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第2章 少女の決意

 朝、部屋でジェイルが旅の準備をしていると、サラが現れ、ベッドにちょこんと座った。彼女は大きく伸びをすると、「はぁ」と小さく息を吐いた。どうやら寝起きのようだ。


「もう、行くの?」


 サラが間延びした声を出す。まだ寝ぼけているのか、目の焦点がいまいち合っていない。


「あぁ。急ぐ旅じゃないが、いつまでも厄介になるわけにはいかないからな」


 ジェイルは最後の荷物を大きな革袋に入れる。


「挨拶をしたら出ていくつもりだ」

「そう……」


 サラは少し残念そうに口を尖らせる。ジェイルは袋の口を縛ると、それを床に置いた。サラはぼんやりとそれを見つめていた。


「ねぇ。次はどこへ行くつもり?」

「オステリに行って船に乗るつもりだ」


 サラははじけるように顔を上げた。その目はキラキラと輝いている。眠気はすっかり取れたようだ。


「海に出るの!? いいなぁ。私、海って行ったことないのよね。船旅って気持ちよさそう」

「そんないいもんでもないぞ」


 ジェイルは苦笑いを浮かべる。


「……私ね!」


 サラが突然声をはる。視線は天井へと向けられていた。


「ここを出ることにしたの」


 ジェイルは首を傾げる。


「なんでまた?」

「知ってるんでしょ? 私がお爺ちゃん達に助けられたこと。いつまでもここに迷惑をかけるわけにはいかないし……それに、前から決めてたの! この一件が終わったら、出ていこうって」


 サラは少し早口で喋る。興奮しているのか、緊張しているのか、ジェイルには区別がつかなかった。両方が混じっているのかもしれない。


「ご老人方には言ったのか?」

「昨日の夜、話したわ」

「エイミには?」

「それは……」


 サラは口を噤むと俯いてしまった。


「どこに行くつもりなんだ?」


 しばらくして、ジェイルが尋ねた。サラは顔を上げる。その目からは強い決意のようなものを感じた。


「ウズシ国。ウズシ国のガルガ・エーラ」

「ウズシ?」


 ジェイルは眉間に皺を寄せる。ウズシ国と言えば、最近、ヤトトとイシブムチの小競り合いに巻き込まれて滅んだ国だ。首都であるガルガ・エーラと三、四の町村を内包するだけの小さな国。しかも、ガルガ・エーラは戦争の中心地であり、今はただの廃墟のはずだ。


「あそこで戦争があったことは知っているか?」

「そ、それくらい」

「今はほとんど終わりかけだが、それでも危険だ。第一どうやって国境を超える? ヤトトとハイヅタみたいにはいかんぞ」


 ヤトトとハイヅタは同盟国である。そのため、往来は特に規制されていない。


「大丈夫! 何とかなるわよ!」


 あっけらかんというサラにジェイルは溜息をつく。


「入れたとしてもだ……」

「なによ」


 ほぼ終わりかけているとはいえ現在も戦争の前線であるウズシ国に入れば兵隊と遭遇する可能性も高い。そういう所のしかも末端の兵達は無法者になりやすい。下手をすれば盗賊なんかよりもよっぽど性質が悪い。見つかれば恐らくはただでは済まない。

 やめとけ、と口に出そうとして止めた。この手のタイプには他人が何を言ってもきっと無駄であろう。彼はそれをよく知っていた。


「なんでもない」

「気になるじゃない……言いなさいよ」

「なんでもない」

「……」

「……」


 そこで会話は途切れてしまう。ジェイルにはもう特に話すことはない。これ以上話を聞いても意味はない、と彼は考えていた。しかし、サラは何か言いたげにチラチラと彼の方を見ていた。


「ねぇ」


 意を決したようにサラが沈黙を破る。表情は真剣そのものだ。


「なんだ?」

「何で、助けてくれたの?」


 ジェイルの表情が、一瞬強張る。あまり聞かれたくないことであった。


「知ってたんでしょう? 報酬なんて無いって。何で? あなたに得なんて一つもないのに」

「それは……」


 返答に困り、頭をかく。サラは黙って彼を見ている。聞くまで帰らないつもりであろう。適当な答えでお茶を濁したいところだが、生憎演技は上手い方ではない。今ならこの少女にさえ見抜かれてしまうだろう。観念するしかなさそうだ。


「……似ていたからだ。俺の知り合いに」

「似てる? 私が?」


 我ながらよくわからない理由だとジェイルは思う。

 最初はあの幼い笑顔を曇らせたくない、くらいの気持ちだった。サラに止めるように説得して、駄目だったら放っておこうと思っていた。しかし、あの目を、「ごめんなさい」と謝りながらこちらを見つめる少女の目を見た時、懐かしい顔がだぶって見えた。その時、決めたのだ。この危なっかしい少女をどうにか救ってみせると。

 ジェイルは表情を緩めると、ふっと息を吐いた。


「あぁ。そっくりだ。一度決めたら、梃子でも動かないとことかな」

「なによそれ」


 ぷっとサラが吹き出した。



「本当にそれだけなの?」

「それだけだ、それ以上もそれ以下もない」


 ジェイルが頷く。サラは口元に手を当てると、いじわるそうな笑みを浮かべる。


「あっ! もしかして、初恋の人とか?」

「少し違うが……まぁ、大事な人だよ」


 そう言って彼は小首を傾げてみせた。サラは自分の意見が割と良い線をついていたことに驚きを隠せなかった。言ってはみたものの、なんとなく目の前の人物とそういう感情を結び付けることが出来なかったからだ。

 大事な人って誰だろう。しかし、これ以上聞くのは無遠慮すぎる。そんな関係でも無いし。気にはなるけど、聞かない方がいい。

 サラは立ち上がると、ジェイルの正面に立った。


「……まぁいいわ。助けてくれたのは事実だし。ありがとう、本当に感謝してる。あと、騙してごめんなさい」


 頭を下げる。ジェイルは「はは」と笑い声をあげた。


「素直だな」


 サラは顔を上げるとしかめ面をする。


「私は元々素直よ!」


 そう言いながらも、しかめ面はすぐに微笑みに変わる。心の中は晴れ晴れとしていた。


「言いたいこと言って、聞きたいこと聞いたら、すっきりしたわ」

「そりゃよかった」

「うん。私も旅に出る準備しなきゃ」

「なら年長者として一つだけ」


 ジェイルは指を一本たてた。サラは首を傾げる。


「なに?」

「旅をするのに、あのヒラヒラした格好はやめとけ。女の一人旅であんな高そうなもん着ていたら、どうぞ襲って下さいと言っているのと同じだ。安くて動きやすい服でも調達しとくんだな」

「わ、わかってるわよ! そのつもり!」


 サラは口を尖らせる。この男のことは結局ほとんどわからなかった。ただわかったことは、ちょっと怖いけど、どこまでもお人好しで、そしてお節介焼きだということだけだ。



 輝き出した太陽がアリム村を明るく照らす。そんな中、ジェイルは翁達に見送られ玄関先に立っていた。


「何かと世話になった。貴重な食料ももらえて感謝している」


 ジェイルが頭を下げる。


「いやいや、心ばかりの礼じゃよ。ジェイル殿は我々の、いやこの村の恩人だからの。本当なら、もっと心行くまで居てもらいたいのじゃが」

「お客様ってのにはあんまり慣れてないんだ」

「じゃがのぅ」

「もう、お爺さん」


 嫗が翁の腰辺りを肘でつつく。翁はうらめしげに彼女の顔を見たが、嫗は気にもとめずにジェイルに微笑みかける。


「また、いつでもいらして下さいね」


 ジェイルが頷くと、嫗の後ろから小さな影が現れ、ジェイルのマントを掴んだ。


「おじちゃん、ぜったいまた来てね! やくそくだよ!」


 エイミである。ジェイルは少し屈み、彼女の頭を撫でた。


「旅が終わったら、な」

「ぜったいだよ!」

「あぁ、絶対だ」


 ジェイルはエイミに笑いかけると、エイミの頭から手を離す。そして、すっと背を伸ばすと翁達にもう一度軽く頭を下げ、踵を返した。



 あのジェイルの大きな背中がだんだんと小さくなっていく。それが完全に見えなくなるまで見送った後、サラは大きく背伸びをした。


「うー……ん。よし! じゃ、私も出発しようかな!」


 サラは自分の後ろに隠しておいた大きな荷物を背負う。その姿はジェイルの真似でもしたのか、短めのレザーマントを上に羽織っていた。全体的に薄肌色の、大人しい服装になっている。多めだった露出もほとんど無くなっていた。


「お爺ちゃん、お婆ちゃん、今までありがとう! 私行くね!」

「本当に行ってしまうのかい?」


 嫗が悲しそうな顔をする。


「え、おねぇちゃんも行っちゃうの?」


 エイミは目を丸くし、サラに縋りつく。


「やだよ! やだよぅ……エイミ、もっとおねぇちゃんと遊びたいもん!」

「エイミ……」


 サラは片膝をつき、エイミの顔を撫でる。


「私も寂しい。もっとエイミと遊んであげたい。でもね、これは私にとって、とても大事なことなの。だから、ね、許して?」

「わかんないよ……いやだよぅ……」


 エイミは遂に泣きだしてしまった。


「泣かないで、エイミ。これが最後じゃないから……必ず帰ってくるから」

「えぐ……ホント?」


 サラは右手の小指をエイミの前に差し出す。


「ほら、指きり。ね?」


 エイミとサラは小指を絡ませ、約束を交わす。必ずもう一度再会するという約束を。エイミは潤んだ目でサラを見つめる。サラはゆっくりと深く頷いた。


「ぜったい、ぜったいだよ!」

「うん! だから、今は笑顔で見送って? エイミが泣いてたら、私も悲しくなっちゃう」


 サラがエイミの頭を撫でると、エイミは精一杯の、あの大輪の向日葵のような笑顔を見せた。サラは「ありがとう」と呟き、立ちあがる。


「止めても、無駄みたいじゃの」


 翁は寂しそうな笑顔を浮かべる。サラは強く頷いた。


「……前から決めていたから」

「そうか。気をつけて行っといで。だが、忘れんでくれ。血は繋がって無くとも、ワシ等は家族じゃ。疲れたら、いつでも帰ってきていいんじゃよ?」

「わかってる! お爺ちゃんもお婆ちゃんもエイミも、私大好き!」


 サラは、翁達の顔をグルリと見回す。


「それじゃ、行ってきます!」


 サラはとびっきりの笑顔を見せると、背中を向け、駈け出した。


「「行ってらっしゃい!」」


 三人はサラの背中に向かって叫ぶ。サラは振り向くと、大きく大きく手を振った。



「行ってしまったの」


 サラが走り去った先を見つめ、翁がポツリと呟く。


「私は心配です……あの子、また無茶しないかしら」

「うーむ……せめてジェイル殿が一緒だったらのう」


 翁と嫗は難しい顔をして、黙りこんでしまう。


「ダイジョブだよ! おねぇちゃん、ぜったいまたくるって言ったもん!」


 エイミがそう言うと、二人は顔を見合わせ、ふっと表情を緩めた。



 ジェイルは木々がまばらに生えるのどかな道を歩いている。動きはゆったりとしているが、歩幅は大きい。その足がふと止まった。そこは道の分岐である。

 オステリへ行くなら、このまま真っすぐに行けばいい。

 もう一方の少しだけ太いその道をジェイルは見つめる。ウズシへ行くならこっちに行くのか。少し先にある集落で馬車でも拾って、一日もあればアココに着ける。そこまで考えてジェイルは軽く首を振った。

わざわざ首を突っ込むのはもうやめておけ。しんどいだけだ。

 首に下げた紐を手繰り、白い小瓶を胸元から取り出す。


「お前達なら、何て言うかな…?」


 瓶を見つめ、ジェイルは独り言を言う。しばらくジェイルはその状態で固まっていたが、頭をかくと小瓶を元の場所へと仕舞い、まっすぐに歩きだした。


**


 巨大な鉄の門扉が開かれる。そこをがしゃり、がしゃりと金属音を響かせながら、武装した集団が通ってくる。皆一様に馬に乗り、鉄仮面に甲冑といった出で立ちで、表情は見てとれない。門の両脇にいる軽装の槍兵は敬礼をもって、その集団を見送る。最後の一人が門を通ったところで、大きな軋みを上げながら門は閉まっていった。

 ここはアココ。険しい山の裾に広がる、関所街である。街の南側には大きな鉄門とそれを挟むような高い石塀が連なり、その向こうを見ることはできない。盗賊退治から幾日、サラはその鉄門に臨んでいた。装飾を何も施されていないそれは来る者を拒む威圧感を漂わせている。彼女はそれにひるむことなく、つかつかと門の前まで歩いていった。

 門の前にいた兵士二人が、持っていた槍を交差させる。


「ここから先は通門禁止です。お引き取り下さい」


 兵士は無表情に言う。サラは頬を膨らませ、彼等へと詰め寄った。


「何でよ!」

「ここから先は交戦地域のため、軍関係者以外は通門禁止となっております。お引き取り下さい」


 兵士の表情は変わらないし、言っている言葉もあまり変わらない。きっと彼等は同じことを繰り返すだけのゼンマイ式の人形か何かなのだ。サラはそう悟ると、兵士達を睨みつけ、その場を後にした。

どうやってここを超えようか。舗装された道を歩きながら考える。サラは立ち止まり、自分の身長の4、 5倍はありそうな塀を見上げた。よじ登るのは無理そうだ。


「こうなったら、また魔法で……」


 ポツリと呟く。魔法の中には、空間制御魔法と呼ばれるものが存在する。自在に遠くにあるものを呼び寄せたり、自分や他人を遠くの場所に一瞬で移動させたりできる魔法だ。それを使えばどのような壁だろうとあって無いようなもの。しかし、空間制御系の魔法は膨大な魔力とそれを操る高度なセンスが必要で、熟達した魔法使いでも使いこなせるものはほとんど居ない。

 サラは過去に一度だけそんな代物を使用したことがある。自分を距離に関係なく、一瞬の内に移動させる魔法。しかし、その時は完全に成功とはいかなかった。移動だけはできたものの、移動先で自分の胃の中のものを全部ぶちまけた上に、それからしばらくの間、水分以外はまともに口にすることができなくなってしまったのだ。まるで体の裏表がひっくり返ったような衝撃であった。

 やっぱり、魔法は最後の手段ね……

 その時のことを思い出し、サラは自分の身体を抱きしめ震えた。

 そうだ、まずは情報を集めてみよう。もしかしたら、どこかに抜け道が存在するかもしれない。あのジェイルだって、情報収集から始めていたではないか。そうと決まれば。

 サラは地面を蹴り、民間区に向かって駈け出した。



 この街は昔から関所であったわけではない。戦争が始まった時、アココはたまたま故ウズシとの境目辺りにあったため、街ごと関所兼軍の駐在所として造りかえられてしまったのだ。ウズシが滅んだ今では戦線への中継基地としての役割が大きい。戦争で街は大きくなったが、元々の住人は猫の額ほどの土地へと押しこまれ、苦しい生活を強いられている。街を出ていく人も少なくはない。

 どうやら、この町の人間はそういったこともあり、軍に町を半ば占拠されたという感情が根強いらしい。相当腹に据えかねているのか、関所をどうにか超えたいことを伝えてもほとんどの人が友好的に接してくれた。その中で、雑貨屋の店主が地理に詳しいということを教えてもらい、サラは雑貨屋にやってきていた。


「ここから塀沿いにな、南にずーっと下ると森にぶち当たる。そこで塀は途切れてるわけよ。その森を通れば抜けれるかもなぁ?」


 恰幅のいい男が言う。禿げあがった頭と、豊かなお腹を合わせ持つこの男が雑貨屋の店主である。サラは胸の前で両手を合わせると弾けるような笑顔を見せた。


「そうなの? ありがとう!」

「たーだ、そこはコボルト共の住処でな。軍もおいそれと近寄れねェから塀もねェんだな。まぁ嬢ちゃんじゃ……」


 店主が顔を引き締め、一瞬だまる。


「ガウッ!」

「きゃっ!」


 突然吠えた店主にサラは思わず飛びのいた。危うく尻持ちをつきかけたほどだ。それを見た店主が腹を揺らして「ガーハッハッハッ!」と笑う。


「食われてしめぇだな。コボルトは若い女の肉が大好きらしいからなぁ。目的は何なのか知らねーが、よしとくこった」


 若い女の肉……サラは小さく唾を飲み込む。いや、でもそこにしか道が無いなら行くしかない。サラは決心を固めると店主の顔を見て、控えめな胸を精一杯張った。


「……大丈夫! 私、こう見えても強いんだから!」

「ガハハハ! そーかいそーかい! んじゃ、準備はちゃんとしないとな? これなんかどうだい。嬢ちゃんになら、解毒薬つけて三十ラーダでいいぜ?」


 店主が薬草からできる軟膏を手に持ち、サラに勧める。お金なんてほとんど手元に残っていない。アココまでの移動とここでの滞在費とで、もういっぱいいっぱいだ。サラは曖昧な笑顔を見せる。親切にしてもらったけど、早くここを出た方がよさそうだ。

 サラは「ごめんなさい、急いでるの!」と手を合わせ、雑貨屋から出て行こうとした。その時、店の出入口で彼女は誰かと正面衝突し、顔を強かに打ってしまう。


「きゃん!!」


 まるでそそり立つ壁にぶつかったようだ。フラフラと二、三歩後ずさり、しゃがみこむ。


「イタタ……」


 サラは両手で鼻を覆った。ズキズキと鼻頭が痛む。


「いらっしゃい! 何かご入り用かい?」


 店主が入ってきた人物に声をかける。


「いや、ここに用があるわけじゃないんだ。悪いな」

「!?」


 聞き覚えのある声にサラはハッと顔をあげる。

 そんなはずは、ここにいるわけが……しかし、目の前にいた男、それは確かに。


「相変わらず無茶ばかりだな」

「ジェイル!」


 アリム村で別れたはずのジェイルであった。


**


「さぁ、教えて頂戴! どうして、アンタがここにいるのよ!」


 サラは椅子に座るや真っ先に疑問を口にする。現在、二人は場所を変え、サラが停泊している安宿にきていた。そこで机を挟み向かい合っている。


「それより、お前は素直すぎる。『関所を通り抜けたい』なんて聞き回っていることを誰かに通報されたら、最悪投獄もありうる。運良くそうはなっていないようだが」


 噛みつかんばかりのサラの勢いをスルリと受け流し、ジェイルは悠然と答える。その言葉にサラは「うっ」と一瞬言葉に詰まったが、すぐに強気な態度で彼を指差した。


「私の質問に答えなさいよ!」


 やれやれ、話を逸らすのに失敗したか。

 ジェイルは頭をかく。

 こんなことを言って納得してくれるだろうか。


「早く!」


 言うのをためらっていると、イライラした様子でサラが急かしてきた。彼は浅く溜息をつく。


「よくわからん」


 本当のことだ。オステリへの道を行ったはいいが、しばらく行った所で引き返し、結局ここまで来てしまった。明確な理由はない。強いてあげるなら、そうしないと後悔する気がしたからだ。もう、後悔はしたくなかった。



 ジェイルの返答にサラは顔をしかめる。よくわからない、ですって? 理由もないのにわざわざこんな所まで?


「ま、まさか……」


 一つの答えに行き着き、顔が熱くなる。サラはジェイルの顔を見ていられなくなり、俯いてしまう。

 まさか、まさかまさか! まさか彼ったら私のことを? それならわかる。大いに納得できる。二人で一緒に戦う内に友情が愛情へ、なんて冒険譚の王道中の王道。否定はできない。そもそも最初に助けてくれたのだって、実は……大事な人とか照れ隠しで。辻褄は合う。いや、でも、そんな。いい人だとは思うけど、彼と私では恐らく親子ほどの年の差がある。でもでも、年の差夫婦なんて世の中には沢山いるし、種族が違うことに比べたらどうでもない気もする。


「おい」


 そもそも私はジェイルのことなんて何とも思ってないし! ちょっとだけ、渋くてかっこいいとか頼りになるとか思ったことはあるけど! 本当にちょっとだけ! それに、相手は甲斐性無しの冒険者。一緒になったら絶対不幸になる。あぁ、でも、本当に私を大事にしてくれるなら、そんな不幸も、幸せに……


「おーい」


 ジェイルの声にサラの意識が戻ってくる。


「あ、え、え、何!??」

「それはこっちの台詞だ。どうしたんだ、急に呆けて。顔も赤いぞ。風邪でもひいてるのか?」

「なな何でもない、大丈夫!」


 サラは顔の前で両手をブンブンと大きく振る。

 そ、そんなにぼうっとしてたのかしら?

 サラは「あはは」と作り笑いを浮かべた。


「とにかく、しばらくの間はお前さんについて行くことに決めた。それでいいか?」


 ジェイルは表情を変えずに言う。サラの中で極めて感情的な何かと何かが音をたてて繋がっていく。

 こ、これは別の意味で危険では??


「ちょ、ちょっと待って!」


 このままではまともに話ができないと思ったサラは二度ほど深呼吸をする。

気持ちと状況を整理しなければならない。感情的なこともそうだが、実際に現状は厳しい。これからのことは一人でやるには少し無理がある。彼は腕が立つのは確かだし、今更自分を騙そうとしているわけではないだろう。個人的な感情を抜きにすれば、彼の申し出は願ってもないことだ。でも……


「自分の旅の方は大丈夫なの?」


 ジェイルにはジェイルの旅の目的があったはず。それを蔑にして自分のわがままに付き合わせ、あまつさえ危険な目に合わせていいものだろうか。


「あぁ。前にも言ったように、急ぐ旅じゃない」


 ジェイルはあっけらかんと言い放つ。本人がいいと言っているのだから、いいのだろうか。ならば、そこへの遠慮はここまで来てくれた彼に失礼だろう。やはり問題は感情的なものに帰結する。私は、どうだろうか。ジェイルと再会した時、どうだったのか。うれしかったと、思う。それにジェイルは大人だ。良識だってある。まさか無理矢理なんてことは。最悪そうなったとしても、一度は彼に助けられた命なのだ。後悔は……


「そ、それなら」


 サラは決心し、右手を勢いよく差し出す。


「お願いしましゅ!」


 噛んだ。


「あぁ。よろしく頼む、隊長殿」


 ジェイルは気にする様子もなく、その手をしっかりと握る。その手の温かさにサラの顔の熱が更に高くなっていく。今鏡を見たら、きっとリンゴのようなのだろう。


「た、た、ただし!」


 サラは慌てて手を引っ込めるとジェイルから顔を背ける。もう直視なんて出来なかった。


「もう仲間なんだから隊長殿はやめてよね! あ、あと、へ、へ、変な気起こしたら承知しないから!」

「変な気? ……は、はっはっは!」


 ジェイルは声を上げて笑う。笑われると思っていなかったサラは口をへの字に曲げる。


「何がおかしいのよ!?」

「悪い悪い。わかったよ、サラ。俺には妻がいるから、その辺りは安心しとけ。こんな小娘と行きずりの関係になったら怒られちまう」

「え? へ?」


 思わず素っ頓狂な声が出た。ジェイルの言葉を頭の中で理解するのに時間がかかる。

 ツマ…妻? 妻ぁ!? それって!


「結婚してたの!? 嘘ぉ!」

「本当だ」


 自分の決心はなんだったのか。

 サラは魂が抜けたようにがっくりと肩を落とす。あまりの衝撃にさりげなく小娘呼ばわりされたことに関しては気にも止まらなかった。

 『大事な人』ってそういうことね。そっか、奥さんいたんだ……歳も歳だし、言われてみればそっちの方が自然というものだ。さっきまでの自分が猛烈に恥ずかしくなってくる。頭のてっぺんまで水風呂につかりたい気分だ。


「それなら、尚更こんな風にフラフラ旅していいの?」

「まぁな。その辺は家庭の事情と言う奴だ。首を突っ込むのはあまり感心しないな」


 確かにそうだ。長い溜息が出る。誰にだって知られたくないことの一つや二つはある。

 すっかり力の抜けた彼女にジェイルが声をかけた。


「それで、これからどうするつもりなんだ?」

「そうね、南の森を抜けてウズシに入るつもり」

「南……グルイの森か。危険も大きいが監視の目を抜けるにはうってつけだな」


 ジェイルは腕を組んだまま、目を閉じるとしばらくその体勢のまま黙った。ふいに口を開く。


「どうして、そこまでしてガルガ・エーラを目指す? あそこはもう」

「待って!」


 ジェイルの言葉をサラは遮った。


「理由は、もう少し待って……お願い。着いたら必ず話すから」


 サラの言葉にジェイルは肩を竦める。


「わかった。もう聞かない」

「……ありがとう」


 サラは小さく呟いた。


**


 次の日。太陽が辺りを照らし始めたときに二人はグルイの森と呼ばれる場所に入った。森に足を踏み入れしばらく行くと、辺りに何かの動物の骨や、中には人骨と思わしきものが落ちていた。それを見て、サラが眉を潜める。


「これってコボルトがやったの?」

「あぁ、恐らくそうだ。奴等は仕留めた獲物の骨をばらまいて縄張りを主張する習性があるからな」

「し、仕留めたって、に、人間も?」

「あぁ、奴等にとっちゃ餌だな」


 若い娘の肉。道具屋の店主の言葉を思い出し、サラの背筋に冷たいものが走った。

 ジェイルは振り向き、サラに向かって小瓶を投げる。


「ここからはコボルトの巣だ。それを塗っとけ」


 透明の小瓶の中には、少しだけ緑がかった液体が入っていた。サラは蓋に鼻を近づけると、顔をしかめる。


「何よこれ。変な匂い」

「バコタ草を液状になるまですり潰し、清水で薄めたものだ。コボルト共はバコタ草の臭いが嫌いだからな。まぁ、効果の程はわからんが無いよりはマシだろ」


 ジェイルは同じ小瓶を懐から取り出し、自分の身体に塗り始める。サラは蓋を開けた後もう一度臭いをかぎ、しぶしぶ自分の身体に薄く塗った。



 ジェイルを先頭に、二人は道なき道を歩く。歩いても歩いても同じ光景が広がるだけで、サラには自分が今本当に正しい道を歩いているのかがわからない。迷いなく歩いて行くジェイルを不思議に思う。ジェイルのマントを引っ張り、小声で尋ねる。


「ねぇ」

「何だ?」

「本当にこっちであってるの?」

「大丈夫だ」


 ジェイルは振り向きもせずに答えた。サラはその態度に少しだけカチンとし、頬を膨らませる。


「ねぇ!」

「何だ」

「本ッ当にこっちであってるの!?」

「大丈夫だ」


 やや語気を粗めにもう一度同じ質問をしたが、答えは変わらない。

 この男、蹴っ飛ばしてやろうかしら?

 サラの苛立ちはピークに達していた。その気配を感じ取ったのか、ジェイルは足を止め振り向く。


「サラ、これを見てみろ」


 そう言うジェイルの手には、紐で吊るされた小さな棒状の水晶体が握られていた。それは鈍く煌めいて、どこか不自然にゆらゆらと揺れている。


「精導石だ。まさか知らないのか?」


 不思議そうに水晶体を眺めていたサラがハッと顔を上げる。


「ば、馬鹿にしないでよね! せいどうせき? くらい知ってるわよ! えーと、アレでしょ! ……アレよね! マストロ先生の授業でやったような気が……」


 そうは言うものの、どれだけ頭を捻っても思い出せない。こんなことならもう少しちゃんと授業を聞いとけばよかった、とサラは後悔した。ジェイルが小さく溜息をつく。


「こうして吊るすと、どこにいてもこの尖った方が同じ方角を指す代物だ。旅をするなら誰だって知っている」

「へぇ……じゃない、それ、それが言いたかったの!」


 便利な物もあるんだな。

 サラは再びその水晶体に釘付けになる。本当にどこを向いても同じ方向を指すのだろうか? そんなことを思っていると、ジェイルが「持ってみるか?」と精導石をサラに差し出してきた。

どうにも心を読まれているようで癪だ。

 サラは黙ってジェイルの手から精導石を受け取った。右を向いたり左を向いたり、上げたり下げたりしてみる。精導石はその度にゆらゆらと揺れたが、しばらくすると同じ方向を指してぴたりと止まった。


「本当だ! どこでも同じ方を向いてる! なんで?」

「さぁな」


 ジェイルは肩をすくめて見せる。サラは不機嫌そうに精導石をジェイルに返した。


「なによ、アンタだってよくわかってないんじゃない」

「俺は学者じゃないんでね。こういうのは使えりゃいいのさ。とにかく、それで方角はわかるから、ある程度は道に迷わないってことだ」

「……ある程度って、迷うこともあるってこと?」

「うん? まぁ足を動かせばどっかには必ず着く。ほら、行くぞ」


 本当に大丈夫なのか。歩き出したジェイルの背中を不安いっぱいな気持ちでサラは見つめた。



 二人が森に入ってから、かなりの時間が過ぎようとしていた。森へ入る時は暖かだった日差しは、今はギラギラと照りつけてサラ達の体力を奪っていく。サラは呼吸を整えるために、時々足を止めていた。ジェイルはその様子を見て、顎に手を当てる。

 慣れない徒行に流石に疲れが溜まっているな。

 彼は注意深く辺りの様子を窺った。

 ここらが限界か。

 ジェイルは足を止める。彼は精導石だけを頼りにただ漫然と歩いていたわけではない。五感を研ぎ澄まし、生物の気配を探りながら、危険そうな場所は避けながら歩いてきたのだ。しかし、進むにつれ安全だと思われる場所は少なくなってきた。これ以上は安全圏などない。襲われる危険が低いところか、高いところかの違いがあるだけだ。いざという時に疲れていました、では洒落にならない。長時間の休憩をするなら今しかないだろう。


「どうしたの?」


 急に足を止めたジェイルにサラが声をかける。


「休憩しようか。流石に疲れた」


 ジェイルは大げさに溜息をつくと、近場の木の根元に座り込んだ。サラは両手を腰に当て、呆れたような視線を彼に向ける。


「情けないわね。それでも冒険者? ま、休憩には賛成だけど」


 そう言いつつ、サラはジェイルの所まで歩み寄ると、その隣に座りこんだ。そして、「んー……」と大きく伸びをする。


「この森を抜けるまであとどれくらいかかるのかしら?」

「そうだな。この感じなら多分日暮れ前ってとこだ」

「日暮れ? じゃあ、まだ半分くらいなの?」


 サラはぐったりとした表情で溜息をつく。


「お嬢様にはキツいかな?」


 ジェイルが意地悪そうにそう言うと、サラはむっと頬を膨らませた。


「こう見えても森とか山とかには慣れてるの! まだまだ全然平気なんだから!」

「そりゃ失礼」

「し、信じてないわね! その目!」


 ジェイルは小さく笑う。別にサラのムキな態度に笑ったのではない。むしろ、サラの言葉は真実だろう、とジェイルは思っていた。そうでなければここまで歩いてくることすら不可能だったはずだ。幸か不幸かはわからないが。


「全く、そっくりだよ。本当に」


 サラに聞こえない程に小さく、小さく呟く。


「え、何?」

「何でもない」

「嘘! 何か絶対言った! もう、馬鹿にして!」

「おいおい、そんなにむくれるな。それに馬鹿になんかしていない」

「どうせ私は世間知らずのお嬢様ですよーだ!」


 サラは「フン!」とそっぽを向く。


「参ったな」


 ジェイルは困ったように頭をかいた。


**


「待て」


 ジェイルがサラを右手で制する。休憩を終えてからしばらくしてのことだった。彼女は動きを止める。彼は右手の人差し指を顔の前に持っていくと、ゆっくりと近くの木の陰へと移動する。そして、無言で自分の方へ手招きした。サラもジェイルに習い、ゆっくりと移動する。


「どうしたの?」


 声を潜めてサラが聞く。ジェイルは無言で前方を指す。彼女は彼の指した方向をしばらく見つめた後、息をのんだ。


「コボルトだ」


 静かな言葉が耳に響いた。彼の指の先には、動き回る二つの小さな影があった。その陰は時折四つん這いになっては何かを探すように辺りをキョロキョロと見回している。

あれが……

 サラは言葉を発することができない。全身を覆う薄茶色の毛、足の間にある長い尻尾、そして凶暴そうな犬の顔。コボルト。犬や狼の獣人。若い女の肉が好物。こうして初めて直面するまでは大したことはないと、心のどこかで思っていた。コボルトなんて御伽話や冒険譚ではよく聞く『やられ役』なのだから。しかし、いざ目の当たりにしてみると、怖い。怖かった。体が無意識にカタカタと震える。その震えを押さえるために、ジェイルのレザーマントを思い切りギュッと握りしめた。しばらく息を潜め、動向を見守る。すると、コボルト達は二人のいる場所とは逆の方向へと歩いて行った。


「どうやら、気付かれなかったようだな」


 ジェイルが鼻から息を漏らす。サラは今更ながら、自分がとんでもない所にいることを思い知った。


「……怖いか?」


 ジェイルが聞く。


「少しだけ……」


 サラは頷く。虚勢を張る気力は湧かなかった。


「帰るなら今しかないが、どうする?」

「行く。そのために来たんだもの」


 だが、後に引く気もなかった。ジェイルは周囲を見渡した後、指を前方へ向ける。


「それなら、行くぞ。ここから先は今みたいな奴等と戦うことになるかもしれない。心の準備だけはしとけ」


 サラはもう一度頷く。それを見たジェイルも軽く頷くと、また歩き始めた。

 戦う。やらなきゃ、やられてしまう。

 サラは自分の荷物の中から真っ白な表紙の本を取りだすと、胸に強く抱きしめた。



 始めは小さな違和感だった。しかし、その違和感は次第に大きくなり、それは確信に変わった。


「ちっ!」


 ジェイルが激しく舌打ちをする。コボルト達と遭遇してからかなりの時間は経っていた。無事やり過ごせるかと思っていたが、そう上手くはいかないようだ。


「ど、どうしたの?」


 サラが不安そうな顔をする。


「どうやら気付かれたらしい。準備しろ、来るぞ!」

「え? え!」


 ジェイルは背中の剣を抜くと、両足を軽く開き、腰を落とした。

 木の葉を踏みしめ、地を駆ける音が遠くから聞こえる。意識を集中させ、耳を澄ます。

 一つ、二つ……三つ。

 三匹か。一番近いのは

 グングンと足音は近付いてくる。もう距離はかなり近い。だが、二人がいるところは木々が生い茂り、視界が悪いため、なかなかコボルトの姿を捉えることはできない。

 これは、誘いこまれたか。

 後ろ!



 ザッと地を蹴る音が小さく聞こえてきた。


「伏せろ!」


 ジェイルが叫ぶ。サラは訳も分からず、頭を抱えてしゃがみ込む。しゃがんだ拍子に本を手元から落としてしまった。


「ヒャオ!!」


 同時に木の棒を頭の上に構えたコボルトがサラの後ろから飛び出してくる。ジェイルは振り向くと、剣を真っすぐに突いた。

 何か鈍い音がし、サラの上に生温かいものが降りかかった。


「え? ……何?」


 手で拭うと、真っ赤な液体がベットリと付いていた。

 血、血だ!

 サラは叫びそうになるのを必死になって押さえる。正面に、コボルトが棍棒を手に飛びかかってくるのが見えたからだ。血を自分のマントでふき取ると、本を拾いあげ震える手でページを捲る。この白い表紙の本こそ、サラが命の次に大事にしている魔導書である。

 や、やらなきゃ、私だって、やらなきゃ……

 震える手では上手く魔導書を開くことができない。もたついている内に、距離は見る間に縮む。

 駄目だ、やられる!

 殴られる、と覚悟したサラは強く目を瞑る。


「ギャン!」


 しかし、予測していた痛みは到来せず、代わりに甲高い獣の悲鳴が辺りに響く。恐る恐る目を開くと、コボルトが血を噴き仰向けに倒れていくのが見えた。すぐ傍にいるジェイルを見上げると、木の棒を持ったコボルトを突き刺した剣を片手に持ったまま、足を真っすぐに伸ばしている。蹴り飛ばしたのだ。昏倒したコボルトを見て、やっとのことでサラは理解する。ジェイルはぬらりと剣をコボルトの身体から抜くと同時に、ぼんやりとする彼女の手を取り、力の限り引っ張った。


「キャッ!」


 サラは大きく体勢を崩し、前のめりに倒れる。すると、サラがさっきまで座り込んでいた場所に錆びた剣が突き刺さる。ジェイルは「はっ!」と短く叫び、グレートソードを真横に一閃させた。


「ゲゥ!?」


 ジェイルの振るった剣は、コボルトの片手剣を持った手を叩っ切り、そのまま胴体を深々と切り裂く。間違いなく致命傷だ。コボルトはその場で倒れ、二、三度身体を震わせると、全く動かなくなった。



 これで三匹。ジェイルはグレートソードを担ぐと長く息を吐いた。


「あ……」


 倒れていたサラが小さく喘ぐ。ジェイルは空いている方の手を彼女に差し出した。


「すまん、とっさで加減がきかなかった」

「ちが、あれ……」


 サラがジェイルの後ろを指差す。同時にかすかな物音をとらえ、彼は振り向く。そこには背を向け、今にも逃げようとしているコボルトの姿があった。


「がっ!」


 ジェイルが気付いたのがわかったのか、コボルトは一目散に逃げ出す。少しふらついているが、それでもその速度は驚異的である。

 詰めが甘かった。小さく舌打ちする。スリングを使うか? いや、無理だ。走っている相手には当てられない。だが、ここで逃がしたら、やっかいなことになる。

 やれるか……やるしかない。

 ジェイルは体を傾け、つま先に全霊の力をこめる。地面が抉れ、土くれが飛散する。放たれた矢の如く彼は駆け出した。


「……なれ! 『ウインドサイズ』!」


 叫ぶような声。ほぼ同時に、白い塊がごぉとジェイルの横をすり抜ける。そして、それはそのまま背を向けたコボルトの身体を突き抜けた。


「ギ?」


 コボルトの腰から上だけが地面にドサリと落ちる。ほどなくして、残った下半身が膝をつき、自分の上半身の上に倒れこんだ。ジェイルは速度を緩め、ゆっくりと振り向いた。



「はぁ……はぁ……」 


 サラは息を切らし、無残な姿になったコボルトを見る。コボルトの生気の無い瞳が彼女を見つめ返した。体が震えだし、力が抜けていく。立っていられなくなり、ガクリと膝を落とす。腹の底から何かが込み上げて来て、思わず手もついた。その時、ジェイルが切り裂いたコボルトの死体が目に入る。


「かはっ、がはっ! おげぇ!」


 サラは耐えきれず、激しく嘔吐した。

 殺した。殺してしまった。

 自分の内側からこみあげてくる不快感を止めることができない。無我夢中だった。気付いた時には目の前に開いていた魔導書の魔法を唱えていた。

 コボルトに逃げられたら仲間を呼ばれる。

 昨日、ジェイルがそう教えてくれた。だから、なんとかしなきゃと思った。やる覚悟だって持っていたはずだった。しかし、覚悟と、実際にやるのでは、まるで別物だ。自分の身体が酷く汚いもののような気がして、自分自身に拒絶反応を示す。


「げぇぇっ! ごぇ、げぇぇ……」


 出さなきゃ、自分の身体の中のもの全部。そうすれば奇麗になる。

 サラの頭の中はそんな思いで支配されていた。ふと彼女の背中が優しく摩られる。いつの間にかジェイルが彼女の隣で膝をついていた。


「助かった」


 サラの胸中がフッと軽くなる。こんな自分を認めてくれる。それだけで、彼女の心は救われた。吐き気も少し収まる。しばらくたって落ち着くと、サラは力無く笑った。


「ごめんなさい……私、自分で行くって言ったのに……てんで駄目ね」

「そんなことはない」


 ジェイルは優しく微笑む。

 この表情、どこかで。

 どこだろう?


「……どうした?」


 あぁ。そうか。エイミだ。エイミと話すジェイルは確かにこんな優しい表情だった。この表情を見て、私は彼のことを信用しようと思ったのだ。でも、それはなぜ?

 なぜ、といえば、そう。彼はなぜ私にここまで優しくしてくれるのだろう。


『……似ていたからだ。俺の知り合いに』

『少し違うが……まぁ、大事な人だよ』


 彼の言う『大事な人』のことを知りたい。彼女はそう思った。


**


 二人は寄り添うように森を進む。サラの足取りは重く、頼りない。ジェイルはそんな彼女を支えながら歩く。あれからはコボルトに襲われるようなことはなかった。

 コボルトは獣人の中でも、動物よりだ。弱肉強食の掟の中で生きる彼等は自分より強い生き物に襲いかかるようなことは滅多なことではない。ただ、コボルトは相手の能力を解析することに長けている。もし、あの時に一匹でも逃がしていたら、今度はジェイル達を倒せる戦力を率いて戻ってきたことだろう。そうなれば、ここまで順調に来ることはできなかったはずだ。

 この子のおかげだ。

 守ろうとした者に守られるとは、つくづく上手くいかないものだ。

 ジェイルはサラを横目で見る。彼女は彼の腕によりかかり、青い顔をしてぜいぜいと息を切らしている。体力的にも精神的にも限界は近いはずなのに、気丈にも歩みを止めようとはしない。

どうして、そこまでウズシにこだわるのだろうか。こんな危険を冒してまで行くような価値がこの子にはあるというのか。

 その疑問をジェイルは即座に否定する。

 彼女が今はあると思っていても、着いた先は恐らく。そして、それも。本当は止めるべきなのだ。身の安全を考えるのなら何を置いても。

 いや、と再び心の中で頭を振る。そんなことで生きながらえても、そんなことでは生きてはいけない。どこかでケリはつけなければならない。やれやれ全く、本当に頑固だ。

 ジェイルは頭をかき、溜息をついた。それに気付いたサラが顔を上げる。


「もう、大丈夫、もう……」

「おい、今のは別に」

「自分だけで歩、あっ!」


 腕から手を離し、サラが一歩踏み出した時、体勢を崩し倒れそうになった。それをジェイルがとっさに片手で支える。


「はぁ、はぁ……」

「……しょうがない」


 ジェイルはもう一度溜息をつくと、少しだけ屈みこみ、サラの背中と両足に手を回した。そのまま、掬いあげるようにサラを持ち上げつつ、立ち上がる。


「え……きゃ!」


 所謂、お姫様抱っこである。


「な、何するのよ!」


 サラは顔を紅潮させながら、ジェイルの胸をポカポカと叩く。しかし、その腕には少しの力も入っていない。


「もう休め。ここからは一人で歩く」

「私は、まだ大丈夫……」

「嘘をつくな。もう立つことすらままならないだろう?」

「うぅ」

「安心しろ、コボルトの気配はない」

「だからって、あの、その」

「何だ?」

「……恥ずかしいの!」


 サラが控えめに叫ぶ。ジェイルは一瞬ポカンとしたがすぐに「はっはっは」と笑いだした。


「見られる心配なんかするな。なんせ、人間が居ない」

「もう! そういうことじゃなくて……」


 サラは頬を膨らませ、小声でごにょごにょと何かを呟く。そして、しばらくはもじもじと体を動かしていたが、やがて観念したのか大人しくなった。


「サラ?」


 ジェイルは彼女に声をかけたが返事はない。その代わりにすやすやという寝息が聞こえてきた。


「よく頑張ったな」


 こうして見ると、まだ本当に子供だ。


「俺は……」


 ジェイルはサラを抱く手に少しだけ力を込めると、再び歩きだした。



「おい、起きろ」


 ジェイルが自分の腕の中で眠るサラに声をかける。しかし、サラは「うーん」やら「あとちょっと」やら言うだけで一向に起きようとしない。彼は少しだけ考えると、彼女を持っていた両手を同時に離した。すると、当然だが、彼女の身体は自由落下し柔らかい草の上にお尻から落ちる。


「いたっ! え! 何!? 何??」


 サラは驚きとまどいながら、辺りをキョロキョロと見回す。


「着いたぞ」

「はぇ?」

「森は越えた。ここはもうウズシ国だ」

幕間 クード君とシャンゼルマン先生のまどろみ授業その二

 さて、今日はこの大陸に住む種族について勉強しよう。それではクード君。この大陸に住む二大種族を挙げて下さい。…そうだね。人間とドワーフだ。この二種族間は共生関係といってもいい。彼等に物資を提供する代わりに、金属製品や魔導具を彼等から受け取る。ギブアンドテイクってこと。我々人間も鉄なんかの精錬技術は研究しているものの、炉から産まれたような彼等とは比べるべくもないからね。

 ではクード君。これらに次ぐ種族はわかるかな? わからない? 実はね、三番目は獣人なんだ。知能は獣人の種類でマチマチだけど、中には文明を築いているような高度な奴もいるらしいよ。……今日は珍しく寝ないね。え? もっと聞きたい? こ、こんな日が来るなんて! ではご要望に答えて。コホン。獣人に次ぐのがフォレストウォーカ。あちこちの森なんかに独自のコミュニティを築いている。姿は人間と似ているけど、自然に重きを置く彼等は自然を破壊する人間とはあまり関わろうとはしないね。レアなのがスケイラー。現在ではほとんど見なくなった竜の血を引いているらしいけど、うーん、私はまだ御目にかかったことはないね。その力は正に「人智を超えた」ものだそうだよ。それで忘れてはいけないのが……アレ? クード君? どこに行った? しまった……逃げられた……

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