雪女
「由利ちゃん『雪女』は 携帯に送るからね。」
修一郎は携帯を弄り始めた。由利は修一郎の手元を見ている。そんな由利に弥生が言った。
「由利ちゃん、今年は就職活動でしょう。良かったら紹介状二通貰ってあげるわよ。」
由利は今日のお昼休みに就活について弥生に尋ねていた。その時に地元の代議士から紹介状を書いてもらうのだと話をしたのを思い出した。弥生はその事を覚えていた。
「いいんですか。」
由利は驚いた。弥生から貰う紹介状はおそらく首相と与党幹事長の秘書からのものになるに違いない。あまりに凄すぎる。弥生にとっては魔法の呪文を記した只の紙切れなのだろうが由利は一瞬萎縮した。
「気にしなくていいわよ。」
弥生はさりげなく言うのだが由利には紹介状が異次元へのチケットに思えてくる。
言い終った弥生は窓の外を見ている。雪は止んでいた。街灯の明かりが降り固まった雪に反射していた。明日の朝はあちこちで路面が凍結凍結しているだろう。
〈明日学校に行くときは滑らないようにしなくちゃ〉 由利はまた滑って転んだ日のことを思い出した。
〈雪女〉
北の海沿いに小さな漁村がある。大半の村人は海で漁をして生活をしていた。漁師の集落から少し南の山の麓まで行くと一軒の家がある。この家の父親は炭焼きと時折の狩猟が生業であり、三人の男の子がいた。
浜にたくさんの魚が揚がった日は炭と交換してもらう。数日に一度は峠を越えて南の村にも出かけた。南の村には一面に田んぼと畑が広がっている。炭と魚の干物を運んでは米と野菜を持って帰っていた。
お蔭で父親は双方の村からとても重宝がられている。
村に冬将軍到来となった。空は厚い雪雲に覆われている。昼だと言うのに薄暗い。降り始めた雪はもうすぐ吹雪になるだろう。
「太郎、次郎、炭取っておいで。」
炊事場から母親が二人の息子に言った。
「寒いよな。雪が止んでから行く。」
「何寝ぼけてる。明日までは降るやろう。もうすぐ父ちゃんが帰って来るからもっと炭を焚かんといかんよ。」
父親は山に仕掛けた罠を見に行っていた。猪や鹿が掛かっていれば雪が積もる前に捕っておかないと狼に喰われてしまう。
母親は生まれたばかりの三郎の世話と夕食の支度で忙しい。気が立っているせいか、さっきより大きな声で言う。
「早く行かんね。」
二人の兄弟は不機嫌な母親の表情を横目にぼそぼそと喋った。
「兄ちゃん、行こうぜ。ついでに干柿と栗に干肉食おう。」
次郎が太郎にいう。
「ばか言うな。ばれたら父ちゃんにぼこぼこにされて、しばらくは飯食わせてもらえんよ。」
兄弟はしょうがなく納屋へ足を運んだ。納屋には冬場に備えて乾燥させた野菜や果実に獣肉、干魚がしまってあった。父親は怖いが夕食前の二人はつまみ食いして母屋に戻るつもりでいる。食欲旺盛な男の子二人にはこの貯えが冬の間の貴重な食料であることより目の前の空腹を満たす方が先だ。
中に入ると次郎が、板に乗せた小さな壷を差し出した。
「兄ちゃん、これ。」
「おめえ、抜け目がねえな。」
「火熾すの大変だろ。燃えてる炭持ってきた。」
納屋の南側は休憩のための小部屋になっている。すぐに暖まるように三畳ほどの広さで天井も低い。真ん中には囲炉裏があり壁に明り取りの小窓がある。
「いっぱい燃したら暖ったけえよな。」
納屋の戸を開けた。外が薄暗いのだから中はもっと暗い。だが兄弟は毎日手伝いをしたり遊んでいる処だ。目をつぶっていても何処に何があるかはすぐわかる。小さな炭火の灯かりだけで充分だった。二人して持てるだけの炭と食べ物を小部屋に運んだ。
「じゃんじゃん燃すぞ。」
囲炉裏の火が大きくなると太郎は暖かい空気がにげないように、南側の明り取りの小窓を閉じた。粉雪が小窓の隙間を埋めると隙間風も止まる。
「そうだ、こうしよう。」
出入口である引戸の隙間には麻袋の切れ端を詰めて隙間風を防いだ。兄弟は暖かい部屋と有余る食べ物に満足した。
「兄ちゃん、暖ったけえな。」
次郎は兄よりもたくさん食べた。
「あんまり、食べるなよ。父ちゃん怖いぞ。」
心地良い暖かさと満腹感で兄弟は眠った。
父親は早目に山から降りてきた。吹雪が治まるまでは家でおとなしくしているしかない。罠には鹿が掛かっていたので、これだけは今日中に解体しなくてはならない。今夜は子供達にも好きなだけ肉を食べさせてやりたい。獲物を載せた艝を納屋まで曳いて行くと様子が少し違うのに気付いた。
また太郎と次郎が悪さして摘み食いをしているのだと引戸を開けた。生暖かい空気が流れ出ると風が巻いて冷やりとした。確かに二人揃って気持ち良さそうに眠っている。
「おまえら、おっ母の手伝いもせんで何しよる。」
怒鳴りながら、平手で太郎の頬っぺたを引っ叩いた。その手に冷たい感触が伝わった。雪の中に居た自分の手よりも冷たく感じた。慌てて次郎の額に手を当てるとやはり冷たい。
父親は両肩に二人の息子を担ぐと母屋に駆けて行った。
母親は生まれたばかりの三郎の世話と食事の支度でばたばたしている。突然、扉の外で夫の声がした。
「おっ母、戸を開けろ。風呂を沸かせ。」
父親の声はいつもよりはるかに大きい。
「あんた、どうしたん。」
「太郎と次郎が雪女にやられた。」
摘み食いをしているはずの二人がぐったりとして夫の肩に担がれている。母親も普通の状態でない事がすぐわかった。小さい次郎を抱き上げ床にそっと寝かせた。信じられないくらい冷たかった。父親も荒っぽくはあるが頭を打たないようにして太郎を次郎の横に寝かせた。母親が布団を掛ける。
風呂のお湯が沸くと二人で少し熱めの湯に太郎と次郎を入れたが二人が目を覚ます事は無かった。
「こんなことになるんなら、もっと腹一杯食べさせてやればよかった。」
母親は兄弟が納屋で摘み食いをするのは判っていた。判っていたから、いつも納屋に炭を取りに行かせていた。母親は自分が子供達を死に追いやったんだと夜通し泣いた。
海沿いの小さな村は大騒ぎになった。
「炭焼きのおやじんとこで息子が雪女に憑かれて殺された。」
「部屋は火が煌々として暖かいのにやられたらしい。」
噂は南の村にもすぐ伝わった。
「鼠も入る隙間はなかったのにどっからか入ったって言うぜ。」
物怪があいてではどうしようもないと村人は春の到来を待った。