1-1(名のない少女1)
何年も、何十年も、その何倍もの歳月を。
彼女には名前がなかった。彼女がようやく名を得たのは、彼女が14歳になった数日後のことである。
彼女の名付け親となった男は、集落から彼女の家に続く森の中の細い坂道に、頭を上に、彼女の家の方に向けてうつぶせで倒れていた。そろそろ昼になろうかという時分で、木々が落とした夏の濃い影が、男の背中で揺れていた。
「誰か倒れてる」
彼女の口から洩れたのは、独りでいることが長いからだろう、いつの間にか習い癖となった、状況からすればあまりに場違いな、ほのぼのとした独り言だった。
恐れは不思議と感じなかった。
むしろ、まるで彼女が生まれる前から決められていたかのように、彼がそこに倒れていることが彼女には当たり前のように感じられた。
食料を入れた手提げ籠をそっと傍らに置く。
怖くはなかったが、見知らぬ男に対する警戒は本能的に忘れなかった。
火の精霊を呼び出す短い詠唱を唱え、彼女は、音を立てないようにそろそろと男に近づいた。男の脇にしゃがみ込み、いきなり飛び掛かられても対処できるよう左手で印を結びながら注意深く男の首を指で探る。
温かい肌の下に、確かな拍動があった。
「生きてる」
倒れた男の全身に改めて目をやる。
身長は170cm半ばぐらいだろうか。細身で体を鍛えているようには見えず、書生か何かかと思われた。ざっと見ではあったが、怪我をしている様子はない。
「ああ、そうか」
そこで彼女は、自分の違和感の正体に気づいた。倒れた男の髪だ。黒い髪の人間を見たのは初めてだった。
スカートが汚れるのも構わず、彼女は四つん這いになって男の横顔を覗き込んだ。
「闇の……、ん……。でも、息をしてるなぁ」
男の着衣にも違和感があった。
長袖に長ズボン。あまり見たことのない出で立ちであるだけでなく、夏の盛りにも関わらず生地が厚手すぎるように思えた。しかも、何故か足は裸足だ。
立ち上がって土を払い、彼女はひとり頷いた。
「よし。連れて帰って調べてみよう」
そう言うと、彼女は掌を下にして両手を前に差し出した。小さく囁くように詠唱を始める。
それは、10日ほど前に見つけた埃だらけの魔術書に、今はすでに失われた言葉で記されていた古い古い呪文だった。寝る間も惜しんで解析し、昨日ようやく彼女の言語で編み直したが、実際に試すのは初めてだった。
後に「つまりオレで人体実験したってこと?」と彼に訊かれたが、つまりはそういうことである。
何段階もある前準備の長い呪文を、低く低く呟く。正しく詠唱しているか確かめるための呪文を間に挟み、さらに風の精霊を呼び出すための呪文を唱える。
乾いた風が、彼女の頬を音もなく撫でていく。
さらに幾つもの呪文を呟き、ふと、彼女は息を溜めた。指先に力を込め、両手を叩きつけるように振り下ろす。
倒れた男の体が、フワリと浮いた。
「おおぅ」
驚きの声が洩れる。
「本当に浮くんだ。なんでかな。力は下向きに働かせているはずなんだけど……」
目の前まで浮き上がって来た男の袖を左手で掴み、彼女は風の精霊を操るべく右手で印を結んだ。その顔が、戸惑いにしかめられた。
「ん、ん?思ったより難しい……。そうか、重さはなくなっても質量がなくなった訳じゃないから……、とっ。とっ。とっ。ん、いや、もう、このまま……って、たっ、たっ、たっ、ちょっ、む、む…り…?!」
自分が引き摺られそうになり、彼女は慌てて男の袖から手を放した。男の体がゆっくりと回転しながら彼女から離れていく。
素早く呪文を詠唱し、呪を解きながら彼女は両手で印を結んだ。
森の木々が激しくざわつく。何度も異なる命令を与えられて精霊が不機嫌になっている証拠だった。
宙に浮いた男の体が、がくりと僅かに沈む。
乾いた風が、妙に甲高い音を立てて彼女の周りをくるくると舞った。そして突風と共に、宙に浮いた男の体が彼女に向かって投げ出された。
「ひゃあっ」
思わず目を閉じて身を躱す。
どさりと音がして、おそるおそる目を開けた彼女のすぐ脇に、今度は仰向けになって男が倒れていた。
彼女はふぅと、ため息をついた。
「んー、失敗か。もう少し、力の加減を調整した方がいい……。って、あれ?」
訝しげに眉をひそめ、彼女は再びしゃがみ込んだ。まじまじと男の顔を見つめる。
鼻筋は通っていたが顔全体の凹凸は少なく、彼女の知るどの種族の顔立ちとも異なっていた。肌の色は見たことのない黄色で、僅かにこけた頬にはうっすらと髭が生えていた。年齢を見極めるのは難しかったが、20歳前後かと彼女には思われた。
「……どうして?」
小さく呟いた彼女の声には、戸惑いがあった。
「見覚え、ある気が……」
彼女の頭上の森が、彼女を嘲笑するように大きく揺れて音を立てる。
そうしてそこに跪いたまま、名のない少女は、意識を失った男の顔を身じろぎひとつすることなく見つめ続けていた。