3-2(終わりの旅の始まり2)
アキラとナーナがラクドに向けて出発したのは、それから5日後である。
まず、二人はイーダの家に立ち寄った。ダダと一緒に見送りに出て来てくれたイーダに抱きついて、そのままナーナはしばらくイーダから離れなかった。駅舎のおばちゃんは二人分の弁当を用意してくれていた。そしてデア行きに乗り換えるためにハクの駅舎で一旦馬車を降りた二人を、魔術師協会の禿頭の男が迎えてくれた。
「坊ン、餞別だ」
封筒をナーナに渡しながら彼は言った。
「ありがとう、オジサン。何かお土産のリクエストはある?」
「そんなモン、いらねえよ。どうせ、センスの悪いもんしか買ってこねぇだろう、お前らじゃ。ま、気をつけて行ってきな」
「うん、何かセンスの悪いものを買ってくるよ」
そうナーナが応えると、男は笑って、仕事があるからと帰って行った。
ハクから首都・デアまでは、駅馬車で三泊四日の旅だった。
宿泊料金は駅馬車の運賃に含まれており、駅舎近くに乗客用の宿が用意されていた。
一日目の宿は今にも倒れそうな三階建てで、ベッドのマットもいびつに湾曲し、その上異臭がして、寝苦しいことこの上もなかった。宿の食堂で夕食と朝食を済ませたが、それもとても食事とは言えない代物だった。
何より驚いたのが、共同トイレに扉がなかったことである。用を足しているその前に、他人が順番待ちをして並んでいるのだ。しかし不思議なもので、みんな同じと考えると、人前で用を足すことにアキラは何の抵抗感も覚えなかった。
二日目の宿はずいぶんマシで、ベッドもちゃんとしていたし、トイレに扉もあった。何より良かったのが大浴場があったことだ。ただし、髪を晒すわけにはいかないので、アキラは入浴することはできなかったが。
宿の近くの食堂で夕食を済ませ、ナーナが大浴場に行っている間に彼はいつものように手拭いで体を拭いて済ませた。
「魔術のね」
ナーナがそう話し始めたのは、その二日目の宿でのことである。
浴衣としか言いようのない、宿に備え付けの湯上り用の着物を着て、手にはビールのグラスが握られていた。飲みすぎと言うアキラに、一杯だけと、無理を言って買ってもらったのである。送別会の翌日、「もうお酒は一生飲まないよぉ」と青い顔で木桶を抱えながら誓ったことはすっかり忘れているようだった。
ナーナは、壁を背にして、自分のベッドに足を伸ばして座っていた。その少し着崩れた姿態と、入浴と酔いの影響でピンク色に染まった白い肌はアキラにとっていろいろと問題があったが、それは別の話である。
「一番のキモと言うか、難しいのはね、見えないってことなの」
「見えないって、何が?」
「途中の過程。
例えばね、精霊を使いこなすには呪文を正しく唱えることや、リズムや音程を間違えないってことが絶対条件なんだけど、もし呪文を少しでも間違ったりリズムや音程を間違ったりすると、何にも起きないの。
長い長い呪文を詠唱して、ようやく詠唱し終わったと思ったら最後に何にも起きないってこともよくあるの。
しかも途中の過程が見えないから、どこが悪かったか判らない」
「ああ、どこが悪かったか判らないっていうのは確かに問題ありそうだ。修正しようにもどこを修正すればいいか判らない」
「うん。それが一番の問題。それに、編み上げた呪文に論理的な問題があることも有り得るしね。術が作動しないのが呪文の方の問題なのか、それとも詠唱の方の問題なのか、切り分けるだけでも大変。
さらに言うと、詠唱者の声を精霊が好むかどうか、という問題もあって、呪文にはまったく問題なくて、詠唱も正しく行われているのに術が作動しないってこともありだし。
わたしの師匠の声はあまり精霊好みじゃなかったから、幾ら正しく詠唱しても術が働かないってことがあって、わたしが後ろでこっそり印を結んだりしてたよ。
そもそもその、精霊そのものの姿も見えないもののひとつ。
よほど力の強い、例えば神とかになると姿を現したりもするけど、精霊になると姿が見えることはほとんどなくて、だから本当に精霊を呼び出せているのか、最初の段階でもう判らない。
とにかく、結果しか見えないってことが一番難しいところなの」
「ふーん。その話からすると、ナーナは魔力を持っているという訳じゃないんだ」
「そこが一番誤解されているとこかな。イーダ姉さんにも言われたことがある。でも、魔術を使うために特別な力は必要ないの。
必要なのは、さっき言った、リズムや音程を間違えないってことや、呪文を覚えるための記憶力といった普通の人が持ってる力だけで、魔力なんてないの。
論理的な思考ができることっていう条件はあるけど、わたしの感覚だと1+1さえ理解できれば問題ないし。
ただね、例えば、武人になるためには、人の能力を超えた何か特別な力が必要って訳じゃないけど、それを職業にするには、他人より力が強いとか、剣の技に優れているとか、向き不向きってあるよね。
それと同じように、魔術師になるために人を超えた特別な力が必要な訳じゃないけど、だからと言って誰でもなれるモノでもないとは思ってる」
「それはつまり、この世界の人間じゃないオレでも、努力すれば向き不向きはあるにしても魔術を使えるってこと?」
「うん。ただ、詠唱用の言葉を覚えないといけないからすぐにという訳にはいかないかな。言葉だけじゃなくて文字も覚えないといけないし」
「なるほどね。でも、どうして精霊は呪文に従ってくれるんだろう」
「それが、わたしの師匠の研究テーマなの」
ナーナがビールをごくりと飲み込む。
「わたしたち魔術師はね、精霊や神々、ん、神々を含めると神官の反感を買っちゃうからあまり言わないけど、物理法則の外にある存在をひっくるめて、”あらゆるもの”と呼んでるの」
「”あらゆるもの”」
何かがアキラの記憶に引っかかった。ざわりと、背筋を冷たいものが撫でた。
それは、彼にとって何か重要な存在だという感触があった。何か判らなかったが、彼の根本に関わるような、何か、とても重要な。
しかし、アキラの不安に気づくことなく、ナーナはうんと頷いて話を続けた。
「その”あらゆるもの”とね、誰か、もしくは一人じゃない複数の人たちが、契約を結んだんじゃないかってわたしたちは、ん、もっと正しく言えば、魔術師の一部かな、考えてるの。
最初の契約。今の魔術を成り立たせている、”あらゆるもの”とヒトが結んだ根本の契約。
それがどんなものか判らないし、それがいつのことかも判らないけど。
その最初の契約を結んだ魔術師、もしくは魔術師たちを”始まりの魔術師”と呼んでて、それが、”始まりの魔術師”が、師匠の研究テーマ。
もちろん、この世のすべてを神々が作ったって信じてる神官は、”あらゆるもの”も、”始まりの魔術師”という考え方も否定しているけど。
正直言うと、何が正しいかはまったく判っていないって状態。
魔術師の中でも、魔術が使えるのは神の御業のひとつだと考えてる人たちは、かなりいるしね。
ちなみにわたしは、師匠の影響もあって”始まりの魔術師”説に賛成してる。”始まりの魔術師”以来、延々と積み上げられて来たのが今の魔術だって。
実際に呪を編んでいると、その大元の大元があるような感じがして、そう考えた方が感覚的に納得できるから。
話を戻すとね、精霊が呪文に従ってくれるのも、最初の契約が基になっているんだと、わたしは思ってる。”始まりの魔術師”が結んだ契約がね。
で、”始まりの魔術師”は少なくとも大災厄以前の人だったことは間違いないから、師匠は大災厄も研究テーマに含めていたの。一番は、大災厄以前の書物を探すことを目的にしてね」
「それで、ラクドが古のデアだと当たりをつけていたってことか」
「そう。師匠はラクドに行きたがってた。結局叶わなかったけど。
師匠は、魔術の実践者としては一流にはなれなかったけど、研究者としては超がつくぐらい一流だったんだと思う。研究テーマだけじゃなくて、テーマに関連した知識の量も質も半端じゃなかったしね。
で、今回立ち寄る予定のスゥイプシャーも大災厄に関係があるんじゃないかってことで、師匠の研究テーマのひとつなの」
「前に言ってた、奇妙なスゥイプシャーか」
「うん。でも、前にも言った通りアキラを驚かせたいから、何が奇妙なのかは調べないでね、アキラ」
「はいはい、仰せのままに。お師匠様」
クスクスと笑って、残りのビールを飲み干すと、ナーナはふーと長い息を吐いた。
「……闇の司祭様に会えるかなぁ、ラクドで」
「どうだろう。でもそのために魔術師協会に紹介状を書いてもらうんだろう?」
「うん。でも、紹介状があるからって必ず会ってもらえるとは限らないし」
「うーん、オレは、紹介状が要るってことの方が驚きだったけど」
「あら。ある程度の立場の人に会うのに、紹介状なしで会うのが、アキラの世界では普通なの?」
「言われてみれば普通じゃないね。でも、オレが読んだ物語は、野越え、山越え、ドラゴンの住む洞窟抜けて、紹介状もなしに賢者の家に押しかけて行くっていうのがほとんどだったからさ。
乗合馬車に乗って、船に乗って、紹介状片手に賢者を訪ねて行くっていうのはちょっと想像していなかったよ」
その紹介状に天地がひっくり返るほど驚愕させられることになろうとは、神ならざるアキラは知る由もなく、「じゃあそろそろ寝ようか」とナーナに声をかけて、アキラは空になったグラスを彼女から受け取った。
翌日も二人を乗せた駅馬車は何のトラブルもなく行程を消化し、思い出したくもないほど酷い宿にもう一泊した後、四日目の午前中に、予定通りショナの首都・デアに到着した。




