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第4章 少女の過去

 悲哀も憐憫も同情も、意味はない。

 無限とも言える過ぎ去った時のたった一つ。

 ただ、そこで一人の少女が全てを失った。

 それだけのことだ。


 これはウズシ国が滅ぶ、その少し前の一幕である。

 長い黒髪を靡かせ、サラが廊下を歩いて行く。その足取りは軽い。ふと足が止まる。いつもの風を切る音が中庭の方から聞こえてきたからだ。彼女は廊下に設けられた窓越しに中庭を覗いた。すると、そこにはやはり、いつもの彼がいた。体に淡い青色の甲冑をまとった男はブロードソードを一心腐乱に振りまわしている。


「ヴラスカ! おはよう!」


 サラは男に向かって声をかける。すると、ヴラスカは剣を納め、布で汗を拭った。爽やかな笑顔をサラに向ける彼は大分若く見える。


「姫、おはようございます」

「毎日訓練、御苦労さま」

「ありがとうございます。更に訓練に身が入るというもの」


 ヴラスカはうやうやしく頭を下げた。サラは首を傾げ、指を頬に当てる。


「でも一日ぐらい休んだらどう? そんなに頑張っても戦う相手もいないんだし」


 ヴラスカは「はっはっは」と爽やかに笑う。


「そうはいきません。このヴラスカ、騎士団団長としてこの国を守る任があります故。いついかなるときに敵が襲ってきても大丈夫なよう、常に剣に磨きをかける必要があるのです」

「もし、ずっと敵がこなかったら?」

「それはとてもいいことです。この力は使う時が来ない方がいいものですから」

「変なの」


 サラはクスクスと笑う。


「来ない方がいいけど、敵が来たら私もヴラスカが守ってくれる?」

「もちろん」


 ヴラスカは真剣な表情でブロードソードを抜く。そして、顔の前に立てるように構えた。


「ウズシ、そして姫に災いあらば、我が剣にて打ち払うことをここに誓う!」


 彼は声を張ってそう言うと、二コリと笑った。


「来ない方がいいですけどね」

「来ない方がね」


 そして、二人は少しの間笑い合った。



 ヴラスカと別れたサラは、古ぼけた扉の前まで来ると、そのまま部屋の中へと入って行った。中ではメイド服に身を包んだ初老の女性が、椅子に座って編み物をしていた。女性はサラに気付くと、手を止め、ニッコリと笑った。


「おはようございます、御姫様。今日もいい天気でございますね」

「おはよう、サリー! ねぇ、今は何を編んでいるの?」


 サリーは自分の手元を見せてくれる。


「これはケープでございます。最近は暖かくなってきたとはいえ、まだ少し肌寒いですからね」

「へー、いいなぁ。私も欲しい!」

「これがそうでございますよ」


 彼女はそう言うと、優しく微笑んだ。


「やった、サリー大好き!」


 サリーに抱きついて、頬に軽くキスをする。すると彼女は「フフフ」と嬉しそうに目を細めた。


「御姫様のご厚意を賜ったからには頑張らないといけませんね。さぁ、今日は先生とのお勉強の日でしょう? 早めにご支度をなさってはいかがですか」

「あ。いけない!」


 サラは口元に手を当てる。

 忘れてた。今日は宿題が出てたんだった。でも当然のごとく真っ白だ。このままでは、またマストロ先生の雷が私の頭に落ちてしまう。これは国家を揺るがす非常事態だ。

 サリーの肩に手を置き、猫なで声をあげる。


「ねぇ、サリー……」

「駄目です。御自分でおやりになって下さい」


 サリーは手元の編み物に目を戻し、ピシャリと答える。

 まだ何も言ってないのに! 合ってるけど!

 サラは頬を膨らませる。


「ケチ!」

「ケチで結構です。こういうものは御自分の力でやるから、意味があるのですよ?」


 そんなことは重々承知している。それを踏まえた上での頼みだということをわかってほしい。

 サラはサリーの肩から手を離すと、深い溜息をついてトボトボと部屋から出ていく。


「御姫様、頑張って下さいませ」


 そんなサラの背中に声がかかる。サラは恨めしそうに部屋の中を一瞥し、扉を閉めた。その扉に背をもたれさせ、再び深い溜息をつく。

 これから一体どうしよう。

 白髪の団子頭をした眼鏡をかけた女性の顔をサラは思い浮かべる。その女性は怒りで顔を歪ませていた。どうしようと言っても、やることは一つしかない。


「……宿題しよう……」


 そう呟くと、再び長い廊下を力無く歩き始めた。



 ウズシ国は小さな国だ。ヤトトとイシブムチの間辺りに位置するこの国は、戦争が起きてもどちらの国にも属さずに中立の立場を守ってきた。それでもこの国がやってこられたのは、位置が二国から少し外れた辺境であったのと、国王の存在に寄るところが大きい。

 国王のエクス・ブレアは人種を問わず自国民の生活を最優先に政治を行っていた。食料に困っている村があれば、城の食料庫から分け与え、民がお金に困っているなら、税金を安くした。そのため国民は『賢王』と呼び慕い、また王の助けになろうと尽力した。しかしその裏で、国の力を削ってまで行われる政治に諸外国は、いつか持たなくなる、と冷ややかな目で見ていた。他国に属そうともせず、大した力も持たず、また持とうともしない国に大国の感心は薄く、半ば放置されていたのだ。


「陛下、申し上げます。現在、木材が不足しており」


 サラが部屋に戻ろうしていると、開けようとした大きな扉の先から、神経質そうな男性の声が聞こえてきた。サラは慎重に少しだけ扉を開けると、中を覗く。


「何に使うためのものだ」


 赤く、背の高い王座に座っている父親の姿が見える。

 パパ、一体何の話をしてるんだろう…

 豊かな髭を蓄えた王座に座す彼こそウズシ国の王、エクス・ブレアその人である。国王の前では丈の長いジャケットとクラバットを一つの乱れもなく着こなした、細身の男がいる。歳は若そうだが、頭の方は心配ごとが多いのか、少々薄い。この国のウーチ宰相だ。サラは彼が苦手だった。いつも難しい話をしており、話が合うとは思えなかった。宰相は手に持ったリストを眺め、パラパラとめくっていく。


「新築、増築、修理、日用品、武器など。今年は子供が産まれた家庭が多いようで」

「国の未来を担う若者が増える。いいことではないか」

「おっしゃる通り。その未来のためにも木材不足のことをきちんと考えて頂きたい」

「う、うーむ……」


 国王は難しい顔で唸る。宰相は顔をあげた。


「恐れながら。他国の援助も望めない今、やはりロヘド林での採取が一番かと」

「それはならん。あそこはフォレストウォーカ達の狩場だ。お互いの生活に干渉しないという先代の王からの約束を破るわけにはいかん」

「では」

「とりあえず、城のために使うものは後回しにしろ。足りない分は植林場から補え。北の森の開拓も進めよ」

「しかし、あそこは」

「決定だ」

「……その通りに」


 宰相は頭を下げる。北の森って、城の近くにある森のことかな、とサラは思う。そこではよく遊んでいたから無くなると思うと、少し悲しくなった。ぼんやりしていると、宰相がこっちに向かって歩いてくるのが見えた。サラは急いで扉の脇に避難する。

 扉から出てきた宰相と目が合う。


「おや、姫様。立ち聞きですか?」

「あ、ちょっと部屋に用事が」

「遠慮なく入って頂いて構わないのですよ。姫様もいつかは国政に参加しなければならなくなるのですから」

「こ、今度からそうする!」


 そう言うと、サラは慌てて扉の内側に入った。話を続けると、いつも結局は何だか説教みたいな話になってしまう。彼とはあまり長く話さない方が得策なのだ。



「はあぁぁ…」


 団子頭の少しふっくらとした女性が手に持った数枚の紙を見て深い溜息をつく。サラはその女性と白く塗装された机を囲んで座っていた。サラは上目遣いでチラチラと女性の顔色を窺う。


「駄目、だった?」

「駄目も何も……ほとんど『わかりません』じゃ、意味ないでしょう!」


 女性は机の上に紙を叩きつけると、サラを鋭い目で睨んだ。


「ご、ごめんなさい! マストロ先生!」


 サラは反射的に頭を抱える。やっぱり怒られてしまった。あれからしょうがなく宿題を始めたはいいが、彼女には書いてある言葉がほとんど理解できなかった。白紙は流石にまずいと思い、とりあえず回答欄を埋めることにした結果がこの様だ。


「でも、マストロ先生はわからないことはわからないと意思表示しなさいって……」


 サラはマストロの顔を片目で窺いながら、ささやかな反抗の意思を示す。


「それとこれとは話が別です! いいですか、この宿題を出してからかなりの期間があったはずですよ? わからないなら、まず調べてご覧なさい! 本で調べるとか、人に聞くとか色々あるでしょう? それでもわからない時に初めて『わからない』という言葉が使えるのです! 全く、姫様には……」


 始まってしまった。マストロ先生の説教は一度火が付くとなかなか終わらない。

 ささやかな反抗は火に油を注ぐだけであった。思わず溜息が出てしまう。


「何溜息をついているのです! 私は姫様のことを思ってですね!」

「はい!」


 サラは背筋をピンと伸ばし、手を挙げる。虚をつかれたのか、マストロは口をつぐんだ。


「な、なんです?」

「先生、今日の授業は何ですか? 教えてください!」

「そうですねぇ」


 マストロは顎に手を当て考え込む。上手く話題を逸らすことができたと思い、サラは心の中でガッツポーズをする。


「今日は魔法……」

「魔法!?」


 サラは勢いよく椅子から立ち上がった。魔法と聞いてはいてもたってもいられない。魔術冒険者ミゼット・クリーン。知恵と魔法、そしてありったけ勇気で世界を旅する英雄的冒険者。剣で戦うような派手さはないが、腕力に頼らずスマートに戦い抜く彼女の冒険譚に幼き日のサラはいつもワクワクしていた。

 そこもかしこも、全ては私の腹の中だ!

 小さい頃は木の棒を樫の杖に見立て、ポーズを取って真似したものだ。その影響でサラは魔法が大好きだった。


「にしようと思いましたが」


 マストロは二コリと笑い、首を傾げた。


「この宿題が終わってからにしましょうね?」

「えぇ!?」


 サラは椅子の上に崩れ落ちる。話を逸らせたと思ったのは気のせいだったようだ。


「授業が終わってからじゃ、駄目?」


 縋るような目でマストロを見つめたが、彼女は目を瞑り、ツンと顎を上げる。


「駄目です」

「どうしても?」


 マストロは深い溜息を吐き、サラをきつく見据えた。


「姫様! 魔法の勉強ばかりしないで、普段の勉強もして下さいまし! 姫様はこれからの国を背負って立つお方なのですから、一般教養もなくては困ります。そもそも姫様には王家の人間としての……」


 サラは両耳を塞いで、机に突っ伏したい気分になる。

 私って、どうしてこんなにマストロ先生の怒りを買うのが得意なのだろう。

 今度は気付かれないように、サラは心の中で溜息をついた。



 サラは疲れた様子で自分の部屋の前まで戻ってきた。結局、マストロ先生の宿題を終わらせるだけで授業は終わってしまった。次回までにやる宿題も当然のようにある。これでは一生、宿題が終わらない。皺皺の御婆さんになっても宿題をやっている姿を想像し、彼女は暗い気持ちになった。部屋の扉に手をかけるとゆっくりと押し開く。


「あ!」


 扉を開くと、そこには美しい女性が優雅な佇まいでベッドの上に座っていた。足元まで隠した長いローブの先からは乳白色のヒールがほんの少し見えている。その女性はサラを見て、優しく微笑む。


「おかえりなさい、サラ。お勉強はどうだった?」

「ママ!」


 その女性はサラの母親、つまり王妃である。リアン・ブレア。それが彼女の名前だ。サラはリアンの傍に駆け寄るとそのまま抱きついた。


「あらあら、疲れた顔をしているわね」


 リアンはサラの顔を細い指で撫でる。


「そうなの! 聞いてよ、マストロ先生がね……」


 サラはベッドに座りなおすと、身振り手振りを交えて先程あったことを話し始めた。多少の誇張表現により、マストロが謂れもない悪役へと仕立て上げられていたが。リアンはそんなサラの話を微笑みながら黙って聞いている。サラは一通り話終えると、リアンの顔を覗き込んだ。


「そういえば、何でママはここにいるの?」


 いつもなら今の時間は父親と一緒にいるはずだ。サラは小首を傾げた。


「フフ、それはね」


 リアンは背中に手を回すと、そこにあった小包を取り、サラの目の前に出した。


「じゃーん! 一足早いけど、お父さんとお母さんから誕生日プレゼント!」

「えっ! 本当に!?」


 サラは口に手を当てる。確かにもうすぐ自分の誕生日だ。サラは満面の笑顔でリアンから小包を受け取った。


「ねぇ、開けていい?」

「いいわよ。サラが気に入るといいのだけれど」


 大好きな両親から貰ったものなのだ。気に入るに決まっている。サラははやる気持ちを抑え、包装紙を丁寧に開けた。服のようだ。それを取り出して広げてみる。目も覚めるような白色のワンピースであった。どんな生地なのだろうか、手触りがとても心地よい。


「うわぁ! 素敵! ありがとう!」


 サラはワンピースを抱きしめ、リアンを見つめた。


「よかった。気に入ってくれたみたいね」

「もちろん! でも、何で今なの?」

「それは…」


 リアンは目を伏せる。


「ごめんなさい、サラ。私達は明日から国の視察に行かなければいけないの。本当は貴方の誕生日を一緒にお祝いしたいのだけど」

「そうなんだ……」


 もしかして、ウーチ宰相が話していたことと関係があるのだろうか。サラは手に持つワンピースを強く握りしめると、笑顔を浮かべた。


「大丈夫! サリーもいるし……ついでにマストロ先生もね!」

「サラ……」


 リアンはサラの頭を自分の胸に抱き寄せる。


「本当にごめんなさい。なるべく早く戻ってくるから」

「うん」

「さ、お父様の所に行きましょう? サラのことを待っているわ」


 リアンは立ちあがるとサラの手を引いた。



 サラの部屋から王の間を挟んだ反対側が王と王妃の寝室となっている。リアンはそこの扉を3回ノックすると、透き通るような声で呼びかけた。


「あなた、リアンです。サラを連れてまいりました」


 すると中から「うむ、入りなさい」という低い声が響いてくる。リアンが扉を押し開け中に入ると、古ぼけた机に向かって、書きものをしているエクス王が目に入った。彼はその手を止めると、二人に向き直る。リアンが深々とお辞儀をし、サラもそれに続いた。エクス王は微笑みを浮かべると、大きく頷いた。


「サラ! よく来てくれた。どれ、よぉく見せておくれ?」


 エクス王は立ち上がると両手を広げる。リアンは微笑むと、サラの背中を押した。サラは笑顔で父親の元に飛び込んでいく。


「おぉ、よく似合っているじゃないか」


 エクス王は満足げに頷く。サラは少し離れると、さっそく着替えたワンピースの端をもってクルリと一回転した。


「パパ、ありがとう!」

「うむ、その笑顔が見られただけでも、プレゼントの甲斐があったというものだ」


 父親にそうマジマジと言われて、サラはどことなく気恥ずかしくなる。


「もう! 私の笑顔なんていつも見てるじゃない!」

「愛する娘の笑顔は何回見ても嬉しいものだ」


 そう言って彼女の頬を優しく撫でる。サラはこの大きな手が大好きだった。


「とにかく、気に入ってくれたようでよかった」

「うん! でも」


 サラの表情が少し暗くなる。


「これ、すごく高そう。大丈夫なの?」

「つまらないことを心配するな。私はこれでも王様だぞ。服ぐらい、いつでも買ってやる!」


 エクス王は胸をトンと叩く。

 サラは知っていた。それが嘘だということを。

 サラ達は王族とは思えないほど質素な暮らしをしていた。備蓄はほとんどなく、不作が続けばもちろん食うに困る。そんな時は召使いに混じって、サラも森に食料調達をしに行くこともあった。また、城には異常な程、物が少ない。使わないものは片っ端から売り払って生活をするためのお金にしてしまったからだ。それがエクス王の政治の結果だと、サリーから聞いたことがある。しかし、サラはそんな父親が大好きだった。国のために身を粉にして働く父親が誇りだった。

 押し黙る更にサラにエクス王が眉を潜める。


「どうした?」

「ううん! 何でもない。本当にありがとう、パパ!」


 きっと、このプレゼントだって無理して何とか買ったはずだ。それをわかっていて、とやかく聞くというのはあまり良くない気がする。

 サラは笑顔で父親に抱きつく。エクス王は愛おしげに彼女の頭を撫でた。


「すまん、サラ。本当は一緒に誕生日を祝いたかったが」

「いいよ、お仕事だもんね」


 サラは顔をあげると精一杯笑いかけた。

 今日も平和な一日が過ぎる。たとえ貧しくとも、サラは幸せであった。



 三日後、城でサラのささやかな誕生日パーティーが開かれた。兵や文官達は王と王妃についてほとんど出て行ってしまったため、城に人間はほとんど残っていない。パーティーに出席しているのはサリーを含めた数人の召使いとマストロだけであった。サラが手作りのケーキに立った細い蝋燭の火を消すと、まばらな拍手が起こる。拍手が収まるとサリーが一歩前に出てお辞儀をした。


「御姫様、十六歳のお誕生日おめでとうございます」


 そう言って、サラに手編みのケープを手渡した。サラは満面の笑みを浮かべ、ケープを胸に抱く。


「ありがとう! 大事にする!」

「それは光栄の極みにございます」


 サリーはほのかに唇の両端を持ち上げると、もう一度お辞儀をして一歩引いた。次にマストロが前に出てくる。


「これは私からです。おめでとうございます、姫様」


 マストロが渡したのは、真鍮でできている銀色の細かい目の櫛であった。柄の部分には花の細工が施されている。


「わあ……奇麗!」

「姫様の長く美しい髪には負けます。これで、その美しさに磨きをかけて下さいませ」

「も、もう! マストロ先生ってば」


 サラが赤面し俯くと、小さな笑いが起こった。

 自分の誕生日を心から祝ってくれる人達がいる。ありふれたことかもしれないけど、それが嬉しい。これでパパもママも居たら最高だったのに。


「みんな、本当にありがとう。これからもよろしくね!」


 ウズシ国の王女は目を閉じると静かに神に願う。ずっとこんな幸せな日々が続きますように。しかし、その願いが叶うことはない。滅びの足音は、ゆっくりと確実に彼女の元へと迫っていた。


**


「御姫様、起きて下さいませ」


 その声で目を覚ます。ぼやけた視界を声のした方に向けると、サリーの顔がぼんやり浮かんできた。サラは大きく伸びをする。


「んー……」

「おはようございます」


 サリーはサラに向かって、深く頭を下げた。サラは少し乱れた布団をもぞもぞと直すと、再び目を瞑る。


「もうちょっとだけ」

「あらあら。お伝えしたいことがございましたのに、これではしょうがないですね」


 いじわるそうなサリーの声音に、目を覚まさざるを得ない。こんなことを彼女が言うのは珍しいのだ。

 サラは目を擦りながら、上半身を起こした。


「おはよう」


 顔をサリーに向ける。


「伝えたいことって?」


 サリーは再び一礼すると、ほのかに微笑んだ。


「御姫様。国王様と王妃様が本日御戻りになられるそうですよ」

「そうなの!?」


 サラは飛び起きる。

 完全に目が覚めた。そうか、もう帰って来てくるんだ。笑みがこぼれるのを我慢できない。一度、国の視察に行くと両親は中々帰ってこない。サリーやマストロがいると言っても、やはり寂しい。それなのに、今回は異様に早い。

 そう、異様に。

 サラから笑顔が消えた。そして、目を伏せ顎に手を当て考える。サリーが不思議そうな表情を浮かべた。


「どうかされましたか?」


 サラは、思い出していた。今まで、視察がこんなに早く終わったことがあっただろうか。いや、ない。リアンはなるべく早く帰ってくると言っていたが、それでもこんなに早く戻ってくるとは考えにくい。視察では毎回全ての町村を回っている。期間がそんなに短くなるはずはないのだ。

 何か緊急のことが無い限りは。

 サラの胸に一抹の不安がよぎった。



 おかしい、変だ。サラは城の中の雰囲気に不穏なものを感じていた。妙にみんなが浮足立っている。何かあったのかと残っている文官や兵に聞いても、全員首を振るばかりで答えてくれない。


「どうしたんだろう」


 サラは廊下の窓台に両腕を掛け、顎をその上に乗せた。窓からの町並みを眺めながら、サラは物思いに耽る。両親が帰ってくればわかるんだろうか。サラは溜息をついた。


「陛下のご帰還だ! 急げ!」


 兵の一人がサラの後ろを慌ただしく通り過ぎて行く。

 帰ってきた!

 サラは顔を上げると、兵の後を追って走り出した。

 サラが城門に辿り着くと、そこには既に人だかりができていた。町人達も集まってきているようだ。サラは城の内側からその様子を観察していると、人だかりが大きくざわめき、やがて歓声に変わった。城門の外を覗くと、馬車がヴラスカを先頭とする騎兵に囲まれこちらにやってくるのが見えた。馬車の中にはエクス王とリアンがいる。二人は人垣に向かって手を振っているが、その顔は一様に険しい。

 やっぱり、何かあったんだ!

 あんなに疲れた顔をした両親の姿を見るのは初めてだった。サラの中の不安はますます大きくなっていった。



 王が城へ戻ると、城の人間はほとんど王の間へと集められた。サラも遠巻きでその様子を見守っている。

 文官の一人が王の前を進みでると、王に書簡を一つ差し出した。彼はそれを受け取ると、すぐに読み始める。その顔は読み進める内にその険しさを増していった。


「これは……どういうことだ!」


 書簡から顔を上げるや、エクス王は大声で怒鳴った。あまりの剣幕にサラは思わず首を竦める。リアンがエクス王をたしなめる。


「陛下、落ち着いて下さい」

「これが、落ち着いていられるか」


 王は書簡を隣にいたウーチ宰相へ渡すと、王座へがっくりと腰を下ろした。ウーチ宰相が細い目で書簡に目を通す。いつも落ちついている様子のウーチだが、その手が微かに震えているのがサラにはわかった。


「ヤトトへの叛意? ここはヤトトの従属国ではないはずですが」

「馬鹿にしている。敵意があれば、いつでも潰せるということだろう」


 王は忌々しげに拳を王座に打ちすえる。


「今更、敵意も害意もあるものか。一体何故そのようなことを」


 ウーチ宰相が首を振る。


「叛意にイシブムチとの密通。どうにも首を傾げざるを得ないことばかりですが、これによれば明日にヤトトから特使が来るようです。そこで弁明するしかないでしょう」

「弁明だと? その言いがかりでしかないことにか。それが通るとは到底思えん」


 エクス王は深い溜息をつく。


「いや、やるしかあるまい。事は起こってしまった。嘆くよりも対処をせねばなるまい」

「賢明な判断です」


 リアンがエクス王に寄り添う。


「陛下」

「心配するな……とはとても言えんな。ウーチ。もし、弁明が聞き届けられなかったら、この国はどうなる?」


 ウーチ宰相は眉を潜め、言いづらそうにしている。エクス王は首を小さく振った。


「よい、わかっておる。申せ」

「わかりました」


 ウーチ宰相は頷く。


「その場合、最悪」


 人はたくさんいるのに驚くほど静かだ。その場にいる全員が固唾を飲んでウーチ宰相の言葉を待っていた。


「この国は滅びます」


 サラにはまだ事態が掴みきれてきない。ただ、その絶望的な響きだけが胸の奥に深く根を張った。



 次の日。昼になる少し前だ。ヤトトからの特使を名乗る男が王の前にやってきた。

 その男は大きかった。腕も、足も、体も。そして、態度も。塗り忘れたような白い髪と髭が浅黒い肌で際立って見える。隆々としたはちきれんばかりの筋肉を、豪奢なマントで包み、腕を組んで立つその威容はヤトトの国王と言われても思わず納得してしまいそうだった。


「貴方がヤトトからの」


 エクス王の隣に立ったウーチ宰相の声をその男は手で制す。その手には豪奢なマントに似合う、豪奢な金色の手甲が嵌められていた。


「その前に、だ。一つよろしいか、ウズシの王よ」

「貴方」

「よい、ウーチ。何かね、ヤトトからの使者よ」


 特使の男は厳しい表情で頷く。


「ふむ。では申そう。お前さん、ちぃとばかり平和ボケしとりゃせんか」

「何?」

「仮にも敵国の人間であるワシの武器も取り上げずに王の前に通すとは、どうにもいかんのぉ。ワシがその気になれば、今ここでこの国は滅ぶぞ?」

「貴様、我等を愚弄するか!」


 控えていたヴラスカが剣に手をかける。王は手を上げ、それを止める。


「失礼、武器を持っているようには見えないが」

「あるではないか」


 男は不敵に笑うと、腕をかかげ、拳を握りしめた。エクス王はそれをしばらく見つめると、やがて驚愕の表情へと変わっていった。


「逆立つ白髪、金色の手甲、まさか!」

「陛下?」

「お前は、『白鬣しらたてがみ』ダルトン・クラッシュビートか!」

「ダルトン!?」


 ウーチ宰相の声が裏返る。ヴラスカが剣に手をかけたまま、小声でウーチに尋ねる。


「何者です、その男」 

「ヤトト軍のトップに立つ大将軍です。ではあの手甲は、まさか」

「ふぅむ。ワシの名くらいは知っておったか」


 ダルトンは満足げに頷き、その場にドカリと腰を下ろすと胡坐をかいた。


「貴様、よくもそこまで無礼な態度を……大将軍だか知らないが、切って」

「よせ、ヴラスカ」

「ですが!」

「あの男の言う通りだ。仮にここにいる全員が武器を持ってかかっても、あの男には敵うまい。文字通り、首根っこを掴まれた状態というわけだ」


 王が諦めのように首を振る。


「まさか、このような地に直接来るとはな」

「そういうことだ、若き騎士。何も無駄に命を落とすことはあるまいて。ぐわぁーはっはっ!」


 ダルトンは豪快に一しきり笑うと、その猛獣のような瞳で王を睨みつけた。


「さぁて、お互いの立場が分かった所で、だ。まどろっこしいことはやめて、単刀直入に聞くぞ。ウズシの王よ、『何を隠している』?」


 ウーチ宰相もヴラスカも困惑の表情を浮かべる。ただ、王だけが険しい顔でダルトンを見ていた。


「書状の件で来たわけではないのか」

「そうなんだが、ちぃと納得できなくてな」


 ダルトンは頬を掻く。


「このような取るに足らない小国の動きを事前に察知できたことが不自然なのだ。草を放っているわけでもないのでな。ワシは十中八九、イシブムチかドンハの計略と見ておる。だが、それならば何故そのような情報をヤトトに伝えた? ここに目を向けさせる理由は? ここには何かあるのか? ワシが知りたいのはそれだけよ。何か、思い当たることがあるなら、残らず吐いた方が身のためぞ」

「ない。その情報も全て真っ赤な嘘だ。これで満足か?」


 王は表情一つ変えずに答える。ダルトンはそれをしばらく見つめていたが、不敵な笑みをたたえ、すっくと立ち上がった。


「まぁよい。勝手に調べさせてもらうとしよう。しばらくの間、ここに駐留させてもらう」

「な」

「城外に兵を百ほど待たせてある。その間の食料を提供してもらおう」

「そんな、勝手な!」


 ウーチ宰相が声をあげる。


「なぁに、気がすめばそこで引き上げる。書状の件も忘れる。悪くはないだろう?」

「よかろう」


 エクス王が頷く。ウーチ宰相もヴラスカも、事実上どうしようもないからか、悔しさに顔を歪めていた。エクス王は静かにダルトンを睨む。


「だが、一つ約束しろ。民には絶対に手を出すな」

「そんな無粋な真似はせん。最も、敵となれば容赦はせんがな! ぐわっはっはっは」


 ダルトンは踵を返すと、悠然と、まるで自分の庭を歩くかのように王の間から出て行った。サラはその一部始終を自分の部屋から眺めていることしかできなかった。


 

 サラが両親から呼び出されたのは、そのすぐ後であった。呼び出した理由も教えられずに、サラは二人に連れられるまま、城の地下へと来ていた。いつもなら、兵が見張っていて近づくことも出来ない場所。何度か忍び込もうとしたことはあったが、その度に捕まっては怒られていた。

 どうして、今、そんな場所に?

 サラの不安は否応なしに高まって行く。


「ね、ねぇ、パパ、ママ。どこに行くの?」

「サラが、成人したら連れてこようと思っていた」


 王の言葉が、自分の問いへの答えなのか、ただの呟きなのか、サラには分からない。ただ、いつもなら安心する父親の手のぬくもりが、今は少し怖く感じた。

 地下の一番下まで降りると、古ぼけているが、金具で補強された頑丈そうな扉の前まで来ることができた。すると、王は扉の横に設置された松明に手をかけ、ガチャリと引く。小さな振動。何かが動く音。しばらくすると、サラ達の背の方にあった石壁がズリズリとスライドしていき、扉とは別の通路が現れた。

 こんな仕掛けがあるなんて。

 サラは怯えたように身を強張らせる。


「ここは何なの、ねぇ!」

「詳しい説明は後だ」


 両親に挟まれるようにして、サラは通路の奥へと連れて行かれる。有無を言わせぬ態度に、サラは困惑していた。

 通路の先は、ベッド2つ分ほどの大きさの小部屋に通じており、部屋の中心には小さな台座があった。その上には一冊の白い表紙の本が飾られている。


「あれって、魔導書……?」


 サラの言葉にリアンが頷く。


「えぇ、そうよ。今からアレの持ち主はサラ、貴女よ」


 エクス王も頷く。


「いつかは引き継ごうと考えていたものだ。それが遅いか早いかの違いでしかない」


 サラは魔導書の方をおそるおそる観察する。表紙には何も書かれていない。真っ白だ。普通は五ぼう星なり使い魔なりが書かれているものだが、何の飾り気もない。そして、それは不思議と塵一つ積もっていなかった。下の台座には埃が堆く積もっているにも関わらず。

 サラは魔法が大好きだった。

 いつかは冒険譚の人物のように。

 ずっと欲しくて、けど言えなかったものが目の前にある。

 でも。


「何で、今」


 リアンが台座の上の本を取り、サラに渡そうとする。


「これを」

「いやよ……」


 サラは拒絶するように頭を振る。エクス王は優しくサラの頬に手を添え、柔和な眼差しを向けた。


「サラ、良く聞きなさい。この本は」


 聞いてはいけない。聞いたら、全てを失う。サラの心のどこかが警鐘を鳴らし続ける。涙を浮かべ、言うことを聞かない子供となって頭を振り続ける。


「いや……こんなの、欲しくない!」

「サラ!」

「聞きたくない!」


 エクス王の語気が荒くなる。サラはそれに反発するように、差し出された手を振り払った。大好きだった、その手を。


 突然、鼓膜を大きく揺るがす爆発音がした。


 地面が、揺れる。


「きゃっ!」


 サラはよろめき、尻持ちをついてしまった。


 三人がいる深い地下では激しい音が多重に反響して、まるで頭の中をかき回すかのようだった。天井からはパラパラと何かの粉が落ちてくる。


「何だ、何が……まさか!」


 エクス王は顔を青ざめると、リアンに「サラを頼む」と言い残し、走って部屋から出ていってしまった。リアンはサラを抱き起こす。


「今の、何?」


 そう尋ねるサラに、リアンは何も答えなかった。



 城外のヤトト軍駐留キャンプ場。

 そこは混乱の極みに陥っていた。突然、城下街で大きな爆発が起きたかと思うと、イシブムチの旗をかかげた軍勢が、キャンプ場に押し寄せてきたのだ。

 まさか、情報は正しかったのか。

 ダルトンは戦場で拳を振るいながら、考えていた。目の前の軍勢は、軍というにはあまりにも無秩序だった。兵も少しはいるが、ほとんどは一般人のようだ。黒い影が飛びだし、風のようにダルトンに迫る。


「シャオ!」

「甘いわ!」


 ダルトンの拳がそれに深くめり込む。影は黒装束と黒覆面をまとった細身の男であった。男はまるでゴムまりのようにはじけ飛ぶ。

 かと思えば、鍛えられた暗殺者も混じっておる。統制はおよそ取れておらん。

 ダルトンの右手が無意識に口元に行く。

 いかん、頭を使おうとすると、葉巻が吸いたくなるわ。

 歯をむき出しにし、大きく口を歪める。両拳を握りしめると、ガキンと胸の前で打ち鳴らした。

 今は眼前の敵を捻り潰すのみ。


「我等に牙を向けたこと、後悔しても遅いぞ!」



 エクス王は一階まで戻ると、窓辺に駆け寄る。街の方では爆発が続いている。立ち上る硝煙。遠くから怒号と雄たけびが聞こえてくる。

 あのダルトンという男がやったのか。

 ここからでは様子がよくわからない。彼は王の間に向かって走り出した。

 王の間まで戻ると、よく見た顔が集まっていた。ヴラスカが駆け寄ってくる。


「王よ! 一体何が……」

「わからん、誰か知っているものは!」


 誰も答えない。その時、兵士の一人が王の間へと転がり込んでくる。兵士は息を切らしながら、ヴラスカの前までやってきた。


「団長殿!」

「何かわかったのか!」

「げ、現在、イシブムチの旗を掲げた軍勢がヤトト軍と交戦中!」

「何だと!?」

「そ、その中には我がウズシ兵や、一般市民も混じっており……」


 部屋の中が異様な雰囲気に包まれる。得体の知れない、とんでもないことが起こっている。誰もが何か言葉を探すが、誰も声を発することができない。

 その時であった。部屋の中心の空間が聞いたこともない鋭い異質な音を立てながら歪み始める。歪んだ空間はしばらくすると円状になり安定した。中から手が現れる。その手には真っ黒な本。続いて足、頭、体。つまりは一人の人間が現れた。金の装飾がほどこされた黒いローブを羽織り、キャピッシュを目深に被っているため、その表情は伺いしれない。体つきから男であることがわかるくらいであった。ヴラスカはエクス王を庇うように立ち、ブロードソードを抜く。


「貴様、何者だ!」

「貴方に用はありません」


 ローブの男はしわがれた声で何事かを呟くと、空いている手をヴラスカにかざした。すると、ヴラスカは見えない巨大な手ではじかれたように吹き飛び、壁へと衝突する。彼はうめき声を上げると、その場に膝をついた。


「ヴラスカ!」

「他の皆さんも」


 その男が手を振ると使用人の一人の首がけし飛ぶ。恐慌状態に陥った兵が男に襲いかかったが、不可視の刃に胴体を深く切り裂かれ、血の海に沈む。部屋の中は混乱を極め、残りの者は王の間から我先にと逃げていった。

 だが、そんなことなど気にとめないように男は王の前まで進み出る。


「王よ、お初にお目にかかります。我が名はルゴイエ。イシブムチの神殿術師長でございます」


 ルゴイエと名乗ったその男は大仰に一礼した。エクス王は男を睨みつける。


「イシブムチ……? まさか、この事態は全て」

「その通り。この国には滅んで貰おうと思いまして」


 何の感慨もなさげにあっさりと言い放つ。エクス王は歯ぎしりをし、拳を握りしめる。


「ふざけるな……」


 怒りで視界が歪む。


「ふざけるな! 何が目的だ!」

「ここにアレがあるのはわかっています」

「!?」


 ルゴイエは口元に不気味な笑みを浮かべる。エクス王は明らかな狼狽を見せていた。


「それを知るものには全て消えてもらわねば」

「どうして、それを」


 一歩あとずさる。その瞬間、暴力的な破壊音、立つのもやっとの揺れ。ガラガラと何かが崩落する音が外から聞こえてきた。


「流石『白鬣』というところですか。あまりうかうかとはしていられないようです」


 ルゴイエが手をエクス王へとかざす。


「なにが」


 呆然と立ち尽くす。分からない。どうして、こんなことになっているのか。


「説明する必要はありますまい。何故なら、ここで貴方は死ぬのですから」

「お逃げ下さい!」


 叫び、鋭い一閃。ルゴイエのキャピッシュが浅く切り裂かれる。そこにはブロードソードを構えたヴラスカが立っていた。


「ほう、意識がまだあるとは」


 ルゴイエは少し驚いたような声をあげる。


「ヴ」

「お逃げ下さい! 王は生きねばなりません!」


 ヴラスカの声に、エクス王はハッと顔を上げる。そうだ、まだ、まだ死ぬわけにはいかない。あの子を助けるまでは。


「すまん!」

「お気になさらず。仕事ですから」


 エクス王は頭を下げると、出口に向かって駈け出す。ルゴイエが彼に手をかざそうとすると、ヴラスカが突進し、剣を振るった。ルゴイエはふわりと飛びのく。王はその間に部屋を出ていく。


「おや、困りましたね」

「追わせはせん」


 残った二人はジリジリと睨みあっていた。


**


 頭がぐちゃぐちゃだ。心臓が張り裂けそうだ。どうして今私は走っているの? パパはどこに行ったの? 

 怒号と悲鳴が混じる中、サラはリアンに手を引かれ、城内を走っていた。


「うふふ、ねぇ、どこへ行くのかしら?」


 艶めかしい声。通路の曲がり角から、一人の女が現れる。そして、二人の行き先に立ちふさがるように立った。豊満で極めて女性的な体をまるで場違いな真っ赤なドレスで包んでいる。女は手に持つ鞭を構える。少しウェーブがかったロングヘアーの間から見える、紫のルージュを塗った唇が笑った。


「ここから逃げようなんて、いけない子達ね!」


 振るわれた鞭の先がサラ達に迫る。


「サラ!」

「ママ!」


 リアンがサラを庇うように抱きしめる。するどく空を裂く音。破裂音。しかし痛みは無い。恐る恐る振り向いたリアンが、ほっと溜息をつく。


「全く、体を動かすのは専門外なのですが」

「ウーチ……」


 そこにいたのは、ウーチ宰相であった。いつものきちんとした身なりに加え、右手にはレイピア、左手には小振りの盾がはめられている。どうやら彼が助けてくれたらしい。


「ここは私が。御后様達はお逃げを」

「……恩に着ます」


 リアンはサラの手を引くと、再び走り出した。



 人が倒れる。私の知る人が。何が起こっているのかわからない。何のせいなのかもわからない。自分達がこんな理不尽な殺意を向けられる理由なんてあったのか。

 ポロポロと涙があふれる。

 そうだ、こんなことあるわけがない。あっていいわけがない。これはきっと夢だ。目を覚ませばまた何の変哲もない日常が始まるに違いない。


「リアン、サラ、無事だったか!」

「あなた!」


 ママに連れられてやってきた倉庫の前にはパパの姿があった。パパは私をギュッと抱きしめる。


「サラ、よく聞くんだ。ワーフォードに行って、伯父を頼りなさい。力になってくれるはずだ」


 何を言っているかわからない。爆発、轟音。外では何が起きているの? わからない。倉庫は昔私がかくれんぼのときに入った記憶がある。パパが木箱をどけると、床の一部を力任せに開けた。


「ほら。これを持って。決して人に渡さず、大事にしなさい。きっと貴方を助けてくれるわ」


 ママから白い本を渡される。私はぼんやりとそれを受け取る。


「さぁ、ここから入るんだ。壁伝いに真っすぐに行くんだよ。突き当りについたら壁をよく調べるんだ」


 通る? ここを? 何故?


「パパとママは?」


 ママが優しく笑い、私を抱きしめる。


「安心して。私達も後で必ず行くから」

「リアン」

「本当に?」

「本当よ」


 私は戸の中に入り、階段を下りる。中は真っ暗だ。上を見上げて、パパ達を見る。


「まだ、私達はやることがあるから」

「また後でね、サラ」


 天井が閉まっていく。私は手を伸ばす。また、会えるよね。絶対、会えるよね。


「早く行け!」

「必ず追いかけるから!」

『いきなさい!』


 二人の大きな声にビクリと手を引っ込める。それと共に天井は完全に閉じてしまう。真っ暗だ。突然、物凄い音が響く。音が反響して頭が割れそうになる。怖い。怖い怖い怖い。私は片手で耳を塞ぎ、ママから貰った本を強く抱きしめ、真っ暗な闇の中を走った。途中で何度もつまずいた。その度に本が手から零れ落ちそうになる。でも私は離さない。この本を離したら、何もかもが壊れてしまう気がした。本を庇うように転ぶから、左手がヒリヒリ痛い。暗くてわからないけど、もしかしたら血が沢山出ているかもしれない。


「また会えるよね……必ず来るって言ったよね……」


 きっと今の私は涙と鼻水で酷い顔をしている。悲しい感情が溢れだす。寂しいよ、寂しいよ。パパ、ママ。

 どれだけ走っただろうか。永遠とも感じる暗闇を走り続けた私は、ついに突き当りにまで辿りついた。パパに言われた通りにすると、出っ張った何かに手が引っ掛かる。その出っ張りに色々試すと、それは奥へと押し込まれた。壁が音を立てて少しだけ開く。隙間から光が差し込んだ。


「外なの……?」


 壁を力の限り押す。すると、思ったよりも簡単に壁は動いた。勢い余って外に飛び出し、前のめりに倒れてしまう。暗い陽の光に優しく包まれる。もう日暮のようだ。


「あ」


 顔をあげると、遠くに大きな町並みが見えた。


「ワーフォードだ」


 伯父を頼りなさい。

 パパの言葉が頭に浮かぶ。そうだ、伯父さんのところに行かなきゃ。フラフラと立ち上がると、疲れと痛みで言うことをきかない足を引きずって歩きだした。



「リアン……お前は」


 エクス王の言葉をリアンが遮る。


「王の隣には王妃がいなければ」


 リアンはエクス王を見つめ返すと柔らかに微笑んだ。


「すまんな。本当にすまん」

「謝るなら、あの子にです。嘘をついてしまいました」


 もう二度と会うことはない我が子の顔を思い出し、リアンは目を伏せる。エクス王は唇を噛みしめた。


「そうだな。しかも、大変なものまで背負わせてしまった。愚かな選択だったかもしれん」

「ですが、アレがきっとサラを守ってくれます。生きる意思を失わない限り」

「だが、何の説明も……」


 リアンはそっとエクス王に寄り添う。


「きっと大丈夫です。サラは私と、あなたの子供なのですから」


 エクス王はフッと笑い「そうだな」と言うと、リアンの手を握った。


「あの子が逃げるまでの時間を稼がねば」

「えぇ」


 自分達のしたことが正しいかはわからない。しかし、娘を助ける方法はこれしか考えられなかった。二人は来た道を戻る。胸を張り、悠然と。


**


 ワーフォードについたサラは伯父の家を訪ねた。サラの怪我と顔を見た伯父はへどもどしたが、家の中へと招きいれてくれた。伯父は温かいスープをサラに渡し、事情を促す。彼女には上手く説明ができなかったが、それでも何か大事を察したのか、彼は何度も頷いた。


「た、大変なことがあった、み、みたいだね。でも、ここはウズシ国の貴族が集まるところだから、あ、安心しなさい」


 なにが安心なのかサラにはわからなかったが、疲れきっていた彼女は力なく頷いた。

 サラは伯父夫婦が苦手だ。

 正確には伯母の方が。伯父は気が弱く、人畜無害な人だ。伯母はそんな伯父につけこんで、家庭での権力を欲しいままにしていた。伯母は伯父とは真逆の性格をしている。正直、どうして結婚したのかよくわからない。

 サラはヘイトを見上げた。


「ヘイト伯父さま、ディーナ伯母さまはどこに?」


 ヘイトは首を傾げる。


「買い物のはずだけど、そ、そういえば遅いな」


 サラはほっと息をつく。

 よかった、もしこの場にいたなら何を言われたものかわからない。今の内に休んでしまおう。休んでいれば、きっとパパもママも追い付いてくるはずだ……


「伯父さま、父様が来るまで休んでいていいかしら?」

「あ、あぁ、いいとも。三階の部屋なら、す、好きな所を使っていいよ」


 ヘイトは上を指差し、曖昧な笑顔を浮かべる。笑顔も上手く出来ないなんて、不器用な人だ。サラは溜息をつくと、ヘイトに一礼し階段へ向かった。

 パパ、ママ、無事だよね……

 サラは部屋に入ると崩れるようにベッドに倒れこんだ。



 その夜。大きな物音でサラは目を覚ました。


「……さい!」


 下の階で誰かが言い争っているようだ。しかし、声は途切れ途切れでよく聞こえない。

 もしかして、パパとママが来たのかも!

 サラは飛び起きると、部屋から出た。階段を下りて行くとだんだんと声がはっきりとしてくる。サラは顔を歪めた。

 これは、ディーナ伯母さまの声だ。


「アナタ! 何考えてるの!」

「だって、さ、サラは私のかわいい姪だ」


 ヘイトの弱々しい声も聞こえてくる。


「姪も孫もありますか! いいですか、ウズシはもう終わりです。いつこの町にも他国が攻めて来るのかもわらかないのですよ!」

「そ、そんなことは」

「この耳で聞いたんです! 王族の生き残りなんて匿ってどうする気ですか!」


 サラは動揺する。

 生き残り? どういうことなの?


「そうだ。あの子を捕まえて、引き渡しましょう。そうすればきっと、私達の安全は保障されるわ」

「そ、そんな、か、かわいそうだよ……」

「いえ、もしかしたら恩赦も貰えるかも。そうしましょ! ね!」

「だ、だめだよ。そそそれに、渡すって、ど、どこに渡すんだい?」

「そんなのどこでもいいわよ! アナタ、これは私達のためなの!」

「う、うーん……」


 しかも、伯父夫婦は自分を売る気のようだ。逃げなければ。ここは安全なところではない。サラはそっとその場を離れると、三階の部屋に戻った。

 さっきのは聞き間違いだ。きっとパパもママも来てくれる!

 サラは部屋にあった鞄に服や小物をいくつか詰め込むと、気付かれないように、そっと伯父の家を飛び出した。



 町を一人歩く。夜と言っても大きな町だ。明かりもあり、多少の人がまだ出歩いているのには少し安心感を覚えた。でも、町の人々はどこか浮足立っているように感じる。みなが内緒話でもするように、何かひそひそと話している。それから耳を背けるようにサラは細い裏路地へと入って行った。そこは酒場のごみ置き場になっていた。饐えた臭いに彼女は思わず顔をしかめる。少し臭うけど、ここなら夜風くらいはしのげそうだ。彼女は壁に背を預け、力無く座り込む。


「にゃあ」


 突然の鳴き声にびくりと体を震わせる。声のした方を見ると、壊れかけた樽の上にクロネコが一匹、じっとサラを見つめていた。


「そう、先客さんがいたのね。ごめんね、私もいいかしら?」


 クロネコはもうひと鳴きする。多分大丈夫ということだろう。サラは安心すると、鞄を抱くように丸まり、目を閉じた。



「いやがったぜ!」


 野太い大声で目を覚ます。声の先を見ると髭を生やした中年の男がこちらを見ていた。見たことも無いその男は大きな口を歪ませ笑っている。身の危険を感じたサラは飛び起きると男と対峙した。


「あ、あんた一体誰なの!」

「俺かい? 俺はただの冒険者さぁ。ただ、お嬢ちゃんを捕まえるように頼まれてねぇ」


 男はゆったりとした歩調で迫ってくる。

 冒険者? 頼まれた? サラの頭に一人の顔が浮かぶ。


『あの子を捕まえて、引き渡しましょう』


 捕まればただじゃ済まない。両親にも会えない。サラの顔が青ざめていく。体の震えが止まらない。

 動け。動け!

 男が一歩、こちらににじり寄る。

 動かなければ、終わりだ!

 サラは力づくで震えを押さえ、男とは逆方向に全速力で走りだした。


「逃げても無駄だぜ! お嬢さんを捕まえようとしているのは俺だけじゃないからなぁ!」


 後ろから男の声が聞こえてくる。

 捕まってたまるか。もう一度、父と母に会うまでは。



「逃げたぞ! あっちだ!」


 あの男の言う通りであった。どこに行っても指をさされ、追われ、逃げ、隠れるの繰り返し。もはやワーフォードの町にサラの居場所は無くなっていた。

何で? ディーナ伯母さま、何でなの……?

 サラは住宅地の裏路地で、頭を抱えてうずくまる。自分が一体何をしたというのだ。ここまでされる謂れはないはずだ。サラの目に涙が浮かぶ。


「白い服の長い髪の少女を見かけたなら、教えてくれ」


 すぐ傍で低い男の声が聞こえる。自分のことだとすぐにわかり、サラは恐怖に身をひきつらせた。

 長い髪……!

 自分の髪を手に取る。この髪が目印になっているんだ。サラは鞄の中から、小さいナイフを取り出すと、自分の髪にあてがう。

 ごめんなさい、マストロ先生!

 ナイフを持つ手に力を込める。ナイフはいとも簡単にサラの髪を切り落とした。バサリと大量の髪の毛が地面に落ちる。ナイフを持つ手が小刻みに震える。大丈夫、髪なんてすぐに伸びる。自分にそう言い聞かせても、手の震えはなかなか止まらない。


「ふっ……うっうっ」


 マストロが美しいと言ってくれた髪はもう無いのだ。サラは自分の中の大切なものを無くした気がして、涙が後から後から溢れだした。



 髪を短くしてからは、追われることは無くなった。しかし、こんなものはただの時間稼ぎに過ぎない。いつかはバレて、また逃げ回らなくてはならなくなる。もし、そうなったときどうするか? 当ても無く歩き回りながら、サラはずっとそのことを考えていた。


「お嬢ちゃーん」


 サラの思考はそこで中断された。聞き覚えのある声にはっと振り返る。そこには今朝出会った男が、ニタニタと笑いながら、立っていた。


「髪を切ったのかい? もったいないねぇ。高く売れそうなのに」


 男は一歩サラに近づく。サラは一歩後ずさった。


「でも、だーめ。俺はお嬢ちゃんの顔をしっかり見てるからねぇ……そんな変装意味ないよ?」


 男はもう一歩近づく。サラは男に背を向けた。


「さぁ、最後の追いかけっこといこうかい!」


 彼女が弾けるように走り出すと、男もそれに合わせて走りだした。

 速い! 追いつかれる!

 差はじりじりと詰められていく。足の痛みと疲れが溜まっているのもあり、何度も躓いて転びそうになった。


「へっへっへ! 頑張るねぇ!」


 男に疲れている様子は微塵もない。それどころか楽しんでいるようだ。

 いやだ、捕まりたくない。

 パパに、ママに、もう一度会うまでは、絶対に……

 絶対に、逃げ切ってやる!


『渇望せよ』

『求めよ。抗え』


 頭の中に声が響いた。男とも女ともつかない、不思議な声が。

 あの、白い本だ。

 何故か、本能的にそう感じた。鞄から本を取り出すと、まるで待っていたかのように自然とページが捲れて行く。あるページでピタリとそれは止まった。

 これは……これなら。

 後ろからは男の足音が迫ってくる。

 迷っている暇など無かった。


「この世界に、生きる、精霊達よ、」


 息も絶え絶えになりながら呪文を唱える。


「我の声を、聞き届け、道を、示せ!」


 サラは祈る思いで右手を天に掲げる。

 とにかく遠くへ! 安全なところならどこでもいい!


「開け次元の扉『エレメント・ロード』!!」


 刹那、歪な音と共に目の前に円状の穴がぽっかりと開く。サラは目を瞑ってその中へと飛び込んだ。



「な、なんだぁ!?」


 男は口をへの字に曲げ、あからさまな困惑を顔に出す。追いかけていたはずの少女が、何かをぶつぶつ言ったかと思ったら、突然目の前から姿を消したのだから当然だ。周辺を念入りに見回してみるが、どこにも少女は見当たらない。


「……ちくしょう!」


 男は怒りにまかせ、落ちていた空箱を蹴飛ばした。



 一瞬の閃光。漆黒。天が地となり、地が天となる。

 ぐにゃぐにゃとした景色の中で、広大な川を漂うような浮遊感と無力感。

 唐突に周りが鮮明に形づくられていく。

 直後、何かに引っ張られ落ちる。


「あぅ!」


 あっと思う間もなく、サラは勢いよく地面へと転がった。受け身を取る暇もない。しかし、思ったよりも痛くなかった。湿り気のある、山林独特の力強い匂いが鼻をついた。目を薄くあけると、落ち葉が絡まった自分の手が見えた。


「成功、した?」


 さっき使った魔法は空間制御系と呼ばれるものだ。熟達した魔法使いでも使いこなす者はほとんどいないと言われる、とても難しい魔法。ほぼ素人同然の自分が成功できるとはとても思えなかった。

 サラは緩慢な動作で上体だけ起こし、辺りをグルリと見渡す。どこを見ても木しかない。明らかに先程までいたワーフォードではない。信じられないが、どうやら上手くいったらしい。


「ここは……?」


 どこかの森だろうことはわかる。サラは両手に力を込めて立ちあがろうとする。その時、自分の腹の底から熱いものが込み上げてくる。


「おげぇ! げぇ!」


 思わずその場で嘔吐する。しかし、吐き出しても吐き出しても収まることがない。一体自分の身体に何が起きたのだろうか。


「げはっ、かはっ…く、おぇぇ!!」


 結局、このまま自分は死ぬのだろうか……

 こんな、見知らぬ土地で、一人孤独に……

 目の前が霞んでいく。


「死んで、たまるか……」


 サラは歯を食いしばる。もう一度、両親と会うまでは死ぬわけにはいかない。

 戻るんだ、あの幸せな日々に。

 しかし、その意思に反するように身体は重くなっていき、既に指一つ動かすことができない。瞼でさえ鉛のようだ。

 戻ってやる、絶対……

 意識が、闇に落ちる。



 次に目を覚ました時、サラが見たものは人懐っこそうな子供の顔であった。

幕間 とある日記

 お母さんが、絵本をくれた。神秘の森に住むエルフ達の童話。エルフって本当にいるのってお母さんに聞いたら、今はわからないって答えてくれた。

 アタシはいるって思うけどな。

 いつか会えたらいいなぁ。それにエルフレムってこの世とは思えないくらい奇麗っていうし、いつか行ってみたい。

でも童話みたいに一日遊んだら百年過ぎてたっていうのはイヤかも。

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