8-5(マスタイニスカの娘たち5)
「あのまま行かせても宜しいのですか、ユン様」
ユン魔術師の横に立った供の者がユン魔術師に話しかける。彼らは中庭を臨む3階の窓から事態を見守っていたのである。
ユン魔術師は首を振った。
「仕方ありません。ギャレ様がそう判断されたのですから。とにかく目的は果たせました。良しとしましょう。門が問題なく閉じているか、確認していただけますか?」
はいと頷き、供の者が出て行く。
中庭に改めて視線を落とした彼女の背中に、誰かが話しかけた。
「ユン」
フランの声だった。ユン魔術師は背後を振り返ることなく、囁くように応えた。
「申し訳ありません、お姉さま。お姉さまの言いつけに逆らってしまいました」
「ひとつ教えて。カーナは、あなたの指示でニムシェに行っていたの?」
「いいえ。あれはカーナがひとりでやったことです。ですが、わたくしがカーナの遺志を継がなければ、あまりにもあの子が不憫です」
「そう」
背後でフランが囁く。
「ユン。近いうちにお母さまに会いに家に戻るわ。彼と一緒にね」
窓枠に置かれたユン魔術師の皺だらけの手がビクリと震える。
「では、わたくしのしたことは無駄だったと」
「お母さまもあたしも、今まで散々彼を殺そうと試して来たもの。ユン、門がどこへ通じているか、知ってる?」
「いいえ。お姉さまはご存じなのですね」
「ええ。門は、黒い剣に通じているの。新しい神を送り込んでいる先は、黒い剣の封印の中なの。あの剣からは何モノも逃れられないから、お母さまがラクドの封印の裏口として作ったのが門なのよ。
あなたは、黒い剣の使い手を黒い剣の中に送っただけ。
それでは彼は死なないわ」
「……そうでしたか」
自分が葬ろうとしたモノの正体の一端を知って、ユン魔術師はため息を落すように呟いた。
「あたしたちは馬車でデアに向かうわ。デアで出迎えてくれると嬉しいのだけれど」
「承知いたしました」
視線を中庭に落としたままユン魔術師が応える。
「ありがとう。それと、ごめんなさい。ユン」
声が次第に遠ざかって行く。そして、ユン魔術師の背後からフランの気配が消えた。
カズナの郊外の木陰に、馬車が1台止まっていた。
その木の後ろから、フランが姿を現した。馬車の影に潜んでいた妖魔がフランの影に滑るように戻り、馬車の窓から外を窺っていたシェルミが「フラン!」と声を上げた。
「シェルミ様。お待たせいたしました」と、フランは笑みを浮かべた。
30分ほどして、ナーナを抱いたヴラドも戻って来た。ナーナはまだ、彼の腕の中で気を失ったままだった。
「よう、フラン。アキラはまだか」
「ええ。そのようね」
シェルミを馬車の外で遊ばせていたフランが応える。
「嬢ちゃんが目を覚まさねえが、大丈夫なのか?」
「ちょっと術をかけてあるから。見習君が戻って来たら術を解くわ」
「うん?」
ふと、何かが焦げるような臭いがした。
アキラがアレクシに戻って来た時に嗅いだ臭いである。
それと、遠雷のような微かな轟き。
馬車の10mほど先で、落雷が落ちたかのような光の筋が地面から立ち上がった。
そしてその光の筋の間から、アキラが足を踏み出して姿を現した。
「おう。大丈夫だったか」
「ええ。ありがとうございました。ヴラドさん、フランさん」
アキラはヴラドとフランに顔を向けて言った。アキラを見たシェルミが素早くフランの後ろに隠れる。
「なーに、いいってことよ。これで、ラクドを滅ぼした闇の王は無事、門の向こうへ送られちまったってことだな」
「ええ。そう思ってくれればいいんですが」
「大丈夫。後は、ユンがいいようにしてくれるわ。少し話をして来たから」
「ギャレの野郎は元々こっちにあまり興味を持ってねぇだろうしな。ヤツは少しでも早く西の戦乱に行きてえはずだ。だから軍の方も問題ねぇだろうよ」
そう言ったヴラドが、ふと、アキラに向けて鼻をひくひくと動かした。
「なんかあの野郎の気配がしねぇようだが、気のせいか?」
「いいえ。闇の司祭様には、ちょっと事象の地平線の彼方へ旅立ってもらいました」
「なんだ、それは」
「闇の司祭様の体は、黒い剣の中の事象の地平線近辺を周回運動していたんですよ。だから体の方の時間がほとんど止まって、実体のない姿でこちらに留まっていたようなんです。で、ちょっとだけ重力を強めて、あちら側に」
「酷いことをするわねぇ。見習君も」
言葉とは裏腹に、どこか楽しそうにフランが言う。ナーナを抱いたヴラドも、どうでもいいという表情である。
「よく判らねえが、あいつの自慢話を聞かなくていいんなら問題なしだ」
「ナーナは大丈夫ですか?」
「ああ。気を失っているだけだ。怪我はしてねえ」
「術を解くわ。おおかみくん、お姫ちゃんを馬車に乗せてくれる?」
「おう。それじゃあ、御者を呼んで来るか。アキラ、髪を隠しとけよ」
「判りました。御者が来たら、出発ですね」
「ええ。お母さまのところへね」
やがて雇った御者を連れてヴラドが戻り、馬車はゆるゆると動き始めた。マスタイニスカのいるショナの都、デアへと向かって。




