3-5(終わりの旅の始まり5)
旅の荷物を解いて整理した後、アキラは仮住まいを一通り見て回った。
上水道はすでに使えるようになっており、掃除は行き届いて食器類も完備してあった。冷蔵箱には氷までセットされていたが、さすがに食料は入っていなかった。
アキラは食器類をすべて水洗いした後、ナーナに声をかけた。
「市場に行ってみようと思うんだけど」
「わたしも行く」
ということで二人で出かけることになり、当面の食料を買い込んで帰路についたが、ナーナの腕には、市場の古本屋で買った分厚い魔術書が1冊、大事そうに抱えられていた。
希少な魔術書ということで、高価すぎると主張する家計担当を師匠特権とスポンサー特権でねじ伏せ、強引に購入したのである。
度重なる高額な出費に、魔術師協会に預けているナーナの口座の預金残額を念のために確認していて、ふと、アキラはさっき協会で聞いた話を思い出した。
二人が協会から依頼を受けることになった、そもそもの理由だ。
「そういえばさっき協会で、西の戦乱と南方の事件で最近人手が少ないって言ってたけど、ナーナ、何のことか知ってる?」
買って来たばかりの魔術書をテーブルに広げてさっそく読み耽っていたナーナの前に、お茶を入れた湯呑を置きながらアキラは訊いた。
「知ってるよ」
魔術書から顔を上げてナーナが答える。
「西の戦乱というのは、西の山岳地帯の領有権を隣の国と争っている戦乱で、もう30年以上続いているかな。山岳地帯の少数民族も複雑に絡んでどうにもならなくなってるみたい。
戦争は魔術師の手当ても高くなるから、多くの魔術師が参加しているんじゃないかな」
「南方の事件というのは?」
「新しい神が生まれて、その神を追っているの」
「ん?」
アキラには理解できないことを、さも当然のようにナーナは言った。
「神様を?どういうこと?」
「アキラの世界ではないの?新しい神が生まれるって」
「なんと答えていいか判らないけど、えーと、多分、ないかな」
「いろいろ違うんだね」
ナーナが湯呑に手を伸ばす。そしてお茶を少し口に含ませてから話を続けた。
「こちらではね、何十年か何百年か毎に、新しい神が生まれることがあるの。すると新しい神を信じる信者が現れて、旧来の体制に--そうじゃないこともあるけど、大抵--反旗を翻すの。自分たちの信じる神の天での椅子を求めてね。
でも、そんなことは旧来の神々が許せるはずがないから、新しい神が生まれると旧来の神々の神官が新しい神の討伐をするの。
政府も騒乱は困るから、軍隊を出動させて協力することが多いわ。
今回もそう。
神官組織と軍隊が、今、ショナの南で新しい神を追ってるのよ」
「神様を追えるものなの?」
「うん。新しい神は信者がいないと弱ってくるから、対策としては信者を減らすことに眼目が置かれるわ」
「あー、あまり考えたくない話だね」
「うん、ちょっとした内戦だから。双方に神の力を授かった英雄が現れたり、様々な神具が駆使されて、スゴイことになってるはずよ、南の方は。
こちらも魔術師の手当てが高くなりがちだから、協会の人手が少なくなっているんじゃないかな」
「その南方の事件は、いつ頃始まったの?」
「えーと、神が生まれて、そろそろ2年かな。もしかすると、もう片付く頃かも。だいぶ追い詰めたって、少し前に噂で聞いたことがある。もし片付いて、神追う祭りが開かれるんだったら見に行ってみたいな」
「神追う祭りって?」
「追い詰めた神をね、門の向こうに追いやるの。そのための祭り」
「質問ばかりで悪いけど、門っていうのは何?」
「それをね、わたしも見たいの。門というのは、魔術師協会でもごく一部の人にしか伝えられていない秘呪でね、神を殺すことはできないから、どこかに追放するか、閉じ込めるかするみたい。
門の向こうにね。
詳しいことは、秘中の秘よ」
ナーナがその南方を見るかのように遠い目をする。
「新しい神の信者は、神を閉じ込めるためだけの最低限の数人を残してほとんど殺されちゃう。新しい神は信者の祈りから逃れられないから、信者の祈りで絡め取っておいて、門の向こうへまとめて追いやるの。それで、終わり」
「酷いね」
「うん。でも、仕方ないかな。お互いが相容れない--」
「おい、誰かいないのか?」
突然響いた野太い声に、アキラとナーナは顔を見合わせた。玄関からだ。「護衛の候補者かな」「多分」と、囁き合う。
「ローブを忘れないで、アキラ」
魔術書を片付けていたナーナにそう言われて、湯呑を片付けていたアキラは魔術師見習いの茶色いロープに袖を通した。頭巾を被り、さらにフードで頭を隠す。ナーナも同じように魔術師の黒いローブを纏ったが、彼女の方はフードは被らなかった。
ナーナがもう一度アキラの髪が間違いなく隠れていることを確認してから、二人は訪問者を迎えるべく玄関へと向かった。
巨体が入口を塞いで、玄関の床に濃い影を落としていた。
背の高い男だった。身長はどんなに少なく見積もっても2mを30cmは越えているだろう。しかし、男の最大の特徴はその身長ではなかった。
「あら」
と、訪問者を目にしたナーナは小さく声を上げた。しかし、驚いた様子はあまりない。ナーナに続いて玄関に出たアキラも、驚きは少なかった。『ファンタジーらしくなって来たなぁ』と思っただけである。
「どっちが俺の雇い主だ?」
腹の底に響く太い声で、訪問者が問うた。
琥珀色の慧と光る小さな瞳が、アキラとナーナを舐めるように見た。
男は、ヒトではなかった。
ヒトの頭の代わりに、狼の頭が首の上に載っていた。
彼は、全身を灰褐色の毛で覆われた狼男だったのである。
ふたつの耳はほとんど天井に届きそうで、両の腕はナーナの腰回りほどの太さがあった。亜麻色の胸当てで上半身を覆い、その胸当てで覆われた胸板も驚くほど厚かった。
背は高かったが体のバランスが良く、背が高いという印象をあまり受けなかった。
「わたしです」
狼男の問いにそう答えて、ナーナが一歩前に出る。
狼男は腰にぶら下げた物入れを探り、その大きな手からすると欠片のように小さな四角い紙切れを取り出した。その紙を両手で持って、腰を折ってナーナに差し出す。
名刺だった。
「ヴラドだ。よろしくな」
穏やかな声で彼はそう言った。
「こちらこそよろしくお願いします」
ナーナもローブの下から自分の名刺を取り出し、男に差し出した。
「わたしはカナルのナーナ。ハクの魔術師協会に所属する魔術師です。そして、こちらは」と、アキラを手で示す。
「わたしの弟子のアキラです。よろしくお見知りおきください」
「ほう」
ヴラドと名乗った狼男の黒い鼻がヒクヒクと動く。
「弟子か」
「よろしくお願いします」
アキラはヴラドに近づき、右手を差し出した。
まだ名刺の持てる身分ではない。弟子はあくまで魔術師の付属物だった。
「おう、こちらこそな」
厚みのある大きな手が、包み込むようにアキラの手を握り締めた。体温が高いのだろう、大きいだけでなく暖かい手だった。そして、これまでの経験を感じさせるゴツゴツとした固い手だった。
「採用の前に試験をするって協会で聞いたが、何をすればいい?」
「その質問に答える前に、ひとつ確認させていただいてもよろしいですか?」
ナーナが応じる。声のトーンが低い。営業モードだ。
「ああ、なんだ」
「失礼ながら、試験の内容を口外していただいては困る理由が当方にはございます。ですから、試験を受けていただく前に、魔術師協会の機密保持契約書にサインをしていただきたいのですが、よろしいですか?」
「おう、それも聞いてる。問題なしだ」
「魔術師協会の機密保持契約書については、ご存知ですか?」
「知ってる。呑んでる時にダチが仕事内容についてしゃべり出して、俺の目の前で首が捩じ切れたことがあるんでな。珍しいモンを見させてもらったよ」
「そうですか。それはご愁傷さまでした」
「気にしちゃいねぇ。仕事内容についてしゃべくる奴の方が悪いんだ。ちょっと河岸代えて飲み直したから問題はなかったしな」
「判りました。では、こちらへ」
ナーナが先頭に立って、ヴラドを居間へと案内する。
床に置いていた大剣をヴラドが持ち上げる。
それはまさしく大剣だった。
鞘に収めた刀身だけで長さが2mを越えているのは確実だった。
床に置いていたのは、あまりの長さに壁に立てかけることさえできないからじゃないかとアキラは驚きながら推測した。
しかもその大剣を手にして、ヴラドは微塵も足取りを乱さなかった。
驚くべき膂力である。
居間に入ると、そちらへとナーナに椅子を示され、ヴラドは大剣を再び床に置いて椅子に腰を下ろした。ヴラドの体重に椅子が悲鳴のような音を立てて軋んだ。
彼と相対するようにテーブルを挟んでナーナが腰を下ろし、アキラは事前の打ち合わせ通り、ナーナの後ろにテーブルから少し離れて控えた。
「で、何を機密にするんだ?」
「この部屋で見聞きしたことについて、一切口外しないこと、これが条件です」
ナーナが機密保持契約書をヴラドの前に置く。テーブルに置かれた機密保持契約書を一瞥し、「いいぜ」とヴラドが応える。
「ペンはこちらを」
アキラは用意していたペンをヴラドに差し出した。相手が持っているペンでは何か細工をされる可能性があったからだ。
何も言わずにペンを受け取り、ヴラドがサインする。
「で、何をするんだ?」
ペンをアキラに返しながら、ヴラドが訊いた。琥珀色の瞳は正面に座ったナーナに向けられたままだ。
ナーナが機密保持契約書をチェックし、頷く。
「アキラ」
「なんだ。この小僧と腕相撲でもしろって言うのか?」
「いいえ」と、アキラ。「驚かないでください。そうすれば合格です」
アキラはフードを取り、頭巾も取った。
ヴラドの琥珀色の瞳が鋭さを増し、狼男はゆっくりと立ち上がった。元々並外れて大きな体が、さらにひと回り大きくなったようにアキラには感じられた。そして、アキラに覆いかぶさるようにして、ヴラドはアキラの顔を覗き込んだ。
ヴラドの黒い鼻がひくひくと動く。
「人間なんだな」
断定的に、野太い声で彼は言った。怖れる様子はまったくない。
「だが、臭いが薄いな。何モンだ、テメエ」
「”残され人”よ」
声に緊張感を漂わせてナーナが答える。
彼女もいつの間にか立ち上がり、いつでも術が使えるように両手で印を途中まで結んでいた。
「”残され人”。本当か?」
「ええ」
「違うな、何か」
ヴラドが唸るように言う。
「何が違います?」
巨体に圧しかかられんばかりに見下ろされていたものの、何故か、アキラはヴラドを怖いとは思わなかった。
ヴラドの琥珀色の瞳の奥には、意外なことに深い知性の輝きがあった。
「さてな。だが、何かテメエは違う。オレの勘がそう言ってる」
ヴラドが体を起こし、アキラから離れる。少し笑ったようだった。
「いいぜ。気に入った。オレから目を離さねえとはな、小僧」そう言ってナーナを振り返る。「暴れたりしねえよ。精霊をしまいな、嬢ちゃん」
「……判るの?」
「ああ。臭いが違う。ヒトには判らねえだろうが、気配がする」
「すごいですね」
アキラは感嘆の声を上げた。これまで何度かナーナが術を使うのを見たが、精霊の気配を感じたことは一度もなかったからだ。
身構えていたナーナも緊張を解き、途中まで結んでいた印をキャンセルする。しかし、精霊は呼び出したままにしておいた。
ヴラドがフンと鼻を鳴らす。
「まあ、いいだろう。試験っていうのはこれで終わりか?」
「はい」
頷いたのはアキラだ。
「で?」
アキラは、再び椅子に腰を下ろしたナーナを見た。こくりと彼女が頷き、アキラはヴラドに視線を戻した。
「合格です」
「そりゃあ良かった」
ヴラドが腰にぶら下げた小物入れをまさぐる。そして、くしゃくしゃの紙を引っ張り出すと大きな手には似合わない繊細さで皺を伸ばし、アキラに渡した。
「履歴書だ」
「お借りします」
そう言って受け取った履歴書を、アキラはナーナに渡した。
「それで、オレからも条件があるんだが」
椅子を軋ませて座りながらヴラドが言った。
「なんでしょう?」
履歴書から目を離してナーナが問う。
「目的地は、ラクドだったな。申し訳ねぇが、そこまでは行けねぇ。アレクシの街までの護衛ってことでオレを雇ってもらえねぇか?アレクシから先についてはオレが知り合いを紹介してやる。そいつの費用はオレの分から差し引いてもらって問題ない」
「理由は?」
「ラクドってよ、空白の砂漠のど真ん中にある街だよな。日程的に考えると、その頃ちょうど換毛期で冬毛になっちまうんでな。砂漠はちょっと無理だ」
「……換毛期?」
ナーナがヴラドの言葉を理解するのに少し時間が必要だった。そして、理解したときには、彼女は思わず叫んでいた。
「なによ、その理由!」
狼男が申し訳なさそうに片手を上げる。
「いや、すまねえと思ってるんだがよ。そのことに気づいて今回の依頼を断るつもりで協会に行ったら、機密保持契約書まで結んで試験をするって言うじゃねえか。面白そうだと思って来てみたんだが」
ヴラドがアキラを見る。
「期待以上だったぜ。だから、アレクシまでオレに護衛させてくれねぇか?やっぱり面白そうだ」
「面白そうって……」
履歴書に目を落としたナーナが、うん?と声を洩らす。
「……ヴラドさん、最近まで南方の事件に関わってたんですか?」
「ああ、書いてある通りだ。嬢ちゃん、興味あるのか?」
「ええ。どんな状況なんですか?」
「もうほとんど片付いてる。あっちの英雄も全部始末したし、あとは抵抗力のほとんどない信者の虐殺しか残ってねぇから、面白くねえんでこっちに戻って来たんだ」
「じゃあ、神追う祭りもそろそろ開かれるんですね?」
「ああ、魔術師協会の上の方の奴らがもう南に行って準備しているはずだ」
「どこでやるか判ります?」
「軍に知り合いがいる。今は判らねぇが、すぐに調べられるぜ」
ナーナが考え込むように、再び履歴書に目を落とす。
「よお」と、ヴラドがアキラに声をかけた。
「テメエ、ホントに何モンだ?」
「オレは」
アキラは少し考えて、正直に答えた。
「判りません、自分が何者かは。あなたは?自分が何者か判りますか?」
「そりぁあ、オレも判らねぇな。まぁ、何モンかと訊かれてすぐ答えられるようなヤツに、大概ロクなヤツはいねぇがな」
不意に、ナーナがあっと声を上げた。
「アキラ」と声をかける。「この人、雇いましょう」
「少々、お待ちください」
ヴラドに一言断ってから、アキラはナーナに歩み寄った。「急に、なに?」ナーナの耳元で囁く。
ヴラドのふたつの耳がぴくぴくと動いていた。
「この人、貸金業の資格持ってる」
「えっ?」
「おお」とヴラド。やはり聞こえていたらしい。
「持ってるぜ、資格。更新したばかりだ、まだ期限も切れてねえ。なんだ、貸付金の回収もするのか?いいぜ、手伝うよ。夜討ち、朝駆け、なんでもござれだ。まかせとけ。何なら人に言えねえような仕事もやってやるぜ」
「……そんな理由?」
聞こえているとは判っていても、アキラはナーナに囁かずにはいられなかった。
「大事なことよ。この人が一緒に回収してくれたら、きっと回収率が上がるよ」
「おう、回収には自信があるぜ、嬢ちゃん」
ヴラドとナーナが目を合わし、頷き合う。
何かの合意に達したようだった。
アキラは、魔術師協会の事務員の青白い顔を思い浮かべた。この状況を読んで人選していたのだとしたら、驚嘆すべき手腕であった。魔術師協会の事務員が細い指でVサインをしているような気がして、アキラは小さくため息をついた。
「それでは、雇用契約書は当方で作成するということでよろしいでしょうか。契約前に一度ご確認いただければ助かります」
話をまとめるように、低い声でナーナが言う。
営業モードである。
「ああ、任せる。どれぐらいかかる?」
彼らが向かい合って座ったテーブルの上には、雇用条件を打ち合わせたメモと、お茶を入れた湯呑が3つ置いてあった。ヴラドとナーナ、それにアキラの分だ。
「三日あれば準備できると思います」
ナーナの横に座ったアキラが答える。事務作業は当然、彼の役割だった。
ヴラドは椅子を軋ませながら頷いた。
「判った。それまでにオレの方で神追う祭りについて調べておこう」
「お願いします。実際の旅のルートは、神追う祭りの詳細が判ってからになるかと思います。また、貸付金の回収次第では若干のルートの変更が入るかと思いますので、詳細については今後、出発までに詰めていくということでよろしいでしょうか」
「ああ、いいぜ」
「それと、当方はスゥイプシャーにも立ち寄りたいと考えていますのでご了承ください」
「ん?スゥイプシャー?観光か?」
「違います」と、ナーナ。声に少し怒りが混じっている。ということは、図星だったらしい。
「怒るなよ、嬢ちゃん。いいぜ、オレもスゥイプシャーは行ってみてえ」
「では、ビザについてですが」
再び話を引き取って、メモを見ながらアキラは言った。
「今回、ラクドに行くにあたって必要となるビザは、ザッハディアとアレクシ、それとアレクシからラクドまでのビザになると思われます。
ザッハディアとアレクシのビザについては、ヴラドさんのビザも当方で取得しましょうか?」
ザッハディアというのは、ショナの南にある都市国家だ。海洋国家で、ザッハディアからアレクシに渡る定期船は新大陸から旧大陸に渡る主要ルートのひとつだった。それとは別にショナの港から直接アレクシに渡る定期船も幾つかあり、そちらを使えばザッハディアのビザは不要だったが、ヴラドの意見を容れて念のために取得しておくことにしたのである。
「ああ、そうしてもらえれば助かる。いま、旅券を渡しておいた方がいいか?」
「できれば、お願いします」
「おう」
ヴラドが腰の物入れから旅券を引っ張り出し、アキラの前に置く。ショナの政府発行の一般旅券だ。ずっと持ち歩いているためか、またはよく国外に出るのか、かなり傷んでいた。
「お預かりします。ちなみに、ラクドのビザにつきましてはショナ国内に領事館すらありませんので、我々もアレクシで取得する予定です」
「ということは、アレクシに何泊かするのか?」
「はい。ラクドのビザが取得できるまでは」
「じゃあ、その間にアレクシでラクドまでの護衛を探してやるよ。心当たりも何人かいるしな」
「ありがとうございます」
「なーに、こっちの都合だ、むしろ迷惑かけてすまねぇな」
「本日は以上ですが、何か他にありますか?」
「あー、それじゃあ最後に確認しときたいんだが、いいか?」
「なんでしょうか」
そう応じたのはナーナだった。打合せが終わりそうだからだろう、表情も声も柔らかかった。
ヴラドは左腕をテーブルに預けて体を乗り出し、アキラとナーナに順々に目をやって口を開いた。
「さっき、小僧は嬢ちゃんの弟子って聞いたけどよ、オメエら、ホントにそれだけの関係か?」
「え、えっ?」
予想外の質問に、ナーナが声を詰まらせる。ヴラドは、そのナーナをからかうように見て、軽い口調で言葉を続けた。
「いや、オメエらがどんな関係でもオレは構わねえんだけどよ、護衛をする上でなるべく雇い主のことは知っておきたいからな。どうなんだ?」
「ただの、弟子です」
ナーナが頬を引き攣らせて答える。アキラはその横で、地雷の気配を感じて黙って頷いていた。
「ムキになんなくてもいいじゃねえか。ここで聞いたことをしゃべるとオレの首は捩じ切られっちまうんだから、他に洩れる心配はないぜ。だから正直に話しなよ?」
本当に捩じ切れるだろうかと、ヴラドの太い首を見ながらアキラは思った。ヴラドなら機密保持契約書の呪いにも笑って耐えてしまいそうだった。
「ただ、の、弟子、です」
と、ナーナ。
「そうか、それならいいんだけどよ。ただ、オメエらの体からそれぞれ相手の臭いがしてるもんだからよ。どうかなと思った訳だ。でもま、嬢ちゃんはまだ……」
火球が、突然ヴラドの鼻先で炸裂した。
立ち上がったナーナが、怒りに肩を震わせながら印を結んだ右手をヴラドに向けていた。少し、涙目になっている。
「あーびっくりした」
ヴラドの髭が少し焦げていた。しかし、彼はそれをまったく気にする様子もなく、低く笑った。
「いや、すげえな、嬢ちゃん。今、精霊を呼び出してから術を発動させるまで2秒かかったか?こんなに早いのは初めてだぜ」
「そんなこと褒められても、ちっとも嬉しくないっ!」
「いや、たいしたもんだ。見直したぜ」
「ヴラドさん、あまりうちの師匠をからかわないでいただけますか」
ナーナを宥めながら、アキラはため息交じりに文句を言った。「だってこいつ」と訴えるナーナに「まだ仕事中だから」と囁いて、彼女の服を引っ張って座らせる。
「じゃあ、最後にもうひとつだけ、いいか?」
「なんでしょうか」
さすがに警戒しながら、今度はアキラが応じた。
「オレは鼻だけじゃなくて、耳もいいんだ。もし、旅の間にオメエらがコトに及びたくなったら気をつけてくれ。全部、筒抜けになっちまうからよ」
「帰れっ!」
ナーナが叫ぶ。
ヴラドは低く笑いながら立ち上がり、大剣を軽々と持ち上げた。
「じゃあな、小僧。3日後に」
「二度と来るな!」「お待ちしています」と、二人は同時に言った。アキラは、怒りに猛り狂うナーナを必死に押さえながら。




