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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編ホラー

箪笥

作者: 壱原 一

古道具好きの妻が旅先の青空市で出物の箪笥を買い入れた。


焦げ茶色に黒い金具の、古い焼桐の和箪笥。1段3列の小引き出しの下に、3段の長い引き出しが続き、さほど大きくはない。


明るい茶色のフローリングに白いクロスの我が家には、箪笥の貫禄が勝ち過ぎて不釣り合いに思われた。


けれど妻が玄関から見て正面廊下突き当たりの壁沿いに鎮座させると、案外しっくり馴染んだ。


すると寧ろ私の方が箪笥のある場景を気に入り、それから割合ひんぱんに箪笥の傍で過ごすようになった。


朝早くや夜ねる前に、お茶やコーヒーを飲んだり、貰い物の香を焚いたり、控え目に音楽を流すなか読書したりして寛ぐ。


浸ってますねと揶揄う妻が数日の出張へ発った折も、1人分の家事を終え、濃いめに淹れたコーヒーとチョコレート1粒を携えて、常の通り廊下の行き止まりの壁沿いの箪笥の傍へ寄り添った。


コーヒーを口へ含んだところ、カップを運ぶ腕の衣擦れか、あるいはコーヒーを啜る筋肉の音が体内から鼓膜へ伝ったか、とにかく出所は不明ながら軽やかで淡い摩擦の音が、コーヒーを口へ含む僅かな間に判然と耳へ聞かれた。


それが妙に大きく聞こえて、せっかくの温かく芳醇な香味をぞんざいに飲み下したあと、聞こえた方の耳を横へ倒し、肩を持ち上げて擦り付け、思わぬ音にこそばゆくなった耳をなだめる。


そうして気付いたのは、聞こえた方の耳の側は、玄関へ続く廊下とは逆、カップを持つ利き手とは逆。


要は今きこえた摩擦の音がもし自身の衣擦れや運動音なら発生源とは逆側の、廊下の行き止まりの壁の方、体を凭れさせている箪笥の方から聞こえたようだと言う事だった。


いきおい壁と箪笥を見て、音の原因を推測する。外壁に野良猫が頬擦り。木の枝が掠めた。壁の中の断熱材がずり落ちて。ねずみ…にしては単発で悠長だった気が。それにもう少し近かった。


もしかして箪笥に虫?


だとしたら聞いた音からして結構な数や大きさのはず。


思わず手から力が抜けてカップを落としそうになり、慌てて持ち直して退却し、リビングへカップを置いて殺虫剤を持ってきた。


我が家への納入の際に妻が簡単な点検を兼ねて軽く乾拭きして以降、何を出し入れすることもなく空のまま閉め切り放置してきたこれまでを悔んでいる暇はなかった。


冷静さが物を言うと数多の修羅場から学んでいる。飛び出す、這いずる、駆け回ると気構えし、瞬時に回避できる姿勢でスプレー缶のアクチュエーターへしっかり指を据える。


残る手でまずは最下段の長い引き出しの引き手を掴み、いかなる振動も与えぬようゆっくり慎重に開けた。


結果、予想より大分なめらかに引き出しがすうっと流れ来て、その一面にみっちりと、真っ白い1人分の顔が目を閉じて詰まっていた。


その色に侵食されたように頭が真っ白になった。


横長の引き出しの一面に、水へ溶いた漆喰のような、搗きたての餅のような、ふっくらした量感と優しげな陰影ある白色がなみなみと満ちている。


真ん中にそっと浮かべた風に、毛のない眉と目蓋、鼻と頬と唇、輪郭のない人面が、同じ白色の肌をして整然と詰まっている。


白塗りの芸妓や歌舞伎役者や芸人、を、かたどった、能面や日本人形、石膏像などの工芸品。あるいはお祭りか舞台の小道具。はたまた美術展の展示品。


何であれ納入されたとき確かに空だったここに、なぜ今こんなものが詰まっているのかさっぱり分からない。


しかもまるで生きていて眠っているだけのような精妙な存在感を放つ一方で、引き出しに満ちる謎の白色の媒体に輪郭を溶かし込んで浮かんでいるという少しも現実味のない様態が気色悪くて堪らない。


気に入りの大好きな箪笥にこんなものが詰まっているなんて、引き出しを開けてしまったことを激しく痛烈に後悔し、どうして開けてしまったのか直前の己を省みて、箪笥から音がしたかもしれなかったからだと思い出した。


なにか良く分からない物が動く軽やかで淡い摩擦の音が。


どきっと強張った拍子に体が退いた所為で、遮られていた日光が引き出しに柔らかく届いた。


毛のない目蓋が徐に開き、黒い瞳がこちらを見付けてしげしげと見詰め、その顔にぽたぽたと赤い丸が付いたと見えるなり、自身の鼻から盛大に鮮血が滴り落ちていた。


同時に大音量の低周波めいた「づーーーーーー」という猛烈な耳鳴りが訪れて、痛みに缶を取り落し、眩暈がして力めず倒れ込み、起きると既に日暮れ時。


違和感を手で探ると鼻の下で血が乾いていて、周りに何の音もせず、夕焼けの廊下の行き止まりに、開けられたことなぞない風情の箪笥が佇むばかりだった。


*


明くる日に耳鼻科へ掛かった結果、鼓膜が破れているとのこと。


出張から帰った妻に大層心配されたが、一連をどう言ったものやら、心苦しい方便に転んだと説明してある。


いかに処分を打診するかが目下最大の課題だ。



終.

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