1-5(名のない少女5)
「お嬢!」と呼びかける声に、アキラの周囲に魔術の痕跡がないか調べていたナーナは、詠唱を中断して顔を上げた。
一人の女性が、坂道の下から手を振っていた。
「イーダ姉さん!」
笑顔を浮かべて手を振り返す。「ちょっと待ってて」とアキラに声をかけ、ナーナは朝日を蹴散らすような軽快さで彼女に駆け寄って行った。
「おはよう、イーダ姉さん」
「おはよう、お嬢」
イーダと呼ばれた女性が低い声で応える。
イーダは小柄で、向かい合って立ったナーナよりも頭半分は背が低かった。しかし、背は低かったものの、少ししゃがれた声にも、ナーナをまっすぐ見上げた琥珀色の瞳にも、芯の強さと自信が溢れていた。体つきはがっちりとたくましく、よく焼けた肌とともに、彼女が肉体を使う仕事を良くこなしていることを物語っていた。
年齢はナーナよりも4つ上である。
イーダの家は森を抜けた先にあり、数百mほど離れてはいたものの彼女はナーナの一番近くに住む隣人だった。
倒れたアキラを自宅に運ぶのに、ナーナは彼女を頼ったのである。
「昨日はありがとう、手伝ってもらって」
「気にしないで、そんなこと。うちのダンナ、いつもヒマにしているし力だけはあるんだから、あんなひ弱な男を運ぶなんて手伝ったうちにも入らないよ。それより」
イーダは声を潜め、アキラに目をやった。アキラは小道に座り込んだままぼんやりと空を見上げていた。
「大丈夫だった、あんな得体の知れない男と二人っきりで。変なことされなかった?」
「変なことって?」
なんのことか判らないといった口調で、取り澄ましてナーナが応える。
イーダの眉がぴくりと上がる。イーダは黙ってナーナの顔の前まで右手を伸ばすと、中指を弾いてナーナの額を強く打った。
つまり、デコピンである。
「いたあーい!」
大げさな声を上げて、ナーナが両手で額を抑える。ぷっと頬を膨らませる。
「……暴力女」
「暴力女で結構よ。こっちは心配で心配でロクに夜も眠れなかったって言うのにさ。変なことと言ったら変なことよ。
ま、冗談を言えるぐらいなら大丈夫か」
ナーナはあっと口を開いた。イーダが本気で心配してくれていたのだと察したのである。
「……ごめんなさい」
しおらしく体を縮こまらせ、素直に頭を下げる。
腰に手を当てて、イーダは小さくため息を落とした。
「本当に心配したよ。興味があるからってだけで見ず知らずの男を連れて帰るなんてさ。結局ンところ、あんたも変わったものに目がない魔術師の端くれってことなのかね。
で、何者なの、あれ」
「それがね、ぜんぜん言葉が通じなくて。ただ、本人もどうしてここにいるか判ってないみたい。気がついたらここにいたって」
「本当に?お嬢、騙されてない?あんな黒い髪をしているなんて……」
イーダが再び声を潜める。しかし、声を潜めた割には彼女の声に恐れの響きはほとんどなかった。
「本当に、名を口にするのも憚られる御方たちの一人じゃないの?」
「多分、違うと思う。昨日も言ったけど、ちゃんと息をしているし、今日も日の光を恐れる様子もないしね。それに、聞いた限りでは話に矛盾もなくて、うん、信じていいと思うよ」
意外なほど確信に満ちた言い方だった。それが、逆にイーダを不安にさせた。
「本当に?」
「うん。それで、誰か彼がここに来るのを見かけた人っていた?」
「それが、ダンナにもいろいろ訊いて回ってもらったんだけど、誰も黒い髪の男なんか見ていないって。まぁ、もしあんな余所者がうろうろしていたら、今頃大騒ぎになっているだろうしね」
「そうだね。わたしもそう思う」
「それでお嬢、ずっとあの男を家に泊めておくつもりなの?」
「うーん。最初は正体を知りたかっただけなんだけど、言葉が通じないし、どうしようかと思ってるところ」
「お役所に届け出た方が良くない?流民かもしれないし、もしそうだとすると後で面倒なことになるよ、届け出ておかないと」
「あー、そうだね。それは考えてなかったな。どうしよう」
「お役所に任せておいた方がいいって、お嬢」
「うん、でもね……」
ナーナが言葉を濁す。そしてイーダをまっすぐ見つめて、何かを振り切るように彼女は口を開いた。
「わたし、名前を付けてもらったの、彼に」
「えっ」とイーダが声を上げる。
「名前……を?」
「うん。ナーナって」
驚きのあまりぽかんと開いた口を、イーダは閉じた。彼女がお嬢と呼ぶこの少女が、いつもよりも陽気なことに気づいたのだ。表情も口調もいつもとさほど変わらないが、浮かれている、と言ってもいいほどに。
「彼はこの世界のひとじゃないんだと思うの、多分。それで、わたしが名前を付けられなかった理由なんか知らずに、名前をつけたんだと思う。便宜上のね。でもわたし、それが嬉しかったの」
「……そう」
「うん。とても。とても嬉しかったの。どうしていいか判らなくなるぐらい。だから、思わず印を結んで彼を吹き飛ばしちゃった」
プッと吹き出し、イーダが低く笑う。
「あんたらしいよ。で、それからどうなったの」
「すぐに謝ったけど、多分、伝わってないかな。あっちも謝ってたみたいだし。何か、彼の知らない禁忌に触れたとでも考えたんじゃないかと思うわ」
「へぇ。そりゃあ大したもんだ」
「わたしね、イーダ姉さん。わたしが名前を付けられなかった理由を知りたいの。もちろん、わたしが生まれた時に、どの神もわたしを祝福も呪いもしなかったから、というのは知ってる。でも、それがどういうことか知りたいの。わたしが、神々に祝福も呪いもされなかった、そもそもの理由が何なのかってことを」
「うん」
イーダは短く頷いた。
彼女の思いは痛いほどに判った。
神々に祝福も呪いもされなかったがために、彼女は名前を付けられなかっただけではない。それが故に、彼女は親に捨てられ、ここに来たのだ。彼女の師匠である不愛想で小心者の魔術師の元に。彼女の師匠は彼女を虐待こそしなかったものの、愛情を注ぐということもしなかった。ただの研究対象のひとつ、そう考えていたのではないかとイーダは疑っていた。
彼女に対するイーダの集落の住人の態度は、彼女の師匠よりもさらに酷いものだった。三ヶ月ほど前にその師匠が死んで、彼女が正式に魔術師として跡を継いでからはずいぶんマシになったが。
イーダだけだったのだ。この集落で、彼女を人として扱ったのは。
「彼がここに現れたのは、偶然なんかじゃないと思う。彼なら……」
「その理由を教えてくれるんじゃないかと思ってるんだね、お嬢」
「うん」
「そうか」とイーダは言った。
「判ったよ。お嬢の気持ちは」
「ありがとう、イーダ姉さん。お役所に届ける件は考えてみるね。ハクの魔術師協会に相談できる人がいるから」
「ああ、そうしな。それがいいよ、お嬢」
「うん、明日にでも行ってみる」
「じゃあ、今晩はわたしが何か作って持っていってあげるよ。いろいろバタバタしているだろうから」
「そんなの悪いよ」
「なーに、8人分作るのも、10人分作るのも同じさ」
と言ってイーダは笑った。
「いつまでも彼を待たせてても悪いし、もう帰るわね」
「いろいろありがとう、イーダ姉さん」
軽く手を振ってイーダが坂道を下って行く。
ナーナとイーダが話している間、アキラは所在なげに胡坐をかいて座っていた。空を見上げる。青い。しかし、ここが異世界なら空が紫色でも不思議ではないのではないか、とアキラはふと思った。
『空が青いのは、地球の大気で太陽の光がレイリー散乱するから』
自動機械のように答えが意識の表面に転がり出る。
『つまり、ここでも物理法則は同じで、ここが地球と同じような環境にあるからってことだよな』
小さな石を拾い、真上に投げる。石は当然のようにまっすぐ落ちて来て、アキラの右手に収まった。
『万有引力の法則も変わらない』
『でも』
『ナーナはただ印を結んだだけで、オレを吹き飛ばした』
『あれは』
『あれは……』
『……』
『それに』
『……』
『あの声』
目を覚ます前に聞いた声。ワレヲカイホウセヨという声。平板で無機質で、感情をまったく感じさせない、どこか機械的な声。
それは、有り得ないことだが、剣の、黒い剣の声のように思われた。
背筋がゾクリッと震える。
あの黒い剣は、何か良くないものだと思われた。邪悪ということではない。邪悪さは、むしろまったく感じなかった。そうではなく、何か、とても、とても良くないもの。
『それと……』
夢の中で聞いた、助けてという声。
かなり時間が経ったにも関わらず、いや、時間が経てば経つほど、逆に声の記憶はより鮮明になっていくようにアキラには思われた。
イーダを見送ったナーナが坂道を登って来る。軽やかな足取りで戻って来る少女を見つめながら、アキラは考えていた。
『あれは。あの、助けてという声は』
この子の声じゃなかった、と。