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4-7(宦官の帝国7)

「あら、片付いたようね」

 女の声が、濃い闇の向こうから響いて来た。

「どう、質問に答えてくれる?」

 何も見えない闇の中で、後ろ手に縛られ、どことも知れぬ土の上に転がされたシュ・ガイは激しく首を上下させた。

「な、何でもお答えいたします。で、ですから、も、もう、し、死なせて……」

 涙を流し、涎を垂らしながらシュ・ガイは、声の主に懇願した。

「そう。いい子ね」

 優しい声で女が応える。しかし、闇に紛れた女の姿を、シュ・ガイはまったく見ることができなかった。声そのものも四囲から響いてくるようで、女がどこにいるのかシュ・ガイにはまったく見当がつかなかった。

「それじゃあ、教えてくれる?あなたの上司は、見習君をラカン帝国に連れて帰る理由を、彼が世界を滅ぼすって予言が3ヶ月ほど前にあったからって言ってたわ。でも、もう5ヶ月も前から、この世界のどこでも予言なんて行われていないはずなの。

 誰がそんな予言をしたか、知ってる?」

 シュ・ガイはすでに、見習君というのが、彼が連れ帰るように命じられた”残され人”のことだと理解していた。

「し、知りません。本当です。ほ、本当……。だから、だ、だから、もう……!」

「素直に答えてくれれば、酷いことはしないわ。本当ね?」

「は、はいぃぃぃぃ!」

「そう。じゃあ、質問を変えるわ。最近、後宮に新しい女が入って来なかった?歳は、あたしにも判らないけど、巫女のような誰かが」

「います、おります、確かに、おります。そ、そうだ、あの、あの女が予言をしたのに違いありません、主上は、しゅ、しゅ」

「どんな女なの?」

「い、いつもベールで顔を隠しているので、良くは、し、知りません。で、ですが、わ、若い女と、思います。ラ、ラクドから来たと。う、失われた、失われた神、月神の巫女だと……」

「そんなことを、あなたたちは信じたの?月神の巫女なんて、今はもう、シェルミ様しかいらっしゃらないのよ。それに、シェルミ様はまだ6歳にしかならせられない。そんなことも知らないの?」

「知っております!」

 シュ・ガイが叫ぶ。声に激しい怒気が含まれていた。

「で、ですが、主上はあたくしどもの言うことを一切聞いてくれませぬ!ご、5ヶ月前から、よ、予言の類が、すべてできなくなってから。主上は、変わってしまわれた!」

「そう」

 まったく感情のない声で女が頷く。

「ありがとう、質問は以上よ。それじゃあ、約束通り死なせてあげる。でもその前に、いいことを教えてあげるわ。貴方たち宦官がどうして死なないか、知ってる?」

「えっ、そ、そ、れは、あたくしどもの子孫の命と引き換えに--」

 嘲笑が闇に響いた。

「本当にそんなことを信じているのね。生まれなかった子孫がいつまで続くかなんて誰が判るの?」

「そ、それは、運命の3女神が……」

「違うわ。誰にも、生まれなかった子孫がいつまで続くかなんて判らない。例え神でもね。この業に、未来を見る女神は不要よ。必要なのは、過去を司る神だけ」

「そ、それは、どういう……?」

「この業はね、少しだけ過去に、貴方たちの体のコピーを置いているの。そして、貴方たちが死ぬとコピーに記憶を転写して、今、という時間に戻すのよ」

「し、しかし、確かにあたくしたちの仲間が、たまに……」

「寿命が尽きたように、死ぬ、って言いたいのね。それはね、貴方が主上と呼ぶ男が、術がそれらしく見えるようにランダムに、術の源である貴方たちの男性器を処分しているからよ」

 自分の言ったことが相手に伝わるように、女は間を置いた。

「あたしが、そうするようにあの男に言ったの。この術をあの男に教えた時にね。何故、あたしにそんなことができるのか知りたそうね。それはね、あたしがこの術を構築したからよ。200年ばかり前に、この術を、あたしがね」

 静かに笑って女が言葉を続ける。

「死ななければ権力を握り続けることができると、あの男は言ったわ。だから、この術を構築して教えてあげたの。莫迦な貴方たちは、この術に飛びついた。自分から男であることを捨てて、力と権力を求めた。それがどんなに滑稽なことか知らずにね」

 楽しそうな女の笑い声が、闇に吸い込まれて行く。

「お、おま、おま……」

 恐怖のあまり、シュ・ガイは言葉を発することさえできなくなっていた。彼の価値観が根底から覆されていく中、シュ・ガイは、発狂しそうになりながら女の言うことを何とか理解しようとしていた。

「そういう訳でね、貴方たちを殺すには、貴方たちの男性器を処分するか、もしくは、コピーの方を何とかするしかないの。でも、過去に置いたコピーを何とかするなんて誰にもできないわ。誰も、過去を変えるなんてことできないもの。でもね」

 女が言葉を切る。

「あたしにはできるの。お母さまほどは上手くできないけれど。お母さまの娘である、あたしたちなら」

「あ、あたし、たち……?」

「あら、少し話しすぎたかしら。お姫ちゃんたちが帰ってくるわ。それじゃあ、楽にしてあげる。いろいろ教えてくれてありがとう。ゆっくりおやすみなさい、お莫迦さん」

「ま、ま、待て、まだ、話を……お、お前は、お前らは、いった」

 そこで、シュ・ガイの意識はぶつりと切れた。そしてどさりと、彼が縫い付けられていた壁の前に、ただの魂の抜け殻となった彼の体が放り出された。彼を後ろ手に縛っていた縄はいつの間にかなく、肩の傷はおろか、彼の体のどこにも傷はなかった。しかし、恐怖に見開かれた瞳も、何かを問おうとするように開かれた口も二度と動くことはなく、彼が何を最期に言おうとしたか誰にも判らぬまま、宦官は息絶えていた。


 たまたま近くを通り掛かった住民の若い男に、軍への通報を依頼したのはナーナである。

 若い男はナーナの話を聞きながら、彼女の背後をちらりちらりと気にしていた。念のため一緒にいた方がいいだろうという判断で、ナーナの背後には髪を隠したアキラと、後ろ手に縛った犬男を引っ立てたヴラドが控えていたからである。

 ラカン帝国の宦官と聞いて、ヴラドの顔見知りの大尉がかなりの大人数を引き連れてすぐに駆けつけて来た。彼らは頭部を破壊されて倒れた死人の数の多さに驚き、新しい神の英雄の死体と宦官の死体を前に言葉をなくして立ち竦んだ。

「本当に、アレをヴラド殿がお一人で?」

 信じられないといった口調で訊く大尉に、ヴラドは頷いた。

「宦官は、オレがヤったんじゃねぇがな」

「ではなぜ、宦官は死んだのですか?」

「さてな」とヴラドが応える。

 ナーナはヴラドの隣に立ち、アキラは少し離れて二人の後ろに控えていた。犬男は軍に引き渡し済みである。宦官の死体も死人もほとんど運び去られ、ヴラドが蹴破った扉を、軍の工兵が修理する音がテンポよく辺りに響いていた。

「アイツがなぜ死んだかは知らねえ」

 と、シュ・ガイの死体があった借家の前に、ヴラドは軽く顎をしゃくった。

「だが、森の奥のヤツがなぜ死んだかは知ってる」

「それは?」

「ヤツの主人、おそらく皇帝じゃなく、腐った宰相の方だろうな、ソイツに呪いをかけられていたそうだ。ショナに来た理由をしゃべれば、死ぬ、とな」

「ほう」

 と大尉が声を上げる。

 まだ若いが、街の治安の責任者である。ヴラドの話を聞く表情にも声にも、年齢以上の落ち着きがあった。

「それでは、ヴラド殿はその理由を聞き出したということですね。どんな理由だったのですか?」

「3ヶ月前に予言があったそうだ」

「予言……ですか」

「ああ」

「どんな予言だったか、お聞かせいただいてもよろしいですか?ヴラド殿」

「オレが、腐った宰相を殺す……だとよ」

 まったく口調を変えることなく、ヴラドが言う。ヴラドの隣のナーナは黙ったままで、アキラも口を挟むことはしなかった。

「ほう」

「最初は、力を貸して欲しいとホザきやがった。傭兵として雇いたいとな。しかしどうも胡散臭いんで、断った。それだけのことを言うためにわざわざ宦官がこんなところにまで来るはずがねぇからな。

 そしたら、このザマだ。

 しかし、まさか死人使いとはな」

「貴方が捕えた獣人は、そちらの」

 と、大尉がアキラに視線を送る。

「黒髪の”残され人”を殺すように依頼されたと証言しているのですが、それはどういうことでしょう」

 ヴラドが肩をすくめる。

「さてな。ヤツラが何を考えていたかなんてオレには判らねえよ」

「そうですね」

 大尉が頷き、ヴラドから視線を外す。まだどこか納得できないという表情だったが、ヴラドはこれ以上何かを説明するつもりはなかった。

 新しい神の英雄の死人を使ってまでヴラドを襲ったのだ。外形的には、宦官がヴラドに対して総力を注いでいたことは疑いようがない。だとすれば、後は大尉が勝手に、自分が納得できる理由を考えるはずだとヴラドは踏んでいたのである。

「了解いたしました。また質問をさせていただくこともあるでしょうが、今はこれで十分です。しかし--」

 大尉が堅苦しい表情を崩し、親しみに満ちた笑みをヴラドに向けた。

「ラカンの宦官を倒すとは。さすがですね、ヴラド殿。ラカンの宦官の死体を見たのは初めてですよ」

「オレがヤったんじゃねぇと言ったろ?それに、ヤツラも大したモンだったぜ」

「そうですか」

 ヴラドの言葉を謙遜と受け取ったのだろう、にこやかに笑って、大尉は3人の前から立ち去った。

「ヴラドさん」

 大尉が他の兵と話し始めるのを見つめながら、アキラはヴラドに囁いた。

「なんだ」

「ホントは、宦官は何と言ったんです?」

 ナーナも、顔を強張らせてヴラドを見上げた。嘘を本当らしく見せるために、ヴラドが話の主語だけを変えたのは明らかで、だとしたら予言の話は本当なのだと彼女もとっくに察していた。

 問題は、予言の内容だ。

 辺りを忙しげに歩き回る兵士の姿を追いながら、ヴラドは答えた。

「3ヶ月前に予言があったと、ヤツが言ったのは本当だ」

「はい」

 ヴラドがアキラを振り返る。琥珀色の瞳が、アキラに向けられる。そしてためらうことなく、ヴラドはアキラに告げた。

「黒い髪の”残され人”が、世界を滅ぼす……だとよ」

 ナーナは息を呑み、アキラを振り仰いだ。

 アキラの表情は、変わらなかった。ヴラドを見上げ、ただ呆然と立ち尽くしていた。言葉は届いたが、内容が理解できなかった。

 どれぐらい経ってからだろう、誰かに服の袖を掴まれるのを感じて、アキラはハッと我に返った。

「あっ」と声を漏らして見下ろすと、意外なほど近くに、大きく見開かれたナーナの瞳があった。

「大丈夫?アキラ」

 アキラの顔に表情が戻る。

「うん」

 と頷いて、彼はナーナを安心させるように笑みを浮かべた。

「ちょっと呆けちゃったけど、大丈夫だよ。ナーナ」

 ほっとナーナも笑みを浮かべる。

「黒い髪の”残され人”が、世界を滅ぼす……ですか」

 ヴラドの言葉を繰り返し、アキラは天を仰いだ。

「参りましたね」

「それで、どうする気だ?」

「これから、ですか?」

「そうだ」

 アキラはしばらく沈黙し、ちらりとナーナを--不安そうに自分を見つめるナーナを--見た。

 これからどうするか。そんなこと決まっている。

 ヴラドの琥珀色の瞳を見上げて、アキラは「何も」と短く応えた。

「どういう意味だ?」

 ヴラドが訝しげにアキラを見る。

「このまま旅を続けます、ナーナと」

「世界が滅びるようなことになっても、か?」

「はい」と頷いて、アキラは言葉を選びながら答えた。

「そういう予言があった、というのは、もちろん考える材料にします。でも、オレが世界を滅ぼす……だけでは具体性がなさすぎます。これだけでは、まだ何も判っていないのと同じです。

 ですから、こんなところでやめる気はありません」

 アキラの袖を握ったナーナの手に力がこもる。うんと、アキラの言葉を肯定するように。

「そうか」

「ヴラドさんはどうされます?」

 ヴラドが笑う。

「オレは引き受けた仕事を続けるだけさ。オメエらが旅を続けると言うのならついて行くし、もしやめると言うのならデアまで護衛をして、違約金を受け取って、次の仕事を探すだけさ」

「いいんですか?」

「元々オレは予言というヤツをあまり信じてないしな。オメエが言ったのと同じで、参考にはする。しかし、最後にどうするか決めるのはオレ自身だ。

 それにな、この話はどうも胡散くせぇ」

「何がです?」

「まず、この話をしたのがラカンの宦官だってことだな。ノヴァってヤツの言葉に嘘はねぇだろう。何せ、ヤツはそれで死んだからな。しかし、ヤツが嘘を言われてた可能性だってある。

 そもそも、黒い髪の”残され人”ってよ。アキラ、オメエ、”残され人”なのか?」

「あっ」とナーナが声を上げる。

「……そうか」

「そうだ、嬢ちゃん。それは嬢ちゃんのでまかせだろう?アキラの市民権を得るためだけの。そのでまかせがなぜ、予言になってるんだ?

 ま、本当に”残され人”だっていう可能性もあるが、嬢ちゃんはそうじゃねぇと思ってるし、オレも何か違うっていう気がしてる。根拠はねぇがな。

 それと、世界を滅ぼすって言うけどよ、そんなこと、その細っこい腕でオメエがどうやってやるって言うんだ?」

 アキラはヴラドの太い腕を見た。彼に比べればアキラの腕は小枝も同じで、アキラは軽く笑った。

「それは、オレにも判りませんね」

「だろう?それとよ」

「なんでしょう」

 ヴラドが困ったように頭を掻く。

「オレにはよく判らねぇんだがよ。世界って、なんだと思う?」

「えっ?」

「世界ってよ、結構曖昧な言葉だと思わねえか?

 例えばだ、戦争で国が滅びようとしているときに、世界が終わると言って嘆くヤツらがかなりいる。だがよ、実際に滅びるのはソイツの国だけで、もう一方の側からすれば、逆に世界は拡がっている訳だ。

 だから、簡単に世界って言うけどよ、それってなんなんだろうな」

 アキラが考え込む。

 そのアキラを見ながら、ナーナは、そうか、と、理解が心に拡がるのを感じていた。そうか。そういうことだったのか、と。

「つまり、世界を滅ぼす、とは言っても、本当に何が滅びるかは判らない、ということですか?」

 ヴラドの言葉を確認するように、アキラが問う。

 ヴラドは肩を竦めた。

「考えるのは、オレよりオメェの方が得意だろ?」

 アキラは笑った。

「そうですね」

「でも」

 と、ナーナが不意に声を上げた。

「なに?ナーナ」

 アキラがナーナに顔を向ける。

 ナーナは言葉に詰まった。でも。この後、何を言えばいいのか、ナーナは判らなくなったのである。でも。今の気持ちをどんな言葉にすればいいのか。でも。どうすればアキラに伝えられるのか。

 ヴラドが薄く笑う。

「疲れただろう、嬢ちゃん。もう休んでな。アキラ、オメエもな」

「そうですね。お茶でも淹れましょう。ヴラドさんはどうします?」

「オレはもう少し、軍のヤツラと話して来ることにしよう。この辺りも、まだ見回っときたいしな」

「判りました。それじゃあ、ナーナ」

「うん」

 とナーナは頷き、ヴラドを振り返った。

「ヴラドさん」

「ん?」

「ありがとう」

「ん?何がだ?嬢ちゃん」

 ナーナが笑う。

 西の森から渡って来た風が、彼女の脇を歌うようにすり抜けていく。

「なんでもない」

 明るい笑顔でそう言うと、ナーナはヴラドに背中を向けて、アキラに駆け寄って行った。借家へ向かってアキラと並んで歩き始めたナーナの後姿を見送りながら、「さて、何に礼を言われたかな……」とヴラドは小さく呟いた。

「ま、何でもいいか」

 嬢ちゃんが笑っていればとヴラドは思い、似たようなことをフランも言ってたなと、ふと思い出した。


 夕方近くにフランが戻った時には、まだ借家の周囲に兵士が数人残っていた。

 兵士の隊長らしき女が、ヴラドと立ち話をしていた。気持ちいいぐらいきびきびと話す女の口調には、英雄殺しに対する畏敬の念が含まれていた。

 辺りを注意深く見ると争いの跡が幾つか地面に残り、それは西の森の奥へ点々と続いて消えていた。

 女がヴラドに敬礼し、買い物籠を下げたフランの方に歩いて来る。それを軽く頭を下げてやり過ごし、フランはヴラドに歩み寄った。

「もしかして、終わっちゃった?」

「ああ」

「帰ってくる途中でワンコを連れた兵士に会ったわ。あのワンコも一味だったの?」

「そうだ。そっちは何か判ったか?」

「ええ。ここに来ている宦官は2人みたいね。3人はいないわ。でも、彼らが見習君のことをどこで知ったのか、どうして連れて行こうとしているのか理由はまだ不明よ」

「そいつは判った」

「あら、何なの?」

「3ヶ月ほど前に、予言があったそうだ。黒い髪の”残され人”が世界を滅ぼす、というな」

「本当?」

「宦官の一人が口を割った。間違いねぇと思う」

「そう。それで、見習君は?」

「中だ」

「もしかして、落ち込んでる?」

「いや。そうでもねぇな」

 そうと微笑んで、「もう少し辺りを見回ってから戻る」と言ったヴラドを残して、フランは借家の扉を開けた。

 アキラとナーナは椅子に並んで座って、二人で何事か話し合っていた。テーブルの上には急須や湯呑、それにお茶請けまで置いてあり、口調はいつもと同じで、ヴラドの言った通り落ち込んでいる様子はなかった。

 しかし、二人の表情には険しさが残り、世界を滅ぼすという予言に少なからず動揺していることは明らかだった。

「ただいま」

「あ、フランさん、お帰り」「お帰りなさい、フランさん」

「おおかみくんから聞いたわ。宦官がここに来た理由。でも変ねぇ」

 フランは買い物籠をテーブルの上に置きながら、アキラに話しかけた。

「何が変なんですか?」

「だって、5ヶ月ほど前から予言なんかぜんぜんできなくなってるもの。3ヶ月前にそんな予言があったなんて、信じられないわ」

「え」「えっ」

 アキラとナーナは同時に驚きの声を上げた。

「あ」

「そうだ、確かに……」

「でも」

 と、アキラとナーナはフランに顔を向けた。

「どうして、フランさん、それを……」

 囁くように訊いたアキラの横で、ナーナもこくこくと頷いていた。

「あら。そんなこと、みんな知ってるわよ。だって街の占いもできなくなっているんだもの。魔術師協会や政府の人たちは秘密にしているつもりらしいけど、そんなの無理に決まっているでしょ?」

「ああ……」

「だったら、なんであんな……」

 機密保持契約書にサインしたのか、と言いたかったのだろう。しかし、何が機密に引っかかるか判らなかったため、アキラもナーナもそれ以上は何も言わなかった。

「そんな嘘の予言、誰が流したのかしらねぇ。何か意図がありそうだけど」

「どういうことです?」

「そうね、ショナを攻める大義名分のひとつにでもしようとしたとか。あたしには判らないけどね。だから、見習君もお姫ちゃんもあまり気にすることはないわよ」

「そうでしょうか」

「くよくよ悩んでも仕方ないわ。宦官は片付いたんでしょう?おいしいものを作ってあげるから、今夜は楽しく呑みましょう。その時、詳しい話を聞かせてくれる?」

「……判りました」

「じゃあ、手伝ってもらえるかしら?見習君」

 納得した訳ではなかったが、「はい」と頷き、アキラは立ち上がった。フランの言う通り、ここでこれ以上考えていても仕方がないと判断したのである。

「それじゃあ、わたしも手伝うよ」

 と言って立ち上がったナーナに、えっとフランとアキラは台所へ向かう足を止めた。

「……それは、また今度の方がいいかな」

「そうそう、疲れただろう?ナーナは、休んでた方がいいよ」

「えー」とナーナが不満の声を上げたところに、ヴラドが戻って来て扉を開けた。室内の騒ぎを一瞥し、「おー、さっそくイチャイチャしているのか。いいぜ、嬢ちゃん。もう我慢しなくても」と、扉に手をかけたまま彼は言った。

 怒涛の勢いで上げたナーナの抗議の声を笑って聞き流し、ヴラドは軍の工兵が修理したばかりの真新しい扉を閉じた。


 そこは、ドーム型の長い通路だった。

 通路の両側に窓は一切なく、数mおきに掲げられたランプの光が薄暗く通路を照らし出していた。通路の先には、人の背の3倍はありそうな観音開きの扉があった。

 扉の片側が、室内から開かれた。

 現れたのは、ひとりの若い女である。顔をベールで覆い、チュニックに幅広のズボンという出で立ちだった。

 歳は、まだ20代前後といったところだろう。

 口を真一文字に結び、赤味を帯びた栗色の瞳には怒りの色が浮かんでいた。

 扉を閉じ、顔を上げた女の足がギクリッと止まった。

 10mほど離れた通路に人影があった。

 女だ。

 胸元の広く開いた真っ赤なドレスを纏い、同じように真っ赤な口紅を塗った薄い唇に冷笑を浮かべて彼女を見つめていた。赤い鮮やかな髪が、背中に落ちていた。

「久しぶりね。6年前にユン大姉さまのところで会って以来かしら」

 と、通路に立った女、フランは言った。

「フラン姉さま……」

 部屋から出て来た女は、信じられないというように呟いた。

「あなただったのね。彼に妙な予言を吹き込んでいたのは」

「どうして、ここに……」

「あたしはフラン。ニムシェのフランよ。そのあたしがニムシェにいるのが、そんなにおかしいかしら。あなたこそ、こんなところで何をしているの?」

 女は顎を引いて、フランを睨むように見た。

「家を出たフラン姉さまには、関係のないことです」

「お母さまや、ユン大姉さまはご存じなの?」

 ベールの下の女の顔が曇る。

「……いいえ」

「そう。やっぱりあなたが勝手にやっていたことなのね。月神の巫女を騙ってこんなところまで潜り込むなんて。こんなことをしても、お母さまはお喜びにならないわ。今ならちょっとお尻を叩くだけで許してあげる。だから、もうお家に帰りなさい」

「嫌です」

「……」

「あの男を殺せば、きっと、きっとお母さまは……」

「……具合が、およろしくないの?」

「もう、お口を利くこともできません。お声も、もう……。最近はずっとお眠りになったままで」

「……そう」

「家を出られたフラン姉さまは、最近のお母さまをご覧になっていない。だから、そんなに平然としていられるんです。私は、私は、必ず……!」

「もう、ご寿命なのよ」

「そんなことありません!お母さまがお亡くなりになるなんて、そんなこと!そんなこと有り得ないって、フラン姉さまだってご存知のはずです!きっと、きっとあの男が、何か良くない影響をお母さまに与えているんです!」

「違うわ」

「何故、そう言い切れるんですか」

 フランは笑った。

「忘れられないからよ、あたしが」

「どういう意味ですか」

「今、説明するのは難しいわね。お家に帰れば話してあげるわ」

「帰りません」

 声を強張らせ、女が言う。

「どうしても?」

「はい。力なら、フラン姉さまより私の方が--」

 そう言った女の背後に、いつの間にか巨大な黒い影が聳えていた。

「そう」と応えたフランの声は、女には届かなかった。

 黒い影が、瞬きする間もなく女の首を捩じ切ったからである。目を見開いた女は、おそらく自分が死んだことも理解していなかっただろう。

「確かにその通りだと思うわ」

 首を失った女の体が崩れ落ちる。

 フランは、影が抱えた女の首に歩み寄った。目を見開いたままの顔をしばらく見つめ、女の、赤みを帯びた栗色の目をそっと閉じてやった。そしてフランは、女が出て来た扉へと足を進めた。

 フランの背後で、がりがりと何かを齧る音が通路に響いた。

 影が女を喰らっているのだ。

「血の一滴も残しちゃ駄目よ」

 影にそう命じて、フランは扉を押し開いた。

 フランの入った部屋は円形で、部屋の真ん中に巨大なベッドがあった。

 壁には、フランの入って来た扉とは別に、扉のないアーチ型の入口が幾つも設けられていた。

 豪奢な部屋だった。天井は高く、ベッドも金箔が施され、ベットの天蓋にも華美な文様が刻まれ、やはり金箔で覆ってあった。

 そのベッドに、一人の男が横になっていた。

 白い肌と白に近い銀髪が、彼が宦官であることを物語っていた。

 歳は50代と見えたが、ラカンの宦官に外見的な年齢は無意味だった。

「誰だ」

 横になったまま宦官は甲高い耳障りな声で言った。命令することに慣れた傲岸な口調だった。

「あたしよ」

 ベッドに歩み寄りながらフランは応えた。

「前とは姿が違うから、判らないかも知れないけれど」

 宦官が体を起こす。そして彼は、フランの顔を探るように見た。

「お久しぶりね」

「……ま、まさか」

「そう」

「シャ、シャッカタカーか」

「その名で呼ばれるのは、久しぶりだわ」

 宦官の顔が恐怖に引き攣る。あたふたと巨大なベッドを這いずり、彼は枕元に置いた呼び出しベルを手に取った。そして狂ったようにベルを激しく打ち鳴らした。

「誰も来ないわ。お莫迦さんね」

 宦官の震える手から、呼び出しベルが落ちる。

「な、なにをしに来た」

「あなたはなかなか良く働いてくれたわ。でも、もう使い物にならなくなったようだから、ちょっと片付けに来たの。あんなラクドからの巫女の言うことを信じるなんて。以前のあなたは、部下の言うことをよく聞くいいひとだったのにね」

 宦官が悲鳴を上げた。その口が、彼の背後に聳えた黒い影に塞がれた。宦官が涙に滲んだ目で背後を見ようとするが、黒い影は彼をしっかりと抱きかかえて宦官に身動きひとつ許さなかった。

「殺そうっていうんじゃないの。安心して。この世が滅びるまで、ちょっと暗い所にいてもらうだけだから」

 黒い影に抱かれた宦官の体が、ベッドに沈み込んで行く。

 そこにベッドなどなく、水面に沈むが如く、少しずつ。

「大丈夫よ。そんなに長くはならないはずだから。それに、あたしが作ったそこは門の向こう側よりはずっと快適なはずよ。もっとも」

 話し続けるフランの姿が、次第に足元から黒い影に覆われて行く。

「門の向こう側がどんなところかは、あたしも知らないのだけれど」

 そう言った時にはベッドの上に宦官の姿はすでになく、フランも、ただの薄いシルエットと化していた。そのシルエットが、散った。

 そして、ラカン帝国を裏から支配して来た宦官の長の寝室は、約200年ぶりに無人となった。ベッドの上に、呼び出しベルひとつと、香水の香りだけを残して。

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