第1話「呼ばれたら気持ちいいに決まってるだろ!」
中学二年生になった妹は、反抗期になった。
「なんで中二にもなってまだバカ兄と同じ部屋じゃないとダメなの。この部屋から出てって!」
東川家の二階のとある一室は、東川飛鳥と東川晴香の部屋となっていた。
飛鳥が俺で晴香が妹である。
子供部屋となっていたその部屋は小学生の頃から今日までの十年間、ずっと二人で過ごした場所なのに、それを三歳年下の妹は俺を追い出そうとしている。
明らかに反抗期である。
「急にどうしたんだ、ハル。今までみたいに『飛鳥お兄ちゃん』と呼んでくれよ」
「嫌っ! 呼びたくない。ていうか、自分から促す兄ってどうなの。自分で気持ち悪くないの?」
「呼ばれたら気持ちいいに決まってるだろ!」
「えぇ……。普通に鳥肌立った」
「小さな頃から一緒に寝てるのに、寂しいじゃないか。頼む、考え直してくれ!」
子供部屋の真ん中で腕組みをして蔑んでいる妹と、フローリングに正座をして額に跡がつくほど頭を下げている俺の姿があった。
自分で思うのもあれだが、母さんが見たらいったいどう思うのだろうか。
これも妹の反抗期を治すためだ。
「とにかく自分の部屋が欲しいから、別の部屋で寝てくれない? わかる?」
「すみません、聞き取れませんでした」
「スマホのAIかお前は!」
苛立ち始めたのか、晴香の足がフローリングを何度も攻撃。その衝撃はきっと、一階のキッチンで洗い物をしている母にまで届いているだろう。
「妹離れを! しなさいっ!」
「いやいやいやいやぁ!」
「アンタは反抗期より前じゃん! イヤイヤ期じゃん! 兄が妹に見せる反応じゃないでしょ!」
「いやだああ、母さああああん!」
「子どもか!」
俺の叫びと妹の怒号が部屋中に広がった。
俺は母さんに助けを求めようと部屋の扉を思いきり開いた。
そのとき、
「二人ともうるさいよっ!」
スパンッ! と乾いた音が部屋と廊下の境界から鳴り響いた。母の一声とともに。
母さんがやってきた。さすがに叫びすぎたか。
すかさず妹が母さんに駆け寄った。
「お母さん、バカ兄が気持ち悪い。しかも今まで以上に」
「それは知ってるよ」
「えっ、俺もしかして家族から気持ち悪がられてる?」
俺は母親に叩かれた頭部を手で押さえながら呟いた。
母さんはその件には肯定も否定もしなかった。
直後に母親が息を大きく吸い込んだ。
二度目の攻撃が来るかと思い、俺は身構えた。
けれど、さすがに二度目の攻撃はなかった。
その代わり――
「東川家十カ条!」
母さんが外まで聞こえるくらいの声を張り上げた。
「……」
俺と妹はシンと静まり返った空気を感じて、同じことを思っているはず。
しまった。いつものが来た、と。
「二人とも声を出しなさい!」
こうなると母さんは東川家十カ条、所謂家訓を家族で斉唱させようとする。
今までの喧嘩をしたとき、テストの点数が悪かったとき、悲しかったとき、嫌いな食べ物を残したとき。
どんな時もこの東川家十カ条を家族で声を張り上げて斉唱するのだ。
これって虐待に入りませんか?
「東川家十カ条!」
母さんがもう一度言い直す。
俺と晴香は続けて、恥ずかしがりながらも言う。
「あっ、東川家十カ条!」
「一つ! 家族はみんな仲良く!」
このような言葉を十条分繰り返すのだ。母さんはよくこれを大きな声で言えるよな。
母さんが最初に声を上げて、俺たちが続いて声を発し、一条ごとにみんなで声を張り上げるのだ。これがまた東川家の日常である。
「――一つ、寝る前は絶対に歯を磨く!」
東川家十カ条が終わり、俺と晴香はしばらく沈黙していた。
母さんが咳ばらいをして、「とりあえず、落ち着いた?」と聞いた。
顔を見合わせた俺と晴香は促されるまま頷いた。
逆らったらまた始まるからだ。東川家十カ条の斉唱が。
「よし、落ち着いたら引っ越しだ」
「引っ越し?」
俺の問いかけに母さんはにんまりと笑った。
「この部屋はハルにゆずりな。飛鳥」
「ほらっ! お母さんもそう言ってるから早く出てった、出てった!」
「そんなぁ……」
肩を落とす俺を見て母親は手を添えてくれた。
そして一言、
「飛鳥、妹離れしなさい」
俺の顔の前に母さんは何かのカギを見せていた。
「それは?」
「隣の部屋の鍵」
「……」
隣の部屋。今は空き部屋だが、十年前までは使っていた人がいた。
俺の父さんが使っていた書斎。
母さんはそこへ引っ越せと言っていた。