2-3(黒いユニコーン3)
裏通りを奥へ奥へと入って行くにつれて、野良犬よりも野良猫が多くなり、窓に干した洗濯物も増えていった。その洗濯物も次第に少なくなり、雑踏をはるか後ろに置き去りにしたほとんど人気のない城壁近くの細い路地で、ナーナは足を止めた。
もっとも、彼女が足を止めたのはそれがすでに3回目のことだった。前の2回は、突然足を止めると急に自信なげに辺りを見回し始めたのである。
迷ったのだ。
引き返し、あちこち覗き込み、こっちと自信満々に進んで行った先は行き止まりだった。
ナーナは泣きそうになった。
魔術師らしく毅然と振る舞うのもそろそろ限界、と思い始めた頃、偶然にも目的の建物の前にいることに気がついた。あやうく歓声を上げるところだった。
「わたしってスゴイ」
といつもの癖で独り言を言ってからアキラが後ろにいることを思い出し、ちらりと彼を見る。
当然、言葉の判らないアキラは何も気づかず、辺りをきょろきょろと見回していた。
『独り言を言うの、直さなくっちゃ』
気を取り直し、何の変哲もない古びた扉をノックする。
ほどなく、扉の内側から返事があった。今はすでに使われていない古い言語で。
「今日は何日?」
「52万と1604年、それと101日」
同じ言語でナーナが応える。
魔術師協会の合言葉だ。意味はナーナも知らなかった。ただ、明日になれば102日である。
がちゃりと鍵が外された後、扉が開き、50代ぐらいの禿頭の男が顔を覗かせた。
「よぉ、坊ン」
顔を覗かせた男が不愛想に言う。
そいつは?と、アキラに目をやって無言で訊ねる。
「この人のことで相談したくて来たの」
ふんと鼻を鳴らし、男は扉を大きく開けた。
「オジサン、わたしは坊ンじゃないっていつも言ってるよね」
そう文句を言いながら、ナーナはアキラに「入って」と声をかけて扉を潜った。
アキラも続く。
二人を招き入れた後、男は扉を閉じて鍵をかけた。
「そいつのことで相談って?」
「アキラ」
ナーナは、興味深げに室内を見回しているアキラに声をかけると、笠と頭巾を取るように身振りで示した。いいの?と問うようにアキラがナーナを見返す。うんと、ナーナは頷いた。アキラが笠を取る。そのアキラに、頭巾も、とナーナは身振りで示し、ためらいながらアキラが頭巾を取った。
窓はあったが城壁に近いからだろう、部屋は薄暗かった。しかし、その薄暗い光の中でも、アキラの髪が黒いことははっきりと見て取れた。
禿頭の男の顔が、恐怖に引き攣った。僅かに後ずさりする。ごくりと男の喉が動くのを見て、『さすがだなぁ』とナーナは感心していた。
小道に倒れたアキラを家まで運んでもらおうと、イーダと共に来てもらったイーダの夫は、アキラを、いや、彼の黒髪を初めて見た時「ひゃああああぁぁ」と悲鳴を上げて腰を抜かし、恐怖のあまりそのまま動けなくなってしまったのである。
「坊ン、そいつは……」
男がふぅと息を吐く。
「なんなんだ」
「わたしの家の近くで拾ったの。多分、”残され人”じゃないかなと思うんだけど」
「拾ったぁ?」
「うん、うちの近くの小道に倒れていたの。知らない言葉を話しているから確かじゃないけど、自分のベッドで眠っていて、そこから落ちたら小道に倒れていたって」
「ほんとか?」
「うーん、多分」
「多分かよ」
吐き出すように言った男の声は、すでにいつもの口調に戻っていた。
「あー、”残され人”って、あれか、”漂着者”とも言われる、歴史に残された者……だったか。たまーに現れる、言葉も通じない、身なりも俺たちとまったく異なるっていう。
本当だろうな」
「ごめん、ホントはわたしもよく判らないの」
多分アキラは”残され人”とは別の何かだろう、と思いながらナーナは答えた。
ナーナの知る限り、”残され人”はほとんどが武人だ。もちろん例外もあるだろう。そもそも、”残され人”について判っていること自体が少ない。男が言ったように、時折現れる、言葉も通じず、身なりも異様な異邦人のことを”残され人”というが、”残され人”という呼び名の由来すら判っていないのだ。
アキラは確かに、”残され人”の条件に一致している。
しかし、彼女が書物で読んだ”残され人”とは、アキラは何か、具体的には言えなかったが、どこか、イメージが合わなかった。
男が奥の小さなカウンターに顎をしゃくる。
「まぁいい。他でもない、坊ンの相談だ。聞いてやるから来な」
「うん、ありがとう、オジサン」
アキラを振り返り、「ちょっと待ってて」と声をかけて、ナーナは奥のカウンターに足を向けた。
残されたアキラは、笠と頭巾を手にしたまま、彼は彼で男の驚愕の表情をどう解釈すればいいか悩んでいた。どうやら自分の髪がこちらでは何か特別な意味を持っていることは理解できた。今朝、出発するときに髪を隠しておくようナーナがしつこいぐらいに注意した理由も。
しかし、そもそも自分の髪の何が問題なのかはまったく判らず、推測するにも材料が少な過ぎた。
『仕方ない、保留としておこう』
改めて室内を見回したアキラは、壁際の小さなテーブルの上に置かれた1台の機械に目を止めた。
『あれはもしかして』
ナーナを振り返ると、彼女は禿頭の男とカウンターを挟んで椅子に座り、こちらに背中を向けて何かを話し合っていた。
邪魔をしない方がいいかと、アキラはひとりで機械に近づいた。
『やっぱり』
それは振り子式の機械時計だった。文字盤の数字は読めなかったが、12個の文字が表記され、長針と短針があり、動き方から長針を分針、短針を時針と考えてよさそうだった。目盛は、ざっと見だが60に分かれているようだった。
アキラの知る時計とほとんど同じだ。
アキラは自分の手首で脈を計ってみた。彼の脈拍は1分間で55前後。長針が1目盛分進む間に、アキラは脈を56数えた。
『と、いうことは』
『1分の長さはおそらくあちらもこちらも同じ』
『文字盤に12個の文字』
『1日が12時間--とは、ちょっと考えにくい』
アキラは体感的にそう判断した。こちらに来てからまだ2日弱しか経っていなかったが、1日の長さはあまり変わらないように感じていた。
『多分、1日は24時間で、1年は365日』
『本当に、地球と同じなんだな……』
「アキラ」
不意にナーナがアキラを呼んだ。
振り返ると、椅子に座ったままナーナが彼を手招きしていた。アキラは彼女と禿頭の男が向かい合って座ったカウンターに歩み寄った。
カウンターに置いた1枚の書類をナーナがアキラに示す。もちろん読めない。ただ、その書類の一番下に、サインをするためと思われる下線を引かれた空白があった。
そこを、ナーナが指さしていた。
「<名前>☆☆☆☆☆☆☆、アキラ」
どこか申し訳なさそうにナーナが言う。
名前を書けと言っているのだとすぐに判った。
禿頭の男の表情が気になった。彼は、ひとを小馬鹿にしたような、嘲笑と言ってもいいような笑みを浮かべてアキラを見つめていた。
『ま、いいか』
アキラはナーナが差し出したペンを取った。
日本語で名前を書く。
ナーナがほっと小さな息を吐いた。ありがとうと、彼女に言われたようだった。
「これで」
と、魔術師協会ハク分室の事務長である禿頭の男はナーナに言った。
「そいつは、坊ンの奴隷だ」
「うん」
ナーナがためらいがちに小さく頷く。
「そのまま奴隷にしちまった方がいいンじゃねぇか?」
「確かにそれもいいけどね」
ちょっと心が動いた。言葉にするのも憚られるような、いろいろな妄想が(まだまだ可愛らしい妄想だったが)脳裏に浮かんだ。いやいやと、それを振り払う。にやにや笑う男のツラが憎々しい。
「早く次の書類を出して」
声にトゲを混じらせて、ナーナは言った。
「はいはいっと、これだ」
男は笑いを消して別の書類を引っ張り出すと、一瞥し、必要事項を記入してナーナの前に置いた。
「ここに、坊ンの名前を書きな」
「ここね」
「そう。これでアイツは、今度は解放奴隷って訳だ」
「うん、それで?」
「次はこいつ。この書類の、えーと、ちょっと待てよ。ここだ、ここに坊ンのサイン」
言われた通りナーナがサインする。
「おし、これでアイツは坊ンの弟子ってことで市民権も身分も問題なし。立派なショナ市民の出来上がりってことだ」
「ありがとう、オジサン」
「おっと、まだ、これと、これ」
「これは何?」
「坊ンの登録名の変更届だ。ここに住所を書いて、ここに新しい名前だ。で、ここには、あー、拇印を押してくれ」
「うん」
住所を書く。カナルと。
そしてナーナと名前を書いて、拇印を押した。
「これで坊ンは、今日からカナルのナーナって通り名になるな。で、最後のこれは納税請求書」
「納税?」
「そう、アイツのな。税金、払ってやるんだろ、アイツの分の」
「あー、そうか。そんなのがあったか。いいよ、わたしの口座から引き落としてくれて」
「一括払いでいいか?」
「うん」
「えーと、遅延金が必要かどうか、ちょっと微妙だな。あー、地方税もいるな。坊ン、全部勝手にやっちまっていいか」
「うん、いいよ」
「委任状ももらっとくかな。いや、いらねえか。うーん」
男が腕を組んで天井を睨む。
「うん、問題ないだろう。以上だ。役所の方にはこっちから連絡しといてやるよ」
「ありがとう、オジサン」
「おう、この貸しはいつか返してくれよ」
「うん、判った」
「ああ、そうだ。魔術師見習いのローブ、いるか?ちょうど余ってるのがあるぜ」
「ここで買うと高いつくからいいよ、やめとく」
「ケチくさいねぇ。まぁ、その方がカシコイけどな」
男が笑って立ち上がる。扉に近づき、鍵を外してくれる。
外に出る前にアキラに頭巾をかぶせ、ナーナは彼の笠の紐を結んでやった。
「世話女房かよ」
男が嘲笑する。だが、悪意はないのだ。ただしムカつくので、ナーナもたまに仕返しをしていた。アキラの黒髪を予告なしに見せたのもそのひとつ、つまりは嫌がらせである。
フンと鼻で笑い、「ありがとう」と言ってナーナは外へ出た。
「おう、また来いよ。坊ン」と言う声と、扉を閉じ、鍵をかける音が二人の背後で優しく響いた。