2-5(黒いユニコーン5)
笑いを収めて涙を拭きながら、ナーナは辺りを見回した。とにかく逃げようと走って来たので、自分がどこにいるのか判らなかった。
アキラが「ナーナ」と声をかけ、こっちと手招きをする。アキラについて行くと、幾らも歩かないうちに魔術師協会の扉の前に出た。これにはかなり驚かされた。
その後、魔術師協会の無駄に高価な魔術師見習い用のローブを購入し、それをアキラに着せ、こそこそと城外に出て、乗合馬車に乗り込んでハクを後にした。
市場に寄ったのはイーダへの土産を買うためだったが、仕方がないのでそれは到着した駅舎で革袋入りのワインを買って済ませた。
土産と引き換えにおすそ分けをイーダにもらい、夕方と言うにはまだ早い時間に二人は家に帰り着いた。
夕食の後、ナーナは水を入れた木桶と手拭をアキラに渡した。身振りで、それを使って体を拭くようにアキラに示し、自分の分の木桶と手拭を持ってナーナは2階の書斎に移った。彼女の寝室には鍵がなかったからだ。着替えを用意し、鍵を内側からかけてから木桶1杯の水と1枚の手拭だけで手際よく体を洗い、髪も洗って、部屋着に着替えた。
何の前触れもなく、ランプの灯が消えた。
書斎の窓の外にもすでに光はなく、闇が、書斎に落ちた。
不審に思いながらナーナは、ランプの灯をつけるべく、右手で印を結んだ。簡単な印だ。今更間違えようもなかった。
しかし、ランプは灯らなかった。
ナーナは低く喘ぎ、両手を強く握りしめた。
書斎の闇の奥に、何かがいた。
それが近づいて来る。
遠くから。
書斎の広さからは考えられないほどの、遠くから。
滴り落ちそうなほど濃密な闇の中、ナーナは何も見ることはできなかったが、彼方と言ってもいいほどの遠くから、それが近づいて来るのを感じていた。
精霊は呼べない。なぜか、誰も来ない。
闇に包まれた書斎は、どこまでも果てもなく続き、ただ、それと、彼女だけが世界に存在しているかのようだった。
手を伸ばせば触れそうな気配が、彼女の前に迫って来た。
覗き込まれている、とナーナは感じた。
後ずさりし、後ろ手で鍵をかけた扉を探る。
不意に、姿が見えた。
怯えた少女の姿が、闇を通して。
肩に落とした短い髪、大きく見開いた瞳。後ろには、彼女の背よりも高い固く閉じた扉。
それが、立ち尽す自分の姿だと気づいて、恐怖は驚きに変わった。
彼の眼を通して、自分を見ているのだ--。
「まさか」
ナーナは呟いた。
「まさか……」
そうして気がつくと、彼女は彼とひとつになっていた。
闇に静かに佇む彼と、ひとつに。
ナーナは彼を通して自分を見、彼はナーナを通して、闇に溶け込んだ自分を見つめていた。彼は彼女であり、彼女は彼だった。彼の心は彼女の心そのものであり、彼女の心はまた、彼の心そのものだった。
守られているという深い安堵感が、ナーナの心に満ち溢れた。
知らず涙が頬を伝い落ちる。
ナーナは、目の前のそれに向かって囁きかけた。
「私の、ユニコーン」
昔語りに言う。
ユニコーンは、14歳になった乙女の元を訪れると。身を清め、ひとりきりで夜を過ごす乙女の元を訪れると。将来、乙女が結ばれるべき伴侶の名を、彼女に告げるために。14歳になったばかりの乙女の元に。
だが、それははるか昔のおとぎ話でしかなかった。実際にユニコーンに会ったという話を、ナーナは見たことも聞いたこともなかった。
はるか昔、大災厄よりも、まだ昔。
おとぎ話の、お姫さまたちの話としてしか--。
「なぜ」
ナーナは問うた。
疑問は、彼女の心に浮かんだだけで彼への問いかけとなった。
ナーナは、見えはしなかったが知ったのである。
自分のすぐ前に佇むユニコーンの体が、その長い長い角も、風もなくたなびくたてがみも、優雅に揺れる尻尾まですべてが、闇よりもさらに深い漆黒であることを。
伴侶を告げる乙女と対になるユニコーンは、乙女の髪、または、乙女の瞳と同じ色の身体をしているはずだった。
しかし、ナーナの髪も瞳も、色は濃い栗色だ。
ユニコーンは答えない。
ナーナとひとつになった彼の心にも、答えはなかった。ただ、胸を刺すが如き深い深い悲しみが、静かな湖面のように彼の心の中に広がっていた。
「なぜ?」
ナーナはもう一度問うた。
ユニコーンが、何かを囁いた。ナーナの耳元で、何かを。しかしその声は、まるで吹き去る風の音のようで、彼女の心に何の意味も結ばなかった。
足を踏み出し、ユニコーンが佇む辺りに手を伸ばす。
その手が、空を切った。
そして、ランプが灯った。
ナーナの用意してくれた木桶と手拭で体を洗い、パジャマに着替えて、アキラはベッドに横になった。
彼が最初に寝かされていたベッドだ。
昨夜、ナーナはこの部屋を指さし、次にアキラを指さして眠るフリをして見せた。この部屋を寝室として使えということだろうと理解できた。
横になったまま、アキラはこの二日の間に起ったことを思い返してみた。しかし、昨日と今日と謎が提示されるばかりで、判ったことは何もないことに改めて気づいて、アキラは深いため息を落とした。
なぜ、ここに来たのか。ここと、元の世界はどういう関係にあるのか。どうすれば帰れるのか、手がかりすらないのである。
小さなノックの音に、アキラは顔を上げた。
「はい」
蝶番をきしませて扉が開かれ、ひとりの少女が、ナーナが姿を現した。
「どうかした?」
音もなく部屋に入って来たナーナは、俯いたまま何も応えなかった。
ナーナが扉をそっと閉じる。顔色が悪い。ひどく青ざめて見えた。手を体の前で握りしめ、彼女はそのまま、幽鬼のように立ち尽していた。
灯りの消えた居間から、扉の隙間をすり抜けて、闇が彼女の体を背後から呑みこもうとしているかのようだった。
「ナーナ?」
再度、アキラは問いかけた。
それに応えるように、アキラから視線を外したまま、ナーナは滑るようにベッドに近づくと、アキラの横に、アキラに背を向けてするりと潜り込んだ。そして、薄いシーツを引き寄せ、体を丸めた。
ナーナ、と問おうとして、アキラは彼女がひどく怯えていることに気づいた。がたがたと、華奢な体が小刻みに、それと判るほど震えていた。カチカチと歯の鳴る音も聞こえた。瞬きすら忘れたように目は見開かれ、何もない床の上に、見えているのかいないのか、ただまっすぐに向けられていた。
アキラは、薄いシーツ越しに後ろからそっと腕を回した。彼女を驚かせないように、ゆっくりと、少しでも、彼女を慰められればと。ナーナの体がビクリッと跳ねる。しかし、彼女の震えは止まらなかった。
そうして、彼女が穏やかな眠りに落ちるまで、アキラは彼女に寄り添い続けた。正体の知れぬ恐怖と戦い続ける少女に、声もなく。
「……」
「……?」
「……。」
「……。」
「…………あれ?」




