1-2(名のない少女2)
「買ってきましたよ、先輩方」
アキラは長机に置いたリュックから安物のウイスキーを引っ張り出しながら、衝立の向こう側に声をかけた。
椅子から立ち上がる音が響き、衝立が外に動いて小柄な女性が顔を覗かせる。
アキラは彼女が4回生だと知ってはいたものの、眼鏡をかけた顔は童顔で、実際の歳よりも随分と若く見えた。
彼女の後ろにも椅子に座った3人の女性がいて、アキラを振り返ることなく、小さな声で何事か楽しそうに話していた。
*F研究会の先輩たちである。
彼女らが囲んだテーブルの上には、ビールのアルミ缶や日本酒の四合瓶などが所狭しと並べられていた。
「おー、ご苦労、丁稚君」
顔を覗かせた先輩がそう言って手を差し出す。アキラはウィスキーを渡しながら声を潜めて訊ねた。
「先輩、オレがいない間に実行委員会に踏み込まれたりしてませんよね」
「こんなところまで実行委員会が来るはずないよ。お客さんだってちっとも来ないしさ。丁稚君はホント、心配性だねぇ」
彼らがいるのは某大学のキャンパスの端にある旧学生会館の最上階、三階にある階段から一番遠い小さな会議室だった。彼らの在籍する某大学の学祭で日頃の研究成果(と言っていいかどうかかなり怪しい研究成果)を発表するために借りたのである。しかし先輩の言う通り、室内には彼ら以外に人影はなく、流しっぱなしにしている明るいアニメソングがむなしく天井に反響していた。
「それにさ、あたしらが卒業したら会員は丁稚君だけになって、うちは潰れちゃうんだから気にすることないって。
それより丁稚君もこっちに来て一緒に呑みな」
「そういう訳にもいきませんよ。それに一応オレは未成年ですから、学内で呑んでるのがバレたらそれこそヤバイですよ。
オレはこっちで本を読んでますんで、何かあったら声をかけてください」
「ホント、マジメだねぇ、丁稚君は。まあいいわ、アリガトね」
「呑み過ぎないように気をつけてくださいね。潰れて寝ちゃったら風邪を引いちゃいますから」
「はいはい」
軽い調子で応えて先輩は衝立の向こうに姿を消した。
アキラは文庫本が山のように積まれた長机の前の椅子に腰を下し、買い物に出かける前に読んでいた本を手に取った。本読みの習性として、当然、読みかけの本をうつぶせになどしていない。マ*ガ研究会オリジナルの、美少女栞を挟んだページを開く。
室内には、幾つものパネルが天井から不規則に吊り下げられていた。
量子力学や相対性理論などについてSF的な注釈を加えてまとめたものだ。例えば、相対性理論はしょせん理論に過ぎないと軽々と光速を超えていった某小説や、同じ作者の無慣性航行、第3段階レ*ズマンとは何か、といったことについてだ。
そのパネルが視界を遮り、室内はちょっとした迷路のようになっていた。
ふと部屋の入口に人の気配を感じて、アキラは顔を上げた。
大学近くにある中学校の制服を着た女の子がひとり、ためらいながら入って来た。
三つ編みにした黒髪を背中に落とし、眼鏡をかけた大きな瞳を天井から吊り下げられたパネルに興味深げに向けている。あちこち回って来たのだろう、見覚えのあるイラストの入ったマ*ガ研究会特製バッグから、*ニメ研究会で売っているはずのバッタモンの怪しげなぬいぐるみが覗いていた。もう一方の手に握られているのは、わら半紙で作られた学祭のパンフレットだ。
アキラは手元の本に視線を戻した。
少女は1枚のパネルの前で足を止めたようだった。アキラは意識の片隅で、彼女が足を止めたのが観測者問題についてのパネルだったなと考えていた。
「こんにちは」
不意に声をかけられ、アキラは顔を上げた。
いつの間にか少女が彼の前に立っていた。
大きな黒い瞳が、眼鏡越しに物怖じすることなくアキラを見つめていた。
おやっとアキラは思った。知らない子だ。可愛い子だなとも思ったが、何か判らない不思議な感覚が--何か懐かしい感覚が--あった。
「あ、ごめんね。こんにちは」
少女に応えながら読んでいた本を閉じる。
「あの、ここで古本を売ってるって書いてあったんで来てみたんですけど」
緊張した声で少女が言う。
「ああ。売ってるよ。この長机の上の本と、そっちに積み上げている段ボール箱も全部そうだよ。何か探しているの?」
えっと少女が小さく声を上げる。
アキラが指し示したは、彼の後ろの長机と、壁際に積み上げられた何十箱はあろうかというミカン箱サイズの段ボール箱の山である。
「これ、全部ですか?」
長机の上だけと思っていたのだろう、少女が段ボール箱の山を見て驚いたように言う。
「うん。あっちでくだを巻いてる--」
アキラは部屋の奥の衝立を、胸の前でこっそりと指さした。衝立の向こうからは、小さな声ではあったが先輩たちの話し声と押し殺した笑い声が聞こえていた。
「先輩たちが卒業するからって読み終わった本を提供してくれたんだよ。とにかくたくさん読むヒトたちだから、これでもホンの一部でね。何かお目当のモノはあるの?」
「あ、えーと」
少しためらってから、彼女が書名を口にする。
「『人間以上』と『スラン』ってありますか?読んでみたいんですけど、どこに行っても見つからなくて」
「あー、この街には大きな本屋がないからね。確かあったと思うよ。えーと」
アキラは段ボール箱の山を目で追い、ひとつの箱を丁寧に引っ張り出した。少女の前に置き、開いて見せる。
「あ、これだね。はい。他のことはさておき、あのヒトたちは本に関してはとても大事に扱うヒトたちだから状態はいいハズだよ」
「ありがとうございます」
手にした学祭のパンフレットをマ*ガ研究会特製バッグに突っ込み、アキラが差し出した文庫本を少女が受け取る。そして彼女は、慣れた手つきで受け取った文庫本の状態を確認した。
「ホントだ。とてもいいです」
「でしょ。そうだな、『人間以上』と『スラン』に興味があるんだったら、こんなのもどうかな」
同じ段ボール箱から別の文庫本を取り出し、アキラは少女に渡した。
「『分解された男』?ベスター……ですか」
タイトルと作者を見て、少女が言う。
「うん。知ってる?」
「ううん。でも」
少女は文庫本を裏返し、あらすじをゆっくりと読んだ。
「面白そうですね。でも予算があるから。1冊いくらですか?」
「50円。お買い得だよ」
「おおぅ、安い」
「でしょ」
「じゃあ、これも買います」
「ありがとうございます。それじゃあ、3冊で150円ね。あ、袋はないんだけどいいかな」
「はい。大丈夫です」
少女が小さな財布を取り出し、200円をアキラに渡す。
アキラは長机の上の手提げ金庫を開き、200円を納めて50円玉を取り出した。そして長机の上の文庫本の中から1冊の本を選び、彼女に差し出した。
「はい、これはたくさん買ってくれたからサービスでプレゼント」
「『ペガーナの神々』……」
「うん。ストーリーらしいストーリーはないけど、架空の神話物でね、ちょっと面白いよ。良ければ読んでみて。多分、気に入ってもらえるんじゃないかな」
「ありがとうございます。読んでみます」
彼女が遠慮がちに、どこか緊張した様子でアキラを見上げる。
「あの、ここって、明日もやってます?」
「うん。明日が学祭の最終日だからね、まだやってるけど、えーと、先輩たちがこっそり宴会をしていることを学祭の実行委員会に気づかれなかったら大丈夫、かな」
あ、という形に少女の口が開き、それはすぐに笑顔に変わって、彼女はくすくすと笑った。可愛らしい笑顔だな、とアキラは思った。
文庫本をマ*ガ研究会特製バッグにしまい、軽く頭を下げて少女が出て行く。それを見送り、段ボール箱を片付けると、アキラは椅子に腰を下して読みかけの本を手に取った。栞を挟み忘れていたことに気づいて、我ながら珍しいなと思いながら続きを探してページを捲る。
「丁稚君。今のは誰?」
いつの間にか、先ほどウイスキーを受け取った先輩が衝立から顔を覗かせていた。
「お客さんですよ。古本を3冊、買ってもらいました」
「ホント?知ってる子じゃないの?」
「いいえ。知らない子ですよ」
「ふーん」
「あの子がどうかしました?」
「まぁね。途中から見てたんだけど、あの子、ずっとトダくんのことを目で追ってたよ。とても熱心にね。だから丁稚君の恋人なのかなぁと思ったんだけどね」
「何を言ってるんですか。知らない子ですよ。それにまだ中学生ですよ、あの子」
だからどうした、とでも言いたげに先輩が鼻で笑う。
「まあ、いいわ。おつまみがなくなっちゃったの。何か買って来てくれる?」
「はいはい。リクエスト、あります?」
「ううん、何でもいいわ。よろしくね」
「了解しました」
アキラはリュックを肩に立ち上がった。軽く眼鏡を押し上げる。
「あ、丁稚君」
部屋を出ようとしたアキラの背中に先輩が声をかける。
「多分だけど。あの子、明日も来ると思わない?」
アキラはちょっとその言葉を検討してみた。悪くない推測だった。明日はまだ日曜日。彼女が通う中学校も当然休みのはずだ。
そうだとしたら今度は名前ぐらい聞いてもいいかなと、アキラはふと思った。
「かも知れないですね。じゃあ行ってきます」
そう言って部屋を後にしたアキラを、「よろしくねー」という先輩の声と、部屋の外に置いた実物大の段ボール製ウェルズ型タイムマシン(ディスプレイ用)が声もなく見送ってくれた。