7-5(黒い剣5)
自分は人間ではないのではないか。アキラがそう思い始めたのは、彼がこちらに来た2日目のことである。
ハクの街で、物乞いに「わたしは、何者だ?」「わたしたちは、何者だ?」「そして、お前は、何者だ?」と問われた夜に、アキラは考えたのである。お前は何者だと訊かれても、オレは、オレと。しかしそう考えて、彼はあることに気がついた。記憶である。大学に入ってからの日々の記憶はあった。下宿、サークル、講義、バイト。だが、それ以前の日々の記憶がなかった。
それは妙な感覚だった。
知識はあるのである。中学で習ったこと、高校で習ったこと、大学に入る以前に読んだ本。両親の顔も、歳の離れた妹の顔も覚えている。中学や高校の友人の顔もだ。しかし、家族や友人と過ごしたはずの日々の記憶が、ごっそりと抜け落ちていた。
まるで誰かが、オレというキャラクターを作って途中で投げ出したみたいだ--というのが、そのことに気づいた時のアキラの感想だった。
そもそも、メガネが要らなくなったことも妙だった。
さらに、こちらに来てから、自分がまったく疲れなくなっていることにアキラはすぐに気がついた。
ハクの街で当たり屋を殴り倒して逃げた時もそうだ。一緒に逃げたナーナは汗を落とし息を弾ませていたが、彼は汗ひとつかかなかったのである。
ヴラドが「小僧、オメエ、ホントに人間か?」と訊いて来たのは、旅に出て剣を教えてもらい始めた初日のことだった。ヴラドは、幾ら打ち込みをしてもアキラが汗をかくこともなく疲れもしないことに気づいて、不信感を持ったのだ。
ヴラドの問いに対するアキラの答えは、「判りません、自分が何者かは」と、出会った時と同じだった。その時に、アキラはヴラドに口止めをしたのである。自分はもしかすると人間ではないかも知れない。ただ、ナーナを心配させたくないので、事実が判るまで黙っていて欲しいと。
ヴラドは了承してくれた。
それからである。ヴラドが彼を、小僧とではなく、アキラと名前で呼ぶようになったのは。「もし、オメエが何か良くないモンだったら、オレがきっちりカタぁつけてやるよ」と言って。
あの物乞いが何者なのか。
その正体についても、アキラは想像がついていた。
勿体ぶった言葉。わざわざみすぼらしい物乞いの姿を取る芝居臭さ。
神である。
そして何の神であるかも、やはり想像がついていた。物乞いが現れたのがハクの守護神の神殿の見える場所で、神殿についてナーナに訊いた時だった。デアの街で借りた貴族の屋敷にあった神棚も、同じ神を祀っていた。
それは偶然ではないだろうとアキラは考えていた。
ただし、今まできちんと確認をしたことはなかった。確認することが怖かったのだ。自分が死すべき人ではないということが、これほどはっきりするまでは。
「エア神」
ラクドに向かって歩きながらアキラは呟いた。
物乞いが、彼の傍らに現れた。
「呼んだか」
物乞いは、歩く彼の隣に彼の方を向いて立っていた。歩いているのではない。浮いているのである。
「ええ。本当に来ていただけるかどうかは、自信がありませんでしたけど」
アキラは足を止めることなく物乞いに訊ねた。
「オレは、人間じゃないんですね」
「人間ではないな」
「それじゃあ、オレは何なんです?」
「それを知るのが、お前の役目のひとつではないのか?」
新しい神の答えと同じだ。おそらく正しい質問をしていないのだ、とアキラは思った。正しい質問をしない限り、答える気はないのだろう。何せ、フランがいつか言った通り、神々は勿体ぶるのが仕事みたいなものなのだから。
エアは、知恵の神のはずだった。
その神が、「わたしは、何者だ?」とアキラに訊いているのだ。矛盾もいいところである。だが、神自身が、自分が何者か判らない、ということも確かにあるのかも知れない。ほとんどの人が、自分が何者かと訊かれても、正しく答えられないように。
気になるのは、「わたしは、何者だ?」「わたしたちは、何者だ?」「そして、お前は、何者だ?」と、質問が3つあることだ。わたし、とは、当然エア神自身のことだろう。だとすれば、わたしたち、とは、神々のことと考えて間違いないはずだ。しかし、なぜその問いに、お前は、と続くのだろうか。
もしや、とアキラは不意に閃いた。
この3つの問いは、すべて同じことを訊いているのではないだろうか。
槍で突き刺されても、頭を叩き割られても死なないのだ。自分がただの人間でないことだけはすでにはっきりしていた。
「オレが、自分が何者か知れば、それがエア神自身が何者かっていうことの答えになるんですか?」
「そうだ」
神が答える。そして突然、神は能弁になった。
「それが、お前の役目だ。それがために私はお前を、黒い剣の中から作り出したのだ。その答えを得るために。わたしが何者か知るために。黒い剣の中にある多くの知識をこね上げ、お前をヒトのカタチに作り上げたのだ。
さあ、教えてくれ。
わたしは、お前は、何者だ?」
アキラは足を止めた。そして、物乞いに顔を向けた。
「それじゃあ、オレの中にある記憶は--」
「我が知恵によって作られたものだ。答えを得るために。黒い剣の中の知識を積み上げ、思考し、思考に思考を重ねて練り上げたものだ。だから今度こそ、答えを教えてくれ。我が回答者よ。すべての答えを知ることこそ、我が役目、知恵の神たる我の性なのだから。それがために、お前を作り上げたのだから」
「オレは……」
アキラは神から視線を外し、ラクドを見た。
すでに砂漠は闇に包まれていたが、背後の星空を隠して、ラクドの黒い城壁はくっきりとその威容を浮かび上がらせていた。まるでアキラと一緒に世界そのものを飲み込もうとでもするかのように。
穴だ。
と、アキラは思った。
ラクドは、この世界に開いた穴みたいだ、と。
それと同じ穴が、彼の心の中にもあった。いや、彼の心そのものが、まるで底の知れぬ深い穴のように感じられて、アキラの視界が刹那ぐらりっと歪んだ。
アキラはラクドに向かって再び歩き始めた。
「神の子って言っていいのか、この場合」と、アキラは一人ゴチた。「これも、ちょっとした貴種流離譚ってことになるのかなぁ」と暢気に呟く。
しかしその一方で、これをナーナにどう説明しようかと、彼は深刻に考えていた。
休むことなく歩き続け、翌日の早朝にはアキラはラクドに辿り着いた。
ラクドの城壁内から流れ出た水が周辺の土地を潤し、緑豊かな畑が広がり、かなり大きな街を城外に形成していた。
砂漠から馬車道に戻り、完全に夜が明ける頃には、アキラはラクドの黒い城壁を仰ぎ見ていた。
傍らにいたはずの物乞いの姿は、朝日に溶けるようにいつの間にか消えた。
アキラは血にまみれた頭巾を脱ぐと、肩に担いだ荷物にしまい込んだ。代わって彼は、デアの魔術師協会で書いてもらった2通の紹介状を取り出した。
そして黒い髪を晒したまま、紹介状を手に、アキラは黒い城壁に開いた入口に歩み寄って行った。




