63 手段はえらばぬ、じゃ
日が傾き、空の端がゆるやかに朱に染まりはじめていた。
淡い陽光が雲の縁をかすかに照らし、雲海はまるで冷えた大理石のように、静かにその色を変えていく。
その上を、新型飛行船ペリンが、音もなく滑るように進んでいた。
他の飛行船群とは真逆の進路を取り、魔王城の西方から、ただ一隻、単独で接近していた。
コメ国の大統領ジョウジには、ドン国を継続的に攻めている“ふり”をさせていた。
その裏で、エンジンや鋼鉄炉といった技術群が、戦艦と共に輸送船で大量に運び込まれていた。
今回の飛行船団は、それらの技術を組み合わせることで建造され、千を超える輸送船が二十四時間交代制で稼働。
膨大な人員と資源を注ぎ込み、わずか半年という短期間で完成にこぎつけたのである。
そして、新型飛行船だけは、船体全体が光を反射しない黒色の特殊染料で塗装されていた。
だが、そのままでは目立つことも想定され、下から見上げた際に異なる色彩に変化する工夫が施されていた。
晴天時には青空に溶け込み、曇天には雲に紛れるよう──機体の下部には、魔法によって布地を瞬時に交換できる装置が搭載されていたのである。
新型飛行船ペリンは、マル国の知恵、ドン国の魔法、そしてコメ国の技術──
三国の力を複合的に組み合わせて造られた、最新鋭の飛行船である。
それはまさに、技術と魔法の結晶。
──ステルス飛行船であった。
船内に戦闘員として搭乗しているのは、ドンタ王と四天王、亀の甲、そしてスイング──計七名のみであった。あとは、索敵能力優れたS級冒険者が数名だけであった。
彼らが魔力切れを起こさぬよう、積み込まれた荷の大半は高カロリーの固形食材で占められている。
ただし、味はひどく、誰もが顔をしかめるほどに激マズである。
操縦を担っているのは、厳選されたSランク魔法使いの精鋭十名のみ。
彼らは、魔術と技術の両面で《ペリン》を支えていた。
飛行船に設えられた小さな王座の間に、受信機からモールス信号の律動が響いた。
「テキ オビキダシ セイコウ」
スイングが一歩前に出て、力強く告げた。
「……二〇六作戦、順調です」
その一言が伝えられた瞬間、艦内には闘志の炎が一斉に燃え上がった。
甲は、ふかふかの椅子にゆったりと腰を沈め、白い孔雀の扇子を手に、いつものように飄々と口を開いた。
「モールス信号のおかげで、先手が取れるのう」
扇を軽く返しながら、静かな調子で言葉を継ぐ。
「敵の動きに合わせて、決めておいた作戦番号を送るだけじゃ」
その声に応じるように、ドンタ王が愉快そうに笑みを浮かべる。
「この老爺──もはや妖術の域にあるな」
王の声には呆れと敬意が混ざっていた。
四天王たちも、いつものことながら、心の中で思っていた。
この世のものとは思えぬ知識で敵を翻弄するじじい──
味方であればこれほど心強い存在もないが、敵には絶対に回したくない。
信頼と畏怖が入り混じったような微笑が、その顔に自然と浮かんでいた。
「わしの世界では、もう過去の遺物じゃが……あると無いでは天地の差かの」
亀の甲は、飄々と扇子を振りながら、何でもないようにそう言った。
スイングが、わずかに不安をにじませながらドンタ王に問いかけた。
「……この作戦が、最も自軍の兵を失わずに済みますが──」
少し間を置き、声をひそめるように続ける。
「ドンタ王。あの巨大な魔王城に、本当に……穴をあけられるのですか?」
その問いに応じるように、玉座のドンタ王から、ひときわ強い威圧が放たれた。
それは、空気の密度すら変えてしまうかのような、圧倒的な重みを帯びていた。
「愚問よ」
ドンタ王は、低く、それでいて揺るぎない響きをもって、静かにそう答えた。
四天王たちは、深く、そして力強くうなずいた。
その顔には、わずかに残っていた不安も消え去り、確かな覚悟へと変わっていた。
亀の甲が、どこか楽しげに言った。
「まあ、ダメでも。死ぬのは、わしらだけじゃ」
スイングが肩をすくめて、ぽつりと返す。
「……じじいは死なないんじゃないですか?」
その一言に、艦内の空気がほぐれた。
全員が声をあげて、笑い転げていた。
「まったく、宇宙を統べる者のせいで……えらい迷惑じゃ」
亀の甲が、苦々しげな表情で呟いた。
スイングが、一歩踏み出すようにして言った。
「作戦二〇六が成功すれば、魔王城の兵力はほぼ空となります。その隙を逃さず、即座に突入します」
だが、スイングは視線を伏せ、小さくつぶやいた。
「……魔物とはいえ、あまりにも……見るに堪えない作戦ですね」
それに、亀の甲が目を伏せたまま応じた。
「魔物は、生物ではないからの。人や命あるもののようにふるまっておるが、所詮は──宇宙を統べる者が作った、ただの動く仕掛けじゃ」
亀の甲は、扇子を軽く振りながら、いつもの調子で言い切った。
スイングと四天王たちの表情が、わずかに曇る。
ゲンスイは口元を引き結び、
ヨウゲツは伏せたまなざしに僅かな影を落とす。
ゴクエンは拳を握りしめ、
テンライは言葉なく天井を仰いでいた。
かつて目にした、魔物実験の惨劇──その記憶が、鮮やかに彼らの脳裏をよぎっていた。
そのころ、遥か後方の空──
魔王城へと進んでいた百数十機の飛行船群は、城から離れた東側の空域に広く展開していた。
魔王軍の飛行兵が接近してくると、飛行船の搭乗者たちは、できるだけ引きつけてから退避する訓練を受けていた。
彼らはあらかじめ用意されたドローンに乗り込み、飛行船の裏側に身を隠すように退避していった。
そして、脆弱な飛行船が攻撃を受けると、内部から大量のガスが放出され、周囲の空域を覆いはじめた。
さらに、落下する飛行船の中からは無数のガス爆弾が投下され、次々と地上へと堕ちていく。
やがて、地面に激突した飛行船が爆発し、白く濃い煙が地に這い、視界を奪いながら、じわじわとあたりを侵していく。それは、まるで神に見捨てられた地に降る裁きの霧のようだった。
濃縮されたガスを直接浴びた魔物は、その場で黒い霧となって掻き消えた。
わずかに触れただけの者でさえ、皮膚がただれ、肉が崩れ落ち、絶叫を残して霧と化していく。
空からは、絶え間なく魔物の残骸が降り注いだ。
地上の魔物たちもまた、皮膚を焼かれ、崩れゆく肉体を抱えながらのたうっていた。
飛行船の周囲一帯は、もはや地獄そのものと化していた。
それは──猛毒ガスであった。
正確には──濃密な“聖水”である。
魔物を倒す手段としては、あまりにも常識的な知識だ。
もちろん、人体には一切の影響はない。
ドローンで飛行船の陰に退避した者たちにとっては、むしろその場こそが最も安全な領域となっていた。
この濃密で高濃度な“猛毒”──いや、“聖水”は、かつてマル国やドン国に潜んでいた魔物たちを実験に用いることで、その密度と効果を極限まで高めていったものである。
魔王軍の先陣を担っていた飛行隊は、多くの者がすでに黒い霧へと姿を変えていた。
前線で指揮を執っていた親衛隊の兵も、同様に次々と霧と化し、空から姿を消していた。
指揮系統を失った魔王軍は、もはや統率を欠き、混乱の渦に巻き込まれていた。
それでもなお動き続けていたのは、知恵を与えられた一部の上位種の魔物たち。
彼らは、さらに迫り来る百数十機の飛行船を見上げ──
そして、恐怖に突き動かされるように、それぞれの行動を取り始めていた。
その地では、音もなく忍び寄り、逃げ場なく絡みつき、そして選びようもなく降り注ぐ──冷たい意志なき死が、すべてを覆い尽くしていた。