1-4(名のない少女4)
「つまり、ベッドから落ちたと思ったらここにいたと、そういうこと」
自分が寝かされていた狭い部屋の床に横になり、アキラは[日本語]でそう言った。床に散らかっていた本は壁際に積み上げられ、アキラの傍に立った少女、彼がナーナと名付けた少女の影が、ゆらゆらと本の上で揺れていた。
「☆☆☆☆☆☆☆☆……?」
眉をひそめ、ナーナが自信なげに問い返す。
「んー、じゃあ、もう一回」
そう言ってアキラはベッドに這い上がった。横になっていびきをかくフリをする。そしてそのまま寝返りを打って転がり落ちて見せ、
「ちょっと待って」
とナーナを手で制してもう一度ベッドに横になり、がばっと跳ね起きて驚いたように周りを見回して見せる。
「あっ」
とナーナが声を上げる。もっとも、彼女があっと声を上げたのは、すでにそれが何度目かのことではあったが。
ナーナがベッドを指さし、次にアキラを指さす。
「<ベッド>☆☆☆☆、☆☆☆☆☆☆<ベッド>☆☆☆☆☆☆、☆☆☆☆☆☆☆☆☆<ベッド>☆、☆☆☆☆☆☆☆☆?」
<ベッド>という単語は、アキラもすでに覚えていた。
「そうそう。オレが落ちた<ベッド>と」と言ってベッドを軽く叩く。「この<ベッド>は、別の<ベッド>だってことなんだけど、判った?」
ナーナが笑みを浮かべて頷く。
「QX、アキラ」
『変な言葉(QX:レンズマンシリーズで了解、承知を意味する言葉)、教えちゃったなぁ……』と、アキラが反省していることも知らず、ナーナはベッドを指さしてから、何かを否定するように手を振った。
落ちたのは、このベッドではないということでしょう?とでも言うように。
「そう、そういうこと」
笑顔でそう応じながら、アキラは、『これで本当に、正しく伝わっているんだろうか……』と不安にかられていた。
言葉が通じないことはもちろんだが、話の内容が内容である。初対面の、それもまったく正体の判らない男に、ベッドから落ちたら見知らぬ場所にいたと言われても、それをそのまま信じるのは難しいだろう。
ふむふむと頷いていたナーナが、不意に、アキラの足を指さした。
「ん?」
ナーナが何事かをアキラに話しかける。彼女の仕草から、アキラの足の裏について何か言っているらしいと推測がついた。
「オレの足の裏がどうかした?」
アキラは自分の足の裏と、ナーナを交互に見た。
小さく頷いて、ナーナがその場で歩くフリをする。そして再びアキラの足を指さし、手を左右に振る。
何かを否定しているということだ。
しばらく考えたが、彼女が何を伝えようとしているか思いつかず、
「ごめん、判らない」
と、アキラは首を振った。
困ったようにナーナが黙り込む。その口元から、ふと欠伸が洩れた。くるりとアキラに背中を向け、両手で口を押さえる。
いつの間にか室内が薄明るくなっていた。
「夜が明けちゃったか……」
目を覚ましてからどれぐらい経ったのだろう。
時計がないため判らなかったが、5、6時間は経ったように思われた。その間、ずっとナーナと話していたものの、判ったことは少なかった。
2階の書斎でナーナがまず取り出したのは、1枚の地図である。
床の上に向かい合って座ったアキラの前に地図を広げ、
「ショナ」
と言って彼女は地図を指さした。
最初はショナという言葉が地図そのものを意味しているのかと思ったが、話しているうちに、どうやら地図に載っている土地をショナと言っているらしいと推測できた。
等高線もなく、縮尺も判らず、山と河と湖、それに城と街道だけが描かれた簡素な地図だった。
その地図のひとつの城--地図のほぼ中心にある城--を指さし、ナーナは、「デア」と言った。そこから街道を辿って指を右に(アキラから見て右に)進め、別の城の上で指を止め、「ハク」と言った。
さらにそこから右上に(アキラから見て右上に)指を滑らせ、アキラを見た。
「☆☆☆☆☆☆☆☆。☆☆☆☆☆☆☆☆?」
ナーナが地図から指を離して体を起こす。
アキラは改めて地図を覗き込んだ。
ナーナがハクと言って指さした城は、河のほとりにあった。そこから少し離れた別の川を越えた山の麓をナーナは最後に指さしていた。
「それが、ここ?」
同じ様に地図を指さして訊き返したアキラに、ナーナはこくりと頷いた。
ナーナが再び地図を指さして何かをアキラに問いかける。
しかし、そもそも彼女が頷いたからといって会話が成立しているとは限らず、また、<ショナ>、<デア>、<ハク>といった地名にもまったく聞き覚えがなく、アキラはただ首を振ることしかできなかった。
その一方で、彼女が地図を取り出して来たのは、アキラがどこから来たのか知りたかったからではないか、と推測することはできた。そこで、最初に自分が寝かされていたこの部屋まで彼女に来てもらい、気がついたらここにいたこと、つまり、自分でもどこから来たか判らないということを説明したのである。
ランプの灯を吹き消し、アキラに何かを告げて、ナーナが部屋を出ていく。
細く差し込んだ光に、アキラはこの部屋にも窓があることにようやく気づいた。突き出し窓のようだった。鍵を開けるのに少し迷う。あちこち触っているうちに横木の一部が動いて手応えが軽くなり、ぐっと押し開く。
濃密な森の匂いが、塊となって押し寄せて来た。
『それにしても』
木々の隙間から洩れる朝日に目を細めながら、アキラはひとり嘆息した。
『ベッドから落ちて異世界なんて、あんまりだよなぁ……』
『異世界っていうと、うーん。いろいろあるけど、方程式を唱えて転移するっていうのが好みだったのに』『なかなか、思うようにはいかないものだなぁ』
『学祭の片付け、先輩たちに押し付けることになるけど、怒るだろうな……』
『帰ったら、どう説明しよう』
そこまで考えたところで、彼はようやく、ひとつの可能性に思い至った。
『……と言うか、帰れるのか……、これ?』
ズンッと心が沈み込む。
「アキラ」
窓の外を見ながら考え込んでいたアキラを、ナーナが居間から呼んだ。
居間に出たアキラに、ナーナはテーブルに置かれた洗面器大の木桶を指さした。木桶には水が満たされ、顔を洗えということだろうと推測がついたが、アキラは念のために顔を洗うフリをしてナーナに確かめた。
ナーナがこくりと頷く。
『頷くのが必ずしも肯定とは限らないけど』
居間を出て行くナーナを見送りながら改めて考える。
『ボディランゲージは、あまり変わらないみたいだな。ただ、ボディランゲージにも文化的な違いが有り得るってことも、あの子は判っているみたいだ』
顔を洗い、置いてあった手拭を手に取る。
『そもそも、名前がないってどういうことだろう……。ホントの名前を指輪に刻まれたら他人に支配されちゃうから……とか?』
『いや、それだったらナーナって名前をつけられた時点で拒否しているか』
『それに、どうやらひとり暮らしみたいだけど、ここではこれが普通なんだろうか……』
戻って来たナーナが--朝食だろう--、木製の食器をテーブルに並べていく。
座ってと仕草で促され、アキラは促されるままテーブルについた。アキラが使い終わった木桶と手拭を手にしたナーナが何か言う。「食べてて」と言われたようだった。
彼女が用意してくれた朝食は、黒パンと豆のスープ。それによく焼いたベーコンと野菜サラダという品揃えだった。フォークもスプーンも木製。
再び部屋から出て行ったナーナを見送り、「いただきます」と両手を合わせてからアキラは黒パンを手に取った。
『これがいつもの朝食だとしたら、ずいぶん食料が豊富なんだな。それともこの家が特別豊かなんだろうか……』
パンをかじる。固い。少し考えて、スープでふやかして食べた。少し熱めのスープには塩コショウが効いているようで、豆は十分に柔らかく、野菜サラダは意外なほど新鮮だった。ベーコンもカリカリで歯ごたえが良く、アキラを驚かせた。
しかし、驚くのは早かった。
ナーナが最後に運んできたガラス製の容器に入れられた果物のジュースが、実に良く冷えていたのである。うーんと唸る。ガラス製の容器の方は無色透明にはほど遠く、技術的にまだまだ未熟と感じられた。しかし中身のジュースは、冷蔵庫で冷やしていたと言われても信じられるほど冷たかったのである。
『井戸ででも冷やしているのか、それとも氷室でもあるんだろうか……』
『こんな個人宅に……?』
いや、と思い直す。
『魔法』
『と、いうのもありか……』
昨晩、ナーナが印を結んだ手を向けただけで自分を後ろに吹き飛ばしたことを思い出し、胸のうちで呟く。
『充分に発達した文明は……って名言もあるから、決めつけるのはキケン……だけど』
ま、そんなに急いで結論を出すこともないかと、アキラは空になったコップをテーブルに置くと、「ごちそうさま」と両手を合わせた。
そのアキラを、ナーナが不思議そうに見た。何か訊きたげな様子で口を開きかけ、結局彼女は、食べ終えたアキラの食器を手に部屋を出て行った。
『食材はあちらとこちらで同じかな。多分、パンは小麦が原料だろうし、ジュースはまんま、オレンジジュースだったな。ちょっと不思議な気もするけど、ナーナが人間そっくりなんだから当然と言えば当然か。人間だけが同じように進化して、それ以外の生物が違う進化をするなんて、そっちの方がむしろ考えにくいもんな』
『だとしたら』
『未知のウィルスで死んだりする心配もないかな……』
異世界に来て、風邪を引いただけで死ぬなんてオチは嫌だもんなぁ、と埒もないことを(言葉は矛盾するが)真剣に考えていたアキラを、ナーナが呼んだ。居間から直接続く玄関らしきの扉の前で、一足のサンダルを手にぶら下げて。
アキラがナーナに連れていかれたのは、家から50mほど離れた森の中の小道である。
そこでナーナは地面を指さし、次にアキラを指さすと、家の方に頭を向けていきなりうつぶせに倒れて見せた。
驚くアキラを、判る?と問うようにナーナが見上げる。
「えーと」
ナーナが伝えようとしていることが判らず、曖昧に呟いたアキラを指さし、ナーナが地面を叩く。
「☆☆☆☆☆☆、アキラ、☆☆☆☆☆☆」
アキラの脳裏に閃くものがあった。
「もしかして、ここにオレが倒れていたってこと?」
ナーナに手を貸して引き起こし、アキラは今度は自分がその場に倒れて見せた。
「オレがここに倒れていて、それを君が」
とナーナを指さす。
「家まで」
と言って木々に隠れたナーナの家の方を指さす。
「運んでくれたということ?」
ナーナの顔に笑顔が広がる。深く頷き、彼女は胡坐を組んで座ったアキラの足を、いや、足の裏を指さした。
何かをアキラに話しながら、なだらかな坂道を少しばかり下って行き、そして大袈裟な動作でアキラのところまで歩いて戻り、自分のサンダルの裏を指さす。それから彼女は、アキラの足をもう一度指さして小さく手を振った。
「ああ……!」
『そうか。オレが裸足だったのに、足の裏が汚れていなかったって言いたいのか……!』
本当に判った?とでも言うように、ナーナが彼の顔を覗き込む。
うんうんと頷きながら、アキラはサンダルを脱いだ。足の裏の砂を払い落とす仕草のあと、ナーナに自分の足の裏を指さして見せる。
「こういうことだよね?」
にこりと笑って、ナーナが頷く。
「QX、アキラ」
『そうか』
アキラは何かがすとんと腑に落ちるのを感じていた。
『ベッドから落ちたらここにいたって話をした時に、ナーナがオレの足を指さしたのは、それなら足の裏が汚れていなかったのも納得できる、と言いたかったんだ。
つまり彼女は、オレの言ったことをちゃんと理解してくれて、そのことを、ちゃんと理解したということを、オレに伝えようとしてくれたんだ』
あなたの言うことを信じる。言い換えればナーナはアキラに、そう伝えようとしたのである。
ナーナが周囲を注意深く見回す。
地面に胡坐をかいて座ったアキラの周りを、何かを調べるようにゆっくりと歩く。風に揺れる木々に目をやり、時折しゃがみ込んで陽の光の落ちた地面を指でなぞる。その度に彼女は、何かをリズミカルに、歌うように呟いていた。
彼女の声を聴くともなく聴いていて、ふと、アキラは疑問を覚えた。
ここにオレが倒れていたのなら、彼女はオレをどうやって家まで運んだのだろう。まさか担いでいった訳ではないだろうし、何か担架のような道具で運んだんだろうか。
しかし、アキラのその疑問は、問いかけとして言葉にする前に、突然森に響いた別の声によって遮られた。