【短編版】こちらが妻の姫将軍です(連載版執筆中)
「わたくしの代わりに屋敷を守ってくれる殿方がほしいんですの。」
美しい赤薔薇の園の中で唯一、金色に輝く髪の彼女――軍服を纏うエリューシア・テム・アルストロメリアはそう言った。
「わたくしは戦いの神テセウスの加護を受けし、アルストロメリア家の娘です。王国のためにも我が侯爵家のためにも、わたくしは戦場に立たねばなりませんの。」
可憐な令嬢は物憂げな表情で小さく息を吐いた。
「ただ、このような条件を殿方に切り出すと……大抵の方は気分を害されるようでして、困っておりますのよ。」
「……そう、なのですね。」
絞りだした声は蚊の鳴くような声だった。
格上の侯爵令嬢を招くにあたって、せっかく奮発した紅茶の香りも味も感じられない。
「わたくしが望む条件は以上でございますわ。フィエン殿はいかがでしょうか?」
アメジストの瞳が僕を映している。
姫将軍と持て囃される彼女からは、言い知れない覇気を感じた。
「……我が家といたしましては、異論ございません。あなたの伴侶として守り支える所存でございます。」
「まぁ、ご心配なさらないで。」
「――我が夫となるあなたも、わたくしが全身全霊でお守りいたしますわ。」
普通であれば夫となる僕から彼女へ向けて告げなければならない言葉が、薔薇のつぼみのような彼女の口からこぼれ出た。
僕はその言葉にハッとした。求められているものは、兄の持つ美貌でも姉のもつ商才でもなかった。平々凡々な僕でもいいと、彼女は言ってくれているのだ。
「……、」
気の利いた言葉一つ継げない僕に、それでも彼女は縁談がまとまったと判断してか、美しいほほえみをたたえて右手を差し出してくる。
相手はアルストロメリア侯爵家。
身分にも能力にも魅力にも差があるが、僕は彼女とともに歩むことを決めた。
その美しい人の右手を震えながらぎこちなく取り、指先へ敬愛のキスを贈る。
「まぁ!」
手を引っ込めて頬を染めた彼女は、間違いなく年相応な少女だ。
まさか国内外から恐れられる「姫将軍」とはとても思えなかった。
◇❖◇
お見合いの1週間前のこと。
僕は父上の書斎へ呼び出されていた。
ノックに応える声に従い入室すると、不安そうな様子の母上と目が合った。
着席を促されて、父母の前のソファに腰掛ける。
父上の顔色は随分と悪い。
「お前に縁談が来ているんだが、」
「縁談ですか。」
そこで父は押し黙ってしまう。
僕ももう十八だ。
生来ののんびりした性格のため浮いた話の一つもない。
そんな僕への縁談であれば、父と母は喜んで受けるはずだ。
「あなた、黙っていてはわからないでしょう?」
「だが、アニス…。」
父上と母上も随分と戸惑っている様子だ。
「父上、その……縁談というのはどちらから?」
「……アルストロメリア侯爵家のご令嬢からだ。」
「アルストロメリア侯爵家!?」
我がガザニア伯爵家ではとてもつり合いが取れないような格上からの縁談だ。
それに、アルストロメリア侯爵家のご令嬢と言えば、戦いの神テセウスの加護――肉体強化の祝福を得た一騎当千の将だと聞く。
「お相手は姫将軍―エリューシア・テム・アルストロメリア嬢だ。」
父の額には汗がにじんでいる。
当然だ。エリューシア・テム・アルストロメリア嬢の名を知らぬ者はこの国にいない。
南部の遠征の際にはたった一人で蛮族を退けたと言うし、戦場を駆ければ一直線に大将首を取りに行くと聞く。
どれほど恐ろしい方なのだろうか。
「とてもじゃないがお断りはできない。一週間後に顔合わせの茶会をうちで行った後に、お前には婿入りしてほしい。」
「はぁ…」
まるで自分のことには思えない。
こちらからお断りすることはもちろんできない。
できることと言えば、相手からのお断りを待つだけだ。
「あなたもわかっている通り、次期当主であるフェルナンドにはミーラ嬢がいらっしゃるでしょう?あとうちの男はあなただけなのよ。」
普段は貴婦人然とした母上も眉を寄せて、困った様子でため息をついている。
僕は二男三女の次男であり、ガザニア伯爵家の末っ子だ。
婚約者がいない状態で縁談をお受けできるのは僕だけということになる。
しかし、僕は兄上ほど立派でも美しくもない。
姉上たちとともにおままごとやガーデニングを楽しんでいた僕では、アルストロメリア侯爵家のお眼鏡にはかなわないと思う。それは、父上も母上も同じ思いのことだろう。
「……分かりました。アルストロメリア侯爵令嬢のご気分を害さないようにおもてなしをして、あとは向こうのご指示をお待ちしましょう。だめならだめでいいじゃないですか。」
「お前にそう言ってもらえるなら、いくらか気が楽になるよ……。」
父上がほっと息をついた。
「あなたにもそろそろ身を固めてほしいところだけど、姫将軍相手ではねぇ。」
母上は少しばかり残念そうだ。
「いいんですよ、母上。いざとなれば家の益になるよう、貴族とのつながりが欲しい商人とでも結婚します。それよりご令嬢のおもてなしの準備をしなければ。僕はこれで失礼しますよ。」
そう告げて、父の書斎から出る。
出てから気づいたが、釣書の確認もしなかったな。
僕はおもてなしの準備が大好きだ。
お客様の喜ぶ顔を想像して、まずはガゼボを磨き上げて、周辺の花の手入れをして、茶菓子も特別なものを用意しよう。
縁がなかったとしても、それはそれ。
いろいろと名高いアルストロメリア侯爵家のご令嬢とお茶会なんて、この後一生ないだろう。
せっかくだから喜んでほしい。
そんな気持ちで掃除と庭の手入れ、茶菓子の手配を頼みに、家令とメイド長へ話を通しに向かった。
◇❖◇
お見合いから3か月後のこと。
僕は今、人生で一番混乱しているかもしれない。
白いタキシードは汚してしまいそうでうっかり動けないし、お茶を飲むこともできない。
「まさかフィエンがあのアルストロメリア侯爵令嬢を射止めるなんてねぇ。このタキシード新商品だから、あとで使用感のレポートお願いできるかしら?」
親族の控室では、ずいぶん前に商家へお嫁に行った一の姉さま――フィアナ姉上が楽しそうに僕のタイを直している。
相変わらず仕事が趣味の人だ。
実らぬ見合いのつもりだったけれど、その後なぜかとんとん拍子で話が進んだ。
今日は、結婚式だ。
「しっかりしなさいよ、あなたはいつもぼんやりしているのだから。」
丸まった僕の背をたたいたのは二の姉さま――フィフォニア姉上。
「フィエンちゃんがお婿いくなんてさみしくなるわぁ。」
僕の様子をニコニコ眺めているのは三の姉さま――フォアシーナ姉上。
なかば姉上たちのおもちゃにされながら、あれよあれよと準備を進めていた。
急過ぎる展開に不安げな僕を見かねてか、フィアナ姉上がキッと眉を吊り上げた。
「いいこと?あなたは昔からかわいいし厄介な奴の目につきやすいのは重々承知しています。」
姉さまたちが目くばせし合う。
「「「婿入り先でいじめられたら姉さまたちに言うのよ!」」」
「エリューシア嬢はそんなひとじゃないよ……。」
「あら?奥様だけじゃなくってよ?例えば舅さまや姑さま、いままで屋敷に仕えていたメイドなんかにいじめられる話なんかがあるわねぇ。」
「そんな怖いこといわないでよ……。」
赤薔薇の園でのお茶会から何度かエリューシア嬢に会う機会があった。
彼女は行き遅れで軍人であるから、と大変丁重に僕を扱ってくれていた。
僕は彼女に惹かれていった。まるで噂とは違うその姿に。
だから、何度考えても今の状況が夢のようだと感じるのだ。
「ほら、そろそろ時間よ。」
「花嫁さん迎えてあげなくっちゃ。」
「頑張ってね、フィエンちゃん。」
そう笑う姉たちに聖堂へ送り出される。
心臓が爆発しそうだ。
あの美しい人がこれから僕の隣へやってくるという。
神父様の前に着き、花嫁の入場を待つ。
扉の開く音に振り返る。
アルストロメリア侯爵のエスコートで真白な軍服を纏い、凛々しい顔で僕を見つめるエリューシア嬢が入場してくる。
その姿に僕は内心ほっとした。
彼女の存在は現実だった。
エリューシア・テム・アルストロメリアは軍人であり、アルストロメリア侯爵令嬢であり、これから僕の妻になる人なのだ。
アルストロメリア侯爵からエリューシア嬢を引き受ける。
二人そろって神父の前に歩み出て、ほんの少しだけアイコンタクトをした。
彼女のアメジストの目は輝いていて、幸せそうだった。
僕はそれが嬉しかった。
「あなたは今、愛の神ニオベの導きによって、フィエン・スサ・ガザニアを夫とし夫婦になろうとしています。汝はその愛を愛の神ニオベに、その剣を戦いの神テセウスに誓いますか?」
「誓います。」
凛とした声が聖堂に響く。
「あなたは今、愛の神ニオベの導きによって、エリューシア・テム・アルストロメリアを妻とし夫婦になろうとしています。汝はその愛を愛の神ニオベと汝の妻に誓いますか?」
「誓います。」
声は震えなかっただろうか。
「では、婚姻証明書に署名を」
彼女が先に書き、次に僕が署名する。
この婚姻証明書を神殿に奉納することによって、僕たちの結婚は成立する。
「では、誓いの口づけを」
僕より少しだけ低い肩をそっと掴む、彼女は穏やかな表情で目を閉じた。
長いまつげが彼女の頬に影を作る。
この日僕――フィエン・スサ・ガザニアと彼女――エリューシア・テム・アルストロメリアは、すべての儀式を終えて夫婦となった。
◇❖◇
新婚生活は、思いのほか穏やかに過ぎていった。
「エリューシア様、入りますよ。」
「どうぞ、起きておりますわ。」
声色から察するに、今日はずいぶんとご機嫌のようだ。
毎朝一杯の紅茶を彼女の寝室に届けるところから一日が始まる。
少しでも安らかな日々を過ごしてほしいと思ってこの習慣を続けている。
軍人である彼女の朝は早いが、この習慣を始めてから彼女も僕が起こしに来るのをベットの中で待っていてくれている。
今日は空も晴れ渡り、窓から入る朝日が彼女の白い寝間着を照らしている。
僕は少し照れてしまい、カップに視線を落とした。
受け入れられているようで、胸が温かくなる。
「おはよう、エリューシア様。今日はセントーレアの花を入れた紅茶だよ。」
「フィエン様、おはようございます。いい香りですね。」
彼女が紅茶に口をつけて、ほぅと一息ついた。
お気に召したようだ。これからストックすることにしよう。
「今日の予定を聞いても?」
「軍部で会議がありますの。晩餐までには帰宅いたしますわ。」
「わかりました。朝食に良いベーコンが入ったようですよ。」
「まぁ、楽しみです。」
「では、ダイニングでお待ちしていますね。」
「着替えてすぐ参りますわ。」
朝と夜の短い会話が、僕たちの夫婦生活だ。
エリューシア様は軍部の所属のため、生活が不規則だ。
夕刻に帰宅できるときもあれば、宵を越えて朝方の帰宅になるときもある。
結婚式に参加してくださったアルストロメリア侯爵は現在領地にいらっしゃるようで、彼女が言った通り、屋敷を守る主人がいない状況だ。
僕はここで女主人ならぬ、男主人として屋敷の切り盛りを始めたばかりだ。
彼女は起こした。ダイニングへやってくるまでにはまだ時間があるだろう。
白いテーブルクロスのかかったテーブルを見て、ふと思いつく。
「花でも飾ろうかな……。」
幸い庭園には近い。
思い立ってすぐにアストロメリア侯爵家の家令――スチュアートに声をかける。
「スチュアート、花瓶を用意しておいてくれないか。」
「かしこまりました。」
マーガレットが見ごろだったはずだ。
エリューシア様にも見せて差し上げたい。
かわいいピンク色のマーガレットを摘んでダイニングへ戻るとスチュアートが黄色の花瓶を用意してくれていた。
可憐な佇まいがマーガレットの素朴さによく合う。
白いテーブルクロスにも映えて、僕は満足してうなずいた。
「お待たせしました。」
侍女を2名引き連れて、緑の軍服を纏ったエリューシア様がダイニングへやってきた。
「いえいえ、朝食をいただきましょう。」
「まぁ!マーガレットを用意してくださったのね。とてもかわいい。」
エリューシア様の美しい顔がほころぶ。
今日のフラワーサービスはお気に召したようだ。
彼女は素朴な花を愛おしそうに眺める。
だが、遠くのものを見つめるような瞳には、ほんの少しの寂しさがあるように感じた。
「エリューシア様?」
「……いえ、なんでも。」
朝食が運ばれてきてエリューシア様の顔が切り替わる。
それからは彼女の話を聞きながら朝食に舌鼓を打った。
「それでは行って参りますわ、遅くなるようであれば連絡いたします。」
「わかりました。お気をつけてエリューシア様。」
王宮へ向かう馬車を見送り、僕は屋敷に戻る。
掃除、洗濯はもうメイドたちがやってくれているかもしれないな。
今日は庭の手入れでもしようかな……。
◇❖◇
その日のエリューシア様は予定通り夕刻には帰宅した。
晩餐にはまだ早い時間のため、僕たちは久しぶりに庭園でお茶をすることにした。
「だいぶ仕事が落ち着いてきましたのよ。結婚してからわたくしあまり早く帰ってこれなかったでしょう?部下たちも気を使ってくれたのです。明日から2日ほどおやすみをいただいておりますし、早く帰ってこれたんですの。」
「それは部下の方にお礼を申し上げなければいけませんね。」
ころころと鈴のように笑う彼女は楽しそうだ。
「あと、もう一つお願いがありますの。」
少し顔を曇らせて取り出したのは一通の封筒だった。
「僕にですか?」
「正確にはわたくしたちに、ですわ。」
受け取って裏を見ると薔薇と剣の紋章。
王家からの手紙だ。
後ろで控えていたスチュアートが物音ひとつ立てずにペーパーナイフを差し出した。
「夜会の、招待状ですか?」
「はい。」
招待状には二週間後に夜会が行われる旨と、僕たち夫婦の名前が書かれている。
「夜会のエスコートをさせていただくのは初めてですね。」
「よろしいんですの?」
彼女は少し驚いたように顔を上げた。
「わたくし……かわいくありませんから夜会に行っても……」
いつも意思を秘めたアメジストの瞳が、マーガレットを見つめていた時のようにうろ、と逃げた。
「エリューシア様、これは姉の受け売りなのですが、女の子はドレスと宝石とお化粧で魔法が使えるんですよ。」
「魔法…?」
僕は彼女の手をそっと握った。
彼女は目をパチパチと瞬く。
「明日から2日おやすみと言っていましたし、夜会の準備をしましょうね。」
「でも…。」
「大丈夫です、あなたの隣には必ず僕がいますよ。」
そろそろ晩餐の時間だと、彼女の肩を抱いて屋敷に戻る。
準備をしてくるという彼女の後ろ姿を見送って、僕はスチュアートに2つほどお願いをした。
◇❖◇
「おはよう、エリューシア様。今日は海を越えた異国の紅茶だよ。」
「おはようございます、フィエン様。不思議な香りですが、今日も美味しいですね。」
ベッドの上で紅茶を楽しむ彼女に向けて、僕は早速切り出した。
「今日は何か予定がありますか?」
「今日はお休みですので、フィエン様と一緒におりますわ。」
特に予定がなくてよかった。今日は大忙しだ。
「それはよかったです。朝食後に姉上を呼んでいます。ランチの後は僕の家が懇意にしている宝石商が来ますので、夜会のアクセサリーを選びましょうね。好きな色などを教えていただけたら嬉しいですが、エリューシア様なら何色でも似合ってしまいますね。」
指折り数えて今日の予定を伝える。
「えぇ!?わたくしドレスなんて…。」
「大丈夫ですよ、僕こういうの得意なんです。ではダイニングで待っていますので、支度をよろしくお願いしますね。」
最後の言葉はエリューシア様付きの侍女に向けた言葉だ。
僕は笑顔のまま退室する。
僕の生家であるガザニア伯爵家は、領地で取れる宝石を装飾品に、綿や絹を生産しドレスとして商品にすることを生業としている。一の姉さまはデザイナーとしていまも店で腕を振るっているし、二の姉さまは宝石の仕入れ・鑑定に強い。三の姉さまは腕利きの針子としてオーダーメイドドレスの監修をしている。
昨日スチュアートに姉さまたちと宝石商を呼んでほしいとお願いしていたから、今日は誰かしら姉さまが来るだろう。
姉さまたちの背を見て育った僕はドレスや宝飾品の類で着飾るのが大好きだ。
着飾るというのは難しいことで、ごてごてと盛り付ければよいということではない。
バランスをとりつつ、その人が一番魅力的に見えるよう飾り付ける審美眼には自信があるつもりだ。
エリューシア様はとても美しい人だ。
軍服ももちろん素敵ではあるが、ドレスを着る機会があるなら遠慮はいらないだろう。
あの美しい人に美しいドレスや装飾品を贈るのが楽しみで仕方ない。
ダイニングで待っていると、エリューシア様が下りてきた。
今日は休日のため動きやすそうな装飾の少ない白いワンピースだ。
ほんの少し不安げな表情で僕を見ている。
「大丈夫ですよ。」
「でも……。いえ、お待たせしましたわ、朝食にいたしましょう。」
朝食後にサロンでお茶を飲んでいると、スチュアートから来客が告げられた。
「旦那様、奥様、お客様がお見えでございます。」
「ありがとう、通してもらえるかい。」
エントランスからにぎやかな声が聞こえてきた。
「お邪魔いたしますわ。」
「結婚式以来ですわね!」
「お元気になさっていらして?」
フィアナ姉上、フォアシーナ姉上、フィフォニア姉上3人そろってきてくれたようだ。
「お義姉さま方、どうもお久しぶりでございます。」
「姉上方、急に呼び出して申し訳ございません。」
僕たちも立ち上がって出迎える。
「フィエンちゃんいつでも連絡してきていいけど、さすがに前日の連絡はダメよぉ~?」
「ごめんなさい、姉上。どうしてもエリューシア様にドレスとアクセサリーを贈りたくて。」
僕の言葉に色めき立つ。
ガザニアの女たちはドレスと宝石とお化粧で魔法を使うのだ。
「まぁ素敵!じゃあまず採寸ねぇ!私がやるからフィアナ姉様はフィエンちゃんとデザインの素案をお願い。メイドさんたちお嬢様のお部屋はどちらかしらぁ?」
「お……お義姉さま……!」
フォアシーナ姉上は飛び上がるように喜ぶと、エリューシア様とメイド数人を連れて行った。おそらく私室で採寸だろう。
「お昼から宝石商を呼んでるから、それまでに色とデザインを決めたいんです。」
「わたくしを誰だとおもっているの?王都のカリスマよ?義妹のためにもまかせなさい。」
「私は宝石選びの方を手伝いましょうね。」
フィアナ姉上、フィフォニア姉上も協力してくれるようだ。
僕にも痛いほどわかる。
あんなに美しい人がほとんど着飾ることがないなんて人類の損失だ。
「じゃあ、デザインだけど……」
◇❖◇
心配していたが、エリューシア様は採寸を終えてフォアシーナ姉上と戻ってくる頃には笑みを浮かべるようになっていて安心した。
ランチはもちろん姉上たちと一緒に。
エリューシア様は兄弟がいないため、「こんなににぎやかなのは父と母が王都にいた時以来です」と笑っていた。
押しの強い姉上たちなのは心得ていたが、喜んでくれてよかった。
食事が終わった後、フィアナ姉上がエリューシア様にいくつかのデザイン画を見せた。
「こっちは白から紫色にグラデーションするよう染めた絹を使った、すっきりしたデザインでエリューシア様によく似合うと思います。こちらは明るい黄色でドレープが美しいでしょう。こっちは紺色でシックに、でも背中が大きめに開いていてきれいだと思いますよ。」
「わたくし軍部に入ってからはドレスなどはあまり......フィエン様が決めてくださらない?」
「僕の好みでいいんですか?」
「あなたの好みでないと困りますわ。」
すっかり困った様子のエリューシア様は僕に助けを求めるように見上げてきた。
僕はエリューシア様の手の中にあるデザイン画をともに眺める。
「では、この紫色のグラデーションのドレスにしましょう。エリューシア様の金色の髪が映えて美しいと思いますよ。」
「本当に?」
「もちろん。」
ドレスは決まった。
その時、ちょうどよく宝石商もやってきた。次はアクセサリーだ。
「わたしの出番ね」
フィフォニア姉上もやる気だ。
「ネックレスとイヤリング、あと髪飾りね。我が家の領地では良質のアメジストが取れるからいいものがあれば揃えたいわね。エリューシア様は何かご希望がございます?」
姉上のやる気のスイッチが入ってしまったようだ。
エリューシア様も明るく受け答えしている分、任せて大丈夫だろう。
「フィエンちゃん、採寸するわよぉ。」
「え、僕もですか?」
「当り前じゃない!奥さんがオーダーメイドするんだもの、旦那さんもそろえて作るわよぉ。」
「わかりました。すこし私室に行っていますね、エリューシア様。」
「フィエンちゃんも大きくなったから新しい衣装作るの楽しみだわぁ。」
最近はプレタポルテばかりでオーダーなどしていなかったと考えながら、流されるままに姉に採寸を頼んだ。
僕用に仕立てるタキシードに、もう一つだけ『お願い』をして。
姉たちは晩餐の前に帰っていった。
曰く、自分たちの旦那様もそろそろ帰ってくるから、と。
ようやく落ち着いていつもどおりの晩餐。
少しぼうっとした様子のエリューシア様に声をかける。
「今日はすみませんでした。姉上たちがにぎやかだったでしょう。」
「いいえ!そんなことおっしゃらないで、わたくしとても楽しかったの。」
慌てたように首を振るエリューシア様。
「普段は夜会にも軍服で行きますでしょう?ドレスを作ったり装飾品を選ぶことがこんなに大変だなんて思わなくて。こんなに大変なんですもの、お義姉さまの仰っていたことも本当かもしれませんね。」
軍人という立場故か、夜会の準備は驚きの連続だったのだろう。
「姉上がなにか?」
「あなたと同じことをおっしゃったのよ。女の子はドレスと宝石とお化粧で魔法が使えるって。」
「本当ですよ。」
「わたしにも使えるかしら。」
「もちろんです。」
笑顔で大げさに頷いて見せる。彼女はころころと鈴のように笑った。
ドレスと宝石とお化粧の魔法は身に纏わなくても使えるのだと、彼女の喜ぶ顔を見て、僕は知った。
◇❖◇
2週間はあっという間だ。
僕らはいつも通り、朝と夜に短い夫婦の会話をして、彼女は軍部へ通い、僕は家の中を取り仕切る。
屋敷の中が滞らなくなった頃、僕は領地の運営についての勉強を始めた。今はほとんど義父が行っていると聞いていたが、スチュアートに頼み、領地の風土や名産などを教えてもらい、領地とのやり取りを開始した。
夜会の1週間前にドレスが届いたときには、エリューシア様もとても喜んだ。
私室にはトルソーが置かれ、毎日ドレスを見て嬉しそうに微笑んでいる。
エリューシア様のドレスを最優先してもらったため、僕の衣装とアクセサリーは当日の午後に姉が直接もってきて、化粧と微調整をしてくれるそうだ。
「フィエンちゃん、お姉さまがきましたよぉ!」
エントランスに姉上の声が響く。
突然の大声に、スチュアートが珍しく慌てた様子だ。
スチュアートを片手で制して、僕はエントランスへ向かった。
「フォアシーナ姉上、声が大きいです。」
「先にフィエンちゃんに渡したいんだからいいのよぉ。」
はい、と渡された大きな箱は僕の衣装だろう。
「これが『お願い』されてた手袋よぉ」
姉上にしていた『お願い』がこれだ。
エリューシア様と同じ紫色にグラデーションする絹を使って手袋を作ってほしいと。
「フィエンちゃんが『おそろい』したがると思わなかったわぁ。あとこれよぉ。」
渡されたのは小さなベルベットの箱だ。
「これは?」
開けてみると、彼女の瞳と同じ色のアメジストが填まった指輪。
男性向けの、シンプルだがそれとなく華やかなデザインだ。
「奥様からのプレゼントよぉ。」
姉はにんまりと笑っている。
顔が熱い。僕は顔が赤く染まっていく自覚があった。
「私はエリューシアちゃんに魔法をかけてくるから、あなたもきちんと着替えるのよぉ。」
姉はさっさと去っていった。
エントランスには照れて座り込んでしまった僕と、右往左往するスチュアートが取り残された。
◇❖◇
自室で用意してくれた衣装に袖を通す。
シルクのドレスシャツには贅沢なドレープが付けられていた。
濃い紫色のジャケットは、カフスボタンもアメジストだ。
「このジャケットなら、髪はなでつけたほうがいいかな。」
整髪料を取り、薄茶の髪を後ろになでつけた。
髪に隠れがちな緑色の瞳がよく見える。
平々凡々な顔であるが、衣装のためかいくらか見られるようになっているだろう。
隈や肌荒れがあるようなら男性でも少し化粧をした方がいいのだが、アルストロメリア侯爵家に婿入りしてから心身ともに充実している。化粧も必要ないだろう。
指輪の入ったベルベットの箱を取り出す。
エリューシア様が用意してくれた指輪だ。
少し悩んでから、左手の薬指に指輪をつける。
子供のころ、恋人同士が左手の薬指にペアリングを付けるとずっと仲良しでいられるのだ、と姉に聞いたことがあった。
指輪は自然に僕の指になじんだ。まるで、あるべきところに戻ったかのように。
「旦那様、そろそろお時間でございます。」
「ありがとう、スチュアート。」
エントランスで僕の奥さんを待とう。
***
スチュアートに馬車の準備を頼みながら、エリューシア様のもとへ向かうメイドたちの様子を見る。
誰も彼も楽しそうに行き来している。
僕も家の雰囲気につられて、そわそわとしてきた。
エリューシア様が下りてくるのが楽しみだ。
「フィエンちゃ~ん!エリューシアちゃんの準備ができましたよぉ!」
「お……お待たせしましたわ、フィエン様。」
「あぁ……!」
姉上に連れられて、おずおずと私室から出てきたエリューシア様は美しかった。
神秘的な白と紫のドレス、そして豪奢に編み上げられた金髪。身につけた金銀のアクセサリーや大粒のアメジストも彼女の前では霞むようだ。
「今日のエリューシア様も飛び切り素敵です!ドレスもアクセサリーもお贈りできてよかった……。」
「こんな素敵な贈り物をありがとうございます。お義姉さまたちも……あなたも……。」
エリューシア様は声を詰まらせる。自身の装いを見て、僕に潤んだ瞳を向けた。
僕はその瞳を見て、アメジストの指輪を思いだした。
「僕にも素敵な贈り物をありがとうございました。」
「いいえ、いつものお礼ですわ。」
エリューシア様がそっと自分の左手を隠した。
その様子を姉上がニマニマと笑っている。
「フィエンちゃん見てあげて!指輪はどうしてもエメラルドがいいってエリューシアちゃんが言ったのよ!」
姉はエリューシア様の手を取り、僕の前に差し出した。
その細い薬指には僕に贈られたものと同じ意匠の、エメラルドの指輪が鎮座していた。
「お、お義姉さま……!」
「エリューシア様……僕の瞳を意識してくれたのですか?」
「お恥ずかしながら……。わたくしの中にあなたの要素を入れたくて指輪をお願いしたのですが、あなたの中にもわたくしの要素が欲しくなってしまって……。」
頬をバラ色に染め、理由を話すエリューシア様が愛しくてたまらない。
「あなたにそう思っていただけているのであれば、僕はとてもうれしいです。今日の僕は全身あなたの色ですよ。あぁ……夜会の前でなければ、抱きしめて僕の腕からださないのに……。」
あまりに美しいので、恥ずかしいセリフが口から出てしまう。
こんなにかわいい人を夜会なんかで見せるのはもったいないのではないか。
そんなことを思い始めた僕を、姉が頬を膨らませて叱る。
「だめよ、フィエンちゃん!せっかくドレスもアクセサリーもお化粧も準備したんだから、ワルツの1曲でも踊らなきゃ神罰が下るわよぉ!ほらほら、早く馬車乗っちゃいなさい!」
「そうします。誰かエリューシア様の上着を。姉上もありがとうございました。帰りはスチュアートにお願いしてくださいね。」
「私はいいのよ。いってらっしゃいね、フィエンちゃん、エリューシアちゃん。」
「お義姉さま、重ね重ねありがとうございました。」
優雅に礼をして見せた。
エリューシア様の上着を受け取り、馬車へエスコートする。
姉の満足そうな笑顔に見送られて、僕たちは王宮へ向かった。
◇❖◇
馬車の中で、僕たちは身を寄せ合って座った。
お互いの指輪を重ねるように手を握って。
「あの…」
「はい。」
エリューシア様の小さなつぶやきに、僕は返事を返す。
「どうして指輪を左手の薬指につけると分かったのですか?」
「エリューシア様はどうして左手の薬指に?」
「お義姉さまが指輪はこの指だと言ってサイズを測られましたの」
「あぁ、なるほど。簡単なおまじないですよ、左手の薬指にペアリングを嵌めたカップルはずっと仲良しでいられるって。」
「そうなんですの?では、フィエン様はずっとわたくしと仲良しですね。」
「えぇ、僕とエリューシア様はずっと仲良しですよ。」
ふと、重なった左手にエリューシア様の右手が重なる。
「どうかエリーと、わたくしのことはエリーとお呼びになって。」
「では、エリーも僕のこともフィエンとお呼びください。」
「分かりましたわ、フィエン。ありがとうございます、わたくしまたあなたのことを知ることができましたわ。」
それから、どちらともなく口を閉じた。
手をつないだまま、心地よい沈黙と馬車の駆ける音が車内を支配した。
「今日は今までで一番良い夜ですわ。」
◇❖◇
オルタンシアの王宮は白亜の宮殿だ。
夜会のためにかがり火が灯され、白い外壁が煌々と輝いている。
庭園にも明かりが用意され、季節の花々が咲き誇っていた。
大広間に続く回廊には、着飾った人が集まっている。
僕が先に馬車を降り、続くエリーの手を取った。
エリーが無事に降りたことを確認してから、彼女の顔を覗きこみいたずらっぽく笑いかける。
「行きましょうか、奥さん。」
「はい、旦那様。」
少し緊張した様子だったが、肩の力は抜けたようだ。
差し出した腕をエリーが掴み、僕たちは歩き出した。
「アルストロメリア侯爵家ご夫妻ご到着でございます」
伝令の声が響くとホールの人々の目が僕たちを見た。
僕は伯爵家の次男であったし、気も向かなかったのでこういった夜会にはあまり参加しない。
エリーは立場上、断れない夜会には参加していたのだろう。いつもの凛々しい軍服の姿で。
今日の彼女は全く違う。完璧に着飾っている。この会場のどの淑女より美しい。
突き刺さる目線は、僕に向けられるものとは比べられないほどの数だろう。
僕の腕を掴む彼女の手にわずかな力が篭る。
僕はそっと囁いた。
「いつも通り堂々としていてください、僕は必ずあなたのそばに居ますので。」
「まぁ……、心強いわ。先に陛下へご挨拶に参りましょう。」
「ええ。」
僕たちが歩き始めれば、自然と人々は道を開けてゆく。
「国王陛下、並びに王妃殿下、本日はお招きありがとうございます。フィエン・スサ・アルストロメリア、妻のエリューシア・テム・アルストロメリア共にお慶び申し上げます。」
「国王陛下、王妃殿下ともにご機嫌麗しゅうございます。」
国王陛下の御前に行き、ご挨拶を申し上げる。
「おお、姫将軍ではないか!見違えたぞ。」
「先日結婚したと報告をもらっていたけど、今日の装いはとても素敵ねぇ!ご主人の影響かしら?今度お話を聞かせて頂戴ね!」
エリーの装いに喜色を示した王妃殿下。
彼女は、頷いて返答する。
「もったいないお言葉でございます。」
「今夜はお前たちの幸せな姿を皆に見せるといい。楽しんでおくれ。」
「はい、お言葉有り難く頂戴いたします。」
御前から静かに下がり、僕は大きく息を吐いた。
「……緊張した〜。」
「あら、立派に挨拶なさってたわ。」
「僕は次男だから気楽な気分で生きてたんだよ、エリー。王の御前なんて機会がないよ。」
給仕からエリーは自然な動作でシャンパンをもらい、僕に差し出す。
「そうでしたのね。わたくしは勅命を受けることもありますし、たまに王妃殿下のお茶会に参加することもありましたので。」
「それは大変そうだ。」
「護衛がわりですもの。そんなに大変ではありませんわ。」
乾いた喉をシャンパンで潤す。
空いたグラスを給仕に預けて、僕はエリーに向き合い、手を差し出した。
「エリー、僕と踊っていただけますか?」
「まぁ!喜んで。」
会場に流れるのはゆったりとしたワルツ。
ターンを繰り返すたびに絹のドレスが花弁のように広がる。
真っ直ぐに見つめてくるエリーに夢中だった。気を抜けば、ステップを間違えてしまいそうなほどに。
どきどきして、彼女の周りが輝いているように見えた。
曲の終わりに合わせて僕らは壁際へ移動した。
「久しくダンスを踊ることがなくて……楽しかったわ。とてもお上手ね。」
「楽しんでいただけてよかった。僕はステップを間違えないか必死でしたよ。」
「とてもそうは見えなかったわ。」
彼女は薔薇色に上気した肌で微笑んで、僕の前でドレスの裾を広げるようにゆったりと回った。
「ドレスも素晴らしいわ、あんなに動いたのに羽根のように軽かったもの。」
「それは良かったです。とてもお似合いですよ。」
少女のようにクルクルと回って見せるエリーの可愛さに、思わず僕も笑顔になる。
初めてのプレゼントを気に入ってくれてうれしい。
夜会の片隅、二人で話し込んでいると後ろから声がかかった。
「やぁ、楽しそうだったね。フィエン。」
薄茶の長髪を緩く結んだ長身の男には見覚えがあった。
まるで端整な彫像のように美しい顔には笑みが浮かび、モノクルの向こうに見えるエメラルドの瞳も楽し気に細められている。
傍には深紅の髪と瞳を持った女性が、寄り添う。
「フェルナンド兄上!ミーラ様!」
「フィエン君、お久しぶりね。」
仲睦まじく現れた二人は僕の兄とその婚約者だ。
兄上は母譲りの美しい顔をしている。学生時代や独身時代には、その美しさを活かしてよく宣伝役をしていたものだ。
兄上が社交シーズンに着飾って夜会に出れば、次の日には身に着けていたタキシードや小物、モノクルだって飛ぶように売れた。そして、釣り合うように女性用のドレスや装飾品が求められる。
ミーラ様と婚約されてからは、いずれ爵位を継ぐための修行だと言って長くミーラ様の母国であるルべリアで、交易の仕事をされていたはずだ。
いつの間に帰ってきたのだろう。
「お久しぶりでございます。紹介が遅れましたが、こちらが妻のエリューシアです。」
「お義兄さま、ミーラ様、ご挨拶が遅れて申し訳ございません。エリューシア・テム・アルストロメリアと申します。」
ドレスの裾をつまんで礼をするエリー。対する二人も礼をする。
「お初にお目にかかります、私はガザニア伯爵家の嫡男フェルナンドと申します。商談のためしばらく国を離れており、結婚式にも参加出来ず申し訳ございませんでした。弟共々よろしくお願い申し上げます。」
「婚約者のミーラ・ディレ・ルーベンスと申します。よろしくお願い申し上げますわ。」
「ありがとうございます。ルーベンス伯爵家ということは、ルベリアの?」
「博識でいらっしゃるのですね。仰る通りわたくしはルベリアの者ですわ、学生の頃にオルタンシアに留学に来ていた縁で来年にはこちらに嫁いできますのよ。」
「では、わたくしにもう一人お姉さまができますのね!」
ミーラ様とエリーは意外にも気が合いそうだ。
その様子を見て、兄上が僕に向き合う。
「結婚おめでとう、まさかフィエンが先に結婚するとは思っていなかったよ。」
「ありがとうございます、思いのほか話が早く進みまして……。」
先を越されると思わなかったよ、と兄上が肩をすくめて見せる。
その様子をエリーがくすくすと笑ってみている。
「申し訳ございません、わたくしが急いだのですわ。早く我が家に来ていただきたくて!」
「えぇ!?」
そんな話は初めて聞いた。
「フィエンの話をしたら父も気に入ったようでしたし、この機会を逃してはならぬと父も急かしてきまして……。」
兄上がにこりと笑みを浮かべた。商談でよく見る顔だ。
そのまま、質問を口にする。
「失礼ながら、エリューシア様は弟のどこが気に入りましたか?」
「そうですわね、結婚前も結婚後もわたくしに、軍を辞めろと一度も仰らなかったところですわ。」
エリーは恥じらうように、頬に手を当てて視線をそらした。
「それに……毎朝紅茶をいれてくれて、わたくしにはできないような細やかさでお屋敷を整えてくれていますし、父とも手紙のやり取りをしながら領地の経営について勉強されていると聞いておりますわ。おかげで父も喜んでおります。」
領地の勉強を始めたことを、エリーやお義父上に知られていたとは思わなかった。
兄の前で暴露される内容としては、いささか恥ずかしすぎる。
「毎朝紅茶を……。」
告げられたことが理解できないのか唖然としたまま、機械的にエリーのセリフを繰り返す兄上。
その横でミーラ様が堪えられないとばかりに笑い出す。そのまま優雅に扇子で顔を隠すが、笑いは止まりそうにない。
「私もフェルナンドも急な知らせだったから、少しだけ心配していたのだけど……。十分愛し合ってるようだし、無用な心配だったようね?」
「どう見てもペアの衣装を用意して夜会に来るくらいだ、溺愛具合は心配いらないだろう。」
「私たちも仲の良さを周りに見せつけなくちゃね、ダンスに戻りましょうか。ではまたね、フィエン君、エリューシア様。」
ミーラ様と兄上が和やかに笑い合うと、こちらへ軽く手を挙げてダンスの輪に戻っていった。
僕はどっと疲れた気分で空を仰ぐ。
「フィエンのことを聞かれて、ついはしゃいでしまいましたわ。」
「……あなたが楽しそうで良かったです。」
エリーが兄上の前で惚気るとは思わなかった。
本心からの言葉だろうが、できればそういう話は僕の前だけにしてほしい。
「うふふ、失礼しましたわ。」
「いえ……。」
「あまり遅くなる前に帰りましょうか。」
「えぇ、そうですわね。陛下にご挨拶に参りましょう。」
王の御前へ暇乞いに伺い、今日は帰ることとした。
◇❖◇
僕たちの生活が一変する知らせは、前触れなく届けられた。
「遠征が決まりました。」
「遠征、ですか。」
晩餐後にお茶を楽しんでいると、エリーが切り出した。
「詳しく申し上げることはできませんが南の方へ。」
南といえば、数年前に蛮族討伐と銘打って進軍したことが思い出される。
軍を進めたはいいが遅々として進まず、国境沿いでの小競り合いが日常と化しているという。
そこに彼女が投入されるのだろうか。
「そう、ですか……。」
心配ではないと口に出すことはできない。
行かないでほしいと口に出すことはできない。
エリューシア・テム・アルストロメリアは軍人であり、アルストロメリア侯爵令嬢であり、僕の妻なのだ。
僕は彼女を送り出さねばならない。
「期間は……?」
「最低でも一月、長ければ三月以上かかるやもしれません。」
彼女は静かにカップを置いた。
「わたくしのような加護持ちが戦場にいるかいないかでは、戦局は大きく変わります。」
「わたくしが戦場に出ることによって、一人でも国民の命が助かるのであれば喜んで向かいます。国の兵士にも家族がいるでしょう。悲しむ人がいるでしょう。」
僕は黙って聞く。
「わたくしが敵国の指揮官を殺すことで、戦闘が早く収束するのであれば喜んで殺します。敵国の兵士にも家族がいるでしょう。悲しむ人がいるでしょう。」
彼女は真っ直ぐに味方の犠牲も敵の犠牲をも、減らしたいのだと言う。
「それが、力を持つ者の努めだと教えられてきました。」
とても、止められない。
「今までは、ただ戦場へ赴き、帰ってくる日々でした。日常においても、そう。使用人たちには、ずいぶん苦労をさせてしまいました。でも、あなたと結婚してからは、帰ってくるのが楽しみになりました。屋敷の中に変化があり、あなたが出迎えてくれるのですから。」
驚いた。僕の見ていた彼女はいつも楽しそうだったから。
そんな無機質な生活をしていたとは思えなかった。
「今は、あなたがわたくしの帰る場所です。」
彼女はいつも通り、凛々しく微笑んでいる。
僕は強がって、その目を真っ直ぐ見つめた。
「僕はあなたを止めることはしません。でも、毎日心配します。もしかしたら怪我をするのではないかとか、命の危険があるんじゃないかとか、毎日毎日心配します。勉強も庭の手入れも手につかないかもしれないです。食事も喉を通らないかもしれない。でも、毎日無事を祈ります。帰ってくるまで、毎日。」
言っても言っても、言い足りない。
何を言っても、足りることはない。
だから僕は、言わなければいけない。
「……いってらっしゃい。」
「行って参ります。」
彼女は笑っていた。
◇❖◇
一か月というのはこんなに長かっただろうか。
エリーの出征は、僕たちが話し合ってすぐだった。
それからの生活は、朝晩の会話が無くなったことを除けば、変わりなく過ぎてゆく。
毎朝起きて、食事を取り、領地からの報告や使用人たちからの報告を受け、処理していく。
頭の片隅ではいつも彼女の心配をしていた。
最初はスチュアートも使用人たちも気を使ってくれか、そっとしてくれていたが、一度ボーっとして階段を踏み外してからは、常に誰かが付き添う厳戒態勢だ。
エリー、君が帰ってこないとそろそろ仕事が滞ってしまいそうだ。
そんな事を毎晩便箋に書き綴り、封をして、引き出しにしまう。
こんな個人的な手紙を軍に預けるわけにもいかず、出せない手紙が増えていく。
引き出しに手紙をしまった後、まだ眠る気にもなれず、そのまま肘をついた両手に頭を預ける。
庭園の花の季節が変わってしまった。君はダイアンサスの花も好きだろうか。
帰ってきたら好きな花を聞こう。彼女の好きなものを知ろう。
神に彼女の無事を祈って、寝台に入る。眠れるわけではない。エリーのためにも屋敷を回していかなければいけないのだから少しでも体を休めなければ。
「旦那様、奥様からの手紙でございます。」
「エリーから?」
「はい、先ほど使者の方がいらっしゃいまして。」
受け取った手紙には確かにエリーの文字が書かれている。
内容は、戦場ではあるがつつがなく過ごしていること、あと半月ほどで帰れる見込みであることが簡潔に書かれている。文末には短く、僕がいなくて寂しいとあった。
「スチュアート、この先二週間ほどの予定はどうなってる?」
「奥様が帰宅されるのですね、おそらくは帰国に併せて領地から大旦那様がいらっしゃるでしょう。それ以外の急ぎの仕事はございませんね……もうお出迎えの準備を始めてもよろしいかと。」
「わかった、ありがとう。食材などの手配はいつも通りに任せるよ。」
「かしこまりました。」
まず何から手を付けようか。
庭の手入れもしていない。
エリーのお気に入りの茶葉のストックを確認しなくては。
献立の相談もしたい。
リネンはどうだっただろう。
これはもう、メイド長に直接確認したほうが早いかもしれない。
そのあと厨房へ行って、それから庭園だ。
「スチュアート、少しメイド長のところに行ってくる!」
「また階段から落ちられては困りますからね、私も参りますよ。」
執務机になんて座っていられない。
スチュアートを伴って、僕はあわただしく部屋を出た。
◇❖◇
庭園にはダイアンサスやガーベラ、クロッカスが見事に咲き誇っている。
2週間前からメイドたちには頑張ってもらい、屋敷の磨き上げもばっちりだ。
古くから仕えているという料理人も今日はエリーの好物ばかり作ろうと張り切っていた。
先ほど先達から、帰宅の旨を告げられていた。
あとは、エリーを待つばかり。
エントランスでうろうろしていたのだが、スチュアートに見つかって邪魔だとばかりにサロンへ押し込められてしまった。
侍女がお茶を淹れてくれる。おそらく、スチュアートが代わりにエントランスで待っていてくれるのだろうが、全く落ち着ける気配もない。
「旦那様、奥様は王宮でのご報告があると思いますわ。今は座ってお待ちくださいませ。」
「……すまない。」
サロンのソファに腰を落ち着けてお茶を口に含むが、紅茶の香りも味も感じられない。
そわそわと落ち着かない僕を見て、侍女も微笑ましそうだ。
「そうだな……サロンとダイニングに飾る花でも摘みに……。」
「旦那様、花の準備でしたら私どもがやりますのでここで『大人しく』お待ちいただけますか。」
「はい……。」
使用人たちの過保護はまだ続いている。
侍女に念を押され、僕は大人しくソファの背もたれに体を預けた。
「あ~……。」
手を動かしていないと次から次に気になることが出てきてしまう。
エリーが遠征に発ってから一月と半分。
僕はこんなに落ち着きがない男だっただろうか。
遠くで馬の蹄の音がする。
笑顔の侍女が、僕を呼びに来た。
駆けだした僕を廊下のメイドも笑顔で見送る。
エントランスにたたずむスチュアートの横を通り、玄関を飛び出す。
門扉の前では馬に乗った彼女が微笑んでいた。
「フィエン、ただいま帰りましたわ。」
「おかえり、エリー。」