第4話「湊恋葉と申します」
正午になったことを確認して、俺は図書館の前に再び立った。
札は「開館中」と書かれていた。
片手に本を持ちながら、もう片方の手でドアノブに触れる。緊張しているのか、手汗で掌がベタついている。急に喉も渇いてきたような気がする。
昔を思い出すことはない。ただ、本を返しに来ただけなんだ。返せば、父さんのことを思い出さなくていい。悲しい気持ちにならなくていいんだ。
飛鳥は木製の扉をゆっくりと開けた。
中に入ると、鼻から頭までなにかが駆け抜けた。刹那、頭に鈍い痛みが走った。
自然の香りと本の匂い。
その混ざり合った匂いが脳にある昔の記憶を引っ張り出そうとした。
「俺は何か、思い出しかけたか……?」
眩しいような切ないような感覚が一瞬だけ現れて、どこか行った。
記憶喪失になったわけでもなく、ただ父との思い出をあまり思い出したくなかった。
やっぱり、早く本を返して早く帰ろう。
「あら、いらっしゃい」
顔を上げると、すぐ右側にカウンターがあった。そこにいた白髪の女性が僕に話しかけてきたようだ。
左胸に「館長・森野」と書かれていた。
「こ、こんにちは」
「今日が初めて?」
にこやかに話しかけてくる図書館の館長を見て、俺は引きつった笑いをしていた。
家族以外とはあまり話すのに慣れていない。
「えっと、本を返しにきました」
「あら、初めてじゃなかったのね。見ない顔だったからつい言ってしまったわ。ごめんなさいね」
「気にしていないので、大丈夫です」
カウンターに近づいて、片手にもっていた本を渡した。
彼女は優しくその本を受け取った。
館長の顔を見て先程の女の子を思い出した。
あの子はおばあちゃんの手伝いで来ていると言っていた。カウンターには、森野館長ともう一人の若い女性しかいない。おそらく森野館長の孫娘がさっきの女の子なんだろう。
「ねえ、キミ」
「……えっ」
森野館長が声を震わせながら、俺に話しかけてきた。でも、視線は俺に向いていなかった。
俺の持ってきた本。父親の本である『飛鳥』を驚いたように見ていた。
「この本、どうしたの?」
「どうしたって……借りっぱなしだったその本があったのに気づいたから、返しにきただけというか」
「あなたの家にあったのね?」
「俺の家の本棚にありましたけど……それがなにか?」
その言葉に森野館長は顔をあげた。まるでお化けでも見たような顔だ。
「家にあったってことは……もしかして…………あなた、飛鳥くん?」
森野館長からの俺の名前で問いかけられて、心臓が跳ねあがった。
「えっ……えっ?」
「わあ、懐かしいわ。あんなに小さかった子がもうこんなに大きくなっていたのね」
「はあ……」
この人は俺のことを知っているのか? いや、覚えていたのか、という方が正しいのだろうか。
俺は十年前、父親が死んでから一度も行っていないし、この人のことは覚えてない。
「よく覚えてましたね、俺のこと」
「当たり前よ。この図書館にはいつも東川さん……誠吾さんがいてくれたから、今があるのよ」
「俺の父さんが?」
父さんとはただ図書館に行っていただけなんだけど。子どもだった俺には分からないところで何かしていたのか。
今となっては父親が死んでしまっていては聞けないけど。
「それに、キミは紗季のお気に入りの子だったからね。よく覚えているわ」
「サキ……?」
サキ。
その名前には聞き覚えがあった。そういえば、この図書館でいつも本の読み聞かせをしてくれた人がそんな名前だった気がする。
「紗季……さん。もしかして、いつもここで本をいつも読んでくれた女性の人ですか?」
「ええ、そうよ。ここで司書として働いていたの。自慢の娘よ」
森野館長が昔を思い出すように俺に話していると、俺の横に小さな影が寄ってきた。
「お母さんがどうかしましたか?」
「お母さん?」
小さな影に気がつき、視線を向けたら、さっきの女の子がそこにいた。
「あっ……」
ああ。だから懐かしさを感じたのか。
少女の姿が昔好きだった司書の女性ーー紗季さんの面影を見たのだ。
「はい、紗季は私のお母さんの名前です。あ、あなたは先ほどの方ですね」
「……君の名前は?」
彼女の顔に見惚れてしまい、飛鳥はつい聞いてしまった。
それでも彼女は躊躇うことなく笑顔で答えた。
「私は、湊恋葉と申します。ここで司書をしています」