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1-3(名のない少女3)

 助けて。誰か。誰か、助けて……。



 ベッドから落ちた……!

 意識が立ち上がるように目覚め、アキラは小さく声を上げた。

 反射的に体を固くして落下に備える。しかし、30cmほど下にあるはずの畳に、彼の体はいつまで待っても叩きつけられなかった。

 瞬きをする。何も見えない。

 再び瞬きをし、アキラは自分の手を目の前にかざしてみた。やはり、何も見えない。

 手足を動かしてみる。動く。しかし、いくら動かしても手足は空を切るばかりで、触れるものは何もなかった。

 自分の体を探ると、下宿近くの総合スーパーで買った安物のパジャマを着ている感触があった。

 やっぱりベッドから落ちたんだ、と思ったものの、奇妙な浮遊感があり、落下しているという実感はなかった。

 目覚める直前に、夢の中で、助けを求める声を聞いた記憶が微かに残っていた。

 どこか聞き覚えのある声だった。女性の--確証はなかったが、おそらく少女と言ってもいいぐらい若い女性の--。

 ……まるで、鈴の音のような……。

『ワレヲ!』

 割れるような大声が、突然、アキラの頭の中で弾けた。

『カイホウセヨ!!』

 火花が飛び、視界が青く染まる。

「うわっ!」

 アキラは声を上げて跳ね起きた。


 激しい痛みがこめかみを襲い、小さく悲鳴を洩らして歯を食いしばる。

 再び閉じたまぶたの裏に、まるで手を伸ばせば届くのではないかと思えるほどの現実感を伴って、ひと振りの剣の姿が浮かんだ。

 しかし、それは本当に剣なのだろうか。

 以前から知っていたかのようにアキラはそれを剣と認識したが、同時に、これのどこが剣なんだという疑念が、彼の心の片隅を掠めて、消えた。

 鍔はなく、柄と刀身の境もあいまいで、長さは1mほど。何より異様なのは、まるで空間に浮かんだ裂け目でもあるかのように、それが漆黒だったことである。

『……これは、例の有名な……?』

 こめかみを抑えながら、まぶたを上げる。

『ああ、でも、ルーン文字が刻まれてなかったかな。ルーン文字がどんなのかは知らないけ…ど……』

 ふうと長い息を吐いて顔を上げたアキラの動きが止まる。状況に認識が追いつかず、思考も停止する。

「どこだ、ここ?」

 ベッドに体を起こしたまま、アキラは呆然と呟いた。

 そこは、広さが3畳ほどの狭い部屋だった。

 家具は、アキラが横になっている背の低いベッドの他には脚の短い机があるだけで、机の上にも床にも、百科事典ほどの大きさの妙に分厚い本が足の踏み場もないほど積み重ねられていた。板張りの壁にはランプが掛けられ、暗いオレンジ色の光が見知らぬ部屋に薄い影を作り出していた。

 下宿で寝ていたはずだった。大学からはいささか離れているものの、格安で、今にも倒れそうな二階建て木造の狭い部屋の、狭い狭いベッドの上で。しつこく呑み続けようとする先輩方を追い立てるように旧学生会館の部屋から追い出し、明日の学祭最終日に備えて下宿に戻って早めにベッドに横になった、はずだった。

 アキラは改めて室内を見回した。

 時代錯誤と言ってもいいような年季の入ったランプ。妙に表紙の厚い書物の山。当然と言うべきか、室内のどこにもスイッチもコンセントもなく、電気製品が使われている気配はまったくない。

『夢……じゃないな』

『先輩方の悪戯……、うーん。そうだとしたら凄いけど、多分、違うな』

『つまり、これは……、アレ、か?』

 カタリと、天井から小さな音が響く。アキラは息を呑んだ。しかしそれっきり、暗い影が淀む天井はシンと静まって、何の物音もしなかった。

 誰かいる。

 アキラはベッドから降りた。足音を忍ばせ、ドアノブに手を掛ける。片開きの木製の扉に鍵穴は見当たらなかった。音を立てないよう注意しながら少しだけ押す。開く。

 そこでアキラは、何かに気づいて動きを止めた。

 右手で自分の顔を探る。

 眼鏡が、ない。

「マジか……」

 小さく呟く。

 彼の視力は0.1程度しかない。

 眼鏡なしに、これほどはっきり物が見えるはずがなかった。

 アキラはそっと扉を押し開いた。扉の陰から様子を窺う。灯りはなく、壁に設けられた窓から音もなく闇が滲み落ちていた。

 部屋の様子から、居間、とアキラには思われた。

『ま、考えるのは、後回し……と』

 アキラは部屋を抜け出すと、そっと後ろ手で扉を閉じた。


 彼女を見つけたのは、2階の書斎と思われる部屋である。

 そこで彼女は、床に広げた何冊もの本を、板張りの床に直接座り込んで、半ば這いつくばるようにして読み耽っていた。戸口に立ったアキラにも気づかず、ぶつぶつと何か呟きながら、時折、両の手を複雑に動かしていた。

 彼女の手に合わせて何かが動く気配があった。

 ランプの灯が、風もないのに不規則に、不自然に揺れていた。

『何か、いるのか……?』

 アキラは注意深く室内を見回したが、背中を向けた彼女以外には誰の、何モノの姿も認めることはできなかった。

 彼女が短く息を吐いて体を起こす。

 それに合わせて、アキラは開きっ放しになっていた扉を軽くノックした。

 木の香が漂うような濃い栗色の瞳が、アキラに向けられる。

 意外なことに、驚いた様子はなかった。

 まだ若い。16,7歳ぐらいだろうかとアキラは推測した。可愛い少女だった。化粧っ気はなく、短く肩まで落とした髪は瞳と同じ濃い栗色で、肌は白く、どうやらと、立ち上がる彼女を見つめながらアキラは考えていた。火星に飛ばされた訳ではないらしい--と。

 立ち上がった彼女の華奢な体にはまだどこかに幼さが残り、アキラは年齢の見積もりを少し下方に修正した。

 身長は、160cm前後といったところだろう。

『知らない子だけど』

 と、思う。

『……なんだか』

 アキラに向けられた彼女の瞳が、輝いているように見えた。まるで、新しいおもちゃを見つけた子供のように。

『……』

 しかし不思議と、嫌な感じはなかった。

 少女がアキラに話しかける。よく通る透明感のある声だった。だが、内容は……まったく理解できなかった。

 彼に理解できたのは、彼女が話しているのが英語ではなく、第2外国語として選択したドイツ語でもなく、彼がこれまで聞いたことのある他のどの言語でもない、ということぐらいだった。

 日本語は通じないだろうな、と思いながら、アキラもまた、彼女に話しかけた。

「こんにちは。いや、こんばんは、かな。ここはどこだろう?」

 訝し気に、少女が首を傾げる。そして、少し発音を変えただろうか、アキラの表情を窺いながら、幾つかの言葉を繰り返した。疑問形らしいということぐらいは、彼女の口調からアキラにも理解できた。

 返事を待つように口を閉じた彼女に、アキラは再び話しかけた。

「君、ひとり?他に誰か住んでいないの?残念ながら、君の言うことは判らないんだ」

 不満げに、低く少女が唸る。

 下から覗くようにアキラを見て、何かを問いかける。本当に判らないの?そう訊かれたと理解して、「ごめんね、判らない」とアキラは答えた。

 少女が拳で自分の額を軽く叩く。

 濃い栗色の瞳がアキラの身体を下から上へと探るように見て、その視線がアキラの顔に、いや、もう少し上、黒い髪に止まる。

 観察されてるなぁ。そう思い、居心地の悪さを感じながら、アキラは彼女に再度、話しかけた。

「とりあえず、名前を教えてくれないかな。オレは、トダ・アキラ。いや、アキラ・トダって言う方が、ここではいいのかな」

 少女がアキラの顔に視線を戻し、目で何?と問い返す。

 アキラは自分の胸を指さした。

「ア・キ・ラ」

 異文化との接触ではボディランゲージは気をつけた方がいいかも知れないと思ったが、もう遅いか、と言葉を続ける。

「な・ま・え。オレは、ア・キ・ラ」

 小さく少女があっと声を上げる。そしてアキラを指さし、「ア・キ・ラ」と言った。

「☆☆☆☆☆、☆☆☆☆☆、ア・キ・ラ」

「そうそう、<名前>」

 彼女が名前と言ったと思われる単語をたどたどしく繰り返し、アキラは少女を指さした。

「君の、<名前>は?」

 彼女の表情が--なぜか--曇る。何かを言いかけ、ためらい、口をつぐむ。しかしすぐに意を決したように顔を上げ、少女はアキラをしっかりと見返した。

 意表を突かれた。

 ひたむきな彼女のまなざしに撃たれて、心が白く染まる。ああ。と思う。ただ、ああ、と。白く染まった心で、幾筋かの光がしなやかに舞った。

 少女がアキラに話しかける。白い心に色が戻り、彼の想いは幻となって消えた。

 <名前>という単語を挟みながら、首を振り、少女が懸命に言葉を続ける。理解してもらえないもどかしさが、声にも表情にも滲んでいた。

 今度はアキラがあっと声を上げた。

「もしかして、<名前>がないって言ってるの?」

 僅かな、本当に僅かな間を置いて、少女が頷く。その僅かな間に、少女の顔を理解と驚きが駆け抜けて行った。アキラも同じだ。言葉が通じていないにも拘らず、伝えようとした内容だけでなく、お互いに相手が理解したことをも、ただ表情から理解できたからだ。

 少女が自分を指さし、<名前>という単語を挟んでアキラに話しかける。何を言っているのかやはり判らない。

 しかし、<彼女に名前がない>ということを正しく理解できたという不思議な確信が、アキラにはあった。

「何故、名前がないの?うーん、まぁ理由は後でもいいか。じゃあ、仮でいいからさ。君を、えーと」

 ふと、ひとつの名が浮かんだ。それは何故か、彼女にとても相応しい名前のようにアキラには思えた。

「ナーナ、って呼んでいいかな」

 首を傾げた少女の細い肩で、短い髪が揺れる。

「ナーナ。君の<名前>。ナーナ、ってどうかな」

 少女の瞳で理解の光がまたたき、不安がそれに続いた。

「☆☆☆☆☆、<名前>、☆☆☆☆☆?ナーナ?」

 少女は自分の胸に手を当て、囁くようにそう言った。彼女の様子を訝しく思ったものの、アキラは頷いた。

「そう。ナーナ」

 明らかな戸惑いが少女から落ち着きを奪い、大きな瞳が頼りなく泳ぐ。動揺のあまりいまにも泣き出しそうなほど歪んだ顔がアキラに向けられ、それはすぐに、喜びとも怒りともつかない複雑な表情に変わった。

 少女の手が素早く動き、印らしきものを結ぶ。ヤバイ、とアキラが思った時には手遅れだった。

 部屋の中から轟と風が吹いて、踏ん張る間もなく彼は後ろへ吹き飛ばされていた。


 廊下の欄干に打ち付けられ、ぐぅと唸る。ずるずると滑って尻もちをついたアキラの前で、開いていた扉が音を立てて閉じた。

 扉が閉じる前に、立ち尽くす少女の姿がチラリと見えた。

 困惑と驚きに見開かれた瞳が、まっすぐアキラに向けられていた。

 うーんと唸って固く閉じた扉を見つめ、『私の王女さま……とは、言わなかったつもりなんだけど……』と、アキラは胸のうちで一人ゴチた。

 苦い罪悪感が胃に落ちた。

『よく判らないけど、何か悪いことをしたかな……』

 立ち上がり、扉をそっとノックする。

 ほどなく、ためらいがちに扉が開かれ、扉の隙間から少女の濃い栗色の瞳がアキラを見上げた。

 きれいな目だな、と、音のない清流のように、アキラは思った。

「あの」と言ったアキラの声に、少女の声が重なる。しかしそれに構わずアキラは言葉を続けた。

「ごめんね、何か怒らせたかな。ここの風習をよく判ってなくて」

 その声にも少女の声が重なり、二人はまるで申し合わせたかのように口を閉じた。そうしてしばらく見つめ合っていた彼女の口元に、微かな笑みが浮かんだ。

 それはすぐに、押し殺した低い笑い声になった。

 少女が自分を指さす。

「ナーナ?☆☆☆☆☆、<名前>、ナーナ?」

「えっ。ああ……!」

 彼女の質問の意図を察して、アキラは頷いた。

「そうそう。ナーナ。気に入ってもらえた?」

 少女が頷く。そして彼女は、アキラを見つめたまま、どこか気取った仕草で自分の胸に右手を添えた。

「☆☆☆☆☆☆☆☆。アキラ」

「うん。よろしく。ナーナ」

 彼女が頷き、アキラに何かを話しかける。もちろん、言葉としてはアキラには理解できない。しかし、彼女の気持ちを察するには充分な、明るい朗らかな声だった。

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