殺人犯の宇宙人と僕
プールの帰り道、僕は初めて死体を見た。
空が茜色に染まる黄昏時、水着の入ったナップサックを蹴り上げながら遠くで鳴く烏の声を背にして歩く。午前の蒸し暑さはなりを潜めているが、依然として気温は高いままだ。プールで冷えたはずの体には既にじんわりと汗が滲んでいた。
道すがらアイスクリームを買えばよかったと後悔したその時、僕はふとあることに気がついた。やけに通行人が少ないのだ。いつものこの時間帯であれば、仕事終わりのサラリーマンやスーパー帰りの主婦がいるのに、今日は僕しか歩いていない。不思議には思ったものの、たまにはこんな日もあるかと深くは考えなかったが、今思えばこれもあの宇宙人に作られるべくして作られた状況だったのかもしれない。
僕の足がいい所に入ってこの日一番ナップサックが高く上がったのと、重くて固いものが落ちたような鈍い音が聞こえたのは同時だった。揺れるナップサックのナイロンの生地が足首に触れるのを感じながらじっと目を凝らす。ビルの間の細くて暗い路地、音の出どころはそこだった。
最初に見えたのは宙を漂う赤くて細い何か。先を辿れば、それが人の背中から生えているのが分かる。こちらからは背中しか見えないが、シルエットからして女性のようだった。まるで宇宙人だ。背中から触手を生やした、そう呼ぶ他ない得体の知れない未知の存在にばかり気を取られ気付いていなかったが、もう一人何者かが女性の足元にいた。地に伏せている姿に酔っ払いだろうかと思ったのも束の間、直ぐに違うと分かった。勘、雰囲気、第六感。この感覚はどれに当てはまるのだろう。ただ、陽の光も届かない路地に漂う嫌な空気。まるで別世界のような近寄り難い不穏な気配。その場に渦巻く全てが、暑くて回らない僕の頭を急激に冷ましていく。いつの間にか背中の汗は、体にまとわりつくような嫌なものに変わっていた。
あまりにも予想外の出来事に遭遇すると、人は逆に冷静になる傾向がある。まさに今、僕がそうだった。動かない男性は、既に死んでいるのだろうと僕はどこか他人ごとのように思っていた。
毛の薄い後頭部をぼんやりと見つめた数秒後、あれ?と脳みそが回転し始める。自分がどれだけ危険な状況なのか理解が追いつき始める。汗は止まらず、喉はへばりついて声が出ない。得体の知れない奴がいて、足元には死体もいて、目撃してしまった僕がいて。これは完全に、次は僕が殺される番だろう。
一秒でも早くここから離れないと、と分かってはいるのに足が動かない。今更恐怖が体を支配しているのだ。なら尚更動いてくれよと思っても強ばりは簡単に解けない。瞬きすら許されない視界で、ほんの数分の僕の葛藤も知らずに女性は無慈悲にもゆっくりとこちらを振り返った。
長い前髪から覗く大きな瞳が僕を捉える。人生で一度も向けられたことのない、この世の何よりも冷たい眼差しだった。女性が完全にこちらを向いた時、僕は思わず声を漏らした。どうして、という声色で。
というのも、人を殺めたであろう宇宙人らしき女性は、僕のよく見知っている顔だったのだ。
学校の通学路にある、築何十年経っているかも分かないオンボロアパート。外壁の塗装は剥がれ、鉄骨の階段と手すりは錆びて茶色が目立つ。そこの二階の一番右の部屋。窓枠の半分から下にある落下防止の柵に腕を乗せ、窓辺に座り外を見ながら煙草を吸う女性。それが彼女、もとい宇宙人だった。
いるのはいつも下校時で、日々最高気温を塗り替えていく暑さなど知らないとばかりに涼しい顔で煙を吐き出す。母親や先生とは全く違う、初めて見るタイプの女性に目を奪われたとでも言えばいいのか、さながらロミオのように見上げる僕と宇宙人の目が合ったのは偶然だった。
反射的に僕が目を逸らすよりも早く、宇宙人は緩く微笑みながら手を振ってきた。そのどこか妖艶な姿に僕は気恥ずかしくなって、振り返す余裕もなく一目散に駆け出した。宇宙人からすればさぞ愛想の無い不愉快な子供だったろう。なのに何故か、それから毎日下校する僕に飽きもせず手を振ってくれるようになった。最初は恥ずかしくて見ないふりをしていた僕も、流石に無視し続けるのは心が痛まないわけが無く、渋々と視線を背けぎこちなく振り返した日から始まり、今では相手の顔を見て腕を限界まで伸ばし、開いた手を忙しなく左右に振るくらいまで成長した。
そんな下から見上げたことしかなかった宇宙人が、今目の前にいる。厳密に言えば身長差でまだ見上げてはいるが、同じ地面には立っている。あんなにも焦がれて眩しかったはずの笑顔がすぐそこにあるのに、今の僕にはただただ不気味にしか思えなかった。
「こんにちは。いや、もう夕方だからこんばんはかな」
空の色まで確認して、宇宙人は呑気に挨拶をしてくる。
「あれだよね、君。いつも手を振ってくれる子。今日は学校じゃなかったんだ?」
まるで偶然道で顔見知りと遭遇したかのように、死体など存在していないかのように、軽快な足取りで近付いてくる。距離が縮まるにつれ、蠢く無数の触手が赤色なのではなく血に濡れて赤く染まっているだけなことに気が付いた。根元の方は、ゼリーのような半透明の緑色だ。
今日は開校記念日だから、と宇宙人の問いかけに対する答えを言おうとして、水面に集まる金魚のように口を開閉させる僕を見た宇宙人が笑みを深めた。
「見たんだね、アレを」
アレと死体を視線だけで示される。僕はただ、宇宙人の行動を固唾を呑んで見守るしか出来ない。
「そして私の正体も知ってしまった」
膝に手を着いて屈み、僕と目線を合わせる。雨に濡れた針葉樹のような深い緑色の瞳だった。
「更に私がアレを殺したことも、状況からしてもう分かってるよね?」
僕が頷くよりも先に宇宙人は困ったなぁと呟く。
「誰にも言わなかったら良い事してあげるんだけど、出来る?」
まさか殺人現場を見ておいて、はい出来ますなんて言えるわけがなかった。だがそうしないと僕は死んでしまうのだろう。人が死んでいるのを見過ごせないのと、死にたくないの二つの気持ちに挟まれ僕がどうしようもなくなっているのを、宇宙人は察したようだった。口をモゴモゴとさせ煮え切らない態度の僕の頬を両手で包み込む。触手が僕と宇宙人を囲むようにドーム形になり、外の光を遮った。薄暗い空間で宇宙人の瞳だけが僅かに発光している。不思議な美しさを醸し出すそれに瞬きもせず目を奪われていると、唇に柔らかな感触がした。意識が覚醒し、唇に触れて確認する頃には既に宇宙人は僕から一歩離れた場所にいた。
「もし次会った時誰にも言ってなかったら、もっと良い事してあげるね」
先程の大人の女性らしい雰囲気とは真逆の、無邪気な笑みを浮かべてそう言った。じゃあね、と勝手に別れを告げると一度瞬きをした間に宇宙人の姿は死体と共に薄暗い路地から消えていた。
今まで意識の外にあった蝉の声が煩く鳴り響く。夢だったのかと思うような時間だった。だがこの火照った体の理由は、夏の暑さだけではないだろう。確かにあの時、僕の唇は彼女に触れたのだ。
僕は暫く、その場から動けなかった。急に消えた彼女と死体に回す気など無い程今の僕は冷静ではない。
頭を占めるのは、明日もまたボロいアパートで煙草を吸いながら、同じように手を振ってくる彼女のことだった。
窓際、又はベランダで薄着で一服してるような雰囲気のある女性が好きです。
今日の夕飯はジンギスカンです。