02 明日の約束
足がくたくたになるくらいダンスを楽しんで、ダイアナは紅毛の令嬢と共に庭園のベンチへと引き上げていた。
こんなに踊ったのは久しぶりだった。大体の舞踏会では曲に合わせてパートナーを変えるのだけれど、夜も更けて無礼講となってくると相手を変えなくても怒られなかったりする。
それをいい事に、紅毛の彼女と一緒に沢山踊ってしまった。彼女があまりにもダンスをねだるのが上手だったというのもある。甘え上手というか。こんなに美しい人なのに、可愛いのだ。
「ねえ、楽しかったね。どうだった、私のダンス?」
ほら、今も。こうやって、褒めて、という素振りをさりげなくする。
こんなに綺麗な人なのに、何処かしら、可愛い。
「とっても素敵でした……!あ、その、わ、わたしなんかが評価するのも、烏滸がましいんですけど……でも、とても綺麗で、キレがあって」
「本当?嬉しいよ、本当に。さっきから、王子様みたいだとか、とても綺麗だとか、貴女って褒め上手だね」
「そ、そんなこと……ありがとうございます」
女の人なのに、瞳を細めるとまるで美少年のようにも見える不思議な人だ。猫のような新緑の瞳、真っ赤な艶やかな花の如く月夜の光を帯びた髪。ダイアナ自身の銀髪と、淡桃色の瞳とは正反対の、鮮烈な色を纏った人。
不思議な色気を纏った人。
その令嬢は近くを通りかかった侍従の盆から酒を二つ取り、グラスの片方を此方に渡してくる。くらくらりと揺れる赤い色のお酒は、果実酒特有の甘い香りがした。
彼女は席に座って、ついとグラスを此方に向けた。乾杯をしようとしているのだと気づいて、そっと硝子同士を触れあわせる音を響かせる。澄んだ硬質な音が二人の間を繋いだ。
「ねえ、貴女はさ。シンクレア家のダイアナ嬢でしょう?」
「え」
紅毛を揺らして、令嬢は頬杖をついて此方を見た。
知っていたのか、と思った。それが顔に出ていたのだろう。彼女は軽く笑ってゆるりと首を傾ける。はらり、一筋紅の髪が落ちて頬へとかかる様が、絵画のようだった。
「いや、さっき聞こえただけなんだけど。あと噂で何回か聞いたことがあるだけ」
「あ、そ、そうでしたか……」
噂はともかく。
さっきのあれを、見られていたのか。
家を馬鹿にされ、容姿を馬鹿にされた。家柄と血統だけは彼女たちに勝てると思うけれど、でもこの社交界でそんなものを振りかざし始めたらダイアナの居場所なんてあっという間になくなる。ああいった少女たちは噂を流すのが上手だ。何を言われるか分かったものではない。だからダイアナは、いつも目を塞ぎ、耳を塞いで、何も聞かなかった事にして、耐えてきた。
そんな時に、彼女が目の前に現れたのだ。颯爽と、紅い風のように。
今日は本当に、いい日なのだろうとダイアナは思う。こんな綺麗な人と、普通の友達みたいに話せていて。いつもなら虐められた反動で、この時間は家で泣いている頃なのに。
「……あの、みっともない所を、見せてしまったと思うんですが」
「そんな事ないよ」
だって、君は泣かなかったじゃないか。
そう言われて、一つ瞬く。
「シンクレア家のダイアナ嬢は、泣き虫なお嬢さんだと噂で聞いていたから。泣いてるのかなと思ったら、唇を噛んで、必死に耐えてた」
「……そんな噂、どこで」
「さあ、何処だろう」
「そういえば、わたし……まだ、貴女のお名前も聞いていません」
「名乗る程のものじゃないよ?」
物語に出てくる騎士のような事を言う。
紅の髪に白いドレスで、透明なグラスを飲み干して。美しい姿、可憐な表情。それなのにどうしようもなくその纏う空気は中性的で、その透明感のある空気に呑まれそうになる。
「あ、あの……でも、どう呼んだらいいか、分からないので」
「うーん。……じゃあ、アンと呼んでほしい」
「アン、ですか?」
明らかに本名ではない。身分の高そうなご令嬢の本名としては簡素すぎるし、恐らく本来の名前を縮めた愛称だろうと直ぐに察しが着いた。
「あの、わたしがそんな風に呼んでしまっていいんでしょうか……なんだか、まるで、仲の良いお友達みたい」
「じゃあ実際になってみる?」
「え?」
「貴女を見た時に思ったんだけど。貴女ってすごく可愛いよね。綺麗だよ、うん」
「え……」
かわいい。きれい。
自分からはとても遠い単語のように思えた。それを、こんな美しいご令嬢の口から聞けるなんて思わなかったから、かーっと頬が赤くなった。どうしよう。すごく、すごく嬉しい。大体の賛辞なんてお世辞だというのは分かっている。でも、今の彼女が自分にお世辞を言う必要なんてないのだ。
「あ、あの、えっと、お、お世辞……ではなくて?」
一応聞いてしまう臆病の性。
「勿論違うよ。綺麗でかわいい」
なんていうか、雰囲気とか、すごく擦れてなくてかわいいんだよね。挙措とかも上品だし、あと顔立ちにも品があるし。
彼女は指を折って数えるようにして、ダイアナのいいところを上げてくれる。胸がどきどきして、恥ずかしくて逃げ出したくなって、だけど、ぐっと堪えた。異性に褒められるよりもなんだかどきどきしてしまう。
彼女はシンクレア家の父の手前、ごまをすっている訳でもなく、親戚の前だからとおざなりに褒めているのでも、ない。あの令嬢たちのように、嫌みで綺麗だとか可愛いとか言っているのでも、勿論、ないだろう。
どうしよう。本当にうれしい。
「あ、あり、ありがとう、ござ、いま……」
「大丈夫大丈夫、落ち着いてしゃべって?」
「ありがとう、ございます……とっても、嬉しいです」
「素直でいい子って言われたことない?」
「……時折」
「だろうねえ」
まあ、とにかくね、と令嬢は話を戻す。
「貴女を見た時に思ったんだよ。……そのドレス、とっても綺麗だけど、十年くらい前のデザインだよね?耳飾りも、ネックレスも、レトロな感じだし」
「は、はい」
何の話だろう。
「レトロファッションなのかなと思ったけど、そうでもない」
「はい……」
「……私はね、君と仲良くしたい。あと、一緒に買い物に行きたい。可愛い貴女が、もっと可愛くなったところを見たい」
「え、え?」
「そのドレスも似合ってるけど、もっときっと似合うドレスがあるし、似合う色もあるよ」
「えっと……?」
「女の子同士で遊びに行かない?っていう話を、今してるわけ」
彼女はドレスに忍ばせていた口紅を取り出した。最近流行の色のルージュだ、王都でも指折りの職人が作っているという銀細工仕立ての入れ物に入っている、美しい品。
そっと、指がダイアナの頬に触れる。つうと顎まで滑って、顎を上げさせられる。動揺してどうにもできなくて、ダイアナはただ捕まったうさぎのように震えていた。その唇に、そっと、彼女は口紅を。
少しだけ桃色を帯びた、きらめくようなルージュを、塗って。
「……ほら、ダイアナ嬢、こうしたら貴女はもっとかわいい。本当だよ?桃色の瞳に映えて、唇に星が落ちてるみたい」
つまりね、私と友達になってほしい。それで、こうやってお洒落とか、一緒にしてみたり、したくて。可愛い貴女をもっと可愛くしたいなって、初めて見た時に思って。お友達になりたいなとも、思って。
ほら、私もあんまり、友達がいないからさ。だから、私と『遊んで』ほしい。――だめかな?
少しだけ気恥ずかしそうに聞いてくる顔が、可愛い。こんなにも綺麗なのに、こんなにも可愛い。ずるいな、と思う。
つまり、自分と一緒に他愛ないお出かけやら、遊びやらがしたくて、あんな風に割り込んできて、声をかけてきてくれて、今こうして一緒に果実酒で乾杯してくれているのだ。何だかそれは、とても幸せな事に思える。自分と友達になりたいから、そうしてくれたという事実が、ダイアナの心をふわふわとさせた。
「……い、いいですよ」
「本当!じゃあ、明日の夕方にでも、一緒に城下町にこっそり降りようよ。貴族街の入り口辺りに集合、なんてどうだろう?」
「え、あ、明日ですか?」
「早かったら、明後日でもいいよ。貴女の好きな日で」
「いいえ、じゃあ、明日で……!」
「ふふ、やった」
身を乗り出して嬉しげにするその様まで綺麗で、ほう、と溜息が漏れた。
何はともあれ、今夜は良い夜だった。虐められて、泣いて帰って、二度と社交界なんて行きたくないと思う夜にはならなかった。いつもいつも、そうなのに。もう行きたくないと泣いて、でも父や母には言えなくて、数日後になればまた社交界に出かけていって、泣いて、その繰り返し。
でも、今日はこんなにいい出会いがあった。素敵な人と友達になれた。
「約束ね?」
差し出された小指の意味が分からなくて少し首を傾けると、アンは笑った。
「東洋の約束の方法なんだよ。ほら、小指を絡めて」
ひんやりとした、細い指に小指を絡める。
また明日ね、約束だよ、ともう一度囁かれた声はとても甘くて、ダイアナは我知らず頬を薄く染めて頷いた。
*
「というわけで、明日遊びに行く約束をしてきたよ。」
戻ってきた美しい紅毛のご令嬢に言われて、王子の家庭教師役、カルロス・カークは頭を抱えた。
その横では、王子の護衛隊長であり騎士団長のリチャード・レヴィがにやにやしている。
ここは王子アンソニーの私室である。入れる人間は極々一部に限られている。
「王子……アンソニー王子」
カルロスは地を這うような声を出した。
「シンクレア嬢をどうするつもりだ?」
「カルロス、顔が怖い。彼女を可愛くしてあげたいだけ、友達でいたいだけだよ、『アン』はね。『アン』を愛するようになるかもしれないのは、彼女の問題だ」
「リチャード、何か言え」
「王子は本当にひねくれていらっしゃる」
「そんな事ないよ、リチャード」
「……他人がいつ『アン』を好きになるのか、楽しんでいるだろう、お前は。この間は告白してきた貴族の男数人を振ったし」
「あれは相手が男だったから仕方ないじゃないか」
でも、今回は可愛い女の子だ。大切にするつもりだよ、友人としてね。
ただ、彼女が――そう、俺の正体に気づいたその時には、全てはご破算、終わりだけれど。
紅毛の令嬢に扮する、王子アンソニーは目を伏せた。口元だけに、微かな笑みが浮いている。
『アンソニー王子』は、誰も愛するわけにはいかないんだからさ。
『アン』でいられる間だけは、誰かを愛し愛されたいんだよ。