遠に消えることのない烙印となった。セシリアは、精霊王レオンと共に、静かに、しかし圧倒的な威厳をもって、彼らの前に立ち尽くしていた。ざまぁの幕は、まさに今、切って落とされたのだ。



 ◇



 セシリアの言葉に、エドワード王子、リリアーナ、そして公爵夫妻は、その場に崩れ落ちた。彼らの目の前には、かつて蔑み、追放した「出来損ない」の娘が、精霊王に愛され、圧倒的な力を手に入れた「森の主」として立ちはだかっている。その姿は、あまりにも神々しく、彼らの矮小なプライドなど、塵芥のように打ち砕かれた。


「セシリア様……どうか、どうかお慈悲を……!」


 公爵夫人が、泥にまみれながらセシリアの足元に這い寄った。その顔は、かつての威厳など欠片もなく、ただ醜いまでに恐怖と懇願に歪んでいた。


「我が家は……ローズウッド家は、もう終わりなのです……! 国も、このままでは……」


 公爵もまた、泣き崩れながら言葉を紡ぐ。彼らの脳裏には、没落寸前の公爵家と、崩壊寸前の王国が鮮やかに浮かんでいた。


 エドワード王子は、顔を土に擦り付け、震える声で叫んだ。


「私が……私が愚かでした! セシリア! お前を追い出したのは、私の最大の過ちだ! どうか、どうかこの国を……この民を救ってくれ!」


 リリアーナもまた、嗚咽を漏らしながら懇願する。彼女の派手な魔力は、王国を救うどころか、何の役にも立たなかったことを痛感していた。


「お姉様……ごめんなさい……! 私が、私が悪かったの……何でもするから、お願い、この国を救って……!」


 彼らの必死な懇願の声が、森に響き渡る。だが、セシリアの心には、彼らの言葉が届くことはなかった。彼女の隣に立つレオンが、セシリアの腰を優しく抱き寄せ、その頬に口づけを落とす。レオンの愛情に満ちた眼差しが、セシリアの冷徹な表情を際立たせた。


「助けて、ですか。随分と虫の良い話ですね」


 セシリアの声は、森の泉のように澄んでいたが、一切の情を含まなかった。


「一年と少し前、私をこの森に追放したあなた方は、私がここで死ぬことを望んだはず。その私が、今さらあなた方の都合の良い『聖女』になるとでも?」


 エドワードは顔を上げ、必死に言葉を絞り出した。


「それは……その時は、私が……未熟だったのだ! しかし、今、この国は本当に危機に瀕している! このままでは、民が、国民が苦しむのだ!」


 セシリアは、フッと冷たく笑った。


「国民ですか。彼らが苦しむのは、あなた方、王族や貴族が無能だったからです。私を虐げ、利用し、不要になれば切り捨てる。そのような国が、滅びることは自明の理ではありませんか?」


 彼女の言葉は、氷の刃のように彼らの心に突き刺さった。彼らは、セシリアを言い返す言葉を持たなかった。


 その沈黙の中、セシリアはゆっくりと口を開いた。


「ですが、一つだけ、あなた方に『救われる道』を示すこともできます」


 その言葉に、彼らの顔に一筋の希望の光が差した。


「ま、まことか!?」


 公爵が叫び、エドワードも必死にセシリアの顔を見上げた。


「ええ。ただし、私の提示する条件を、全て飲み込むならば、ですが」


 セシリアの目は、深く澄んでいて、そこに迷いは一切なかった。彼女の口から語られる条件は、どれも彼らにとって喉から手が出るほど厳しいものだった。



 〜〜〜

 *条件*

  * 公の場での謝罪と名誉回復:

  * 第一王子エドワード、リリアーナ、そしてローズウッド公爵夫妻は、王都の広場で国民の前に立ち、セシリア・ローズウッドに対する過去の全ての不当な扱い(虐待、侮辱、婚約破棄、追放)を認め、心からの謝罪を行うこと。

  * セシリアの「忌み子」という汚名を撤回し、彼女の名誉を完全に回復すること。


  * エドワード王子とリリアーナへの制裁:

  * 第一王子エドワードは、王位継承権を完全に放棄すること。

  * リリアーナは、全ての爵位と貴族の身分を剥奪されること。

  * 二人には、公務から一切手を引き、王都から追放されること。彼らが生きていくための最低限の生活費以外は、全て没収されること。


  * ローズウッド公爵家の処遇:

  * 公爵家は、これまで犯した不正行為の全てを国民に公表し、その全財産を国に返納すること。

  * 公爵夫妻は全ての爵位と領地を失い、平民としてひっそりと暮らすこと。


  * 森の永続的な保護と不干渉:

  * 「迷いの森」は、セシリア・ローズウッドが治める独立した聖域として王国に認められ、いかなる場合も王国の干渉を受けないこと。

  * 森の資源を勝手に採取すること、森に足を踏み入れること、森の精霊たちに危害を加えることは一切禁止とする。


  * セシリアの協力の範囲:

  * セシリアは、完全に王国に戻ることはしない。あくまで「森の主」として、王国の危機を救うための限定的な協力のみを行う。彼女の協力は、王国の体制が完全に改革され、国民の生活が安定するまでとする。

  * セシリアがいつ、どのように協力するかは、全てセシリアの判断に委ねられる。

 〜〜〜



 セシリアが条件を述べ終えると、彼らは絶望の淵に突き落とされた。それは、王国を救う代償としてはあまりにも重く、彼らの人生を完全に破壊するものであった。


「な……馬鹿な……!」


 エドワード王子は、顔を蒼白にして震えた。王位継承権の放棄。それは、彼にとって死に等しい宣告だった。リリアーナもまた、顔を覆って絶叫した。貴族の身分を剥奪され、王都から追放されるなど、彼女には耐えられない屈辱だった。


「そんな……! それでは、私どもは一体どうすれば……!」


 公爵夫妻は、顔面蒼白になり、ガタガタと震え出した。


 セシリアは、冷徹な視線を彼らに向けた。


「あなた方に選択肢はありません。この条件を飲むか、このまま王国が滅びるか。どちらかを選びなさい。ただし、もし私を頼らず王国が滅びれば、その全ての責任は、あなた方にあると歴史に刻まれるでしょう」


 彼女の言葉には、一切の揺るぎがなかった。レオンが、セシリアの肩をそっと抱き寄せ、その髪に唇を触れる。彼の存在が、セシリアの決意をさらに強く支えていた。


 彼らは、地獄のような選択を迫られていた。自分たちの全てを失うか、国が滅びるのを傍観するか。しかし、彼らには、もうセシリアの力を借りる以外に道はないことを知っていた。


 セシリアの冷酷な目と、レオンの深い愛情に満ちた視線が、彼らの心を打ち砕く。かつて彼女を虐げた者たちは、今や彼女の掌の上で踊らされるしかなかった。彼らの顔は、絶望と後悔に満ちていた。


「さあ、返答を。あなた方に、猶予はありませんよ」


 セシリアの声が、森に静かに響き渡った。



 ◇



 絶望に顔を歪ませながらも、エドワード王子たちはセシリアの提示した条件を飲むしかなかった。王国が滅びるか、自分たちの全てを失うか。彼らに残された道は一つしかなかったのだ。


 セシリアは、約束通り王国への「限定的な協力」を開始した。彼女は森の精霊たちと共に、王国内に蔓延する疫病の根源を特定し、その浄化を行った。枯れ果てた農地には豊かな魔力を分け与え、再び作物が育つように導いた。魔物の大量発生に対しても、彼女は森の結界を一時的に広げ、魔物が王都に近づくのを阻んだ。その圧倒的な力は、民衆に「森の聖女」という希望を与え、絶望の淵にあった王国にかろうじて生きる力を与えた。


 セシリアの協力は迅速かつ的確で、王国の危機は目に見えて収束していった。そして、彼女が要求した「条件」もまた、容赦なく実行されていった。



 ◇



 王都の広場には、大勢の民衆が詰めかけていた。彼らの視線が集中する特設壇上には、かつての威光を失ったエドワード王子、リリアーナ、そしてローズウッド公爵夫妻が立たされていた。


「こ、この度は……我がローズウッド家、及びエドワード王子、リリアーナは……セシリア・ローズウッド様に対し……筆舌に尽くしがたい侮辱と……不当な追放を行いました……」


 公爵の声は震え、途切れ途切れだった。続いてエドワードが顔を蒼白にして叫んだ。


「わ、私が……私の未熟さゆえに……セシリア様を、出来損ないと罵り……婚約を破棄し……この国から追いやったことを……深く、深く後悔しております! 誠に、申し訳、ありませんでした!」


 最後にリリアーナが、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、魂の叫びのように絶叫した。


「お、お姉様……私が、私が全て悪かったの! あなたの魔力を……私が! 私が全てを奪ったと……嘘をつきました! 許してください……ごめんなさい……!」


 彼らの謝罪は、これまで彼らがセシリアに与えてきた苦痛を思えば、あまりにも滑稽だった。民衆からは、怒号と罵声が浴びせられた。


「嘘つき者め! 国を滅ぼしかけた大罪人!」


「セシリア様を虐げた報いだ!」


 彼らは、民衆からの容赦ない糾弾に晒され、その場で意識を失いかけるほどだった。この日、セシリアの名誉は完全に回復され、彼らの罪は公に裁かれた。



 ◇



 エドワード王子は王位継承権を剥奪され、すべての爵位と称号を失った。リリアーナもまた、貴族の身分を完全に剥奪され、その「天才的な魔力」が偽りであったことが広く知れ渡った。彼らは、わずかな生活費だけを与えられ、王都から遠く離れた、小さな村へと追放された。かつての栄華は見る影もなく、彼らは貧困と民衆の冷たい視線の中で、残りの人生を送ることを強いられた。


 ローズウッド公爵家も、これまで隠蔽してきた不正が全て暴かれ、その広大な領地と莫大な財産は国に没収された。公爵夫妻は爵位を失い、平民として荒れ果てた土地で細々と暮らすことになった。彼らがかつてセシリアに強いた生活を、今度は彼ら自身が味わうことになったのだ。



 ◇



 王国の危機が完全に去った後、セシリアは森から出ることなく、王国のいかなる招待も断り続けた。彼女にとって、王国はもう過去の場所だった。王国はセシリアとの約束通り、「迷いの森」を独立した聖域として認め、一切の干渉を行わないと誓った。


 セシリアは、精霊王レオンと共に、迷いの森で穏やかで満たされた日々を送っていた。森は、彼女の魔力とレオンの愛によって、永遠の楽園として輝き続けている。レオンは、どんな時もセシリアの傍らに寄り添い、彼女を深く愛し、その全てを受け入れた。


「もう、誰も君を傷つけることはない」


 レオンは、森の木漏れ日の下で、セシリアの髪を優しく撫でた。セシリアは彼の胸に顔を埋め、心からの幸福に浸っていた。


「ええ、もう大丈夫。私は、もうこの森の主ですから」


 彼女の言葉には、確固たる自信と、深い安堵が宿っていた。かつて絶望の淵にあった少女は、今、愛する伴侶と、かけがえのない居場所を手に入れ、自分らしく生きる道を選んだ。


 王国の片隅で、かつてセシリアを虐げた者たちが、自らの行いの報いに苦しみながら生きる一方で、セシリアは精霊王の絶対的な溺愛に包まれ、永遠の幸福を謳歌していた。彼女にとって、あの過酷な追放は、真の自分と出会い、最高の居場所を見つけるための、運命的な導きであったことを悟るのだった。

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