歴史の層の下の下1
赤い魔眼の魔術師がバスティア王国の首都、月神の都を密かに訪れた夜、水平線上には明るい満月がかかっていた。
当時のパスティア王国の第一王位継承者は、ラミーナといった。
ラミーナが24歳になってから数ヶ月が過ぎていた頃である。
戦神に三度祝福された彼女は、身長は180cmに近く、筋肉質で均整の取れた肢体には王国随一と謳われた膂力を備えていた。
長い髪は燃えるように赤く、碧い瞳は意思の強さを湛えて明るく輝いていた。
正義感が強い上に気性が激しく、ある時酔って酒場で女を殴った騎士は、後日それを聞きつけた彼女に、再起不能になるまで打ち伏せられた。騎士は王国内でも三本の指に入る実力者で、ラミーナに倍するほどの巨躯を誇り、さらには大剣を手にしていたが、彼女は素手のまま苦もなく騎士を打ち倒したのである。
以来、彼女は騎士たちからも畏敬の目で見られるようになった。
さらにつけ加えれば、彼女は他国から迎えた気が弱く控えめな夫を心から愛しており、すでに3人の子の母でもあった。
ラミーナは昇降床から降りて、室内に足を踏み入れた。
塔の街と称される月神の都の中でもひときわ高い、月見の塔と呼ばれる塔の最上階の部屋である。
四角いその部屋は1辺が20mほどの広さがあり、簡素で品の良い調度品が設えられていた。
いつもはきちんと整頓されているはずの室内には、何冊もの魔術書が、机の上だけではなく床の上にまで無造作に投げ出されていた。
彼女の探し人がいる証拠だった。
ラミーナは満足の笑みを浮かべると部屋の中程まで足を進め、三方に開いたテラスを見た。
そのひとつ、月神の都と港を一望するテラスに、彼女の探し人は立っていた。
「ナーナ」
ラミーナは探し人に声をかけた。
探し人が振り返る。
意外なことに、驚いた様子はなかった。
探し人の絹のような細く長い光色の髪が、月の光に煌めいた。ラミーナに似てはいたもののより深みを湛えた大きな緑色の瞳が、ラミーナに向けられる。
探し人の顔に笑みが浮かんだ。
「ラミーナ姉さま」
探し人、ラミーナの腹違いの妹であり、バスティア王国第11王位継承者であるナーナは、鈴のような声で姉に応えた。
ナーナはテラスから室内に戻ると、優雅にラミーナの前に膝をついた。
ラミーナが手を差し出し、ナーナが口づけをする。
「立って、ナーナ」
「はい」と頷いてナーナが立ち上がる。
「お忙しい姉さまがわざわざこんなところまでいらっしゃるなんて、わたしに何かご用でしょうか?」
可愛らしい笑みを浮かべて、ナーナが問う。
ラミーナは苦笑した。
「ナーナ。可愛い子猫ちゃん。今、何時だと思っているの?」
えっと声を上げ、ナーナは姉が、今夜のパーティーに備えてすでに赤い髪を高く結いあげ、化粧も終えていることにようやく気づいた。わたわたと辺りを見回す。室内には機械式の時計が一台、壁際のテーブルの上に置いてあった。ただ、ちょっと遠い。
「失礼いたします」
腰を屈めてラミーナに断り、ナーナは時計へと駆け寄った。
「ええっ」とナーナが声を上げる。「もうこんな時間なの?!」
「かぼちゃたちは、もう集まり始めてるわよ」
愛おしげにナーナを見つめて、ラミーナは言った。
はぁ、と彼女がため息をつくのが聞こえた。
ナーナは2日前に14歳になったばかりだった。つまり、2日前に成人として扱われる年齢になったのである。
強国であるバスティア王国の第11王位継承者となれば、他国の関心は高かった。しかも、どこから伝わったか、ナーナは彼女の母によく似ているという噂が諸国に広がっていた。パスティア王国一の美女と称えられた、今は亡き彼女の母に。
「姉さま、お腹が痛くなった……というのは通じませんよねぇ」
どこか恨めしそうにナーナが言う。
「無理ね」と、ラミーナは妹をからかうように言った。
「ここにずっといたいっていうあなたの気持ちは判るけど、それは駄目ね。お父様の誕生日は口実で、ほとんどのかぼちゃの目当てはあなただもの」
今日は、彼女たち二人の父である神官王の誕生日なのである。言い方を変えれば、国を挙げての生誕祭であった。テラスの外からも、市民たちが王の誕生日を祝う声が、遠くあちらこちらから聞こえていた。その公式行事として王宮で開かれる神官王の誕生パーティーに噂の美姫が初めて出席すると発表されると、国の内外からいつもより多くの参加申し込みが相次いだ。
ラミーナがかぼちゃと言ったのは、その参加者たちのことである。
「うー」
「ユニコーンが現れるのを待ちたいんでしょ?ひとりで」
ナーナの視線が落ち、頬が赤らむ。図星だ。
あまりにも判り易い妹の反応に、ラミーナは笑った。
「お父様と誕生日が近かったのが残念ね。私が14歳になった時は、ユニコーンが現れるまでずっと一人でいられたんだけどね。
大丈夫よ、子猫ちゃん。焦らなくてもユニコーンはちゃんと現れてくれるから」
ナーナががっくりと頭を落してラミーナに歩み寄る。そしてラミーナの顔を見上げ、妹姫は姉に訊ねた。
「姉さま。姉さまがユニコーンにお会いになられたのは、姉さまが14歳になられた何日後だったのですか?」
「15日後よ。普通は5日後ぐらいには現れてくれるのに、あんまり遅いからユニコーンまで私のことを女として扱ってくれていないのかと心配したわ」
くすくすとナーナが笑う。
「何を笑ってるの。そこは、そんなことはありませんよ、姉さまって言ってくれるところでしょう?子猫ちゃん」
「ごめんなさい、姉さま」
笑みを浮かべてナーナが言う。
「でも、姉さまはいつも、お勇ましかったから」
「まあね。私のユニコーンは真っ赤な体をして、私のユニコーンらしくとても凛々しかったわ」
「……私のユニコーンは、どんな姿をしているでしょうか」
「金色に輝いているか、海のように深い緑色か、どちらかね。私も見てみたいわ」
「ダメですよ。私のユニコーンは、私だけのものですから」
少しおどけた様に、ナーナが言う。
ラミーナは安心した。大丈夫。いつもの妹だ、と思った。
ラミーナ自身もそうであったが、14歳となり、ユニコーンの訪れを待つ乙女は神経質になりがちである。自分の将来の伴侶の名をユニコーンから告げられるのだ。それは無理からぬことだった。しかも、本来なら静かに一人で過ごす時期に、父王の誕生日とはいえ公式の場に初めて出なければならない妹を心配して、ラミーナはここまで彼女を探しに来たのである。
「良かった。大丈夫そうね」
ラミーナは優しくナーナに言った。その言葉で、忙しいはずの姉がなぜここまで来てくれたのか、ナーナは悟った。
「お心遣いありがとうございます。姉さま」
僅かに首を傾げ、引き込まれそうなほど魅力的な笑みを浮かべて妹が言う。
ラミーナは、自分が妹に魅了されているのを、深い陶酔感と共に感じていた。いや、この美しく聡明で、けっしてでしゃばる事のない妹に魅了されているのは、ラミーナだけではない。多くの臣が、妹の虜になっていることをラミーナ知っていた。守ってやりたいと強烈に思わせる何かを、妹は持っていた。それは、ラミーナとは異なり、愛と美の女神に二度までも祝福された彼女の、ラミーナが備えている力とは別の力なのだろう。賢王として知られた父王は、それを「危険だな、あれは」と認識していたし、ラミーナ自身もそう思っていた。しかし、私が妹を守ってみせる、ともラミーナは思っていた。戦神に三度祝福され、誰よりも優れた膂力を持っているが故に、彼女の判断は、第一王位継承者としての判断としては、少し狂い始めていた。
「私が勝手に来たのよ、気にしないで」
妹を見つめて、ラミーナは言った。
「今日もたくさんのかぼちゃたちが来てるけど、気にすることはないわ。とりあえず顔だけ出して、しばらくしたら退席すればいいわ」
「お父様に叱られます」
ラミーナは妹に近づき、彼女をそっと抱きしめた。
ラミーナの膂力であれば、意識することなく妹の背骨を砕くことも可能であるが故に、真綿でも抱きしめるように優しくだ。
ナーナも、姉に大人しく体を預け、両手を姉の背中に回した。
「あなたの王位継承順位は、幸いなことに低いわ。政治的な事情なんて気にしなくても大丈夫。あなたの耳にユニコーンが名を囁いたその人に出会うまで、私があなたを守ってあげる。だから、あなたは何も心配しないで、ナーナ」
絹よりもなお艶やかで肌触りのよい妹の髪に指を滑らせながら、ラミーナは言った。
「……はい」
ナーナは素直に頷いた。ただし、姉の気持ちに応えるために。
姉が、社交辞令としてではなく、本気で言ってくれているのは判っていた。しかし、それが難しい立場に自分がいることも、ナーナは充分理解していた。
王家に生まれたのだ。
結婚は全て国のためにするものと彼女も覚悟を決めていた。
父王は、必要以上に彼女に厳しく接することはなかったが、彼女の義務と責務をしっかりと教えてくれた。
今、こうして抱き締めてくれている姉にしても、果たしてユニコーンが囁いた人と結ばれているのかと言えば、それは姉以外の誰にも判らないことだった。姉が義理の兄を心から愛していることをナーナは知っていた。もし姉に義理の兄がユニコーンの告げた人なのかと問えば、そうだと答えるだろう。それは、姉以外の誰に問うても同じだ。女たちは誰も、違うとは言わない。
だから、本当のことは誰にも判らない。
わたしもそうなるだろうとナーナは思っていた。そして、例えそれがユニコーンの告げた人ではなくても暮らしていくのだ。姉をはじめとして、他の誰もがそうしているように、幸せに。
ラミーナがナーナを離す。
「それじゃあ、私は行くわ。パーティーに遅れないでね、子猫ちゃん」
「はい、姉さま」
ナーナは、敬愛する姉を見上げて頷いた。
ラミーナは昇降床に乗り込み、ナーナに向かって手を振った。
月神の都を望むテラスを背後に、優雅に立ったナーナが微笑んで彼女に応じる。
それが、ラミーナが最後に見た最愛の妹の姿になった。
その夜、バスティア王国第11王位継承者である姫は、父王の誕生パーティーに遂に姿を見せなかった。人々は最初は笑いながら、次第に懸命に目を血走らせて王宮内を探したが、姫を見つけることはできなかった。
王宮内の誰にも見られることなく、忽然と姫は消えたのである。
その数ヶ月後、ラミーナの愛する夫が病に倒れ、数日後には帰らぬ人となった。
ラミーナが狂気に憑りつかれたのは、おそらくその時だろう。
彼女の狂気はやがて国中に拡がって最後には彼女自身を滅ぼし、バスティア王国滅亡の遠因となった。
しかしそのいずれも、深い深い歴史の層の下に埋もれた、よくある悲喜劇のひとつである。




