7-4(黒い剣4)
「ほう。それは確かに、私の妹のシェルミだ」
夕食の席で、神官王はそう言った。ナーナが質問を口にする前に。
「珍しいことだ。あれが人前に姿を見せるなど。私でさえ、もうしばらくあれの姿を見てはいない」
彼らは、数え切れないほどの料理が並んだ長大なテーブルの端と端に、二人だけで向かい合って座っていた。王宮の食堂である。壁には幾つもランプが掛けられていたが部屋の隅々まで照らし出すには少な過ぎて、テーブルの下の影は妙に濃く、室内はどこか薄暗さを残したままだった。
「陛下」
軽く咳払いした後、ナーナは神官王に向かって言った。
「怖れながら、心を読むなとは申しません。ですが、せめてこちらが質問してからお答えいただけないでしょうか。陛下にはお判りにならないかも知れませんが、わたしたちは、例え相手が何を言おうとしているか想像がついても、それを実際に相手が口にするまでは知らないフリをいたします。
マナーとして」
神官王は僅かに眉を上げると、皮肉っぽい笑みを口元に浮かべた。
「そうか。それはすまなかったな。だが、姫。マナーと言うのなら、ナイフを舐めるのはあまり褒められたものではないぞ」
まさに、ナイフについた肉汁を舐めとっていたナーナの顔が赤くなった。彼女は用意されたドレスを着ていたもののどうにも収まりが悪く、使い慣れないナイフに手こずっていたのである。
「……失礼いたしました」
小さな声で謝ってから、ナーナはふと気がついた。訝しげに大きな傷跡の残るキスリス神官王の顔を見つめる。
「陛下。陛下は、目がお見えなのですか?」
「いや。見えてはおらぬ。人のいう意味ではな。ただ、人よりいささか見えすぎてな。嫌なものまで見えてしまうので、この目は自分で潰したのだ」
自分で潰した、という言葉も気になったが、ナーナは最初に気になった言葉の方の意味を訊ねた。
「見えすぎるとは、どういうことでしょうか?」
キスリス神官王が、少しばかり考え込むような表情を見せる。そして一語一語選ぶように、彼は答えた。
「そうだな。説明するのが難しいのだが。昔から私はこれが普通だったので間違ったことを言うかも知れないが、私には、過去と未来も見えているのだよ」
「過去と、未来ですか?」
神官王が頷く。
「そうだ。我が一族では珍しいことではないのだがな。ただし、未来は定まらぬ複数の可能性として見えている。そして過去は、この現在に繋がる直接の過去と、現在に塗りつぶされる別の過去も見えている。だから、よく判らなくなることがあるのだ。今、見ているのが、本当に今起きていることなのか、それとも過去のことなのか、または、ただの可能性としての未来なのか、な。
姫は知っているかな。私が3年ほど前に、我が一族をことごとく誅殺したことを」
「……いいえ」
聞いたことがなかった。カナルまで噂が伝わって来るには、ラクドは遠すぎた。地理的にというだけではなく、ショナとの政治的な関わりという意味でも。
神官王は軽く頷いて、言葉を続けた。
「きっかけは、我が伯父上が見た未来だ。私に殺されるという可能性のな。それで伯父上は逆に私を殺そうと図ったが、誤って私の姉を殺してしまったのだ。もっとも、もしかすると最初から姉も殺す予定だったのかも知れん。
いずれにしても、その時に私が見たのは、姉だけでなく、私と妹が殺される可能性の未来だった。それで伯父上を誅殺し、その可能性の未来を避けるために、一族を皆殺しにするしかなかったという訳だ」
「そんな……」
「なんのことはない、こうして口にするとただのお家騒動に過ぎぬな」
自嘲気味に神官王が薄く笑う。
「……」
「話を戻せば、そのお家騒動ですっかり現実を見るのが嫌になってな。この目を潰したのだ。しかし、目を潰してもやはり未来も過去も見えるのだ。姫の姿も、過去にここにいた人々も。いや、逆に目を潰したことで余計に良く見えるようになった、と言った方が正しいかも知れぬ。
怖がらせることになるやも知れぬが、伯父上をはじめとする私が殺した一族の姿も、そこここに見えているよ」
そう言われて、長大なテーブルに今も姿の見えない無数の死霊が一緒に座っているような気がして、ナーナはぞっと背筋を震わせた。。
「ああ、ついでに言えばだ、このラクドには精霊は入って来れない。姫のことだ、それはもう試しているだろう。それとは逆に、中に入ってしまえば精霊は出ることができないと言われている。人の霊魂も同じだ。ここで死んだ者は、黒い城壁を越えられない。だから、私が誅殺した伯父上だけではなく、このラクドで死んだ我が一族の霊魂はすべてこの地に留まっているはずだ」
「陛下。もしかして、わたしを怖がらせようとしていませんか」
抗議するように固い声でナーナが言う。
「いや。真実を話しているだけだ」
「……」
キスリス神官王が低く笑う。
「余計にタチが悪い、と言われてもな」
「……陛下」
「ああ、済まぬ。心を読んでいるのか会話をしているのか、よく判らなくなることがあるのだ。それで、誰もが私の前ではなるべく何も考えないようにしているようだ。我が一族以外でそんなことができる者に、まだ会ったことはないがな」
会話が途切れ、広い食堂に沈黙が落ちた。
侍女が音もなく現れ、食べ終わった食事の皿を手際よく下げて行く。ワインが注ぎ足され、デザートが運ばれ、デザート用の銀のスプーンが音もなくそっと置かれた。
訊くなら今か、とナーナは思った。
神官王は何も言わず、ワインを口に運んでいた。
つまりは、構わないということだろうとナーナは判断した。
「陛下。いくつか質問をさせていただいてもよろしいですか?」
「ああ。構わぬ。せっかく無理を言って姫に来ていただいたのだ。答えられる限り答えよう」
「では、まず、わたしをここに連れて来た理由を教えていただけますか?」
「さっきの話と繋がるのだがな、姫の姿を見たのだ。おそらく未来のな。それで、来てもらった」
「どんな未来なのでしょうか」
「それは言えぬな。未来について話すことは、少々危険なのだ。複数の未来を見ていると言ったが、話すことでその未来が変わることがある。伯父上の件がいい例だ。伯父上は、自分が見た未来のことを自分の妻に話し、それでああいうことになった。もし伯父上が話さなければ別の未来になっていた可能性もある。事実、私の見た未来では伯父上は死ぬことはなかったはずなのだ。
ついでに言えば、姫の連れの姿も未来の可能性から消えてはいない。黒い髪をした若い男だろう?だから、彼は生きているはずだと言うのだ。
安心したか?」
「……本当なのですね」
「妹の方が私よりもはるかに力が強くてね。妹が生きていると言ったのであれば、私が言うより確かだ」
「……良かった」
ナーナの唇から自然と言葉が洩れた。安堵のあまり涙が零れそうになったが、ナーナはワイングラスに手を伸ばし、自分の気持ちを誤魔化して落ち着かせた。
グラスを握った手が微かに震え、歪な笑みが口元に浮かんだ。
そのナーナを見えぬ目で見ていた神官王が「すまなかったな」と言った。
意外な言葉だった。最初はただの冷酷な王かと思ったが、こうして話してみると印象が随分と優しかった。神官王は自分自身を客観的に見る視点も、ユーモアも持ち合わせていた。
それなのになぜ、とナーナは言葉を続けた。
「なぜ、わたしを無理に連れて来られたのですか?あんなことをされなくても、わたしと供をここでお待ちになればそれで良かったのに」
「言えぬ」
神官王は即答した。
その答えの早さが、ナーナにひとつの可能性を教えた。
「それは、陛下がご覧になっている、いえ、選択されようとしている未来に繋がっているから口にすることができない、ということですか?」
「理解が早いな、姫」
神官王がワインを口に運ぶ。正とも誤とも断言しなかったが、つまりナーナの考えは間違っていなかったということだろう。
神官王の見ている未来を知りたかった。アキラと自分が映っているはずの未来を。だが、それを彼がけっして教えてくれないだろうことは、容易に想像がついた。
ナーナは質問の方向を変えることにした。
「では、なぜわたしを、陛下は姫とお呼びになるのでしょうか。わたしたちの探し物がここに在るとおっしゃいましたが、それはどういう意味なのでしょうか?」
意外な質問だったのか、神官王が答えるまで、少し間があった。
「姫を姫と呼ぶ理由か。それは、私にも判らないな。姫の姿は、私の見る未来に昔から現れていた。まだ、それが過去のことか未来のことか判らぬ頃からな。誰かに言われた訳でもないが、私は最初から姫のことを姫と認識していたよ。
ふたつ目の質問だが、姫たちは、黒い剣を探しにラクドに来たのではないのか?」
ナーナは首を振った。
どきどきと心臓の鳴る音が、自分でも聞こえるようだった。
「いいえ。わたしたちがここに来たのは、大災厄について調べるためと、闇の司祭様にお会いするためです。黒い剣がここにあるとは、いえ、それが本当に存在するのかどうかさえ、わたしたちは確信がありませんでした」
しかし、神官王の問いは、そのまま知りたいことの答えとなっていた。
アキラ。ようやく手ががりに辿り着いたよ。
ナーナはそう思った。
「在るのですね、陛下。ここに、黒い剣が」
神官王の見えないはずの薄い瞳が、ナーナの先に続く未来を見通そうとでもするかのように、彼女の表情を探る。
瞼を閉じた神官王の口元に、ふっと、軽い笑みが浮かんだ。
「余計なことを話してしまったようだな。だが、問題はないだろう。確かに、ここに黒い剣はある。そもそもこのラクドは、黒い剣を封じるために作られたものなのだ。デアの4大魔道士の一人、赤い魔眼の魔術師、永遠なる者、神殺しとも呼ばれる、偉大なるマスタイニスカによってな。
このラクドは、黒い城壁を含めたすべてが、巨大なひとつの封印なのだよ」
ガイド本にはこう記されていた。『ラクドの街は、神代の時代に作られたと言われる黒い城壁によって囲まれています。城壁の全周は12キロ、高さは200mあり……』『城壁の素材は今にいたるまで不明で……』と。
神官王の言葉を信じるなら、規模からして相当強力な封印だった。いや、強力などというレベルではなかった。神業と言ってもむしろ足りないレベルである。
「だから、精霊も呼べない……。霊魂も、外に出られない……」
呆然と、ナーナは呟いた。
「そうだ」
「信じられない……」
ようやく手がかりに辿り着いたと思って浮き立っていたナーナの心が、空気が抜けるように萎んでいく。
これが、封印。
だとしたら。
だとしたら、いったい……。
「陛下、これほどまでの封印を必要とする黒い剣とは、いったいなんなのでしょう。ここに来る途中にお会いした新しい神は、大災厄を引き起こしたのは黒い剣だとおっしゃっていました。
いったい、黒い剣とは……」
焦りから早口になるのを自覚しながら、体を乗り出すようにナーナは訊いた。抱えきれないほどの不安が、彼女の顔を青ざめさせていた。
「さてな」
ナーナを落ち着かせようとでもするかのように、神官王がゆっくりと答える。
「それは私も知らぬ。本当だ、姫。けっして勿体ぶっている訳ではないよ」
心を読まれたようだった。
まさしく、また勿体ぶって、と考えていたナーナの顔に、少し赤味が戻った。
「申し訳ありません……」
神官王が短く頷き、ワインを口にする。
「私が知っているのは、私自身が見る未来と、我が一族に伝わる伝承のみだ。伝承によれば、我が一族は、大災厄に襲われた際には、ここよりはるか南の山岳地帯に住み、月神を守護神として暮らしていたという。だが、大災厄によって月が落ち、その一部がアースディア大陸となった際に--」
神官王が言葉を切る。
彼の顔に意外の表情が浮かんでいた。
「そうか。それも伝わってはいないのか、ラクドの外では。アースディアとは、古い言葉で空から落ちた島々の大陸という意味なのだがな」
「……初めて聞きました」
新大陸と旧大陸。そのふたつとは別に、世界にはもうひとつ西の大洋を越えた先に大陸があった。それがアースディア大陸だが、その名の由来は失われて久しかったのである。しかし、空から大陸が落ちて来て、それで果たして人は生き残れるものなのかとナーナは思った。
そこにも何か、作為があったのではないか……。
「話を戻そう。月が失われ、月神が失われた神となった時に、我が一族の長に月神から神託が下されたと伝わっている。北へ行き、デアを守るようにと。そこにひと振りの剣が封じられており、その剣の封印が解かれぬように、マスタイニスカの作った封印を守るように、とな」
「それでは、やはりここは、かつてのデアの都なのですね」
「そうだ。かつては繁栄を極めた都市だったということだが、我が一族が訪れた時には、ただ、黒い城壁と聖墓のみが建つ無人の地だったそうだ。かつては空白の砂漠も豊かな緑に覆われていたと聞いている。神託に従ったのは一族の中でも一部の者だけだったということだが、月神はここに永遠の泉を開き、その管理を我が一族に委ねたのだ。そうして我らは水という砂漠で最も貴重な資源を握り、この地の王となって、以来、1200年の長きに渡って封印を守り続けて来たのだ。
ただし、我が一族の誰も、その剣を実際に見た訳でもなければ、どういうものかさえ知らないのだがな」
「もしかして」
閃くものがあった。
ナーナは神官王の顔を注意深く見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「陛下はご覧になったのですか、その剣を。可能性の未来の中に」
「さてな」
見たのだろうと、ナーナは了解した。
おそらくその未来ゆえに、神官王は不可解な行動をとっているのだ。その可能性の未来の中に、アキラと自分がいたのだろう。
ということはつまり、ラクドの封印が解かれるということだ。そして、ラクドの封印が解かれるということは、この街そのものが、もしかしたら--。
「今日は、これまでにした方がいいようだな。楽しかったぞ、姫。こんなに人と話したのは初めてかも知れぬ。
闇の司祭にも引き合わせよう。彼が来た後でな。
では、彼が到着するまではゆるりと休まれるがよい」
そう言って神官王は立ち上がり、ナーナに声をかける暇を与えることなく食堂から歩み去って行った。
神官王の立ち去った食堂に重い沈黙が落ちる。逃げられた、というのがナーナの正直な想いだった。
『でも、こんなものかな』
とも思い、ナーナは諦めて立ち上がった。
食堂を後にしようとしたナーナを、「魔術師様」と、侍女が呼び止めた。
「神官王様から、もしよろしければ姫巫女様にお引き合わせするようにと申し付けられております。いかがなさいますか?」
「姫巫女様……ああ、シェルミ様のことですか?」
「はい」
「シェルミ様さえよろしければ、是非」
「では、こちらへ」
侍女に案内されたのは、おそらく城主一家のプライベートスペースと思われる城の最奥だった。
小さな扉を潜ると中庭を臨む長い廊下が続き、もうひとつ小さな扉を潜ったところで天井が急に低くなった。そこからさらに、とても覚えきれないほどの数の角を曲がり曲がりして、ようやく辿り着いた細い廊下の突き当たりにある扉を、侍女はノックした。
返事は聞こえなかった。しかし、侍女はナーナを振り返って言った。
「どうぞ、姫巫女様が入っても良いと」
侍女が扉の前から離れる。
なるようになるかとナーナは前に進み、扉を引いた。
彼女に割り当てられた部屋よりも尚、明るい色調の部屋だった。
彼女の部屋と同じように何部屋か続いているのだろう、ナーナが入ったそこは、リビングルームと思われた。
「シェルミ様。失礼いたします」と問いかけたナーナに応えがあった。「こんばんは」と、囁くような小さな声で。
扉のすぐ脇の壁に背中を預けて、浴室で会った少女が笑みを浮かべて立っていた。




