01 壁の花と紅毛の令嬢
社交界は貴族の仕事場である。恋愛に足る相手を見つけたり、人脈を見つけたりして上手く自分の乗る家という船が進むように舵を切る。そういった事をする場所だ。
そして年頃の娘にとっては、結婚相手を探す絶好の場所でもある。
そんな事はダイアナ=シンクレアにだって分かっている。
父や母が、なかなか恋人に恵まれないダイアナを気遣ってこの場に出してくれた事。貧しい家系の中から見繕ってなんとかドレスを用意してくれた事も。
ダイアナは溜息を吐く。少しだけ自慢の結い上げた銀色の髪も舞踏会の間の壁に張り巡らされた鏡に映り込めばくすんでみえる。周りには自分よりも遙かに輝いている令嬢方が山ほどいるのだから。
その時不意に、鏡に向かっているダイアナの後ろから、くすくす、と笑い声が聞こえた。
「ねえ、見て、あのご令嬢。シンクレア家のご令嬢よね?何あの時代遅れのドレス。ふふふ。十年くらい遅れていない?」
「しっ。だめよ、シンクレアのお家は財が厳しいと聞いたわ。きっとあれで精一杯なのよ」
「それにしても本当地味よねえ、あのご令嬢。ダイアナ嬢でしたっけ?お洒落も全然していないし。お化粧もしてるのかしら?」
「だからだめだと言っているでしょう……ふふっ」
聞こえていますよ…。
小さく呟く。怒って言い返すだけの勇気はない。臆病で、弱虫で。そんなダイアナだから、こうも言われてしまうのだろう。ダイアナはなるべく目立たないように壁の花になるように務めた。自分が悪いのだろうか。お洒落も研究はしてみたけど、上手くできない。服だって、お金があったらもっと買ったけれど、そんなものはない。先立つものがなければ何もできないのは、貴族の世界でも同じだ。
貧乏な、血統だけは王家の遠縁として立派な、シンクレアの家の一人娘。未だにダイアナが生まれてから恋人が一人もいないのには理由がある。勿論、地味で貧乏な娘になど男が寄りつかないのはあるのだけれど、もっと大きな理由が。
「失礼、お嬢さん。一曲いかがですか?」
ダイアナの隣の少女が、声を掛けられて晴れやかな顔で男性の手を取る。
しかしダイアナは、声を聞いただけで体を硬直させた。
――男性が怖い。
ダイアナ=シンクレアは男性恐怖症であった。
「……私だって……。」
なんでこうなんだろう。こうなってしまったんだろう。
溜息を吐いて踊る少女たちと青年たちを見る。勿論ダイアナだって、小さい頃は運命の王子様を夢見た。自分が悲しい時に寄り添ってくれる優しい王子様が何処かにいると信じていた。けれど、実際にそんな人はどこにもいない。
幼い頃にあった事件のせいで、男性が怖くなってしまってからはもっと夢からは遠ざかってしまった気がする。男は暴力的で怖い。そんな思い込みが心の奥に根深く根を張っているせいか、男性に声をかけられるだけで、怖い。その見た目が、大きな手が、逞しく本来ならば頼りがいがあると思うはずのその体躯が、怖いのだ。
「まだ壁の花でいらっしゃるの?ダイアナ嬢」
不意に声をかけられて、ダイアナは小動物のように身を竦ませた。
周りよりも一回りも二回りも小柄で、銀色の髪に薄桃の瞳のダイアナは、まるで狩られる直前のウサギのようで相手の嗜虐心を煽る様相を呈した。
やってきたのは、令嬢たちだ。先ほど話していたのとは別のご令嬢たちが、いつまでも誰とも踊っていないダイアナを見て暇つぶしに『狩り』にやってきたのだろう。自分たちよりも格下の相手を虐める『狩り』に。
「あ、あの……わたしのことは、良いので……皆さんは、楽しんでください……」
「まあ、わたくしたちの事が邪魔だと仰りたいの?心配してあげてるのに」
「そうよ、ダイアナ嬢。もっと積極的に行きなさいな、本当は踊りたいのでしょう?」
「い、いえ、わ、わたし、男性の方があまり得意ではなくて、」
「まあ!またそんな嘯いて。アンソニー王子様なんて如何?今夜はまだいらしてないけど!」
アンソニー王子は令嬢たちの高嶺の花だが、女性的な長い髪とその整った甘い顔立ちで並び立つだけで王子の引き立て役にされると有名な相手だった。髪は儚げなプラチナブロンドで、瞳は新緑の緑という完璧に華麗で美しい王子。
そんな相手と並び立つなんて、考えただけで震えてしまう。自分のような地味な令嬢がそんな人の隣に立てるわけがない。
「あの、わ、わたしでは、そんな、」
「あらぁ、そんな事ないわよぉ?ダイアナ嬢なら最高に隣に立ったらお似合いでしょう」
「そうそう、引き立て役としてぴったりなんだから!」
「っ……」
惜しみもなくぶつけられる悪意に、ダイアナは身を縮めてただ嵐が過ぎ去るのを待った。愛想笑いをして、やり過ごそうと、適当に話を合わせようと口を開いて。――その口から、言葉が出てくることはなかった。
唇が震えた。勝手に目から涙が滲みそうになって、唇を噛んで堪えた。どうして自分がこんな事を言われなければならないのか。何も悪いことはしていないのに。ただ、血統は良く、家は貧しいというアンバランスな状況に置かれているだけなのに、父と母が用意してくれたドレスのデザインが、偶々、少しだけ古かっただけなのに。それでも、綺麗なものを選んでくれたのに。それなのに、どうして。どうして。
その時だった。
不意打ちで、鮮やかな色が目の前に飛び込んできた。ダイアナを庇うように、令嬢たちとダイアナの間に入り込む。
「随分と分かりやすい虐めをしていらっしゃるのですね、教養の程が知れること」
痛烈な一言を放ったその人は、振り返って笑った。
艶やかな花のような紅毛。振り返った新緑の色の瞳。美しい令嬢だった。舞踏会で見かけた事はない顔だが、一度見たら忘れられないような美しい人だった。
華麗な白いドレスは腰で引き締められ、ふわりと広がっている。レースは豪奢、生地の光沢は如何にも上質で、身分の高い娘である事を思わせた。
声はハスキーなアルトで、その見た目からはちょっと想像できないような、少年めいた声だった。
「ちょ、ちょっと……誰よあなた、わたくしたちはただ、ダイアナ嬢によくしてあげようと……」
「おや、そうでしたか?私にはそうは聞こえませんでしたが――まあ、私も彼女に用事があるので」
「よ、用事?わたしにですか……?」
「ええ。」
ずっと壁の花になっているのも、退屈でしょう。
良かったら一曲如何?
「え、一曲……?」
「女性同士も悪くはないでしょう、偶には」
手を取って連れ出される。令嬢たちはぽかんとしてダイアナを引っ張っていくその人を見送った。女性同士のダンスなんてあまり見ることができるものではないし、誘ったり誘われたりしているのもあまり見ない、珍しいものだ。余程の親友や親しい相手なら踊ったりもするが、男性が女性を誘うように同性を誘う女性なんてあまりいない。
凜々しく甘さも含んだ整った横顔を見ながら、ダイアナはただただどうしたらいいか分からなくて、相手に流される儘ホールの中央に進んだ。
ワルツが流れ始め、相手が男性側のステップを当たり前のように踏んだ所で、現状に漸く気がついた。
「あ、あの、すみません、助けていただいて……!」
踊りながら小声で囁くと、彼女は片目を瞑って見せた。
ああ、なんて綺麗な人。動くたびに紅色の髪が揺れて新緑の瞳が瞬いて、とても綺麗。なんて素敵な人。指はピアノでも弾いていそうな程に細くて、握ると滑らかでひんやりとして。
「いいや、いいんだ。虐められていたみたいだったから。迷惑だったらごめんね」
男性的な口調に、その声はよく似合っていた。
「いえ、その……とても助かりました。美しいご令嬢、まるで王子様みたいでした」
「王子様みたいだった?それは嬉しいなあ」
ステップを音楽に合わせて、1,2,3。1,2,3。
令嬢の白いドレスと、ダイアナの青いドレスが揺れる。煌めくシャンデリア、くるくると回る視界。今まで社交界で男性と踊った事なんて殆どなかったから、それはとても珍しく、そして嬉しい体験に思えた。初めて社交界で、人と踊る事ができた!それも、こんな綺麗な年上の人と。同性だけど、でも、助けてくれただけで嬉しい。人の純粋な善意に触れたことで、ダイアナの気持ちはなんとなく浮き立ってしまって、少しだけ笑みが零れた。あふれかけていた涙は、もう半分くらい乾いていた。
「はい、本当に王子様みたいでした」
頬を紅潮させてそう言うと、彼女は微笑んで頷いて、そっとダイアナの手を握り返した。
同じ頃。
舞踏会の会場の外で、騒がしい声がしていた。
「アンソニー王子は何処だ!?また夜の講義をサボって……!」
「やあ、堅物教師くん。王子なら舞踏会だよ。またいつものご趣味さ」
「またか!くそ、あのくそ王子、とっとと連れ戻してやる!」
「そう息巻くなよ。今は王子はお楽しみ中なんだから。ほら、あそこ」
「……あれは?」
「……シンクレア家のダイアナ嬢だね。やれやれ、王子の悪い癖がまた出たぞ」
あの人、美しいお姫様みたいな格好をしてご令嬢と『遊ぶ』のが大好きなんだから。
「今度の娘、正体に気づくと思うか?」
「気づいた娘は今の所いない。今度も『遊び』で終わるさ」
「賭けるか?」
「いいね、乗った」
さあて、今度のご令嬢はどうなるかな。