7-2(黒い剣2)
それからのことを、ナーナは憶えていない。後にいくら頑張っても、記憶に霞がかかったように、それからのことは遂に思い出せなかった。彼女がかろうじて思い出せたのは、ラクドの黒い城壁内に入る際に感じた、異様なまでの肌寒さだけだった。
一方のアキラは、忘れようにも忘れられないまま、ひとつひとつの場面の細部まで思い出せるほど鮮明に覚えていた。
胸が焼けるような痛みをアキラが覚えるのと同時に、ナーナが悲鳴を上げた。
二度と聞きたくはない、甲高い、悲壮な悲鳴だった。
心臓を貫かれたからか、キンッと甲高い音がして、アキラの周囲から音が消えた。
ナーナの口が、アキラの名を呼ぶように動く。彼女の名を確認した騎士が、アキラに向かって走り出そうと身を翻したナーナの腕を捕える。騎士の手がナーナの口を塞ぎ、猿轡を押し込む。騎士がナーナの手を背中に捩じり上げる。
アキラには見えなかったが、騎士は彼女に印を結ばせないために、素早く彼女の指を縛っていた。呪を施した紐を彼女の手の甲に押し当て、騎士が短く呪文を唱えると、紐は生き物のようにナーナの指の間を這い、彼女の指を固く縛めた。
アキラは、ナーナが背後に立った騎士に顔を向けるのを見た。
突然、騎士の顔が火を噴いた。
薄れゆく意識の中、アキラはあれっと思った。猿轡を噛まされたのだ。ナーナが詠唱を唱えることはできないはずだった。しかし、実際に騎士はナーナを手放し、顔の火を消そうと狂ったように暴れていた。
アキラもナーナも知る由もなかったが、ナーナの憎悪に精霊が反応したのである。詠唱もなしに、精霊がナーナの意思に従ったのだ。
ナーナがアキラに顔を戻し、彼に向かって走り出そうとする。
その時のナーナの顔を、アキラは後日、幾度となく見ることになった。深夜に、悪夢の中で。
口は固く真一文字に結ばれていた。濃い栗色の瞳は、ただまっすぐアキラに向けられていた。一見しただけでは彼女の表情はいつもと何も変わらなかった。むしろ、いつもより冷静とも見えた。しかし、べったりと能面のように張り付いた表情のその裏に、とても言葉では言い表しようのない絶望を、アキラは見て取っていたのである。
別の騎士が、横から、アキラに走り寄ろうとしたナーナの腕を捕らえる。ナーナを、騎士が引き寄せる。騎士の腕が振り上げられる。華奢なナーナの体が横っ跳びに飛んで、地面に転がる。
アキラは首を回し、倒れたナーナを見た。何が起こったか判らなかった。いや、判ってはいたが、信じられなかった。
ナーナの低い呻き声が、微かに聞こえた。
それが彼に、何があったかを教えた。
アキラの心の奥底から、怒りが熱風となって噴き上がった
そして、彼のすぐ側に、力は在った。
それがいつからそこにあったのか、アキラは知らない。
ずっとそこにあったようでもあったし、空白の砂漠に入ってから次第に近づいていたようでもあった。いずれにしても、いつの間にかそれは彼の手の届くところにあり、アキラはその力の使い方を、何故かよく知っていた。
アキラの背後に立った騎士がレイピアを引き抜き、アキラの背中と胸から血が噴き出す。しかし、支えを失って倒れるはずのアキラの体は逆に力強く足を踏み出し、すぐ側に在った力を掴んだ。
ナーナを張り飛ばし、彼女を引き起こそうとした騎士が、微塵に切り裂かれた。
比喩ではない。
あっと思う間もなく、騎士は鎧ごと、一片が1cmにも満たない人の形をした肉の塊と化したのである。
アキラが何かをした様子はなかった。彼はただ、顔を上げ、騎士を見ただけである。音もしなかった。あえて言えば、風切り音のようなものが微かに短く響いた、ただそれだけである。
静寂が瞬時、落ちた。
何が起こったか、騎士たちは誰も理解できなかった。異常が起こったことは理解できた。しかし、さっきまでそこにいた仲間と、突然出現した肉塊が、彼らの中で結びつかなかった。
騎士だった肉塊が、どしゃっと不快な音を立てて落ちる。
騎士たちの間で驚きと怒り、そして恐怖の声が湧き起こった。
仲間が殺されたのだと彼らはようやく理解し、なぜか未だ倒れない魔術師見習いの仕業と判断したのだろう、背後からもう一度、レイピアがアキラの体に差し込まれた。
アキラがぐるりと体を回す。
彼の体に突き刺さったままのレイピアが騎士の手から奪い取られ、まず、レイピアを握ったかたちのまま差し出されていた騎士の腕が落ちた。
腕を失くした騎士が悲鳴を上げることはなかった。その前に騎士の体は縦に両断され、ほとんど同時に横に両断されたからである。
やはり短い風切り音が三度響いた、瞬時の出来事だった。
白壁のように表情を失くしたアキラが、騎士たちに顔を向ける。異様なほど黒い瞳が、恐怖に後ずさる騎士たちを追う。
アキラが背を向けた隙に、別の騎士がナーナを抱えて跳馬に飛び乗った。そして判断良く鞭を入れ、またたく間に天高く舞い上がって行った。アキラが振り返った時には、ナーナを抱えた騎士は、すでに遠い点となっていた。
レイピアで胸を貫かれているとは思えない確かな足取りで、アキラは体の向きを変えた。
『届く』
と、飛び去っていく跳馬を見ながら思う。
『届くが--』
もし跳馬を切れば、ナーナも落下してしまうことは考えるまでもなかった。
『信じるしかない』
『今はもう』
『あの人を--』
アキラの脳裡にひとつの人影が浮かんだ。
銀色の髪の王の姿が。
そこで彼はふと、疑問を覚えた。
誰を?
誰を、信じるんだ……?
叫び声を上げながら騎士たちの放った矢が、立ち尽くすアキラの背中に何本も突き刺さった。
しかしそれでも倒れることなく、足を一歩前へ踏み出しただけで、アキラは飛び去っていく跳馬から視線を逸らし、自分を取り囲んだ騎士に顔を戻した。
銀髪の王の姿も疑問もすべてが、彼の記憶の底に沈んで消えた。
アキラの背後から、1本の槍が、突き刺さったままのレイピアや矢をへし折らんばかりの勢いで彼の体を貫いた。一人の騎士が、渾身の力で跳馬の馬上から槍を突き込んだのである。
その騎士は膂力に自信があったのだろう、槍で貫いたアキラの体をそのまま持ち上げようと、身体中の筋肉を膨らませた。しかし、まるで根でも生えているかのように、全身を血に染めたアキラはビクともしなかった。
アキラが騎士を振り返る。まず彼を貫いた槍の穂先が切断され、彼が振り返った時には、槍を握った騎士は跳馬ごと両断されていた。
恐怖の悲鳴を上げながら、騎士の一人がアキラに切りかかる。振り返ったアキラの目の前に、剣があった。そして、アキラの頭蓋が叩き割られた。
跳馬に乗せられ、地上を遥か下に見ながら、ナーナは騎士の手から逃れるべく激しく暴れ続けていた。
戻らなくてはと、ただそれだけを彼女は考えていた。アキラのところに戻って、胸と背中に開いた穴を塞がなくては。一刻も早く穴を塞いで、血を止めなくては。彼を、助けなくてはと。
レイピアがアキラの心臓を貫いたであろうことは、意識のどこかで理解していた。
しかし、それでも。助けられる。今すぐ戻れば、絶対に助けられる。彼女はそう信じて、猿轡をされたまま声を限りに叫び、暴れ続けていた。
1回目の跳躍で地上に降りた際に、あまりに激しく暴れる彼女を、騎士は砂の上に取り落とした。すぐに走り出した彼女に追い縋り、何とか捕らえ、殴りつけようとしたところで、彼はぞくりと体を震わせた。
顔から火を噴いた仲間と、ただの細切れの肉塊となった仲間の姿が思い出された。
騎士は苦労しながらナーナに目隠しをし、手を縛り上げ、足も縛って、ほとんど彼女が身動きできないようにしてから、再び跳馬に鞭を入れた。
『そうだ』とナーナが思いついたのは、随分時間が経ってからである。
『治癒の術だ』『治癒の術なら、アキラを助けられる』『使えるはずだ。わたしなら。あの術も』『だって。だって、わたしは……!』
「それはあまり、論理的な思考ではないな」
突然、聞き覚えのない声が響いた。そしてその後に続いた言葉が、彼女を現実に引き戻した。
「心配はいらぬよ、姫。彼は生きている」
えっと気がつくと、知らない男が目の前に立ち、彼女を見下ろしていた。
薄い口元には冷たい笑みが浮かんでいた。彫りが深く、頬がこけた四角い顔には、どことなく気品があった。肌は一度も太陽の光を浴びたことがないかのように青白く、短く整えられた髪は見事なまでの銀髪だった。
歳は、30前後といったところだろうか。
豪奢な衣装をまとい、指には幾つもの宝石が輝いていた。
しかし、男の最大の特徴は、何よりもその目にあった。両目のどちらにも大きな傷跡があり、彼女に向けられた薄い色の瞳は彼女の上に焦点を結んでおらず、その瞳が何も映していないことは明らかだった。
「ここか?ここはラクドの王宮だ」
まるで誰かの問いに答えるかのように、男が言う。
低いがよく通る、落ち着きのある声だった。
「少し乱暴だったが、姫に会いたくて来ていただいた。連れがいたのだな。姫の連れということは、黒い剣の使い手なのだろう?だとしたら、彼は生きているはずだ」
ナーナが訝し気に男を見つめる。
まるでその視線が見えているかのように、男は答えた。
「そうか、自己紹介がまだだったか。私は、この城の城主だ」
「城主……。ラクドの……?つまり、キスリス神官王?」
「そうだ。歓待するよ、姫」
その時になってようやく、ナーナは自分が後ろ手に手を、いや、印を結べないように指を縛られていることに気づいた。そして、彼女の両側に騎士がいて、自分の腕を両側から固く掴んでることにも、ようやく気づいた。
ナーナは、首だけを動かして周りを見回した。
彼女がいるのは、天井の高い薄暗いホールだった。窓は少なく、ただ広いだけで、調度品の類もほとんどなく、人の気配はまったくなかった。
記憶が混乱していた。
さっきまでアキラと一緒だったはずだ。ここは、どこ?そして、この状況は……と考えて、アキラがレイピアで背中から突き刺されたことを思い出した。
「大丈夫だ、姫。彼なら、いずれここにやって来るだろう」
まるでナーナの心を読んだかのように、目の前の男が告げる。それが、パニックを起こしかけたナーナをなんとか押し留めた。
「ここに?」
ラクドの王宮。キスリス神官王。その単語が彼女の心にようやく落ちた。なぜ、わたしはここにいるんだろう、という問いには、自分の中から答えがあった。連れて来られたんだ。無理矢理。騎士に。ラクドの騎士に。
アキラから引き離されて。
レイピアで突き刺された、アキラから。
心臓が早鐘のように打ち、意識が遠のきそうになるのをなんとか抑えて、ナーナはごくりと喉を動かした。
気を失っている場合じゃないと、何度も自分に言い聞かせる。
ナーナの頭が、ようやく回り始めた。
「せっかくですが」
ナーナは男を睨むように見上げた。
何故か判らなかったが、口中がカラカラに乾き、喉が酷く痛かった。それでも腹の底から声を搾り出して、彼女は続けた。
「供のところに返していただけませんか。わたしにご用がおありでしたら、供と改めてお伺いいたします」
火を噴くような視線を見えぬ目で受け流し、神官王が答える。
「姫の要望にお応えしたいのだが、私にも都合があってね。彼はほどなく来るよ。2日ほどもすれば。その間、この城に滞在していただきたい」
キスリス神官王が、ナーナの両側に立った騎士に頷く。
騎士は黙ってナーナの指を縛っていた紐を切ると、くるりと踵を返し、二人揃ってホールを出て行った。ナーナの背後で重い扉が開き、再び閉じる音が、陰々と木霊した。
今なら、とナーナは思った。今なら、逃げられる。
そこに、神官王が声を被せた。
「あらかじめ言っておくが、ここに精霊を呼ぶことはできない。ラクドの城壁内には何モノも入っては来れないからね。それと、もし、今考えている、重力結界か?、それなら使えるかも知れないが、使う際にはよく考えた方がいい。なにせ、ここはラクドなのでね。何が起こるか判らない」
ナーナは息を呑んだ。まさか、とキスリス神官王を凝視する。
「ああ、そうだ。私は他人の考えていることが、少しなら判る。我が妹ほどではないがね。妹には後で紹介しよう。姫の部屋を用意させてある。まずは寛ぎたまえ」
侍女だろう、女が二人、柱の陰から姿を現した。暗い顔をした侍女だった。いや、城内そのものが、物理的に薄暗いだけでなく、どこか淀んだ川のような暗さと薄気味悪さを湛えていた。
「まあ、ゆっくり待ちたまえ。君たちの探し物は、ここに在るのだから」
と、神官王は言った。




