飼い犬に手を噛まれる
「そんなに悩むことないよ。戻って来たいんでしょう?」
朦朧としてくる頭の中に潜り込んでくる声。
あの場所に戻れる。
「ね、はれ。アンタはあたしの言う通りにすればいいの。」
なにも考えずにコノコの言う通りに。
「苦しいでしょ?楽になろうよ。」
全てを委ねれば楽になれる。
そう、あたしは‥
引かれる手のままに足を進めようとした。
そのとき、サブバッグを持っていた左手のするどい痛みでぼんやりしていた頭の霧がすっと引いていったように思えた。
何、急に‥痛みの場所を見ると、サブバックの中から顔を出したゴンが噛み付いていた。
鼻筋に皺を寄せて唸りながらどこか必死に「行くな」といっているようだ。
子犬でも噛まれるとそこそこ痛い。飼い犬に手を噛まれを物理で体験したよ。
おずおずと口を開けて手を解放したゴンの頭をポンポンと撫でる。悪いことしたってわかってんじゃん。噛み癖はきっちり躾けないと。
でも、お陰で頭が冷えた。
「ほら、行くよ。」
歩き出そうとしないあたしに元友人がイラついた声を上げた。掴んでいるあたしに手を引っ張る。
「手、離してくれる?あたし行かないから。」
「はあ?何言ってんの。」
驚いたように目を見開くと、呆れるような口調になった。
「未練たらったらのくせに。意地はるのいい加減にしなよ。」
せっかくアタシが言ってあげてるのに、心の中で何を思っているのか口に出さなくても聞こえたような気がした。
「未練たらったらのくせに。見栄張るのもいい加減にしなよ。」
「未練はあるよ。でも、もういい。」
踊ることが好きだった。
練習すればするだけ体が軽くなって、足が動いてポーズが綺麗に決まるようになって、どんどん上手くなっていくのが自分でも分かるくらいだった。
嬉しかった。ただただ、嬉しかった。
でも、それを喜んでくれる人たちばかりではなかった。
大好きで、色々教えてくれた先輩たちはいつのまにかよそよそしくなったいた。
同期の子達は遠巻きになった。そのくせ、面倒なことや責任のあることだけは押し付けられるようになった。
だんだん息が苦しくなってどうしていいか分からなくなって、誰を信じていいか分からなくなってきて。
それで逃げた。
わたしは受け入れられなくて、自分を変えることもできなかった。
ただそれだけ。
どちらも正解でどちらも間違えていると思う。
それは仕方がないことだったんだろう。
「あたし今戻ってもまた同じことになると思う。おかしいことはおかしいって言うだろうし空気読まない奴みたいになっちゃうだろうし。
踊ることが好きなのはかわらないけど、今は、いい。」
鳩が豆鉄砲を食ったような、というより、訳の分からないことを言われているような顔であたしを見ている友人の目をしっかり捉えた。
ああ、なんか久しぶりに顔を見たような気がする。
「何があって誘ってくれたのかはわからないけど、声かけてくれてありがとう。」
わざわざ誘いに来た彼女にも何か思う事があったのかもしれない。それが全て好意から来たものなのかどうなのかはわからないけど。
いつの間にか俯いていた彼女に何とか笑いかけた。
「なんか、諦めがついたっていうか、スッキリしたっていうか。みんなにはよろしく言っておいて。」
彼女はあたしの手首を握りしめたままだった。
お読みいただきありがとうございました。