9-1(マスタイニスカの世界1)
動き始めた馬車の中で術を解かれたナーナは、薄く目を開き、心配そうに自分を見つめるアキラに気づいた。まず彼女は、「アキラッ」と、声を震わせて彼にしがみついた。しかし、しばらくすると抱擁を解いて、上目遣いにアキラを見た。
『……怒ってるわねえ』
馬車の幌に背中を預けたまま、フランは思った。
『怒ってるな』
一番後ろの席に座って二人を見守っていたヴラドも思った。
「ナーナ、怒ってるの?」
素直にそう声に出したのは、フランの隣に座ったシェルミである。
当事者のアキラだけが判っていなかった。
「どうした?ナーナ」
アキラは訝しむようにナーナに訊いた。
「お姫ちゃん。馬車を一旦止めようか?」
アキラを無視してフランがナーナに訊ねる。
「そうですね。シェルミ様の教育上、およろしくはないでしょうし」
「なにが?」
「おーい、ちょっと馬車を止めてくれ」
大きな声でヴラドが御者に声をかける。馬車が止まると、「ちょっと来て」と、硬い声でナーナがアキラに言った。「なに?」と戸惑うアキラを引っ張って、ナーナは馬車を降りた。
「なるべく遠くでね」とフランが声をかけ、歩き去っていくナーナの、「あの人が誰なのか、わたしにも判るようにきっちり説明……」という声が、次第に遠ざかって行った。
二人は10分ほどして戻って来た。
まずナーナが、僅かに頬を赤らめ、伏目がちに馬車に乗り込んで来た。まだ少し眉が吊り上っていた。アキラは、まったくいつもの表情で「お待たせしました」と言いながら馬車に乗り込んで来た。
『あー。無理やり黙らせやがったな』と、ヴラドは察した。
『ホントにお口を塞いじゃったようねぇ』と、フランも察した。
「ナーナ、お顔が赤いよ」
素直にそう声に出したのは、シェルミである。
「まずは、フランさんの話を聞かせていただけますか。多分その方が早いと思いますので」と、アキラは言った。「お願いします」と、小さな声でナーナも言った。
「いいぞ、やってくれ」
大きな声でヴラドが御者に声をかけ、馬車は再び動き始めた。
「この世界はね、お母さまの、マスタイニスカの世界なの」
馬車に揺られながらフランは話し始めた。いつの間にか、シェルミはフランの膝に頭を預けてぐっすりと眠っていた
「どういう意味、フランさん?」
フランと向かい合って座ったナーナが訊ねる。
「この世界はね、ループしてるの。時間の中をね」
「ループ?」
「ええ。お姫ちゃんは、始まりの魔術師って知ってる?」
「うん。わたしは始まりの魔術師は存在してたって考えてるから」
「その始まりの魔術師がお母さまなの。およそ52万年前に、お母さまが”あらゆるもの”と契約されたのが始まり」
「52万年前……」
ナーナがフランの言葉を噛み締めるように呟く。
「えれえ前だな」
呆れたように、ヴラドは言った。
「フランさん、それってもしかして、魔術師協会の合言葉の--」
「そうよ。魔術師協会の合言葉は、お母さまの年齢なの。デアに着く頃には、52万と1605年、それと140日目ぐらいになるかしら」
「信じられない……。52万年前なんて……」
「本当よ、お姫ちゃん」
ナーナは顔を伏せた。フランの言ったことを自分の中で整理する。少し考えて、彼女はフランを見返した。
「マスタイニスカ様が始まりの魔術師だっていうのは判ったよ、フランさん。そう考えれば、マスタイニスカ様が人並みはずれた力をお持ちになってることや、ラクドの封印を作ったことも納得できるから。
でも、マスタイニスカ様は、52万年もどうやって生きてこられたの?マスタイニスカ様って、人じゃないの?」
「人よ。普通の。うーん。少し普通ではないかな。でも、寿命があるという意味では、わたしと……と言うと、これも違うわね。お姫ちゃんと同じ、普通の人よ」
「ここには普通の人ってあまりいねぇよな」
ヴラドが笑う。
「で、その普通の人のマスタイニスカが、なんで52万年も生きて来られたんだ?」
「お母さまが”あらゆるもの”と契約したときにね、”あらゆるもの”がお母さまの子宮に潜り込んだの」
「子宮に……」
それまで黙ってフランの話を聞いていたアキラが、ナーナの横でポツリと呟いた。
「まるで聖魔……」
「アキラ。いらないことは言わなくていいから」
きっとアキラを睨んでナーナが言う。
「あ、はい」
いつものやり取りに、ふふふとフランは笑った。
「それでね、”あらゆるもの”が胎内からお母さまの体を維持するようになったの。もちろん、”あらゆるもの”は実体がないから潜り込んだと言っても、物理的な意味ではないようだけれど。それからは少しずつしか歳を取らなくなったそうよ」
「どんな契約だったの?最初の契約って」
「それはあたしも知らないわ。お母さまが”あらゆるもの”とどんな契約を結ばれたのかは、あたしも聞いていない。と言うより、お母さまご自身が憶えていらっしゃらないの。契約された時には、あまりにも幼な過ぎたので」
「幼かった……」
「ええ。最初のうちは、”あらゆるもの”に守られてほとんど眠ってらしたみたい。だって人が現れるのは、そのずっと後だから」
「人が現れる前なのか、52万年前っていうのは」
「そうよ。いつ頃人が現れたか、あたしも知らないわ。あたしの記憶があるのは1万年ぐらい前からで、それ以前に転生したことはないから」
「人が現れる以前って、そんなのおかしいよ、フランさん。神々がマスタイニスカ様を、人よりも先にお創りになったということなの?」
「神々も、まだいなかったと聞いているわ。それに、神々が人を創ったんじゃないってお母さまはおっしゃってたわ。逆に、人の方が神々を創ったって」
「ええっ」
ナーナが声を上げた。驚きのあまり声が裏返っていた。
フランはどこか悪戯っぽい笑みを浮かべて、何も言わずに考え込んでいるアキラに目を向けた。
「見習君は、どういうことか判る?」
「ええ」とアキラは顔を上げて頷いた。「遡ったんですね、時間を。ひとりで」
「あら。あまり簡単に当てられると、ちょっとムカつくわね」
「いやいや。たまたまですから」
逃げ腰になりながら、アキラはフランに向けて両手を振った。
「そんなことを言いながら、お母さまの正体も見当がついていそうね。さすがは知恵の神が作った回答者ってところかしら」
「本当?アキラ」
「うん。多分」
「お姫ちゃんは判る?」
「ううん。判らないよ」
「それじゃあ、少し考えてみて。まだデアまでは遠いから。もう急ぐ必要はないし、のんびり行きましょう」




