7-3(黒い剣3)
小さな足音が遠ざかる音に、アキラは意識を取り戻した。
記憶は、すぐに蘇って来た。連れ去られたナーナ。そして、叩き割られた頭蓋。
アキラは体を起こし、割られたはずの頭を探った。
まだ固まり切っていない血がべっとりと頭巾に貼りついていたが、痛みも傷もなくなっていた。胸を探ると、ちょうど心臓の辺りで服が大きく破られていた。他にも裂かれた跡がたくさんあり、気を失った後、何度も刺されたのだろうと想像がついた。レイピアと槍がないのは、証拠を残さないため騎士が持ち去ったものと思われた。
背中が激しく痛み、首を回すと、まだ何本もの矢が突き刺さったままだった。
激痛に呻き声を洩らし、何度も気を失いかけ、その度に荒い息を吐きながら、アキラは背中に突き刺さった矢を1本1本引き抜いていった。ふぅと息を吐きながら最後の矢を投げ捨てると、まだ痛む背中に「あー、イテッ」と呟いて、彼は立ち上がった。
隊商の馬車はすべて燃やされ、無数の死体が転がっていた。
火の一族だけではなく、護衛や隊商の乗客の死体も同じように放置されていた。奴隷を乗せていた馬車は、鎖で繋がれた奴隷を中に乗せたまま炎を上げていた。
無数の死体の中に、ガストンの髭面もあった。
奮闘したのだろう、体は滅多斬りに切り裂かれ、アキラと同じように何本もの矢が突き刺さったまま憤怒の表情で目を虚空に向けていた。
ガストンさんのこんな顔を見るのは初めてだな、とガストンの死体の前に立ち尽くしてアキラはふと思った。
アレクシでガストンを含めて皆で酒場に繰り出した時にも、いや、アキラの黒髪を初めて見た時でさえ、ガストンは僅かに眉を動かしただけでほとんど表情を変えなかった。
それがこんなかたちで、と思うと、何とも言いようのない悲しみがアキラの心に湧き上がって来た。
ガストンのナイフが少し離れたところに投げ出されていた。
アキラは血に塗れたそのナイフを拾い、しばらく考えて、倒れたガストンの胸の上に置いた。虚空を睨んだ目は、そのままにしておいた。その方がガストンには相応しい気がしたのである。
自分たちの乗っていた馬車も燃えていたが、自分とナーナの荷物は、火の一族が襲って来たときに手元に置いていたため、食事を取っていた岩陰にそのまま残っていた。
しばらく探すと、刀と鞘も見つかった。
そう言えば、目を覚ました時に小さな足音を聞いたようなと思ったが、それらしい人影は見当たらなかった。
「さぁて」
自分とナーナの荷物を肩に担ぎ、鞘に収めた刀を片手に、砂丘の彼方に見えるラクドを目指してアキラは歩き始めた。
水も食料も持たなかった。
それはもう、不要だった。
王宮に用意された部屋で、ナーナは石造りの浴槽に体を沈めていた。
ベッドルームやリビングルームまで備えたそこは部屋というより一軒の家のようで、色調も城内の他の場所よりは明るく、居心地も悪くなかった。しかし、アキラのことを考えるとナーナの気分は深く沈み込んで、すぐにでも城を出て行きたかったが、もしそんなことをされたら私たちが殺されてしまいますと懇願する侍女の言葉を、無視することはできなかった。
まず、湯浴みと着替えを、と侍女は言った。神官王様が、夕食を一緒にと申されていますと。
まったく気が進まなかったが、言われた通りにするしかなかった。体をお洗いしましょうと言う侍女を、何とか部屋から追い出すのが精一杯だった。
「アキラ」
重く潰れてしまいそうなほど胸が痛み、涙が零れ落ちた。
自分の心がどれほど深くアキラと絡み合っているのか、ナーナは嫌になるほど思い知らされていた。
ナーナの心の中に彼は確かにいて、彼のいたところがそのまま無理矢理引き千切られたように暗く深い空虚となっていた。その複雑に空いた心の隙間を埋めようとするかのように感情が溢れて理性を覆い尽くし、この部屋に連れて来られてからも彼女の記憶は不規則に途切れていた。
ナーナは頭まで湯に沈めた。
神官王は、彼が生きていると言った。しかし、そう言われると逆に、レイピアが間違いなくアキラの心臓を貫いていたことが鮮明に思い出された。
その後のことは、まったく思い出せなかった。
気を失ったんだろうかと思ったが、それすら判らなかった。
神官王が言った通り、精霊は呼べなかった。そうなると、重力結界を使ってみるのはためらわれた。
何が起こるか判らないと言った神官王の言葉が、ただのはったりとは思えなかったからだ。
ここは、なにかがおかしかった。
なにが、というとまったく判らなかったが、空気が妙に重く、なにか、大きな獣の体内にいるような圧迫感があった。窓から見える黒い城壁は空に届きそうなほどに高く、城壁に囲まれた狭い空は、ガイド本に書いてあった通り、どこか不吉さを漂わせた薄暮に染め上げられていた。
『アキラ……』
と、湯船に全身を浸したまま、ナーナは胸のうちで呟いた。
怖いよ……。
怖い……。
自分が何を怖がっているか、ナーナは判っていなかったかも知れない。ただ怖かった。アキラが死んだかもしれないという想念に行き当たると、足を踏み出す、たったそれだけのことすらできなくなるのである。
『アキラ……』
ナーナは自分の膝をかたく抱え込んだ。
涙が湯に溶ける。
「大丈夫」
と、声が聞こえた。頭まで湯に浸っているにも関わらず、すぐ耳元で響いたかと思えるほどの鮮明さで。
「彼は生きてる」
えっと思って、驚きのあまり半ば溺れそうになりながら、ナーナは浴槽の端を掴んで体を引き上げた。
いつ現れたのか、少女がひとり、足先を湯に浸して、ナーナと向かい合うように浴槽に腰かけていた。
『人……?』
と、咄嗟にナーナは疑った。
長く伸びた髪はキスリス神官王に良く似た銀色で、肌の色も神官王に似て一度も太陽を浴びたことがないかのように青白く、ナーナに向けられた大きな瞳は、ハッと息を呑むほどに赤く明るく輝いていた。
幼い。まだ、10歳にもならないだろう。しかし幼くとも、少女には隠しようのない気品が漂っていた。
まるで良く出来た人形みたい、とナーナは思った。
「だれ?」
少女が微笑み、そして、消えた。
「えっ」
ナーナは声を上げて立ち上がった。
浴槽から出て、周囲を見回す。体を拭うための大きめの布だけを体に巻き付け、リビングルーム、ベッドルームと見て回る。浴室に戻ってタイル張りの床を見ても、水に濡れた彼女自身の足跡があるだけで、少女のものと思われる足跡はどこにもなかった。
「今の……」
消え方が異常だった。
何かを詠唱していた訳でもない。それに、何の前触れもなくあれほど素早く消える術を、ナーナは知らなかった。
「あの髪、もしかして……」
キスリス神官王の言ってた……。
「それに、あの声……」
まるで耳元で響いたかのような、いや、まるで直接頭の中で響いたかのような、何の力みもない声。淡々と事実だけを告げたような静かな声。それは、まるで物理的な実体があるかのように、深くナーナの体に沁み込んで拡がって行った。
「生きてる」
ナーナは自分でも呟いてみた。何故か、それが信じられる気がした。
神官王も言っていたではないか。アキラは、いや、彼は生きている、と。その言葉が、今は不思議と、信じられる気がした。
ナーナは顔を伏せ、自分の額を触った。
スゥイプシャーで重力嵐に巻き込まれた際に、アキラがキスしたところだ。
頑張れと言ったアキラの言葉が蘇る。
キスリス神官王が何かを知っていることは間違いなかった。自分と、アキラについて。それを聞き出す必要があった。
「よし」とナーナは頷いた。そして顔を上げ、「任せとけ」と、彼女は呟いた。




