4-6(宦官の帝国6)
「ノヴァ様」
霧の中でシュ・ガイは、隣に立ったノヴァに囁いた。
「狼めが戻って参りました」
霧に乱れがあった。位置を特定するのは難しかったが、ヴラドが戻って来たことだけは確かだった。
「そうですか、予想通りですね。それで、彼はどこに--」
「あっ」と、シュ・ガイが声を上げる。そして、ノヴァの隣にいたはずのシュ・ガイの気配が消えた。
「シュ・ガイさん」
シュ・ガイの悲鳴が霧の向こうで響く。
「これはいけませんねぇ」
他人事のように呟き、ノヴァはひょこりひょこりと霧の中を逃げた。彼の死人が一体、また一体と気配を絶っていく。一体が気配を絶つのに数秒とかかっていない。霧の中で狼男は、彼の死人の頭部を的確にほぼ一撃で破壊しているようだった。
「……こんなに早く死人を倒されるのは、」
逃げる足を止めることなく、ノヴァは呟いた。
「初めての経験ですねぇ……」
二十体近く用意しておいた彼の死人の最後の気配が消えた。ただの一体も狼男に指一本触ることができないままに、だ。
「おい」
逃げるノヴァの背後で、突然野太い声が響いた。
ノヴァが振り返ると、霧の中から、琥珀色の瞳が彼を見下ろしていた。
「どこに行く気だ」
「とりあえずは、ここですよ」
ノヴァが微笑む。
その彼の背後から、犬が、死んだ犬が数頭、ヴラドに襲い掛かった。
「酷いことを、しますねぇ……」
霧の中で苦し気にそう呟いたのはシュ・ガイである。彼の右肩の付け根あたりから、剣の柄が生えていた。ヴラドに襲われ、長剣で家の壁に縫い付けられたのである。
脂汗がシュ・ガイの額をしたたり落ちる。
何度か意識が遠のきかけ、荒い息を吐いていたシュ・ガイは、ふと、何かが自分の足を掴んでいることに気づいた。
かすむ視界に、影が見えた。何か大きな影が、彼の足首を掴んでいた。
最初はヴラドが戻って来たのかと思ったが、そうではなかった。
影には、生者の気配がなかった。
影が、彼の足首を掴んだまま凄まじい力で彼を下に引っ張った。肩に長剣が突き刺さっていることもお構いなしである。激痛にシュ・ガイは悲鳴を上げた。長い長い悲鳴を上げ、その悲鳴が途切れる前に彼の体はどさりと土の上に落ちた。長剣は壁に残ったままで、彼の肩はぱっくりと無残に引き千切られ、右腕はかろうじて幾筋かの腱と皮で繋がっているだけだった。
シュ・ガイの意識が遠のいていく。意識を失う直前、彼は自分の体が霧の中に引き摺られて行くのを感じた。そして、自分を引き摺って行く黒い影の後姿を見た。
それが、彼の見た最後の光景だった。
「おやおや」
ひょこりひょこりと奇妙な足取りで逃げながら、ノヴァは呟いた。
犬たちはかなり健闘してくれていた。犬たちの幾匹かが狼男に食い付いたのも確かだ。しかし、食い付いたとたん狼男の筋肉のあまりの固さに、腐った歯茎ごと犬の牙が折れるのを、ノヴァは感じた。そして、食い付いた犬の気配はたちまち--胴を引き千切られて--消えた。
それからは注意深く距離を取りながら狼男の膝下を狙わせていたが、残っていた2匹の犬の気配が同時に消えた。
それも、ノヴァのすぐ背後で。
「思ったより早いですねえ。英雄殺しの異名は、伊達ではないということですか」
「まあな」
霧の中からヴラドの声が響く。
ノヴァはふうと息を吐いて足を止めた。やれやれと腰を伸ばす。
「これで終わりか?」
「いいえ」
ノヴァは乱した息を整えながら応じた。
「これが本命ですよ」
そう言って振り返ったノヴァの後ろから、ヴラドにも負けない巨体が立ち上がった。巨体の手には、長さが10mはあるだろう巨大な槍が握られていた。
「あなたが殺した、新しい神の英雄です」
「そうか」
狼男の低い声が霧の中から響く。
そして、霧を吹き飛ばすほどの勢いで、ヴラドの大剣がノヴァの後ろに立ち上がった巨体に叩き込まれた。
「うおっ」
頭上を掠めるように通過した大剣の風圧に、ノヴァはよろめき、小さく声を上げて尻もちをついた。ノヴァの頭上を、瞳を妖しく光らせた狼男が飛び越えて行く。
ノヴァは、狼男の口元に、凄惨と表現するのが相応しい、禍々しい笑みが浮かんでいるのを見た。
狼男が再び霧の中へ溶けるように姿を消し、何度も剣が肉の身に叩き付けられる不快な音が不規則に響いた。
新しい神の英雄が巨大な槍を振り回す音が霧の中で響く。しかし、槍はヴラドを掠めることなく、壁にでもぶつかったかのようにガツンと何かにぶち当たって止まった。そして、新しい神の英雄の両腕が切り落とされるのを、ノヴァは感じた。
おそらく切り落とした腕をヴラドが巨槍ごと投げ捨てたのだろう、何かが落ちる大きな音が、かなり遠くで響いた。
新しい神の英雄の顔が何度となく激しく殴りつけられ、仰向けに転倒したと感じるのと同時に、ぐしゃっという鈍い音が--新しい神の頭が叩き潰される音が--ノヴァの耳に届いた。
「……これほどとは」
尻もちをついたまま、呆然とノヴァは呟いた。何故か笑みが浮かんだ。
「最期に、面白いものが見られました……」
「いや」
霧の中からヴラドの巨躯が現れる。全身に返り血を浴びていたものの、彼は息ひとつ乱していなかった。
「面白くなるのは、これからだぜ」
ノヴァを冷たく見下ろしたまま、狼男は抑揚のない声でそう告げた。
「ナーナ、大丈夫?」
「うん」
と頷いたものの、ナーナはまだ頭がふわふわしていた。アキラが差し出した手を掴み、立ち上がる。
「ヴラドさん、大丈夫かな」
「そうだね、でも」
宦官がヴラドを挑発していたのは明らかだ。だとしたら、その狙いは多分--、そう考えたアキラに、聞き覚えのない声が応じた。
「まずは、自分たちの心配をするべきだな」
ナーナは声を振り返り、敵の姿を認めた。考えるよりも早く、右手の印を向ける。
霧が家の中に流れ込んだ時から精霊は呼び出してあった。術の発動には1秒とかからなかったかも知れない。しかし声をかけた男は、彼女が術を発動させた時には、身を屈めて足を踏み出していた。
火球が2つ、男の立っていた空間でむなしく炸裂する。
男はナーナの前にひと息で迫り、ナーナの前に別の人影が--アキラが--滑り込んで、ナーナに向かって振り降ろされた剣を、まだ鞘から抜いていない刀で受け止めた。
ほとんど瞬きする間もないほど短い時間の出来事である。
そしてその時には、ナーナは悟っていた。
風の精霊を使った術で周囲を警戒していたのだ。誰かが近づけば、すぐにそれと判るはずだった。だが、男はほんの5mほどのところまで彼女に気づかれることなく近づいていた。もし男がわざわざ声をかけなければ、最後まで気づくことはなかったかも知れない。それはつまり、術の一部を、おそらくは風の精霊を使って空気の動きを抑えることで、無効にされたということだった。
ナーナは、アキラの背後から男を見た。
男は、ヒトではなかった。
身長はアキラとほとんど同じ。体格も普通だ。しかしその頭には、犬の頭が載っていたのである。
犬男の口が動いていた。短い詠唱。その意味を理解し、相手の詠唱に、ナーナは自分の声を短く、素早く被せた。
犬男が後ろに飛び退り、印を結んだ手をアキラに向ける。
しかし、何も起こらない。
「ほう」
犬男が驚いたように、印を結んだ手を下ろしながらアキラの後ろのナーナを見た。
「若いのになかなかやるじゃないか、魔術師」
「アキラ」
犬男の言葉を無視して、ナーナはアキラの背中に向かって囁いた。
「こいつ、魔術も使うよ。気をつけて」
「了解」
犬男を見つめたままアキラは頷き、鞘から刀を抜いた。
「ナーナ」
「なに?」
逃げろと言われるかと、ナーナは咄嗟に思った。そんなこと絶対に嫌っと、体を強張らせてアキラの背中を見上げる。しかしアキラは、ナーナの予想とはまったく違う言葉を口にした。
「サポート。よろしく」
ナーナは力強く頷いた。
「うん」
犬男の鼻が動いていた。ヴラドのように精霊の気配が判るのだとしたら、かなり厄介な相手だった。
「そろそろ話す気になったか?」
ノヴァを見下ろしたまま、ヴラドはノヴァに訊いた。
すでに、ノヴァは自分が何度死んだか覚えていなかった。先程から死んでは生き返り、また殴り殺されということをひたすら繰り返していたのである。
「いいえ、まだまだですねえ」
ノヴァの潰れた顔は、何度目かのことだったが、何事もなかったように元に戻っていた。元に戻れば痛みは過去のことである。
「そうか。死んだ方が楽になれると思うがな」
そこから先は、記述するのは控えたい。
ヴラドは、彼らがアキラを連れて行こうとしている理由を聞き出そうとしていたのである。ノヴァの悲鳴が、途切れては上がり、途切れ、また響いた。
「そろそろ話す気になったか」
ヴラドが再び訊いた時には、随分と時間が経っていた。
「そうですね。そろそろいいでしょうか」
細い息を不規則に吐きながら、か細い声で宦官は言った。
「……3ヶ月ほど前に、予言があったのですよ」
「どんな予言だ」
「黒い髪の”残され人”が、世界を滅ぼす……」
「なに?」
「その予言を、主上が気になされて、黒い髪の”残され人”を連れて来いと。あなたのおっしゃった通り、生死を問わずに……」
震える声で呟く宦官に耳を近づけ、ヴラドはふと、宦官の体に微かに別の気になる臭いが残っていることに気づいた。獣人の臭い。犬の獣人の臭いだ。
「……!」
ヴラドは何かで激しく殴られたような衝撃とともに、ようやく知った。
アキラを連れて行く理由を口にすれば自分が死ぬと、宦官がわざわざ告げた理由を。そして、死人による大掛かりな襲撃が、全て目くらましだったということを。
宦官の目的は、ヴラドをアキラから引き離し、自分を尋問させることだったのだ。宦官は、自分を囮にして時間稼ぎをしていたのである。自分の命を、訪れることのない死を使って。
宦官が、あ、あ、と小さく声を上げる。そして短い痙攣の後、息が止まった。
「おい!」
ヴラドが声をかけた時には、ノヴァは目を見開いたまま笑みを浮かべて死んでいた。
その姿を一瞥し、ヴラドは大剣を掴んで駆け出した。
どこからどこまでが計画通りだったかは判らなかったが、ノヴァと名乗る宦官に嵌められ、彼の筋書き通りに動かされていたことは間違いなかった。いや、おそらく最初にシュ・ガイが訪れ、ヴラドに対して挑発的な態度を取っていたところからすべて筋書き通りだったのだろう。
今まで感じたことのないほどの焦りに急かされ、霧の晴れて来た森を、狼男は全速力で駆け抜けていった。
「俺は面倒なことが嫌いなんだよ。俺が要るのはそいつの首だけだ。お前は見逃してやるから、とっとと立ち去れ。魔術師」
ナーナは応えない。いや、応えられない。
アキラと打ち合いながら、犬男は細かく細かく術を挟みこんでいた。それを読み取り、時には詠唱の邪魔をし、時には術を相殺するだけで彼女は手一杯だったのである。
アキラは一方的に追い立てられていた。
犬男の攻撃を受けるだけで自分から切りかかろうとはせず、受け流しては下がり、下がっては横に飛んでと、ナーナが思うよりもよく動いてはいたが、それだけに体力がいつまで続くかと思うと、ナーナは世界が足元から崩れ落ちるような恐怖を覚えた。
『それに、さっきからあいつ』
『……なにかしてる』
犬男は当初、アキラが態勢を崩してもニヤニヤと笑って見ているだけで、それ以上追おうとはしなかった。
そうして、どれぐらい経ってからだろう、「そろそろ終わらせるとしようか」と目を細め、それまでを上回る速さで剣を振るい、詠唱のリズムを変えて、ナーナが相殺するよりも早くアキラに向かって術を放った。
あっと、声を詰まらせることしか、ナーナにはできなかった。
しかし、アキラは犬男の剣を受け止め、跳ね上げ、素早く下へと、さらには右へと動いて、犬男の放った火球を躱して見せたのである。
犬男の顔色が変わった--と、ナーナには見えた。
それからである。
犬男がナーナを大声で挑発し始めたのは。
「今のうちだぞ、魔術師。もう時間がないぞ。こいつはもう終わりだ。こいつの首を刎ねた後は」
犬男の首が、異様な柔らかさで後ろへ回る。そして、ナーナに顔だけを向け、歯茎まで剥き出して、犬男は嗤った。
「お前の番だ」
自分から目をそらした犬男に、アキラが打ちかかっていく。しかし、嘲笑するかのような軽やかなフットワークで体を躱すと、犬男は態勢を崩したアキラに鋭く剣を振り下ろした。切られる、とナーナは思ったが、アキラは転びそうになりながらも反応よく犬男の剣を受け止め、刃を滑らせて背後へと逃げた。
アキラを追おうとした犬男に、ナーナは素早く印を結んだ手を向けた。
火球が炸裂した。
ただし、首を振って躱した犬男の手の中で。
犬男がナーナを見て嗤い、火球を握り潰す。掌にわざわざ何か呪を施しているのだろう、ただそれだけのことで、犬男の性格を推し量るには充分だった。
「無駄だ、無駄だ、魔術師。こいつがくたばるのを、指を咥えて大人しく見ていな。お前の相手はその後でゆっくりしてやるからよ!」
犬男に嘲笑されて、しかし、ナーナの心の一部はシンと静まり返っていた。
『ただ、わたしを挑発しているだけじゃない。なにか、言葉の裏に呪文を混ぜてる。わたしの知らない言葉で』
ぞくりとナーナの背筋が震えた。
術は完成しかけている、と感じた。精霊はもう呼び出されている、と思った。それも、かなり上位の精霊だ。姿は当然に見えなかったが、周囲の空気が次第に熱く乾いて来ていた。
アキラが犬男と対峙したまま後ろに逃げる。犬男がゆっくりとアキラを追う。その向こう側の空気が、陽炎のように揺らめていた。
『だめだ』
『もう、止められない……』
ナーナは詠唱を止めた。すっくと立ち上がり、背筋を伸ばして両手を軽く体の前で組み合わせる。
そして彼女は、深く息を吸い込むと、声を張り上げ、朗々と歌い始めた。
アキラを追っていた犬男は、異常に気づいて足を止め、魔術師を振り返った。魔術師は詠唱を止めていた。中空に視線を向け、無防備に歌声を響かせていた。
『歌?ただの?』
犬男がしばらく立ち尽くしたのは、若い魔術師の意図が判らなかったからである。そしてまた、若い魔術師の歌に、知らず魅せられたからでもあった。
伸びやかなナーナの歌声が、風に乗って草を揺らし、空に届くほど高く高く、響く。
『何か、呪が、混ぜられているのか……?』
注意深く言葉を追ったが、犬男は魔術師の歌に意味を見出すことはできなかった。疑念は残ったが、それならばと、彼は初歩的な火の精霊の術を唱え、アキラとナーナ、それぞれに印を向けた。
火柱が上がり、二人は炎に包まれる--はずだった。
しかし何も起こらず、アキラは前後左右へと奇妙な歩行法で動き続け、ナーナは犬男を無視して歌い続けていた。
『何か間違ったか?』
微かな不安を覚えながら、もう一度注意深く詠唱し、素早く印を魔術師に向ける。動き続けるアキラと違い、狙いを外すことは有り得なかった。魔術師は四散し、跡形も残さない--はずだった。
しかし、やはり何も起こらなかった。
ナーナの澄んだ歌声が、犬男を圧するように彼の四囲に満ちた。
『馬鹿な……!』
犬男の心に焦りが浮かんだ。そこに隙が生まれた。
アキラが勢いよく地面を蹴り、犬男に切りかかる。犬男の反応が僅かに遅れ、アキラの刀の切っ先が犬男の左腕を掠めた。
「おう!」
犬男が跳ねる様に後退する。しかしアキラは間髪を容れず追撃し、二太刀、三太刀と犬男に浴びせかけた。アキラの足が止まらない。しかも、彼は犬男にはあまり馴染みのない剣術を使っていた。隙を見ては刀を鋭く返し、手首を狙って来るのである。
犬男はアキラの打ち込みを辛うじて受け止めながら後退し続けた。
『コイツは、疲れを知らないのか!』
焦りは怒りとなった。
術の準備はとっくに終わっていた。
あとは、起動だけだ。
そして、起動スイッチは足捌きにあった。
剣術と魔術を同時に使うための彼なりの工夫だった。起動スイッチを足捌きにすることで、声を被せて詠唱を邪魔されることもなかったし、術が発動さえすれば相殺されることはほとんど有り得ない、少なくとも目の前の魔術師のレベルでは、有り得ない威力の炎が発生するはずだった。
犬男はアキラの刀を躱し、受け止め、それまでよりも大きく後方に跳躍した。ナーナとアキラの距離が、等しくなるように狙って。そして、彼はくるりと、歌い続けるナーナに向き直った。
思惑通り、アキラが彼の前に立ち塞がって刀を彼に向けて構える。
犬男は起動スイッチとなる足捌きを行い、最後に右足を大きく踏み出して、裂帛の気合と共に剣を振り下ろした。
まだ、アキラにも剣が届く距離ではない。
しかし、それは術の起動スイッチでしかないため何の問題もないはずだった。
だが、何も起こらなかった。
彼の振り下ろした剣がむなしく地面を切りつけ、それで終わりだった。
驚愕のあまり、がっと開いた犬男の口から涎がしたたり落ちた。
犬男は愕然と口を開いたまま顔を上げ、アキラと、アキラの背後で歌い続けるナーナに視線を向けた。意識した行動ではなかったが、彼は魔術師の周りの空気が僅かに揺らいでいるのを見た。
そして彼は、若い魔術師がしていることにようやく気がついたのである。
『まさか……!』
耳と鼻を使って精霊の気配を探る。いない。彼の周囲に、彼が呼び出したはずの精霊がいなかった。
『まさか、そんなこと……』
犬男のヒゲが恐怖に震え、全身の毛が逆立った。
彼が呼び出した精霊が、魔術師の傍にいる気配があった。
歌を歌い続ける魔術師の髪が、風もないのに何かに弄られて激しく踊っていた。
頬が、燃えそうなほどに熱かった。
今まで彼女が呼び出したことのない上位の精霊が、傍らに寄り添っている証しだった。今や、近くにいる精霊はすべて、彼女の歌に合わせて彼女の周りをただ舞っているだけだった。
精霊たちが楽しそうに囀る声が聞こえる気がして、ナーナは笑みを浮かべた。
ナーナにも、必ずやれるという確証があった訳ではない。ただ、他にアキラを助ける方法を思いつかなかっただけである。
かつて、意図せず師匠の呼び出した精霊を奪い取ってしまったことがあった。精霊が自分の歌を好んでいるということは、かなり昔から判っていた。それに犬男が、精霊をただの道具としてしか扱っていないことも、彼の詠唱を聞いていればはっきりしていた。
だとすれば、精霊を犬男から奪い取れるのではないか。
ナーナはそう考えたのである。
「いいぞ、ナーナ」
彼女を庇う様に犬男と対峙したアキラが、普段と変わらない口調でナーナに声をかけた。驚いたことに、あれほど走り回っていたにも関わらず、アキラは少しも息を乱してはいなかった。
「まるで、デジャー・ソリスみたいだ」
ナーナはアキラの背中を睨みつけた。
相変わらず意味不明。誰だよ。デジャー・ソリスって。そんなこと、この状況で、いま言うか?
……後でとっちめてやる。
と、歌い続けながらナーナは思った。
しかし不思議なことに、デジャー・ソリスという言葉を聞いたナーナの心の奥から、勇気が後から後から、次々と湧いて来た。
『なんなんだ……』
『なんなんだ』
『コイツら』
『コイツら、本当に』
『……ただの、ヒトか……?』
今になって犬男は、目の前の黒い髪の男にも激しい違和感を抱いていた。
雇い主からは、”残され人”と聞いていた。外見は変わっているが、ただのヒトだと。ただのヒトの、首を切ってもらえればそれでいいと。一緒にいるのも、経験の浅い魔術師がひとりだけ。
英雄殺しは、こちらで足止めいたしますから、と。
しかし、目の前の男は、違和感を感じて意識を向けると、ヒトにしては妙に臭いが薄かった。
いや、と犬男は思った。
もうずいぶん長く戦い続けているにも関わらず、目の前の若い男からは、汗の臭いがほとんどしていなかったのである。
『おかしい』
『おかし過ぎる』
犬男の喉がごくりと動く。
犬男は傭兵として戦場に出たこともあったし、裏の仕事で荒事も何度となく経験していた。他のことにはかなりいい加減な性格だったものの、日々の鍛錬は、そうした仕事をする上で生死に直結するため1日も欠かしたことはなかった。それでも、すでに疲れから剣が重くなり、息が乱れ始めていた。
しかし、目の前に対峙した黒い髪の男の切っ先は、今、戦い始めたばかりのようにピタリと彼に向けられて微動だにしていなかったのである。
『駄目だ……』
『勝てない』
目の前の男は、剣術に関しては素人と打ち合う前から見切りをつけていた。何合か打ち合った後も、奇妙な剣術だと思ったものの、その感覚は変わらなかった。
しかし今は、まったく勝てる気がしなかった。
目の前の男も、魔術師も、犬男の知識と経験の範囲を越えた、別の何かなのは確かだった。
そう判断を下すと犬男の行動は早かった。
身を翻し、脱兎の如く逃げ出したのである。アキラとナーナが呆気に取られるほどに潔く、二人に背を向けて。
しかし、その判断はいささか遅かった。
20mほど走ったところで、脇から飛び出して来た巨体が彼の前に立ち塞がった。巨体の頭には狼の頭が載っており、琥珀色の瞳が冷たく彼を見下ろしていた。
犬男はすぐに剣を投げ捨て、媚びるような笑みを浮かべてゆっくりと両手を上げた。




