師匠と弟子
「大丈夫かい?」
まだ幼さの残る少女が、木の上で降りられずに泣いている。
そこに青年はたまたま通りかかった。
「うわ~ん! こわいよ~!」
少女はもう、そこから身動きが取れない。恐怖心から、ただただ泣く事しか出来なかった。
その場で縮こまっていると、青年が地面から、ふわりと宙を浮いて少女を抱きとめた。
「このまま掴まって」
あまりにも、びっくりした少女は涙が止まり、青年の腕に身を委ねるしかなかった。
ふわりと地面に、ゆっくりと下ろされると、青年の腕から少女は解放された。
美しく長い蒼白い髪が、さらりと少女の頬を掠める。
見上げた少女の目に、子供心にも青年は美しく映った。
「あなたは天使さまなの?」
「天使?」
ふふっと青年は優しげに微笑む。
「僕は天使じゃない。しがない魔法使いだよ」
「まほう……つかい」
天使だろうが魔法使いだろうが少女は青年の美しさに見とれた。周りにいる大人で青年ほど綺麗な人を見たことがないのだ。
「あの、あの、あ、ありがと、です」
「どういたしまして。下りられない所まで、もう登っちゃダメだよ」
優しげな笑みを浮かべる目の前の美しい青年に、感じたことのない胸の高鳴りを覚え、少女はドキドキが止まらなかった。
後に、それは初恋なんだと後から知ることになる。
そんな美しい思い出は何処へ。
黒髪を短く切り揃えた小柄な女性が、ローブをすっぽり被った出で立ちで男を見下ろしている。
見下ろした先には、あの頃の初恋の君が涎を垂らしながらソファに仰向けで眠っていた。おまけに酒臭い。
「師匠」
酒臭い息から更にいびきが、うるさい。
「師匠!」
師匠は気持ち良さそうに眠っている。
「師匠~!」
もう頭に来たので、師匠直伝の雷を繰り出し目の前の師匠にビリビリと当てた。
「ぐおおおおおおっ!」
軽い電気ショックのつもりだったが、思いの外、加減が強かったようだ。
ソファから痛そうに転げ落ちた師匠は、ゴロゴロと痛みを紛らわすように長い髪を振り乱し、のたうち回っている。
だいぶ落ち着いて動きが止まると、のろりと起き上がった。
いい年した四十のおじさんだが、乱れてしまった美しく長い蒼白い髪をかきあげ、目を伏せて気だるげな様は妙に色っぽくて絵になる。
こんな所で無駄に男前を発揮するな!!
弟子は内心、毒づいた。
「師匠」
「ん? ああ、ローズ」
呑気な声が返ってくる。余計にそれが腹ただしい。
「本日は王城へ行く日です。師匠、ご準備を」
「んー」
大層やる気のない返事だ。
「それよりさぁ、朝ごはん食べた?」
「いいえ」
「ダメだよ~! 朝ごはんは一日の活力だよ。食べなきゃ~」
よく言うよ。あのまま寝てたら確実に昼まで寝て、朝ご飯どころじゃないだろ!
と思うも、言うのが面倒くさいほど、お馴染みなやり取りだ。
「トーストでいい? 一緒に食べよ」
女を口説き落とすほど威力絶大な、寝起きのかすれ声に優しげな眼差し。
悔しいが、惚れた男にそう言われたら頷くしかないだろう。
酒臭いのが鼻につくが。
偉大なる魔法使いラドクリフ・ブッセン
その弟子ローズ・テン
ラドクリフは大国五本指に入る魔法使いだ。
先の戦争終結に多大なる貢献をした伝説級の人物である。
そして弟子のローズは、ラドクリフが支援していた孤児院で育つも、強力でコントロールしづらい魔力からか、誰も手に負えずにいた所をラドクリフに預けられた。それからラドクリフ管理の元で弟子として暮らしている。
独り暮らしが長かったラドクリフは、なんでもこなせる器用さと完璧主義な性格から貴族という立場であるにもかかわらず家事全般、得意だった。
ローズは二十歳を過ぎた成人女性ではあるが、背が低く胸も貧相ぎみな為、ここ五年ほど一緒に住むようになったラドクリフが、不憫に思ったのかローズに食事を甲斐甲斐しく世話する。
今更、遅い気がするが。
テーブルに並べられた朝食は簡単なトーストといっても、ラドクリフ手作りのアップルシナモンジャムが添えられている。シナモンの香りが広がり、見るからにして旨そうである。
「あれ? 師匠、一枚しかありませんよ」
「うん、僕はいいよ。昨日飲み過ぎてね」
最近ラドクリフは酒を煽るようになった。
何か心境の変化があっただろう事は分かるが、自分の事を追究されるのが嫌いな男ラドクリフには聞かぬが仏。
一緒に住んでいると意外とラドクリフの変化は分かりやすいので、ローズはさほど気にしない。
焼いて貰ったトーストにバターを塗って、ラドクリフ手作りのアップルシナモンジャムを乗せて頬張ると、林檎の甘味とシナモンの香りが口の中に広がり朝から幸せな気持ちになる。
「おいしい~!」
向かい合うように座り美味しそうに食べるローズを、ラドクリフはニコニコしながら眺めている。
「ん? やっぱり欲しいですか?」
「いや、僕が作った物を美味しそうに食べている君を見ていると、幸せでね」
ラドクリフが、まるで口説き文句な台詞をサラッと言うのも日常の一つだ。
「それより、王城には行く気はないんですか?」
「う~ん……行かなきゃダメ?」
「ダメ! みんな師匠の魔法学の教えを乞うために王城に来るのですから、そんな面倒くさそうにしないでください」
「う~ん……ぶっちゃけ、勉強したって魔法は才能だからね」
魔法界の重鎮が、身も蓋もない事を言うなよとローズは思う。
「僕は君だけの師匠でいたい……」
「師匠……」
甘い言葉に甘い空気になるはずもなく
「くどいです。私が食べてる間に早く準備してください」
師匠を仕事に行かせるのも弟子の仕事であった。
「では、これにて講義を終わりにします」
「ありがとうございました!!」
戦争終結を機に魔法使いとして名を馳せたラドクリフは、彼の教えを乞いたいと願い出る者が後を断たなかった。
通常、魔法を使える力を持った者達は、使い方を教示してもらう師匠を個人的に見つけるか、自己流で力の使い方を身に付けた。
ラドクリフも自己流で身に付けた口である。
ラドクリフ人気に便乗して魔法使い達の囲いこみをするために、王家は一週間に一度、王城での講義を開くようラドクリフに命じた。
案の定、大盛況で今に至るのだが、問題が一つ。
「ラドクリフ様!」
講義が終わり、そそくさと帰ろうとするラドクリフを講義を受けた受講生の一人、可愛らしい女性が呼び止めた。
「あ、あの、わ、私を、ラドクリフ様の、の、弟子にしてください!」
きゃ~!言っちゃった~!どうしよ~! と赤面しながら顔を隠す可愛らしい女性を冷めた目で見るラドクリフ。
「君程度の魔力なら僕の講義は必要ない。このメス豚が」
「え?」
ラドクリフから出た言葉なのか信じられない様子で、女性は唖然とした。
「ん? 君は頭も悪く耳も悪いのか? 話にならない。もう来ないでくれメス豚が」
顔面蒼白になった女性に目もくれず、ラドクリフはその場を立ち去った。
そう。偉大なる魔法使いラドクリフには問題が一つ。
四十の歳の割に非常に人間嫌いで嫌々講義をして苛ついてるせいか、受講生に話しかけられると暴言を吐くのだった。
それなのに女性から支持が高いのは、人並外れた見目麗しさがあるからだろう。
「あ、師匠、お疲れ様です。本日も素晴らしい講義でした」
ローズは、いつもラドクリフの講義を聞き、終われば帰るのを律儀に待っている。
ローズの姿を見つけるや否や、暴言を吐く中年の男の姿が嘘のように消え、ラドクリフからは世の女性を魅了するであろう笑顔が溢れた。
「ロ~ズ~!」
まるで可憐な乙女のように、弟子に駆け寄るラドクリフ。
「どうしたんですか? 今日はやけに、くどいですね」
他の者が見れば可憐なラドクリフに心奪われそうだが、慣れているローズは動じない。
「実は先程、豚を見かけてね……」
「え? 城に豚なんているんですか?」
「とても不快でね」
「へー。城で豚を飼い始めたのかな」
「僕はローズがいれば、それだけでいいのに……」
「私と豚を一緒に、しないでください!」
そうやって二人は帰路についた。
「ローズ、今日の晩御飯は何がいい?」
「唐揚げ」
「うん……豚カツにしよう」
豚カツが出来るまで、豚肉に包丁を入れるラドクリフが、何故か恐ろしかった。