2-2(黒いユニコーン2)
車輪が石畳を踏む雷鳴のような音が次第に近づいて来て、アキラはナーナに促されて駅舎を出た。
「でかいなぁ」
というのが、二人の前に止まった駅馬車を見たアキラの感想だった。4頭立ての馬車は、普通のバスほどの大きさがあったのである。
車輪は前が小さく、後ろが大きく作られていた。入口は前後にあり、屋根の上には幌がかけられ、荷物置き場になっているように思われた。御者は二人。さらに、荷物を上げ下ろしする担当なのか、御者と揃いの服を着た男が一人、屋根の上からアキラとナーナを見下ろしていた。
そしてまた、馬車を引く4頭の馬がとにかく大きかった。体高はサラブレッドの2倍はあるだろう。脚もがっちりと太く、サラブレッドと言うより、道産子と言った方が相応しい逞しさである。
車内には二人掛けの椅子が、進行方向を向いて通路を挟んで2脚ずつ据え付けられていた。
ナーナに続いて前の入口から車内に乗り込んだアキラは、前から2番目の席にナーナと並んで座った。ナーナがアキラの抱えるリュックを指さす。リュックを開くと、中にクッションがふたつ入っていた。軽いはずだと思いながらクッションを引っ張り出し、ひとつをナーナに渡してもうひとつを自分の尻の下に敷いた。
ナーナが窓から手を振る。
窓の外で駅舎のおばちゃんが手を振っていた。
車内の座席は半分以上が埋まっていたが、誰もナーナからわざとらしく視線を逸らすことはなかった。むしろ、敬して遠ざけられているといった感じで、それがアキラをホッとさせた。
御者が声を上げ、馬車が走り出す。
ガラガラと鉄輪が石畳を踏む音が轟く。耳をつんざかんばかりの騒音である。どんどん加速していく。早い。がつんと音がして、馬車が跳ねた。体が浮き上がり、「痛てっ」とアキラは声を上げた。
乗り込む前に、サスペンションだろう、馬車の下にバネが取り付けてられているのは確認したが、とても振動を吸収しきれていなかった。
ナーナの小さな頭がアキラに凭れ掛かって来た。
信じられないことに、彼女は寝息をたてて熟睡していた。
二人一緒に体が跳ねて、落ちる。しかし、ナーナはまったく目を覚ます様子もなく、アキラに頭を預けたまま眠り続けていた。
『乗り心地は最低だけど』
と、アキラは胸のうちで呟いた。
『これはこれで悪くは、イテッ、ないなぁ……』
絶えることのないさざなみの音が、周囲に満ちていた。さざなみに混じって、どこか遠くでドラムの音が響いていた。
裸足の足元には、白い砂浜。
目の前には湖。いや、海だろうか。
振り返ると青い空。
しかし実際に近づいてみると、すぐに壁に突き当たった。空は、壁に描いた絵でしかなかった。
振り返り、海に近づく。さざなみの音が響いているにも関わらず、水はない。それも、床に描いたただの絵だった。
誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。
自分を。
しかし。
しかし、しかし。
それは、自分の名ではなかった。
自分の名とは思えなかった。
中空に向けて、彼女は声を上げた。
私の名は。
私の名は--。
私の名は--!
「ナーナ」
暢気な声に呼ばれて彼女は目を覚ました。
「<着いたよ>」
「う……ん」
ナーナって誰だっけ、と思っているうちに夢は遠ざかっていった。馬車の中と気づき、ハクに出かけているんだったと記憶が蘇って来た。窓の外に見覚えのあるハクの駅舎が見えていた。
アキラはもう車外に出ようとしていた。
慌てて立ち上がり、クッションを拾い上げて馬車を降りる。
ハクの城壁がすぐ近くに聳えていた。
アキラがクッションを受け取り、リュックに仕舞いながらナーナに話しかける。これからどうするのかと訊かれたのだろう。夢の残りかすを振り払うように伸びをし、ふぅと息を吐いた時には、夢は遥かかなたへ溶けるように消え去っていた。
夜はすっかり明けて、空は手を伸ばせば掬い取れそうなほどの晴天だった。
今日も暑くなりそうだった。
フードをかぶる。ただし、暑さを避けるためではない。演出上の目的からだ。
こっちとアキラを手招きして、ナーナは一番近い城門へ向かった。
彼らがいるのはハクの街を囲う10mほどの高さの城壁の外に設けられた駅馬車用駅舎前の広場だった。何台もの馬車がたてるがらがらという音と馬のいななき、それに負けまいと張り上げられたたくさんの声で、すさまじい騒音だった。
街の主要な施設はほとんど、城壁の中にあった。これから訪れる予定の魔術師協会の事務局も同様だ。
落とし格子の引き上げられた狭い城門から他の市民の流れに乗って、二人は市街に入った。
城門の内側に立った一人の兵士がナーナを呼び止める。フードの下からいつもより低い声で魔術師協会に行くのだと伝えると、そのまま通してくれた。
アキラを指さし、「連れだ」と伝える。
兵士は頷き、アキラも通過させてくれた。
まず街の中心の大通りへ出た。
しばらく歩いていると、「ナーナ」とアキラに呼び止められた。
振り返ると、大通りの反対側から垂直に伸びた1本の道の先をアキラが指さしていた。
「<あれは何?>」
アキラの指さす先を見ると、道の先に3階建てほどの高さの白い建物があった。その一角には1本の塔が、城壁を越える高さまで聳え立っていた。人が多い。遠目に、物乞いと思われる人の姿もちらほらと見えた。
「ああ、あれは」と答えようとして、どう伝えるべきか少し迷う。ハクの街の守護神である知恵の神エアの神殿だが、そのまま言っても通じるはずがなかった。
「えーとね」
と呟きながら考えて、昨日の朝、朝食を食べ終えたアキラが両手を合わせていたのを思い出した。あれは何らかの宗教的な仕草なのではないかとナーナは推測していた。昨日アキラにその仕草は何かと問わなかったのも、宗教的な事柄についてはお互いに注意した方がいいと考えたからだ。
そこで、宗教施設だと伝えようと、神殿を指さしてから、ナーナは両手を合わせて見せた。
アキラが首をひねる。
「<鋼の錬金術師……?ってことは、軍事施設?>」
伝わってない気がした。
それどころかなぜか、ちょっとムカついた。
「何を言っているか判らないけど、多分違うよ。ひどく。えーと、この街の守護神、エア神の神殿」と言って、昨日アキラがやった様に、両手を合わせてたどたどしく「<ごちそうさま>」と口にしてみる。
「<ごちそう……さま?>」
アキラが考え込む。しばらくして、何か閃くものがあったのだろう。
「<あっいや、もしかして、宗教的な施設って言ってるのか?>」
なぜだろう、とナーナは思った。
言葉は判らないのに通じた気がした。
「そう、エア神の神殿」
「エア……神」
今度はアキラがたどたどしく繰り返す。
「そうそう」と言ったものの、本当に正しく伝わったかどうか自信はなかった。しかし、とりあえずアキラが納得したことは確かだった。
「<判ったよ、ありがとう、ナーナ>」
礼を言われたらしいことも声の調子から判った。
「どういたしまして」と応えて歩き出そうとする。と、そこへ、「わっ!」と、アキラが小さく声を上げた。
ナーナが振り返ると、アキラの服を、どこから現れたのか一人の物乞いが掴んでいた。何かをアキラに話しかけている。酸っぱさの混じったすえた異臭がナーナの鼻を打った。
物乞いから見えないように腰のポーチからコインを何枚か取り出し、アキラの服から物乞いの震える手を引き離すと、ナーナはコインをその手に握らせた。
「これで何か食べて」
物乞いがぶつぶつと口中で何かを呟いて頭を下げる。
「さ、行こう」と言って数歩歩いたところで、アキラがいきなり足を止め、勢いよく振り返った。
ぽかんと口を開けている。
「どうしたの?」と訊いて、アキラの視線を追う。
怪しいものは何もない。ただ、物乞いの姿がどこにもないことに彼女は微かな違和感を抱いた。立ち去ったにしては早すぎる気がした。
アキラがナーナを見る。何か言いかけ、口を閉じる。そして、行こうとナーナに身振りで示した。
ナーナには聞こえなかったんだ、と歩きながらアキラは考えていた。
いや、聞こえていても理解できなかっただろう。
物乞いは、アキラにこう言ったのである。
「わたしは、何者だ?」「わたしたちは、何者だ?」「そして、お前は、何者だ?」と、日本語で。