第5話「小さな司書さんのお誘い」
湊恋葉。彼女はそう名乗った。
湊っていう名字にはやはり聞き覚えがあった。
小さい頃にお世話に司書さんの名前が確か、湊紗季さんだった。ということは、彼女が言うように紗季さんの娘さんなんだ。
「あなたのお名前はなんて言うんですか?」
恋葉が訪ねてきた。
「俺は東川飛鳥。昔、君のお母さんにお世話になったんだ」
ここに来て、少しずつ記憶が蘇る。
父さんと紗季さんと話しているところ。紗季さんが俺に絵本の読み聞かせをしてくれていたところ。
俺は全部忘れようとしていた。悲しい気持ちになりたくないから。
来てよかったのか、よくなかったのか複雑だ。
「東川さんですね! そうですか、お母さんですか。色々お話を聞きたいです!」
恋葉が目を輝かせて俺を見上げる。
彼女の眼差しを見ていると、なぜかドキドキする。
何だろう、妹に甘えられている時の感覚のようだ。顔も熱くなるし、彼女が何言っているのか聞き取れないくらい緊張している。さっきまでは胸が痛かったのに、彼女を見たら気持ちが軽くなってしまった。
これ以上いたら、どうにかなってしまいそうだ。さすがにこの子に何かしようとまではしないが。
どうにか平静を装って退散しよう。
「俺、本を返しに来ただけだから。それじゃ!」
「あっ、待って!」
「……!」
踵を返して、扉に触れたところまではいけた。いけたが、そこまでだった。恋葉の言葉で、金縛りにあったように、それ以上動けなかった。
体が逃げるなと言っている。
何から逃げてるんだ俺は。彼女はただ話しかけてくれただけじゃないか。父さんのこととは関係ない。
「飛鳥くん、来てくれてありがとう」
森野館長の言葉でつい振り向いてしまった。
「この本を久しぶりに見ることができて、すごく嬉しかったわ」
父さんの本を抱えながら森野館長は微笑んでいた。とても優しい笑顔。
「また来てくださいね」
そして恋葉が言った。
「お母さんの話、また今度聞かせてください。本を借りに来たり、勉強しにくるだけでもいいので!」
『また来てね』
恋葉の言葉は昔の記憶の中にある紗季さんの言葉を次々と思い出させる。
父さんと来ていたこの図書館が大好きだったこと。司書の紗季さんが大好きだったこと。ずっと忘れていた記憶がたくさん溢れてくる。
顔だけじゃなく目が熱くなってきたが、必死に抑えた。そして、
「ああ……わかった」
無意識に返事をしてしまった。心が、あの懐かしい人に会いたがっている。そんな気がした。このドキドキもきっと会えると思っているからだ。
恋葉に向き合って、俺は続けた。
「また来るよ。紗季さんにも、久しぶりに会ってみたいし」
「……はい。お母さんにも伝えておきますね」
「……?」
一瞬、恋葉の表情が曇ったように見えた。何か嫌なことでも言ってしまったか?
そういえば、この図書館に来てから今までで、昔と違うところがあった。
ここは俺を含む子どもたちがもっとたくさんいた気がしていた。
本を読んだり、紗季さんの読み聞かせを聞いたり、本の貸し借りをおこなっていた。だが、今は来館者は俺しかいない。
まだ開館したばかりだから、気にするのは早計かもしれないけれど。
そして、開館時間について。
開館時間は正午と言っていた。昔はもっと早かったはずだ。朝ご飯を食べてから、父さんらいつも「よし、図書館へ行くぞ!」と言って俺を無理矢理連れ出していたくらいだ。
最後に。これは紗季さんのことを思い出してから、恋葉の顔が強張ったことで疑問が湧いてしまった。
「紗季さんが来る日って分かるかな?」
なんとなく聞いてはいけないと察した。でも、聞かずにはいられなかった。
父さんが死んでから、俺はこの図書館には来ていなかった。
俺は父さんと来ていた図書館が好きだった。紗季さんの読み聞かせも好きだった。
父さんが死んで、その好きなものを思い出したくなかった。ずっと悲しい思いをしたくなかったから。
でも、思い出した以上、聞きたくなってしまった。
父さんには会えないけれど、紗季さんなら会える。
淡い期待を抱いたと同時に、父さんの死と重なって、怖くなってきた。
そして、彼女の表情を見て、俺は父さんがいなくなったときの胸の痛みが襲い始めていた。
もう、聞いてしまったから、引き下がれない。
恋葉は俯きながら、口を開いた。
「お母さんは……」
「飛鳥くん、ごめんね」
恋葉は喋るのを森野館長が遮った。
「紗季は今、体調が悪くてしばらくおやすみしてるの。だから恋葉は手伝いに来てくれてるの」
「そ、そうなんですか」
体調不良だったのか。最悪な事態は杞憂だったみたいだ。
森野館長の言葉で胸がの痛みが少しずつ引いてきた。
「分かりました。それじゃあ、紗季さんによろしくお伝えください」
「ええ、わかったわ」
体調が良くなったら紗季さんに会える。紗季さんに会えたら、父さんを思い出しても苦しくはならなくだろうか。
また一か月くらいしたら、またこようか。
「あの、おばあちゃん」
「どうしたの?」
恋葉が森野館長に問いかけた。
「まだ、アルバイトを募集していましたよね?」
「ええ、してるけど。もしかして……」
「はい。今思いつきました。……東川さん!」
「え?」
「東川さんはアルバイトはしていますか?」
「してないけど……」
ここまでの会話で察しがついてしまった。
「それでは東川さん、この図書館で働いてみませんか?」
恋葉が俺の前まで来て、両手を掴んだ。小さな手の柔らかい感触が俺の顔を再び熱くさせた。
「俺が、ここで?」
「はい! 力仕事もありますので、男の人の力も必要なんです! 本が好きな東川さんなら、絶対に楽しくお仕事ができます!」
「俺、本が好きって言ったっけ!?」
「お願いします、東川さん!」
恋葉の必死な訴えに俺の心が揺らいだ。
紗季さんに会える機会があるならやってみたい。でも、俺は父さんのこともあって、本は教科書と辞書以外そんなに開いていない。
いつの間にかカウンターにいた森野館長ともう一人の女性がこちらを見ていた。
どうやら、逃げられないようだ。
「……わかった」
「無理しなくてもいいのよ。恋葉が勝手に言ったことだから」
「おばあちゃん! お母さんが戻ってくるまででもいいから、お願いします。お母さんと仲が良かった方なら、信用もあります!」
恋葉の必死なお願いと謎の信用。これは断れないな。断ったら、この子を悲しませるような気がする。
「……森野さん。俺は、無理してないですよ。決めました」
ほんとはまだ迷っているけれども。でも、俺はどうしても恋葉の母親を出されたら弱いらしい。
「東川さん! ありがとうございます! 私、東川さんとならなんでもやれそうな気がします」
どっからその自信がやってくるんだ。まだ会ったばかりだぞ。
それよりも、
「今、なんでもやれそうって言ったか?」
「……はい?」
恋葉は目を丸くして返事をした。
あっちから頼んできたなら、こっちの条件を飲んでもらおう。
俺は他に人がいることも気にせず、ずっと彼女に言いたかった言葉を言う。
「ここで働く代わりに、俺をお兄ちゃんと呼んでくれ」
多分この発言の後、十秒くらい沈黙の時間が訪れた。
そして、恋葉は言葉では返さず、ただうなずいた。