7-7(黒い剣7)
元々ひと気の少なかった城内は、今やすっかり静まり返っていた。
数少ない侍女もいなくなり、城内にはアキラとナーナ、それにキスリス神官王と姫巫女であるシェルミを残すだけとなっていた。
一昨日からは、アキラが風呂を沸かし、ナーナがシェルミと一緒に入浴し、キスリス神官王の食事もアキラが用意しなければならない始末だった。
「大丈夫ですよ、慣れていますから」と、甲斐甲斐しく働きながらアキラは言った。
アキラがシェルミに頭を粉々に砕かれたのは、その間のことである。
初めてナーナがアキラをシェルミに紹介した時、シェルミはアキラの顔を見たとたん彼の前からいきなり消えた。逃げたのだと気づくまでしばらく時間が必要なほど、見事な消え方だった。それからずっと、アキラがいるとシェルミは必ずナーナの陰に隠れるようになった。
「心を読めないからではないか?心を読めない人間は、我が一族以外では、私もアキラが初めてだからな。戸惑うところは多いだろう」
神官王はそう推測したが、本当の理由は不明だった。
そんなある日のこと、アキラが彼とナーナに割り当てられた部屋の浴室を一人で掃除をしているところへ、不意にシェルミが空中から現れた。ナーナを探しに来たのか、とアキラは思ったが、シェルミであればナーナが王宮のどこにいるかすぐに判るはずだったから、彼女が現れたのは何か別の理由だったのだろう。
それがどんな理由だったかは結局判らないままとなった。
心が読めないからかシェルミはアキラがいることに気づいていない様子だった。
ふと、悪戯心がアキラの心に湧き上がった。
彼はちょうど浴槽の中を磨いているところだった。
アキラは掃除の手を止め、浴槽の中で体を起こし、リビングルームの方に行こうとしていたシェルミの背中に、いきなり「わっ!」と声をかけた。シェルミが驚いて振り返り、そして、激しい衝撃がアキラを襲った。
意識を取り戻した時、アキラは浴槽の中に倒れていた。
「イテテテ」
体を起こし、アキラは何が起こったか検討してみた。
浴槽の遺留物から、シェルミがどうやったかは判らなかったが、自分の頭部をスイカのように粉々に砕いたんじゃないかと推測した。
「教訓。エスパーを驚かせるのは自殺行為である」
アキラは浴槽の血を洗い流しながら呟いた。なにがあったか知られるとナーナを悲しませることになる(つまり酷く怒られることになる)ので、彼はいつも以上に念入りに浴室を掃除した。
「失われた神の像ってどこにあるんです?」
アキラが神官王にそう訊いたのも、その間のことである。
4人で朝食を取っている時のことだ。正確にはアキラは給仕をしていたので朝食を取っているのはキスリス神官王とシェルミ、そしてシェルミの世話をしているナーナの3人だけだった。
「そんなこと聞いてどうするの、アキラ」
ナーナが咎めるように訊く。
どうせロクでもないことだろうと思っている口調だった。
「いや、失われた神の像ってけっこう変わっているって、失くしちゃったガイド本に書いてあった気がするんで、見に行こうかなと思って。
ナーナも行くか?」
「わたしはいい。スゥイプシャーでもうお腹いっぱい。アキラはホント、変なモノが好きだね」
「変なモノって言われるのは心外だな。文化の違いに興味があるだけだよ」
「失われた神の神殿は王宮の外にある。黒い城壁の中ではあるがな」
朝食を終わらせた神官王が口を拭きながら答える。
「しかし、お勧めはしないな」
「なぜです?」
「今はもう、王宮の外に生きている人間はいないからだ」
「あ、だったら逆に安全なんじゃないですか?」
「生きている、人間がいないだけだ」
「ん?」
「領民がいなくなってすぐに、抜け目のない盗賊共が領民の留守を狙って侵入して来たのでな、黒い城壁の外は仕方がないが、中が騒がしくなるのは煩わしいので私の紙兵を飛ばしている。生きている人間はすべて始末するように命じてな」
「紙兵ってなんです?」
そう訊いたアキラの前に、20cm四方程度の一枚の白い紙が天井から落ちて来た。いや、降りて来たと言うべきか。それはまるで意思があるかのように滑空して、アキラの目の前でぴたりと静止したのである。
「それが紙兵だ。永遠の泉同様、失われた神が我等に授けられた力だ。黒い城壁内でしか使えないが、自在に操ることができる。試してみるか?」
「これがどれぐらいいるんですか?」
紙を指さしながらアキラは訊いてみた。王宮の外に出る気はとっくに失せていた。
「数えたことはないな」
「判りました。結構です」
「あれ。意外とあっさり引き下がるね、アキラ」
「よく似てるのを知ってるから。そちらは人型だけど」
「へー」
「補足しておくが、王宮の外は紙兵が飛んでいるだけではない。死んだ人間の霊魂は黒い城壁を越えられないということもあって、今、王宮の外に出るのはお勧めしない。意味が判るか?アキラ」
「それって、生きている人間はいないけど、生きていない人間はたくさんいるってことですか?もしかして」
「理解が早いな。紙兵が侵入者を殺す度に死霊が増えているから、王宮の外は今、ちょっと面白いことになっているのは確かだ。それでも良ければ、失われた神の神殿の場所を教えるが?」
「いいえ。失礼しました」
気にするなとでも言うように、軽く手を上げて神官王は食堂を立ち去った。
「あー、ずっとここにいられればいいのに!」
ナーナがそう叫んだのも、その間のことである。
彼女は王宮内の図書室を漁って、今まで読んだことのない魔術書を山のように自室に持ち込んでいた。ラクドの歴代の神官王が魔術書の収集に熱心だったことやここが旧大陸だということもあって、大災厄当時の状況を記した書物や、数は少なかったものの、大災厄以前の魔術書も蔵書には含まれていた。シェルミの世話をしていない時には、ここのところずっとナーナは魔術書と格闘し続けていたのである。
「ナーナ、声が大きいよ」
部屋に併設された小ぶりの台所から現れたアキラが注意する。
あっとナーナは寝室に目を向けた。寝室のベッドでは、シェルミが規則正しい寝息をたてていた。
「何か新しい発見はあった?」
湯呑をナーナの前に置きながらアキラは訊いた。
ナーナが頷く。
「魔術師協会のことなんだけどね、どうも旧デアの頃から存在してたんじゃないかと思うの」
「名前が同じってだけじゃなくて、今の魔術師協会と同じ組織が?」
「うん。はっきり書いてる訳じゃないから確かじゃないけど、いろんな資料を突き合わせるとそうじゃないかって思えるの。あちこちに出てくる記述を時系列に並べてみても矛盾がないし。
特にね、旧デアの魔術師協会の合言葉が今の協会の合言葉と同じみたいで。そんな偶然があるとは思えなくてさ」
「マスタイニスカ様の方はどう?」
「だめ、詳しいことは判らない」
ナーナは首を振った。
「ただ、ホントかなって思うことはたくさん書いてある。旧デアが建国される以前、今から5000年ほど前にはマスタイニスカ様がもう生まれていらっしゃったとか、幾つもの国を指先ひとつで滅ぼしたとか。でも、ほとんどは伝聞にしか過ぎなくて。中には神話時代の話まであるし。それどころか、創世神話にまでマスタイニスカ様の名があったって記述もある。又聞きの又聞きって感じで信頼性は低いけど。
ホント、マスタイニスカ様って、デアの4大魔導士の中でもまったく別格って感じ。永遠なる者って言われるのも当然かな。偉大なるって尊称付きで呼ばれる魔術師もマスタイニスカ様以外いらっしゃらないしね」
「ふーん。今、どこに住んでいるのか判らない?過去に住んでいたところでもいいけど」
「旧デアにお住まいになってたのは確かなようだけど、今も生きていらっしゃるかどうかも不明だからね。今、どこに住んでいらっしゃるかなんて」
ナーナが軽く肩をすくめる。
「実はさ、マスタイニスカ様ってお一人じゃなくて複数いらっしゃるってことはないかな。魔術師協会そのものがホントはマスタイニスカ様だとか」
ナーナから少し離れた椅子に腰を下ろし、アキラは訊いた。
「面白いこと考えるね、アキラ」
「一人の人間がそんなに長く生きて来たなんて信じられないからどうかなって思ったんだけど」
「うーん。そうともそうじゃないとも言えないけど、どうかなぁ。面白い考えだけど、判断するには材料が少なすぎるよ」
「そうか」
「うん。ただ、もうひとつ気になることがあって」
「なに?」
「まだよく判らないんだけど、娘たちって記述があるんだよね」
「娘たち?誰の?」
「判らない。誰のかは。ただ、娘たちがどうしたとかこうしたとか、あまりに古い言葉なんで前後の脈絡が判らないんだけど、たまーに出てくるの。古ーい魔術書に。それがなんだか気になって」
「ふーん」
「もうホント、判らないことだらけだよ。なんか、もう少し調べれば判りそうなんだけどなぁ。
あー、ずっとここにいられればいいのに!」
ナーナは再びそう叫んだ。ただし、今度はシェルミを起こさないよう声を潜めて。
「あれがどんな世界を見ているか、私にも判らないな」
シェルミのことである。神官王が見ている過去と未来というのはどういったものか、という話の流れから飛んだのである。
「神官王様でも判らないんですか?」
アキラは掃除の手を止めて訊いた。
彼が掃除をしているのは、神官王の居室だった。部屋の主である神官王は安楽椅子に座って、掃除をするアキラの話相手となっていた。
「ああ。あれは、私から見てもかなり特殊だ。不憫なほどにな。先程、私の見ている世界は過去と現在、それに未来が幾つも重なって見えて、どれが本当の今か特定するのが難しいと言ったが、シェルミはさらに、それとは別の何かを見ているようだ。それが何かは判らないがな」
「神官王様はご覧になったことがあるんですか?シェルミ様が見てるその何かを」
「2度ほどな。一度目は、まだあれが赤ん坊の頃だ。あれの力がどれほどのものか、試しにあれの心を読んだことがある。その途端、私は意識を失ったよ。何が起こったか判らないままな。どうやら私の手には負えないほど力が強いらしいということだけは判ったが。
以来、あれの心を読まないよう気をつけていたんだが、姉が死んだ時にあれが少し暴走してね。無理矢理あれの見ている世界を見せられた」
「どんな世界だったんですか?」
「言葉にするのは無理だな。目の見えない者に色がどういったものか説明するようなものだ。私と同じように無理矢理同化させられた侍女は全員、発狂するか、弱いものは死んでしまったよ。
私はかろうじて正気を保ったがね」
「それは……」
アキラは言葉を失った。
神官王の言う通りであれば、シェルミはたった独りで人とは別の世界に生きているようなものだと気づいたからである。この世界でただ一人、神々に祝福も呪いもされなかったナーナも孤独ではあったが、シェルミの孤独はそれ以上だった。
「私の場合は、力の差はあれ、まだ姉をはじめとして同じ世界を見ている一族がいたのだが、あれは、な」
見えぬ目をどこか遠くに向けて神官王は言った。その声には、シェルミに対する深い憂慮の想いが込められているようにアキラには思えた。
「だから、あれが、あれほど姫に懐いていることが私にはとても驚きだよ。あれが姫をどんな風に見ているのか、知りたい気がするな」
「そうですね」
アキラは心の底から同意した。
神官王がアキラに薄い目を向けて、笑みを浮かべる。アキラが初めて見る温かい笑みだった。
「あれが、アキラのことをどう見ているかも興味はあるのだがね。まぁ、もし私に何かあった時には、あれのことを宜しく頼むよ」
優しい声で神官王はそう言った。
「ええ。努力はします」
神官王の想いを知ってか知らずか、そう応えたアキラの口調は、普段の彼の口調とまったく変わることはなかった。
「では、闇の司祭を紹介しよう」
神官王がそう言ったのは、いつものようにアキラが用意した朝食を、無駄に広い食堂で4人だけで済ませた後だった。
「ただ、かなり不快なことになると思うが、あらかじめ覚悟しておいてくれ」
「それは、闇の司祭様が相当に不快な方だということですか?」
「会えば判る」
詳しい説明をすることなく、神官王は彼らを、城の最奥にある城主一族のプライベートスペースのさらに奥に設けられた観音開きの小さな扉の前に案内した。
「この先に聖墓がある。そこにウィストナッシュがいる。黒い剣もあるはずだが、私は見たことがないのでね。詳しいことは彼に聞いた方がいいだろう」
「聖墓?」
アキラが訊き返す。
「我が一族がここに来た時に、黒い城壁とともにすでにあったものだ。聖墓というのは我々がそう名付けただけで、もちろん本当の墓ではないと思う。
闇の司祭は、その聖墓に囚われている」
「そこから動けない、ということですか?」
「そうだ。ここの封印の一部になっているのか、それとも封印に巻き込まれただけなのかは判らないがね。一緒に行きたいが、私は小用があってね。ここから先は、我が一族が一緒でないと進むことができない。だから妹を連れて行ってくれ」
アキラとナーナは顔を見合わせた。
神官王の言葉には、幾つもの嘘が含まれている気がした。シェルミを一緒に連れて行って欲しいがための嘘が。
シェルミはいつものようにナーナの後ろに隠れて、赤い瞳でアキラを疑い深げに見つめていた。初めて彼女に会ってからすでに7日が経っていたが、アキラはまだ、彼女の声を聞いたことがなかった。
「判りました」
アキラは神官王の薄い瞳をみつめたまま頷いた。
「礼を言う。では」
神官王は、シェルミを一瞥して立ち去った。
神官王の姿が廊下の先に消えるまで3人で見送ったが、神官王は最後まで振り返ることなく、足取りを緩めることもなかった。
「じゃあ、行こうか」
アキラはそう言って観音開きの扉を押し開いた。
聖墓は、扉のすぐ向こうの部屋にあった。
部屋には天井がなく、ラクドの薄暮が妖しく円形のホールを赤く染め上げていた。
そのホールの中央に、聖墓は、あった。
高さは10mぐらいだろう。正四角錐--つまりピラミッド状--の建造物で、黒い城壁と同様、何とは判らない黒い物質で作られていた。
「誰だ?」
聖墓の表面で影が揺らめいた。そして、魔術師のローブを纏った男が現れた。
意外なことにそれは若い男だった。
おそらく20代半ばぐらいだろう。ぎょろりと大きな目が特徴的で、鼻もまるで天狗のように大きく、への字型に歪んだ唇も異様なほどに厚かった。
異相である。
その異相に、男はどこか人を見下したような傲岸な表情を浮かべていた。
だが、異様な風貌だけが男の特徴ではなかった。
男には足がなかった。
いや、足だけではない。男には影すらなく、彼自身が影ででもあるかのような現実味のなさで、宙に浮いていたのである。
「闇の司祭様ですか?」
緊張感を漂わせてナーナが話しかける。
「そうだ。お前らはなんだ」
男が、ウィストナッシュが応える。
「わたしはカナルのナーナ。魔術師です。闇の司祭様にお伺いしたいことが--」
ナーナはそれ以上、言葉を続けることができなかった。「おお!」と、ナーナを遮ってウィストナッシュが歓喜の声を上げたからである。
アキラは頭巾を被ることなく、黒髪を晒してナーナの斜め後ろに控えていた。
そのアキラにぎょろりとした目を向けて、ウィストナッシュが顔中に喜びの表情を浮かべて笑っていた。
「ようやく来たのか!使い手が!待っていたぞ!ははははは、これで剣を試せる!封印を破ることができる!マスタイニスカめ、誰が使い手を殺したりしようか!誰がお前の言う通りにしたりするものか!これでようやく、ワシの方がマスタイニスカなどより偉大な魔術師だと証明できる!
お前、名前を何という」
「闇の司祭様」
ウィストナッシュの質問を無視して、アキラは言った。
「師匠の話を聞いていただけますか?」
「師匠だと?」
ウィストナッシュが不信感を露わにしてナーナを見る。天狗に似た彼の顔が、不機嫌そうに歪んだ。
「この小娘が、お前の師匠だというのか。下らぬ。んん、姫巫女もいるのか。まあ、良い。そんなことより、早く剣を使うのだ。この封印を解くのだ!」
「お断りします」
アキラはためらうことなく応えた。予め神官王に言われてはいたが、すでに彼はかなり不快になっていた。
「なんだと。断るだと。何を言っている!お前は使い手だろう!それが何故断る!」
「闇の司祭様。まずは、師匠とお話を」
ウィストナッシュは忌々し気にナーナを見た。
「よかろう。聞いてやる。話せ、小娘」闇の司祭の言葉はどこまでも傲慢である。
ナーナもかなりムカついていたが、アキラが怒ってくれていたので、まだ自分を抑えることができた。
ナーナは小さく咳払いをして、口を開いた。
「改めて、ご挨拶させていただきます。わたしはカナルのナーナ。魔術師です。闇の司祭様にお伺いしたいことがあって参上しました。そちらに控えておりますのが、わたしの弟子のアキラです。
よろしくお見知りおきください」
「アキラです。よろしくお願いします」
「そうか。アキラというのか」
「それで闇の司祭様にお伺いしたいのは--」
何を訊くかは、アキラと事前に打ち合わせしてあった。
突き詰めれば、問題は黒い剣に収斂している、というのが二人の結論だった。黒い剣が大災厄を引き起こし、そして、その黒い剣を解放する(と推定される)アキラを呼び出すがために、ナーナは神々から祝福も呪いもされなかったのだ、と。
ここにあるという黒い剣がすべての問題の核心なのだと、二人は判断していた。
「黒い剣についてです。いったい黒い剣というのは、何なのでしょうか」
ウィストナッシュの瞳が妖しく輝いたように、ナーナは思った。天井のない部屋に、低くしゃがれた笑い声が木霊した。
ウィストナッシュが哄笑していた。
「おお、そうか、黒い剣について聞きたいのか!いいぞ、聞かせてやるぞ、小娘。黒い剣はな、このワシが作ったのだ」
「えっ?!」
思わぬ答えにアキラとナーナは揃って声を上げた。
二人の反応に満足した様に、ウイストナッシュは厚い唇を歪めた。
「驚いたか。ワシが作ったのだ、黒い剣をな。だが、黒い剣が何か教えてやる前に、まずワシから訊こう。
そもそも、魔術とはなんだ?小娘」
不意に問われて、ナーナは反射的に答えた。
「呪を通して”あらゆるもの”に働きかけ、物理現象を引き起こす技術……」
師匠から教えられた定義だ。そしてまた、ナーナ自身もそうと信じている定義でもあった。
しかし、と彼女は言葉を続けた。
「でも、他にも様々な定義があって、こうと決めることは、まだ……」
「神官どもや愚か者どもの定義なんぞはどうでもよい!」
大声で怒鳴って、ウィストナッシュがナーナを遮る。口を閉じたナーナを侮蔑するように見て、ウィストナッシュは続けた。
「そうだ。お前の言う通りだ、小娘。
物理現象を引き起こす。
だが、小娘、その意味するところを、お前は正確に理解しているか?物理現象を引き起こすということは、つまり、呪によって引き起こされた物理現象は、それを引き起こした呪とはすでに切り離されているということを意味している。
だからこそ、引き起こされた物理現象を無効にするには、別の術が必要になるのだ。
判るか?小娘。
愚か者どもは、こんな、こわっぱでも判る基本的な理屈すら理解してはおらん。
では、精霊や神々とはなんだ?」
これにもナーナなりの答えはあった。
始まりの魔術師を信じる魔術師としての答えが。神々に仕える神官が、決して認めることのない答えが。
それを答えるべきかどうか、ナーナが迷っているところへ、ウィストナッシュが先に怒鳴った。
「インターフェースだ!ただの!”あらゆるもの”に働きかけるためのただの道具だ!それを愚かな神官どもは、崇め、奉っている!
魔術師のローブを纏っているクセに、そんなことも知らないのか!」
それもはひとつの考え方に過ぎません、確かにそう定義した方が術を構築し、行使する際に、より論理的に考えることができますが、他にもいろいろな説が、と言い返したくなるのを、ナーナはぐっとこらえた。
「……」
ナーナが黙っているのを、言い負かしたとでも思ったのか、ウィストナッシュが満足そうに嗤う。
「まぁ、いい。では、小娘。そうした前提で、世界を滅ぼすには、どんな術を構築すればいい?」
「世界を滅ぼす?」
ナーナがウィストナッシュの言葉を繰り返す。
「そうだ」
宙に浮いたまま、値踏みするようにナーナを見て、ウィストナッシュが頷く。
「そんなこと」
ナーナの視線が不安に泳ぐ。ウィストナッシュの質問の、意図が理解できなかった。
ナーナが戸惑うのが楽しくて仕方がないとでもいうように、ウィストナッシュは嗤った。
「考えたこともないのだろう?そうだろう?
だが、つまらぬお前らと違って、ワシは考えた。つまらぬ常識に、ワシは囚われていないからな。どうだ?世界を滅ぼすには、どんな術を構築すればいい?」
「では、まず世界とは何か、定義していただけますか?」
アキラがナーナの後ろから不意に言った。ウィストナッシュが目を細めてアキラを見る。怒るかと思ったが、意外にも闇の司祭は静かに答えた。
「論理的な思考ができるのだな、お前は。そうだ。まずはそれを、定義する必要がある。何を滅ぼすか。世界、だけではあまりに曖昧だ。
では定義してやろう。
この星だ。
この星そのものを破壊するには、どんな術を構築すればいい?」
「この星?」
「そうだ」
アキラの胸にざわりと不安が拡がった。ウィストナッシュの話の行きつく先に対する不安である。ウィストナッシュは、黒い剣について話しているはずだった。それが何故、この星を破壊する、などとという質問に繋がるのだろう?
「物体を破壊するには、物体が結合している以上のエネルギーをぶつけてやればよい。実に簡単なことだ。そうだな?」
話したくて仕方ないのだろう、ナーナとアキラの回答を待つことなく、機嫌よくウィストナッシュは話し始めた。
「もちろんぶつける側の速度も関係するがな。速ければ速いほど、エネルギーは大きくなるからな。だが、それは考えなくてもよい。星を破壊しようというのだ、速度には限界がある。
だが、質量はどうだ?お前らは知らんだろうが、エネルギーは質量と等価だ。つまり、この星を破壊しようと思えば、この星以上の質量をぶつけてやればよい。
結論はこれしかない。
だが、それほどの質量をどこから持ってくる?月か?なるほど悪くないが、月ではまだ軽すぎる。生命はすべて滅びるだろうが、それでは命題を満たしていない。生命をすべて滅ぼすだけならば、他にもやりようは幾らでもある。
マスタイニスカであればやれるだろうよ。
シャッカタカーですら、やれるかも知れぬ。
しかし、それでは駄目だ。ワシがやりたいのはそうではない。ワシがヤツらよりも優れていることを証明するには、それでは足りない。
では、どうすればいい?
そこでワシは閃いたのだ。
何か、抽象的な概念を具象化すればよいのではないか?抽象的な概念を具象化して、物理現象として確定してしまえばよいのではないか?とな。
物理現象として確定してしまえば、打ち消すには別の術が必要になる。だが、この星以上の質量だ。それを打ち消すことなどできまい?
それができるなら、そもそもこの星を消すことができる、ということだからな」
「そんな」
ナーナが呆然と呟く。
ナーナは衝撃を受けていた。ウィストナッシュが語る内容もだったが、1200年以上の長きに渡って知識を蓄えて来た賢者と信じてはるばる訪ねて来た魔術師が、ただの狂った男に過ぎないと知って。
「そんなこと、できるはずが……」
ウィストナッシュが血走った大きな眼をナーナに向ける。上機嫌だった彼が、一転して激怒していた。
「禁忌だと言うのか!そういう考えが、魔術の発展を妨げるのだということが、なぜ判らん!魔術に禁忌なぞないと知れ、小娘!」
猛るようにそう叫んだウィストナッシュに、ナーナも負けじと声を張り上げた。
「禁忌以前の問題よ!そんな事、できるはずがない!どうやってそんなことを呪文として編み上げるって言うの!
……それに、自分が人より優れていることを証明するためだけに世界を滅ぼしてしまうなんて!」
ウィストナッシュは、目を細めて軽蔑しきった顔でナーナを見た。
「愚か者め。そのできるはずのないことを、ワシはやり遂げたのだ。お前の言う通り、誰にでもできることではない。誰も、できるなどと考えたことすらない。
マスタイニスカの糞野郎でもな。
お前らのような馬鹿者どもならば、考えることを止めてしまうだろう。世界を滅ぼすことなんかできない、そんな人道に反したことなどできないと、もっともらしい理由をこじつけて、な。
嘘を言うな!ただ、貴様らの知能が足りないだけではないか!ただ貴様らが、考えることもできない低能だというだけではないか!
ワシは止めなかった。考えて、考え続けた。基本からな。魔術とは何か、精霊とは何か、神々とは何かと考えて、遂に思い至ったのだ。
ヤツラはただのインターフェースだ。
しかし、生きているインターフェースだ。
生きていて、しかも、ヤツラには感情があるのだ。
ならば人と同じように、操ることもできるのではないか……、とな。
ヤツラは人に好意を持っている。
そうでなければ、始まりの魔術師が”あらゆるもの”と最初の契約を結ぶこともできなかっただろう。
神がわざわざ信者に神託を下すこともないだろう。
好意があるからこそ、神は神託を下して信者を教え導き、危険から守ってやろうとする。
そうだろう?
好意を持つ相手ほど、利用しやすいものはない。
ならば、その好意を利用して、精霊を使い、この星と同程度、いや、それ以上のエネルギーを”あらゆるもの”から汲み出し、質量へと変換できるのではないか。
ワシはそう思い至ったのだ」
ウィストナッシュが言葉を切る。そして、それまでと打って変わった静かな声で、闇の司祭は言った。
「そのために、ちょうど都合のいい概念も存在していたしな」
「なんでしょう、その概念というのは」
嫌な予感を覚えながら、そろりとアキラは闇の司祭に訊ねた。
くくくと、闇の司祭が嗤う。闇の司祭の異相が、それまで以上に禍々しく歪む。そして彼は、妖しく輝く大きな瞳を向けて、アキラに告げた。
「人の命の、重さよ」
闇の司祭が低く抑えた声で、心底楽しそうに笑う。
「下らないヤツラは、人の命はこの地球よりも重いと言う。
実に下らないことだが、もし、それを具象化できたら?人の命が本当にこの地球よりも重いのであれば、それを具象化すれば、地球を破壊できるはずではないか?
人の命の重さでこの世が滅びるのだ。
これほど皮肉で、愉快なことも他にはあるまい?」
悪意に満ちた顔をアキラとナーナに向けて、闇の司祭が嗤う。その顔に、これまで以上に得意げな表情が浮かんだ。
「だが、ワシが考えたのはそれだけではない。その質量を圧縮したらどうなるかと閃いたのだ。ただ一点、本当の意味でただの一点にな。
判るか?理解できるか?ワシの言うことが本当に理解できているか?愚劣で低劣なお前らでも判るように言ってやろう。
神なんぞはもう関係ない。この剣は、神の力など借りなくても、世界を終わらせることができるのだ。
ただ物理的な力だけで、世界を、本当の意味で滅ぼすことができるのだ。
ワシは神も、神殺しのマスタイニスカでさえも超えたのだ!」
「ただ一点に……、つまりそれは」
アキラは呆然と呟いた。
様々な疑問が氷解していくのを、彼は感じていた。
こちらに来るときに見た空間の裂け目でもあるかのような黒い剣の姿がアキラの脳裏に浮かんだ。
何か良くないものだという印象があった。しかし同時に、邪悪さは感じなかった。もし闇の司祭が正しいことを言っているのだとしたら、その印象は正しかったということになる。なぜならそれは純粋な物理的な力なのだから。
正も邪も、あるはずがない。
黒いのも当然だ。
なぜなら光さえ逃げ出せないのだから。
闇の司祭の言う通りであれば、月が破壊されたとしても不思議ではない。新しい神は、世界を滅ぼそうとしても、我らには止められないと言った。それはそうだろう。時空間が極限まで歪み、潮汐力が無限大になるのだから。
スゥイプシャーの重力異常も封印の影響なのだろう。
神業と言っても足りないレベルの封印が必要なのも当たり前だ。
むしろ、封印できていることの方がアキラには信じられなかった。
地球より重いと闇の司祭は言った。しかし、それはいったいどれぐらいの重さなのだろう。
人の命の重さなどという抽象的な概念に、果たして。
限界が、あるのだろうか……?
「ところがどうだ!ようやく作った剣を、こともあろうに封印しやがった。マスタイニスカが。あの低能野郎が!デアの都ごとな!まるでこのことを知っていたかのようにだ!
あいつは言った。
いずれ剣の使い手が現れる。黒い髪をした異邦人が。もし、その異邦人が現れたら殺せと。そうすれば、封印から解き放ってやると。
おお、誰がそんなことをするものか!
せっかく作ったのだ、使わなくてどうする!」
「……狂ってる」
小さくアキラが呟く。闇の司祭が、そのアキラに大きな眼を向ける。
「ワシは狂ってなどおらぬ」
闇の司祭は淡々と言った。穏やかな彼の口調が、アキラを逆に慄然とさせた。
「狂っているのはお前らの方だ。ああ、もう面倒だ。来い!」
両手を大きく広げてウィストナッシュがアキラに踊りかかった。
アキラは、側にあった力を掴んだ。ラクドの騎士を切った力である。それでウィストナッシュを両断した。
しかし、ウィストナッシュは両断されたままアキラに圧し掛かり、アキラの肩を掴んだ。両断されたはずの体は、音もなくひとつになった。血走った目がアキラを見据え、厚い唇が喜びに醜く歪んだ。
「ワシは切れぬよ。来い」
ぐいっとアキラは引っ張られた。足が浮き、踏ん張ることさえできなかった。アキラは自分を掴んだウィストナッシュの腕を切ったが、高笑いを上げながら、ウィストナッシュはそのまま彼を引き摺って行った。
「ナーナ!重力結界を!オレは、だい……」
ナーナにそう叫びながら、アキラはウィストナッシュと共に、まるで深い穴に落ちて行くように聖墓に飲み込まれた。
ナーナは詠唱を始めた。
アキラを連れて行かれたことに動揺していたが、それ故か逆に、詠唱を始めると心が静まるのをナーナは感じた。精霊を呼べないのが痛かった。精霊を呼べないために、酸素量や熱量の調整をすることができなかった。ナーナは自分とシェルミを中心に5m四方の重力結界を形成した。ただし、まだ完全には閉じなかった。
いつでも閉じることができるようにしたまま、ナーナはアキラの引き摺り込まれた聖墓を見守っていた。
不意に、ナーナの服をシェルミが引っ張った。
「歪んでる」
と、シェルミは言った。
「ナーナ、歪んでいるよ」
「シェルミ様、何が」
強張った声でシェルミを見ることなくナーナがそう問い返した時、聖墓が弾け飛んだ。
咄嗟に、ナーナは重力結界を完全に閉じた。
光が、消えた。いや、周囲が闇に包まれた。激流となって溢れ出た濃密な実体を持った闇が、重力結界の外を、辺りを覆い尽くした。
ナーナはその場にしゃがみ込み、手探りでシェルミを抱き締めた。重力結界の外で、緑色の光が瞬き、流れて行った。その光が、重力結界の外を流れる闇を、瞬きすら忘れて魅せられたように見つめるシェルミの横顔を照らし出した。
「まさか」
ナーナは小さく呟いた。
ラクドの黒い城壁は、幾人もの魔術師が調べてきたものの、未だに何を使って作られているのか解明されていなかった。しかし、濃密な闇と時折流れる禍々しい光に、ナーナはその素材の正体に思い至ったのである。
「まさか、これ」
音は、重力結界を完全に閉じた時から聞こえなくなっていた。
そこへ、ぎしっと、嫌な音が響いた。
ぎしっぎしっと、次第に大きくなる。
ナーナは心臓が掴まれるような恐怖を感じた。
重力結界が、破壊されようとしていた。
無駄と知ってはいたが、ナーナはシェルミに覆い被さった。
重力結界が、砕け散った。
ラクドから逃れた人々は、空白の砂漠の砂丘の彼方に、闇が立ち上がるのを見た。
最初は小さな点でしかなかった闇は、まるで生きているかのように蠢き、次第に大きく伸び上がって行った。闇は蠢きながら拡がり続け、たちまちにして全天の半分までを覆い尽くした。
闇の中で時折何かが光り、流れて行った。
「まさか」
震える声で誰かが呟いた。
「まさかあれは、クマルビか?」
名を口にするのも憚られる御方たちを、闇の一族と言う。
闇の一族は、闇の属性を有する闇の神の一族と、その配下である妖魔に分けることができる。神話によれば、それらすべての闇の一族は、闇そのものである闇の主神、クマルビから生まれたという。
そのクマルビが、太陽までも覆って、世界を覆い尽くそうとしていた。
ふと、拡がり続けていたクマルビの動きが止まった。
闇の主神が、身悶えた。
声、それを声と言っていいかどうか判らなかったが、耳にするだけで血が凍りそうな声が、人々の耳を打った。
そして、闇は引き摺られていった。
下へ下へ。
やがて、現れた砂丘の彼方に、闇は消えた。
呆然と立ち尽くす人々の上に、雨粒が落ちた。
空白の砂漠に、雨が降り始めていた。




