7-1(黒い剣1)
水風呂に浸かって、ヴラドはヒイヒイ言いながらくたばっていた。
冬毛に生え変わった彼は、赤道に近いアレクシの暑さに完全に打ちのめされていたのである。
アレクシに着いて、すでに1ヶ月が経とうとしていた。アキラたちのラクドのビザも、時間はかかったがようやく数日前に取得済みとなっていた。
「おおかみくん」
居間からフランが呼んだ。
「見習君たち、もう出発するわよ」
「おー」と応えて、ヴラドはのそのそと水風呂から上がった。
居間に出ると、旅支度を終えたアキラとナーナ、それに彼が紹介したラクドまでの護衛のガストンがいた。ガストンは、顔中に髭を蓄え、ほとんど真っ黒と言っていいほど良く日に焼けた男だった。ヴラドほどの身長はなかったものの、長身で、腰には長めのナイフを差していた。ついでに言えば、彼は酷く無口な男でもあった。
「もう行くか」
ヴラドの口数が少ないのは、暑さのためである。
「気をつけてな」
「ええ」
「ヴラドさんも、体調には気をつけてね」
フランとの抱擁を解いてナーナが言う。
「見習君もお姫ちゃんも体には気をつけてね。砂漠では熱中症と脱水症状が大敵だから、水を飲むときは少しずつこまめにね。夜は逆に凄く気温が下がるから。それから」
ナーナの短い髪を撫でながら、名残を惜しむようにフランが話し続ける。
「ありがとう、フランさん。砂漠に慣れたガストンさんがいるから大丈夫だよ」
ガストンがこくりと頷く。
「頼むぜ、ガストン」
やはり無言で、こくりとガストンが頷く。
「じゃあ、船の出港時間があるので、そろそろ行きます」
「港まで送って行くわ」
「悪いが、オレはここで」
「ええ。それじゃあ、行ってきます」
「行ってきます」
そう言って、4人は眩しい日差しの中に出て行った。
ガストンを含めた3人が乗った船は、アレクシの港を静かに離れて行った。これから海岸沿いに東進した後、河を南へ遡上し、ラクドに一番近い港町で3人は下船する予定だった。
フランは船が見えなくなるまで見送った後、ヴラドが一人でくたばっているはずのアレクシ滞在用の借家へと足を向けた。
「護衛はもう必要ないわ」
フランは歩きながら自分の影に向かって囁いた。
「ラクドも近いことだし、後はなるようにしかならないわ」
濃い影の中から返事があった。
「ええ。あなたたちの好きになさい」
フランは視線を前に向けたまま、静かに言葉を落とした。
アキラとナーナを乗せた船は順調に行程を消化し、2日目の夜に、ラクドに一番近いポルトの港町に着いた。そこで、アキラはラクドまでの隊商を探す予定にしていた。『ラクドに通じるルートで気をつけなければならないのは、砂漠を流浪する火の一族の襲撃……』と、デアで買ったガイド本に書いてあったが、その火の一族の活動が活発になっているとガストンが聞き込んで来てくれた。
ガストンは、もうひとつ別の噂を拾って来てくれた。
1ヶ月か2ヶ月ほど前に、天まで届きそうな黒い柱が空白の砂漠に現れたというのである。噂では、それはラクドの上空に現れたとのことだった。
「それって、神追う祭りの時に見たあの黒い柱かな」
ナーナの問いに、アキラは頷いた。
「時期と方向も一致しているから、多分そうだと思う」
翌日ガストンが探して来たのが、馬車を5台ほど連ねた隊商である。護衛も20人を超え、襲われる心配はほとんどないだろうということだった。
その隊商に座席を3つ確保し、アキラとナーナはポルトの街を後にした。
出発の際に、アキラは、隊商の最後尾のひときわ大きな馬車に足を鎖で繋がれた人々が乗り込んでいくのを見た。
「あれは?」
「奴隷よ」
アキラの視線を追って、ナーナが答える。
奴隷の中には若い男もいたし、まだ幼い少女もいた。数は20人ぐらいだろうか。
「気になる?」
「あまり気持ちのいいものじゃないから」
少し考えてから、ナーナは頷いた。
「そうだね」
そう言った彼女の口調に微かな違和感を感じて、アキラはナーナを見下ろした。
ナーナは、馬車に乗り込む奴隷の列を黙って見つめていた。アキラはしばらくその横顔を見守っていたが、不意に、「大丈夫だよ、ナーナ」と、静かに言った。ナーナもまた、何がと訊き返すことなく、「うん」と、ただ頷いた。
隊商は空白の砂漠を整然と進み、夜には見張りを立てて休息した。アキラとナーナも、馬車の中で毛布にくるまって肩を寄せ合うようにして眠った。
3日目に、隊商は砂漠の中のオアシスに止まった。
オアシスの一角には、すでに廃墟となってはいたものの、砂漠に建てられているとは思えないほど豪勢な屋敷があった。隊商の護衛に訊くと、それはかつてポルトの富豪の別荘だったものが、富豪が没落して無人と化し、今はこうして空白の砂漠を渡る隊商の休憩場所になっている、とのことだった。
アキラとナーナは、荒れ果てた別荘の中を、影のように付き従うガストンと共に見て回った。別荘には地下室があり、そこは鉄格子の嵌められた牢獄になっているようだった。
「なんで別荘にこんなものがあるんだろう」
「……あまり、趣味の良くない男だったと聞いている」
アキラの疑問に、暗い声でガストンが答える。その牢獄も今は扉が開け放たれ、ただ静かに朽ち果てようとしていた。
地上に戻ると、隊商のリーダーがラクドから来た別の隊商のリーダーと話していた。訛りが強く、早口ではあったが、アキラはなんとか彼らが話している内容を聞き取ることができた。
「火の一族の活動が、かなり活発になっている」
「ラクドの騎士が跳馬で警戒しているが、砂漠は広いからな……」
跳馬という単語にアキラは聞き覚えがあった。ガイド本で調べると、『運が良ければ砂丘の上を跳馬に乗って空駆ける騎士を……』という記述があった。
「跳馬って、空を飛ぶの?」
「うん。ただ、飛ぶっていうより、本当はとても長い距離を跳ねているって聞いたことがあるよ。1回で、10キロとか、20キロぐらいは跳ねるって」
「それはもう、飛んでいるのと同じだね」
と、アキラは応じた。
隊商が火の一族に襲われたのは、旅も終盤に差し掛かった8日目のことである。
昼の食事休憩の時に、岩陰にアキラと並んで座ったナーナがふと、砂丘の向こうを指さした。
「あれが、ラクドじゃないかな」
彼女が指さす彼方、砂丘の果てに、小さな黒いシミのようなものが見えた。
「あれが」
アキラは随分とくたびれてきたガイド本を捲った。
『ラクドの街は、神代の時代に作られたと言われる黒い城壁によって囲まれています。城壁の全周は12キロ、高さは200mあり……』『城壁の素材は今にいたるまで不明で……』
「あれが、ラクドの城壁……」
「うん」
「ようやく、見えるところまで来たんだね」
黒いシミに目を向けたまま、感慨深げにアキラは言った。
「うん。やっとだね」
「そう言えば、ガイド本に『ラクドを治めるのは最後の神官王……』って書いてあるんだけど、神官王って、他の王様と何か違うの?」
「神官王というのはね、神に認められて王になった神官のこと。王と神官を兼ねているから、権威は絶対なの。だって神の権威を背負ってるからね。昔はほとんどの王が神官王だったんだけど、戦乱や内戦で血統が途切れて、今も残っているのはラクドの王族だけなの。えーと、今の神官王は、確かキスリス様というお名前だったかな」
「キスリス様」
「うん。そのキスリス様と妹君の……」
と、ナーナが言いかけたその時。見張りに立っていた護衛が二人、まず犠牲になった。彼らは声を上げる間もなく、何本もの矢を打ち込まれて倒れた。他の護衛が警告の叫び声を上げ、ガストンがいつの間にか二人の傍に身を伏せて忍び寄っていた。
「多い」
周囲に目を配りながらガストンが暗い声で言う。襲撃して来た火の一族の上げる怒声が、あちらこちらから幾つも響いていた。
「うん。こっちの護衛より多いかも」
「もう、囲まれているかな」
アキラも刀を引き寄せて辺りを見回した。隊商の護衛も態勢を整え始めていたが、後手に回ったのは確かだった。
「あちらが手薄になっている」
ガストンが指さしたのは、奴隷を乗せた最後尾の馬車である。奴隷は馬車内に繋がれているのか、叫び声は聞こえたが誰も中から出て来ようとはしなかった。と、小さな人影が馬車から飛び降りた。
「あっ」と思った時には、アキラは駆け出していた。
火の一族の一人が、人影に近づいていた。何かを喚いている。男は駆け寄るアキラを認めたが、魔術師見習いと侮ったか隙だらけだった。
声をかけることなく、また、足を止めることなく、ひと息に走り寄ってアキラは刀を抜いて切りつけた。
切断することはできなかったが、剣を握った男の右腕を狙って切り落したのである。
男が悲鳴を上げようとするところを、さらに一歩踏み込んで喉を突いた。鈍い手応えがあった。その時になってようやく、男の握っていた剣が地面に落ちた。
男の体が痙攣し、大量の血を吐く。
アキラが刀を引き抜くと、男は白目を剥いて崩れ落ちた。
「大丈夫?」
アキラは振り返って人影に声をかけた。ポルトで見かけた幼い少女だった。尻もちをついた少女は、目を見開いたままこくりと頷いた。
「馬車に戻った方がいいよ」
「ありがとう」
短く言葉を残すと少女は走って馬車に戻って行き、馬車の中にいた若い男に引き上げられた。
それを見送ったアキラに、別の火の一族が何か喚きながら大股で近づいて来た。
ふと思い立って、アキラは頭巾を取った。
火の一族の足が止まる。信じられないというように目を見開いて悲鳴を上げようとしたところを、滑るように現れたガストンが背後からナイフで喉を掻き切った。
遠くにいた火の一族の誰かが、「や、闇の一族だぁ!!」と叫んだ。
そうして棒立ちになったところに、護衛が放った何本もの矢が突き刺さった。
「闇の一族だと」と、野太い声が響いた。
ヴラドにも匹敵しそうな巨漢が、いきなり砂丘に立ち上がった。巨漢は、赤黒く日焼けした顔に凶暴そうな笑みを浮かべ、血走った眼を大きく見開いてアキラを睨み据えていた。
「お前がそうか!いいぞ。一度、闇の一族と戦って--」と言ったところで、男の頭部と腹部でズンと、低い音が響いた。
「アキラ」と、背後でナーナの声がする。「いちいち聞かなくていいから」
「あ、はい」と応えたアキラの目の端で、巨漢が地響きを立てて倒れた。ナーナが、男の体の中で火球を炸裂させたのである。
「これで3人目かな」
辺りに目をやりながら、強張った声でナーナが言う。
「オレは5人だ」
いつの間にか傍に近づいていたガストンがぼそぼそと呟く。
「こちらが押してる」
そう言われて見ると、道路にも砂丘にも、火の一族のものと思われる死体が幾つも転がっていた。護衛の死体も転がってはいたものの、数は火の一族のものと思われる死体の方が明らかに多かった。
「跳馬だ!」と声が上がった。それに続いて、隊商の護衛や乗客の上げる歓声が湧き上がった。
「アキラ、あれ」
ナーナがアキラの服を引っ張り、空を指さす。ナーナの指さす先、そこに、数十頭の馬が浮いていた。
「あれが……」
こういう状況にも関わらず、跳馬を見たアキラが咄嗟に思ったのは、『やっぱり、非現実的だなぁ……』ということだった。羽根でもあればまだしも、姿形がまったく変わらない普通の馬が、空中に浮いているのである。
ナーナは、跳馬は飛んでいるのではなく跳ねていると言ったが、実際に目にすると、空を駆けていると表現した方がより相応しかった。跳馬は空中に留まることなく、4本の足を常に動かしていたのである。
跳馬に乗った騎士が、馬上から火の一族に次々と矢を放っていく。
地面に降りた跳馬は、騎士の巧みな手綱さばきに従って、一人、二人と火の一族を追い詰め、騎士が止めを刺していった。
「どうなるかと思ったけど」
抜き身の刀を手にしたまま、アキラは言った。
「助かった、かな」
今や騎士たちは、火の一族の残党がいないか確認している状態だった。
「アキラ、頭巾」とナーナが囁く。あっと、アキラはずっと握っていた頭巾を被った。ナーナが髪が完全に隠れているか確かめる。
跳馬を降りた騎士の一人が、隊商のリーダーと話していた。リーダーがこちらを、ナーナを指さす。騎士が頷き、ナーナを見た。
騎士が歩いて来る。口元に笑みを浮かべて。
ふと、アキラは嫌な予感を覚えた。
騎士はナーナを見下ろして、「カナルのナーナ魔術師ですか」と問うた。
「はい、そうですが。何かご用ですか?」と、営業モードの少し低めの声でナーナが答える。騎士が、周囲で見守っていた他の騎士に頷く。
いつの間にかアキラの背後に立っていた騎士が、レイピアを、アキラの背中から胸へと突き刺した。




