6-1(封印の城1)
『これよりスゥイプシャー。注意』
何もない荒地にポツンと立てられた小さな立て看板には、朱書きでそう大書してあった。
注意って何を、とアキラが思ったのは当然である。
「アキラ、ちょっとここからあっちに走って行ってくれる?」
ナーナが指さしているは、立て看板の向こう側だ。岩の転がる立て看板のこちら側と異なり、立て看板の向こうにはきめの細かい砂地が広がっていた。
「何のために?」
アキラが問い返したのも、やはり当然だろう。
「いいから。危ないことはないから。多分」
怪しさ満載だったが、瞳を明るく輝かせたナーナと、悪戯っぽい笑みを浮かべたフランの様子からすると、アキラに選択の余地はなさそうだった。ナーナとフランの後ろに立ったヴラドは、仕方ねえとでも言いたげに肩をすくめた。
「はいはい、お師匠様」
アキラは荷物を下ろし、駆け出した。
最初は普通に走れていたが、看板を越え、一歩地面を蹴った途端、体が大きく宙に飛んだ。
「ええっ」
声を上げ、空中でじたばたする。ゆっくりと、体が落ちて行く。次の一歩でも同じことが起こった。変な声を上げながら妙なジャンプを繰り返し、最後に足をもつれさせて、アキラは砂地に転がった。
砂地はこうなることを想定していたのだろう、衝撃を優しく吸収してくれた。
顔を上げると、意外なほど遠くでナーナとフランが声を上げて笑っていた。
「いま行くねー」
ナーナが注意深く看板を越え、ぴょんぴょんと跳ねながら近づいて来る。その歩き方に、アキラは見覚えがあった。
アポロの月面着陸だ。
つまりここは重力が弱いんだ、とアキラは気づいた。
ナーナが注意深くアキラの隣に止まり、手を差し出す。
「ごめんね、アキラ。驚いた?」
「驚いたよ。どうなってんの、ここ」
そう言いながら、アキラはナーナに引き起こされた。
「わっ」とナーナが声を上げる。予想外にアキラを軽く引き上げられたからだ。今度はアキラが、勢い余って倒れそうになるナーナを支えた。
「大丈夫?」
「うん。ありがとう。面白いでしょ?」
「重力が弱いんだね、ここは」
「そう。大災厄以降からね」
フランとヴラドも、ナーナと同じように跳ねながら近づいて来た。いつもはスカートのフランが、ズボンに着替えているはずである。
「おおかみくん、ここでちょっと飛び上がってみてもらえる?」
アキラとナーナのところまで来ると、フランがヴラドを見上げてそう言った。
「おお、いいぜ」
ナーナとフランが歓声を上げた。ヴラドの巨体が、10m以上も飛び上がったからである。落ちて来るのも遅い。
「おお、面白れぇな」
着地したヴラドが言う。
「そうだ、ヴラドさん、わたしを投げ上げてみてもらえる?」
「嬢ちゃんをか?」
「うん。でも気をつけてね。真上に投げないと、歩きにくい分、受け止めるのは難しいから」
「なるほどな。よし、じゃあ、行くぜ」
ナーナを両腕で抱え、慎重に、ヴラドは彼女を放り上げた。力を加減したのだろう、それでもナーナの体は、10m以上は飛んだ。きゃあきゃあ歓声を上げながらナーナがまっすぐ落ちて来る。
足元を慎重に定めてヴラドが彼女を優しく受け止めた。
「ありがとう、ヴラドさん」
ヴラドの腕から降りて、ナーナはアキラに跳ね寄った。明るい笑顔を浮かべ、息が弾んでいる。
「落下中は自分の重さを感じないってアキラが言ってたの、ちょっと判ったよ」
「ああ、そのため?」
「もちろん面白そうだから、でもあるけどね」
そう話す二人の前で、今度はフランがヴラドに放り上げられていた。
「ここで走り幅跳びをしたらどうなるのかな」
「質量がなくなってる訳じゃないから、水平方向に物体を動かすのは他のところと何も変わらなくて、踏み切りが弱くなる分、遠くには飛べないんじゃないかな。助走するだけでも大変だし。でも、落下速度は遅くなるから、難しいところだね」
「おおかみくん、もう一回」
「おお、任せとけ」
フランとヴラドはまるで子供のようにはしゃいでいた。フランの体が何度も空中に舞い上がり、彼女の明るい笑い声が響いた。
「アキラ、空を見てみて」
「えっ」
ナーナに言われてアキラが見上げた空は、青いだけではなかった。
白い雲の上に、紫や赤、様々な色がまるで川のように流れていたのである。
「なに、あれ」
「ここね、重力が一律に弱いんじゃなくて、おかしいの。場所によっては重力が強くなってるところもあって、たまに重力嵐という重力異常の嵐も起こるしね。でも、スゥイプシャー全体では他のところと同じように1気圧に保たれているの。
奇妙でしょ?」
「それと、この空と、なにか関係あるの?」
「師匠はそう考えてた。多分、相当高度な風の精霊の術で大気を安定させているんじゃないかって。空がおかしいのはその影響じゃないかって。
スゥイプシャーでは雨もほとんど降らなくて、年間300日以上は晴天なの。スゥイプシャーの周辺では土砂降りの雨が降ってるのに、スゥイプシャーでは快晴だったっていうこともあるみたい」
「フラン、オメエ、オレに何回投げ上げさせる気だ」
少々肩で息をしてヴラドが文句を言う。
「ありがとう、おおかみくん。楽しかったわ」
先ほどまできゃあきゃあ言っていたとは思えないクールさでフランが微笑む。
「お姫ちゃん、そろそろ行きましょう」
「うん。判った」
ナーナが頷き、一行は再び砂漠を歩き始めた。
歩いている途中でヴラドが「足元が軽すぎていけねえ」と言い出し、フランとナーナを左右の肩にそれぞれ担ぎ上げた。
「まだ軽いが、さっきよりはいいぜ」
アキラは、フランとナーナの荷物を担いで3人の前に立った。
歩いていると、途中、ナーナの言った通り重力が変わるところがあり、その度にアキラは倒れそうになったり逆に大きく弾みそうになったが、後ろから来るヴラドは二人を担いだまま、アキラの様子を見て慎重に歩みを変えていた。
1時間ほど歩いただろうか。ヴラドの肩の上で、ナーナが「あっ」と声を上げた。
「見えたよ、アキラ。あれがスゥイプシャーの街」
言われて顔を上げて、「えっ、あれ?」と、アキラは思わず声を上げた。
その街を描写するのは難しい。
難しいが、あえて一言でいえば、それは砂漠に忽然と現れたラスヴェガスの街そのものであった。
「賑わっているなー」
「当然。ショナ随一の歓楽街だもの」
「愛すべき、ギャンブルの街だ」
「……なんで、歩いて来る必要があったんです?」
盛り上がる3人の後ろを歩きながら、アキラは当然の疑問を口にした。
ナーナの言った通りスゥイプシャーには重力異常があるが、その中でもなるべく1Gに近いところを選んで街道が通っており、それは近隣の街から、今4人が歩いている目抜き通りまで途切れることなく続いていたのである。
乗合馬車も頻繁に走っており、歩いて来る必要などまったくなかったのだ。
重力が弱くなっている区間は馬と馬車に重りを乗せるための駅舎が両側に設けられ、逆に重力が強くなっているところは極力迂回しているとのことだった。
「そこはほら。アキラを驚かせたかったから」
アキラの問いに、まったく悪びれることなく、ナーナが答える。
スゥイプシャーの街も1Gに近いところに多くの建物が建てられていたが、街から少し離れたところには、こちらに来てから初めて見るような高い塔も建てられていた。おそらくアトラクションのひとつなのだろう、そこから人が飛び降りているように見えて、アキラは身震いした。
もしあの塔に行けば、彼がまず飛び降りなければならないのは火を見るよりも明らかだった。
「あの塔とは逆に、わざわざ重力が強いところに建てたスポーツジムもあるよ」
「……いろいろ突っ込みたくなる施設だなあ」
「一番怪しいのが高重力風呂かな。血行が良くなるってことだけど」
「逆でしょ?」
「うん、そう思う。でね」
ナーナが塔を指さす。
「あの塔、ああ見えて簡単には倒れないように建ててあるの。重力嵐が来てもそうそう倒れないようにね」
「さっきも聞いたけど、重力嵐って何?」
「スゥイプシャーではね、重力が極端に強い嵐が発生することがあるの。2G~3Gぐらいの嵐。そうすると造りの脆弱な建物はすぐに潰れちゃう。過去には、20G~30Gなんてとんでもない嵐が発生したって記録もあるらしいけど、そんなの百年に1回という頻度だから」
アキラはなんだか嫌な予感がした。そういう滅多に起こらないことが起こるのが、大概の物語の常道である。
聞かない方が良かったかと思ったが、もう遅い。
「嬢ちゃん、ここには何泊する予定だ」
珍しく少し浮かれた口調でヴラドが訊いた。
「1泊だけの予定よ」
「……」
「ヴラドさん。ここ、宿泊料が馬鹿高いんですよ。来てみて理由が判りました。明日、出発です」
「……な」
「えっ?」
「……なんのために、ここまで来たんだ!!」
「え?重力異常がどんなものか見たかったから」
不思議そうにナーナが答える。
「スゥイプシャーに来て、ギャンブルもしないで帰るなんて、オメエら人生を間違ってる!」
「間違っていると言われましても」
アキラが冷静に応える。
「オレの人生のモットーは、地味に、堅実に、ですから」
「わたしもギャンブルには興味ないよ」
「いいえ、間違っているわ」
決然とした口調でフランが言う。
「おお、フランもそう思うよな!」
「そうそう。せっかくスゥイプシャーに来たんだから、低重力を利用したアクロバティックショーは見ないと」
ヴラドの目が点になった。
「あ、それはわたしも興味ある。じゃあ、今晩はそれを見るということで。明日、出発ね。ギャンブルはなしで」
「低重力を利用したショーですか。それは面白そうですね」
「すごいらしいわよ。あたしもお店で噂でしか聞いたことがないけど、死ぬまでに一度は見ておいた方がいいって言うお客さまばかり」
「じゃあ、チェックインして、チケットを買いに行きましょう。あ、宿泊代が高い分、ホテルで斡旋してくれるかも知れないですね」
「ここ、魔術師協会の保養所もあるの。協会の支部もあるから、そちらで手に入れられるかも」
3人は楽しそうに話しながら予約したホテルに向かって歩き始めた。
後には、呆然と立ち尽くすヴラドが一人、取り残されていた。




