第2話「父さんは小説家だった」
父さんの名前は東川誠吾。
父さんは小説家だった。有名であったか今は分からないが、母さん曰く、そこそこ売れていたらしい。
余談だが、母さんが父さんの担当編集者として働いていたと言っていた。
父さんは高校生の頃から小説の新人賞に応募し続け、大学卒業後に大賞を取ったという。
小説家として活動をしながら、小さい頃の俺をとある図書館へ何度も連れて行ってくれていた。
俺は本を読まない子どもだってわかっていながら、父さんは気にせず図書館へ足へ運んでいた。
確か図書館の名前は「欅の森図書館」。
俺は本を読みにいっているのではなく、読んでもらっていた。
そこの図書館のお姉さんの声は今では覚えていないが、心地よかった。そのお姉さんが優しかった記憶がある。あとは十年という時の流れに呑まれてしまった。
十年、あの図書館には行っていない。
十年前、俺はまだ小学一年生だった。
その日、図書館の帰り道だった。夕日が沈みかけで、世界が闇に包まれていく頃。
急過ぎて俺には理解が追いつかなかったが、日が経つごとに理解が進み、泣いた。
父さんは交通事故に遭い、死んだってことを理解した。
どうやら、小さな子どもが横断歩道を渡る時に、車が飛び出してきたらしい。それを父さんが気付き、子どもを守った。
『聞いてくれ、飛鳥。兄ちゃんってのはな、家族を……妹を守ってやるもんだ』
父さんの事故以来、俺は父さんに関係するものには近寄らなくなった。
また父さんのことで悲しい気持ちになりたくないと決めたから。父さんの本も、書斎にも、図書館にも、父さんの墓参りにさえいけていない。
俺は、父さんが好きだったのだ。今でも俺は目の前で死んだ父さんを思い出したくないからと、まだ逃げている。
そして運命が決まっていたかのように、その時が来たかというように、母さんは俺に父さんの部屋の鍵を渡した。
「俺、父さんの部屋には……」
「もう十年も前よ。飛鳥、大人になりなさい」
「……」
鍵を受け取っても、飛鳥はまだ迷っていた。
妹が一人部屋になりたい気持ちは分かる。だが、一緒に寝たい。
父さんに縛られることはないってのもすごくわかるが、俺は、
「ハルも一緒に寝よう」
「子どもか! 嫌! 本末転倒じゃないの!」
「掃除はずっと母さんがしてたから大丈夫よ。父さんの本とか物とかはそのままだけど。これからは飛鳥が掃除するのよ」
「それ、母さんが掃除するのがめんどくさくなっただけなんじゃ……」
「もう一度、東川家十カ条でも復唱する?」
「今日からお掃除頑張ります! いや、父さんの部屋を使わせていただきます!」
「それは母さんじゃなくて父さんに言いなさいね」
そう言って母さんは階段を下りて行った。
母さんは一階の父さんの仏壇がある畳部屋で寝ている。そこで挨拶して来いと言っているのだろう。
仏壇にさえ挨拶したこともない俺が、父さんの部屋を使っていいのだろうか。天国で怒ってそうだ。
とりあえず、扉の鍵を開けて父の書斎に入った。
「変わってないな」
静か過ぎる部屋で、本の匂いと父さんが生きていた世界を体で感じ、それが懐かしくも思い、怖くも思った。
ハルがこそこそと見に来ているのを横目に見つつ、部屋を見回した。
扉と正反対の奥にはよく見る書斎の机が置いてあり、埃一つなかった。
ライトグリーンのカーテンは閉め切られていて、薄暗いが日の光で本が傷むのを防ぐためなんだ、ということがわかる。
壁には床から天井までの高さがある書棚が四台ほどあり、本がギッシリと埋め尽くされていた。
反対側には綺麗に畳まれたシーツがあるベッドと茶色の洋服ダンス。最低限のものはあるから、すぐに自分の部屋として使えなくもなかった。
「……あっ」
なんとなく、父さんの書棚を眺めていると父の名前が本にあった。
『飛鳥』東川誠吾。
俺の名前がタイトルになった本。
そして、父さんが大賞を取った作品であり、小説家となった処女作でもあった。
父さんが死んでから自然と避けていた父さんの本。
それを今、手に取ってしまった。
もう十年も経つとそういうことは気にしなくなるのかな。
そう思いながらも手に取った時はドキドキしていた。手からは汗が流れてベタベタしていた。頭も何かに殴られたように鈍い痛みが強くなっていく。喉もギュッとしまる感覚で息が詰まる。
ページを開いたら、自分は父さんをどう思うんだろう。父さんは何で俺の名前をこの小説と同じにしたんだろう。
色々と悩みながら、表紙に描かれた水彩画の鳥と表題を見た後、裏表紙をなんとなく見てみると、あることに気づいた。
「欅の森図書館……?」
裏表紙にはシールが貼られており、そこに『欅の森図書館』と書かれていた。
この本は、父さんが持っている本じゃなくて、図書館の本? 母さんが気づかずにしまったのだろうか。
本の背を見ると、図書館でよく見るラベルが貼られていない。多分、母さんはこれのせいで気づかずに整理をして書棚に閉まったんだろうと思った。
欅の森図書館は十年前まで通っていた場所。
意識していなかった時計の針の音が何かを知らせるかのように耳を掠る。
「……久しぶりに、行ってみようかな」
父さんの本を持ちながら、俺は父さんが死んでから行ってなかった図書館へ行こうと思えてきた。
本を返しにいけば、悩むこともなくなるだろうか。
それに、また仲が良かった図書館のお姉さんに会えるかもしれない。名前も思い出せるかも。
休みの日に返しに行こう。
そう決めた時、
「バカ兄」
「おう、どうしたハル」
晴香が扉の隅から覗きながら、俺を睨みつけていた。
なんだ、構ってくれないから本に妬いてるのか? そう思って笑顔を妹に見せた。
「え、キモイ! 笑ってないで早く私の部屋から自分の荷物を持ってって!」