月と銀狼
静かに流れ出した曲はテレマン・管弦楽組曲変ロ長調。
それが閉会の合図らしく、皆がぞろぞろとホールの出口へと移動を始めた。
多くの参加者がアスランに会釈をして行く。
クリスはネスの元へ行こうと、手にしたグラスをトレイに戻そうとした。
「口に合うはずだけれどね。試してみないのかい?」
声をかけてきたのは、空になったグラスを手にしたマルセルだった。
「2人のタンゴは、とても魅力的だったよ。
息が合っていたね。羨ましい限りだ。」
「それは、有り難うございます。
けれど飲酒については、まだ未成年ですから。」
「ああ、人間世界のルールってことかな。
じゃあ、僕がいただこう。」
ピエールが持つトレイに空のグラスを載せると、
さっとクリスの手からグラスを取り上げた。
「明日、君との演武が最高に楽しいものとなるよう。
僕は全力を尽くすよ。」
彼はグラスの中身ををゆっくりと回してから、一息に飲み干す。
ピエールが笑顔を浮かべながらも、アスランの表情を窺っていた。
「君の妃候補達以上に、彼女は魅力的だね。
演武では、一層美しく舞い踊って貰えるよう、
僕も全力を使うことにしよう。
期待してくれたまえ。」
アスランに顔を向けてそう言うと、
マルセルはクリスに右手を差し出した。
人は無意識のうちに、側にいる者が
信頼出来る者なのかどうかを判断するらしい。
多分それは、ガーディアン特有の勘なのかもしれない。
後から、彼の行為は不意打ちだったのか、
意趣返しだったのかと思い返すことになる。
{あれには、まいったな。}
ネスまでがヒゲを震わせながら、そう言うほど。
まさか、あんなことが起きるなんて!!
あの場にいる、誰一人。
予想なんて出来なかったはず。
多分、MPが
停まっていたにもかかわらず
警戒をしなかったのは、
アスランが側にいるという
ただそれだけで!
根拠のない安心感を持っていたからだ。
マルセルが人間に対して、あんな行為を仕掛けるなんて。
人間嫌いの彼が・・!?
ああ、やはり・・ただ
<虚をつかれた>~と言うべき?
マルセルが差し出した手を、何も考えずに握った。
「演武の際、君の好きな曲を選ぶといい。
僕はどんなジャンルの音楽でも構わないよ。」
握手は儀礼的なものだと分かっている。
だからこそ、意味はないと。
社交辞令なんて、上辺だけの挨拶だもの。
いつものことながら、全く意識の内になかった。
ただ、相手の礼に反射的に応じようとしたまで。
なのに!!
軽く握っただけの手が、離れない!?
決して、強い力で握りしめられたワケではないのに。
ハッとして、顔を上げた時には間近にマルセルの顔があった。
無防備なクリスの唇に
軽く、彼の唇が触れた。
それは一瞬で、さあっと風が吹いていったようなもの。
「誰かの花を手折るのは趣味じゃないけれど、
おやすみのキスぐらいは許されるだろう?」
どうやら彼の行為はアスランとピエールをも驚かせたらしい。
2人とも面食らったように目を丸くした。
兄弟そっくりの表情で。
マルセルがそんな2人を見て、クスリと笑いながら
「じゃぁ、明日。」と、片手を挙げた。
言葉もなく、ただその場に固まった状態で
ホールを出て行くマルセルの背中を
クリスをはじめ、全員が見送った。
カツン・・床に固い音が響いた。
{いやいや・・これは、これは。
たまげたことが起きるもんだなあ。
【紅】を落としてしまったじゃないか!!}
{ネス!?}
{まあ・・俺が動揺して、どうするよ。なあ?}
【紅】を銜え直して、小走りにキツネがクリスの側にやってきた。
{安心しろ。落としたって言っても、ほとんど俺の足の上だからよ。}
「有り難う。」
【紅】を受け取る時、つい声に出して礼を言ってしまった。
突然のことで。
動揺していないと言ったら、嘘になる・・
ホントのところは。
それでも、精一杯の虚勢を張っていた。
〈まあ・・今時の高校生は、あんなキス一つで浮かれないって!
別にファースト・キスってワケでもないしね。〉
ネスに対して肩をすくめて見せる。
{あ・ああ・・。ほいじゃあ、まあ・・。
俺は、アリーシャちゃんを送ってくるとしよう。}
{うん、宜しく伝えておいて。}
{ああ・・?
どうやって・・尻尾でスリスリしろってか?}
{ふふ・・それ、いいかも!!}
出口ではなく、ベランダから外へと出て行くキツネを見送る。
目で追った先に、アスランの小テーブルに
置かれたままのローズヒップ・ティーを見つけた。
まだ、口を付けていなかったっけ。
そう思うと、急に喉が渇いてきた。
いいや、急に悪寒が走ったような気がしたから。
守人・エディルが、今はハーブ・ティーを護っているみたいに、
アスランが座る席の後ろに控えている。
クリスは【紅】を左手に持ち替え、テーブルへと近づいた。
ごく普通の赤い色。
テーブルにあるローズ・ヒップティーは
新品種のバラを使ったドリンクではないのかも。
「アスラン殿下の、あのような表情を初めて見ました。
よほど、貴女と踊りたかったのでしょう」
そう言うエディルは、無表情だ。
そっと、グラスに口を付けて半分ほどを飲んでみた。
「うう~・・いつもながら思うんだけれど、
バラって、酸っぱいのよねえ。」
顔をしかめたクリスに、守人はニコリともしない。
「ですが、美容にはよろしいそうです。」
「まあね。それはそうと、このティーも特産品なの?」
「ええ。殿下が展開する多様な経営戦略の一翼を担っている物です。」
「ふうん、バラのお茶がねぇ。ハーブ・ティー全般ってこと?」
「それについては、僕から説明しましょうか。」
ピエールはエディルを見て頷くと
「居室まで送ります。」とクリスを促した。
守人は妃候補達を従えてホールから出て行くアスランを追いかけて行く。
「人間社会では美容・健康に関しての情報が蔓延していますね。
特に不老長寿については敏感過ぎるくらいで・・。
漢方・ハーブ等は食品・茶・医薬品のみならず生活全般に行き渡っています。
アロマ・香水・入浴剤・ソープなど。
癒し系グッズや化粧品なども多種多様な製品で溢れていますし。」
「そこへ新品種を投入するわけね。」
「ええ、一層商品の幅が広がることでしょう。
新製品の登場は、顧客のニーズにより
一層細やかに応えることが出来ますから。
新たなマーケットを開拓するチャンスですね。」
「それで、BD一族はその利益を人間達から吸い上げて
豊かになるってこと?」
その言葉に、彼からの返事はなかった。
それでも、居室のドア前では丁寧な挨拶を忘れず。
「今日は色々とお疲れになったことでしょう。
明日のために、ゆっくりとお休み下さい。」
儀礼的に頭を下げた。
「そうね。くれぐれも、明後日の、迎えのヘリは
忘れないで欲しいものだわ。
明日は疲れて確認することを忘れそうだから。
今の内に言っておくけど。」
その言葉を聞いて、彼は探るような瞳を向けた。
「正直なところ、今夜、貴女がここを出て行っても
仕方のないことと思っています。」
「ああ・・貴方も私に逃げ出してほしいの?」
クリスがスッと目を細めて彼を見返す。
「いいえ、そうではなくて・・。
色々と問題が絡んでいますので。」
ピエールが言い難そうに言葉を濁す。
「確かに、契約期間が今日までなら・・
私は遠慮しないけど。
だって、ここにいる理由など無いのだもの。」
クリスはニッコリと笑った。
「それだけですか?」
「なぜ?
舞踏会でアリーシャ達が
居心地悪そうにしていたから?
でも、それは一族の問題でしょ?
BD族全体における町の有り様を理解しろとでも?
無関係の人間に?」
冷えた口調のガーディアンに対して、彼は首を横に振った。
「これからもハイブリッドと少数の人間は増え続けることでしょう。
だからこそ、アスラン皇子はバランスを求めているのです。」
「バランス? 共存共栄ではなくて?」
「ええ、共存共栄~
それは人種間の政治・経済・宗教・文化が異なる
人間世界にだけ通用する言葉です。
我々は生計を一つにする種族ですから。」
どこからかクラヴサンの音色が流れてくる。
それは2人の間でぐるぐると渦を巻いた後、
行き場を失いその場に張り付いてしまった。
どこから流れてくるのかは分からない。
締め切った部屋の中から漏れてくるようで、音がかなりくぐもっている。
曲目は何だろう~?と
耳を澄ませた時、頭に響いたのはネスの声だった。
{おい、月が・・。昨日と変わらない月が出ているぞ!!}
{ ええ・・何のこと? そりゃあ~、月は月でしょう?}
{ち、が~う!! そうじゃないんだ。}
そう言ってから、慌てて
{おい、そこに誰かいるのか?}
と、窺うように声を落とした。
頭の中での念話なのだから、誰かに聞かれる心配などないモノを・・
{ええ、居るけど・・ピエールが。}
{じゃあ、聞いてみろ!! なぜ、月のカタチが変化しないのかを!!}
{どういうこと?}
{今、アリーシャ達が話していたんだ。
『このカタチ以外の月を見たことが無い。』ってな!}
{それって、月のカタチをこの島で操作しているってことよねぇ。
まあ・・気象についても可笑しいとは思っていたから。
不思議じゃないけれど。}
{けどよ、夜の空を操作する必要があるのか?}
{ううん・・?}
{この島の連中は、満月を見たことがないそうだ。
blue moon~有り得ないこと、だとよ。}
クリスは頷いて、目の前のピエールに質問をした。
「ところで、ここの王族と共に行動する守人達は何者なの?」
意外なことを聞かれて、驚くかと思ったけれど。
彼のことだ。
先回りして、そんな問いを想定していたのかも知れない。
「ああ・・気づきましたか?」
そう言いつつ、口には笑みを浮かべたのだから。
「ここの月が動かないカタチだと言うことに。
決して満月には、ならない・・
いえ、そうは出来ないのです。
もし、そうなったら・・
多くの犠牲者が出ることになりますから。」
「犠牲者ですって?」
「ええ、彼ら・守り人たちはオオカミの一族~銀狼なのですよ。」
クリスは守人達の髪が、瞳が、
月の光を浴びて銀色に輝くのを見た気がして、
ゴクリと唾を飲み込んだ。
「じゃあ、彼等はオオカミ人間・・てこと?」
「う~ん、少し違いますね。
もともと彼等の先祖がオオカミなんですよ。
銀色の毛並みを持つ、高貴な一族です。
遙か昔から、BD族とは友好関係を結んでいましてね。
そうですねえ・・正確に言うと
彼等の体には、1滴たりとも人間の血は流れていません。
ただ、『月のカタチに支配されている』ということです。」
「それで、満月になると何らかの変化が起きると?」
「ええ、全く異なる意識に支配されてしまいます。」
「何かが乗り移るの?」
「本能に従うだけの、本来の彼ら~オオカミになります。
理性の一かけらもない、獣に、ですよ。」
「ふうん・・もし満月になると、
ここの生徒や住人達を襲うかも知れないのね?」
「ええ・・殿下達の力だけでは制御不可能になります。
なにせ、学園内には四人・居ますからね。
DNAが野性に目覚めてしまったら、手に負えません。
ですから、月のカタチをコントロールする方が簡単なのですよ。」
クリスは【紅】の力が回復しない理由を知った。
月が、マガイモノなのだ。
本来の月が持つ輝きがここには、ない!!
{フフン・・なるほどなあ。
絵に書いた餅ならぬ、月ってわけか。}
{・・・。}
{って。おい、これはまずいだろ!!
【紅】・を頼みとする戦いには不利だぜ。}
難しい顔をしたクリスを見て
ピエールが覗き込むような目をした。
「表情が変わりましたね。
やはり、不都合がおありですか?
今からでも遅くはありませんよ。
この島を出て・・・」
「ジャン=フランソワ・ダンドリューね。」
「え・・?」
てっきり、『島を出て行く』と
その言葉を予想していただけに。
ピエールは絶句した。
「このクラヴサン曲集よ。
作曲者は誰かって考えていたの。」
クリスが肩をすくめる。
「残念ながら・・ここを今、出て行くわけにはいかないわ。
契約違反行為を協会は喜ばないから。」
目の前の彼と、そして
同時に念話を交わすキツネの双方に向かって断言した。
音が、ない。
今まで、溢れていたモノがあっさりと消え失せてしまった。
参加者達がホールを出て行くと、楽団員達もそれぞれの楽器を持って
席を立った。
評議委員の一人さえ、残ってはいない。
目の前に広がるのは、ただ薄ぼんやりと照らし出された空間だけ。
少し呆けた表情でファタミは椅子に座っていた。
「そろそろお部屋に戻りませんか?」
守人の声に、ただ頷いてヨロリと席を立つ。
けれども、出口に向かわずに先ほどキツネが飛び出していった
ベランダへと歩いて行く。
ライルは少し首を傾げたけれども、何も言わずに従った。
ホールを一歩外へ出ると、そこには闇が広がっているだけ。
空にはいつもと変わらない月が出ている。
けれど、月が出ている割には目の前の庭でさえ
黒々としていて何一つ見えはしない。
遠く向こうには微かな明かりがぼんやりと浮かんでいる。
多分、街の灯りだろう。
遠いし、暗い。
先ほどまでの賑やかなひと時は、
まるで儚い夢のよう。
「マルセル兄様が時代の王となれば、どうなる?
街は、あの灯りの中で暮らす者達は。
排除されてしまうのだろうか?
この島から追放されるかも知れない。
兄様にとって、不必要な階級だから。
そうなるのか? 仕方のないことなのか?」
まるで自問自答するかのように呟くファタミを
見てライルが目を瞬いた。
こんな風に思い悩む殿下ではない。
普段の彼はマルセル殿下と同じ思考をしているのだから。
つまりは、人間が嫌いだ。
けれど。
「多分、そうなることをアスラン殿下は、避けたい
とお考えでしょう。自ら演武に立たない理由が
その辺にあるのでは?
人間世界の人間自身が持つ力を、
一族、とりわけ貴族階級に認めさせたい、と。」
「それは分かる!
・・けれど。
あの人間にそこまで思い入れをするだなんて。
彼女は耐えられるのか?・・・にしても・・だ。」
あのマルセル兄様が、嫌悪している人間に対して
あんな行為を仕掛けるなんて!!
よりによって、アスラン兄様の演武者・クリスに。
人間に触れた!!
まるで、親密な関係のように。
{まったく~なんで・・断らない!!
お前はよ~、騙されていたようなもんだろ!!
いや、もっと悪いぞ!
お前の生命線を、月をだ。
その輝きを操作しているんだからな!}
キツネがもの凄い勢いで、暗闇を走り抜けて行く。
ギャウ~ウンと一声鳴いたのをアリーシャは、
お休みの挨拶だと思ったらしい。
「ほら、ネスは偉いでしょ?
ちゃんとお別れを言えるのよ。」
けれど、フランツは鼻で笑っただけ。
「はあん?
何、言ってんだ?
人間のペットだぞ?
大方、腹でも空いたんだろうよ。」
そんな2人のやりとりなど、もうネスの耳には届いていなかった。
ホールのベランダから、明かりが漏れている。
{まだ、開いていたか。助かったぜ!!
ここからの方が部屋には近いからな。}
ネスが庭からザザ~っと飛び込んできたのを見て、
ファタミはちょっと驚いた。
「どうやら散歩から戻ったらしいな。」
別に彼と話したい訳じゃあないけれど、
ホールから抜けるドアを開けて欲しくてそこに座った。
{おいおい~、急いでいるんだけどなあ。}
ストレスが高まるとキツネの習性上、
前足でヒゲの手入れを始めてしまうのだ。
{ああ~こんなことをしている場合じゃない!!}
「動物には、分からないだろうなあ。
このもやもやした気分が。」
ファタミの嘆息に、キツネはくしゃみをした。
{フン、分かってたまるかよ!!
あんたも、俺が急いでいることに気づかないだろう?}
ただ、何かを感じたらしく
ライルがスッと、ファタミとネスの間に立った。
「どうした? クリスの連れが俺を襲うとでも?」
ファタミが怪訝な表情を浮かべた。
{おいおい~、そりゃあ無いぜ。
こいつに噛みついている暇なんて・・・}
その時、シュッと音がした。
少し寒気がしたかと思うと、
ネスの足元には、矢が一本突き刺さっていた。




