ユキ
東京の雪は小さくて、みずっぽい。積もることはほとんどなく、積もったとしても翌日か翌々日には溶けて消えてしまう。東北出身の大学の知り合いは「東京の雪なんて、雪のうちに入らない」なんて言うけど、俺はこの雪が昔から好きだった。
駅前で人を待っていた。相手が来るまでやることもない。空を見上げるとちろりちろりと数粒の雪が舞っていた。ゆっくり、ゆっくりと夕暮れの寒空から降ってくる雪は、ちょっとの風で落ちる方向を変えられてしまって容易に地面にたどり着かない。ようやくコンクリートにたどり着いたと思ったらすぐに溶けてしまう。俺には、雪が恥ずかしがりながらも地面に手を伸ばそうとしているのに、なかなか上手くいかないように見えた。そんな様子を普段なら何十分見ても飽きることはない。しかし、今日は顔を上下に揺らしているものの雪に焦点が合うことはなく、頭の大半が雪とは別のことで占領されていた。目の前に映るのはこちらに手を伸ばしながら笑いかけているユキの姿だった。
白石由紀と知り合ったのは高校の入学式の時だった。潮見綾と白石由紀、名前順で座ると俺たちは前後の席だった。
「えっと、潮見君だよね?下の名前は……アヤでいいの?」
前を向いていた由紀がクルリと振り返ると至極真面目な顔で聞いてきた。思い返すと真剣な顔をした由紀を見るのは数えるほどしかなかった。
「いや……これでリョウって読むんだ」
「へぇ、そうなんだ! 席に着くまでは後ろが女の子だと思っていたけど……君、案外顔も女の子っぽいね、よろしく!」
初対面の異性に向かってそんなことを言う人間が世の中にどれほどいるだろうか。けれど彼女はからかうようなにやけた表情をしていたが、悪意のようなものが一切ないことも見て取れた。思えばこの時も由紀は握手のために手を俺に伸ばして笑っていた。
他人からすればとても些細なやりとりだと自分でも思う。けれども俺たちはこれをきっかけにして仲良くなった。
真面目そうだなと思ったのは最初の一言の間だけだった。授業中だろうとお構いなしにちょっかいかけてくるし、休み時間になると由紀に無理やり連れ出されて校内を駆け回ったりもした。部活は違っていたが終わる時間が多少違っていてもどちらかが終わるまで校門の前で待っていたりと一緒にいることが常だった。付き合っていたわけではなかったが周りに冷やかされることはあった。それでも結局高校の3年間はずっと由紀に振り回されつつも飽きない日常を過ごした。
由紀は俺を連れ回そうとする時は、律儀に確認を取り、必ず手を伸ばして笑いかけてくる。俺は俺でOKの返事をするときは決まってその手を握る。その後は走り疲れたり、遊び疲れたりと大抵はひどい目に合うが、いつもこの誘いかけは断ることはせずに由紀の手を取っていた。
高校3年の冬、その夜も俺は由紀に手を握られて外へくり出された。2人とも受験勉強の真っ最中だったが、予備校の窓から、しんしんと降る雪を見た由紀が「今日ぐらい息抜きしようよ」と言って勉強をそこそこの時間で切り上げて予備校の外へ出たのだ。
「ユキだ……」
「私の名前、呼んだ?」
ユキという音に反応して由紀が俺の方へ振り返る。その前の年にも似たようなやり取りがあった。
「違う。空から降ってくる方だよ」
その日の雪は今日よりもずっと多く降っていて、降り始めてそんな時間が経っていなかったのに既に地面にうっすらと雪が積もっていた。水を多く含んだ雪は透けて俺たちの立っていう地面がうっすらと見えた。雪化粧、そんな言葉がピッタリだった。
地面の方に目がいっていると顔をかすめて何かが飛んで行った。
「惜しいなぁ。当たったと思ったのに!」
慌てて声のした方に目を向ける。由紀はうっすら積もった雪を必死にかき集めたのか足元にはすでに何個か雪玉がある。俺はこれを開戦の合図と、柄にもなくはしゃぎしばらくは2人で雪合戦をしていた。
遊び疲れた俺たちは勝負をやめて、2人並んで降ってくる雪を眺めていた。風はなく、粒が大きかったので空からまっすぐ降ってくる。音は電車の通り過ぎる音しか聞こえず、人通りもない。降りしきる雪の中に立った2人でいるような幻想的な雰囲気に包まれていた。
「ねぇ、綾……」
「なんだよ、突然」
おもむろに由紀が口を開いたかと思うと、その声は真剣味を帯びていた。
「これからもずっと友達、でいてね」
首を横に傾けて由紀を見つめる。微笑んでいた。手は伸ばしている。けれどいつもと違って由紀の表情は真剣だった。こんなことを由紀が言うなんて思わなかった。冗談をついているようでも、俺をからかっているようでもなかった。友達、としてずっとそばにいてほしい。よっぽど大事なことを宣言されるのかと思っていたからこれを聞いて安堵した。けれどもこの時胸が締め付けられるように痛かった。原因は今ならわかる。いや、この時やっとわかった、俺は由紀のことが好きなのだと。
けれどもこの時はその場で告白をしようなんて勇気も起こらずただ「おう」と返事しただけでこの幻想的な時間は終わってしまった。
大学に入ってからは会うことが少なくなった。互いに授業で忙しくなったからだ。そうして初めて俺は自分から由紀とどこかに連れて行こうと考えた。コツコツとお金を貯めて二人分の遊園地のチケットを買い、福引であたったなんていう口実を作って由紀を誘――
「なに見てるの?」
すぐ後ろから声がして、物思いにふけるのをやめた。振り返ってみれば鼻と鼻が触れてしまうほど近くで由紀が笑っていた。
「いつの間に後ろにいたんだよ。驚くだろ」
「今、驚いてたの? 全然表情に出てなかったからてっきり気づかれてるのかと思った」
白石が無邪気に笑う。
「背後から、しかもこんな近くに人がいたら驚かないわけないだろ」
俺は努めて無表情を作ろうとした。視界がほとんど由紀の顔で覆われている。 目が合うと気まずさを覚えて思わず目を逸らした。
「会うの、久しぶりだな」
「そうだよね。最近は連絡もほとんどラインとになっちゃってたしね」
沈黙が下りる。雪がちらつくほど寒かったが、クリスマス・イヴだからか駅前には主婦やカップルが多く行きかっていて、多くの雑多な音が沈黙の間に入ってきた。去年のあの時間とはまるで違っていた。
意を決して本題に入る。俺はショルダーバッグから2枚の紙切れを渡した。
「ほら、これだ」
「ありがとう! 本当にもらってもいいの?」
「……ああ、問題ない」
本当は俺たち、で使いたいんだ。言っていることとは逆のことを、心の中で呟く。
「俺にはいらないものだからな」
「本当にありがとう!大事に彼氏と使うね」
そう、この遊園地のチケットを使うのは俺と由紀ではない。由紀とその彼氏だ。
あの時俺はこう聞いてみた
「遊園地に行ってみたくはないか?」
と、たまたま福引であたったと嘘をついて由紀を遊園地に誘おうとした。うまく事が進んだら告白するつもりだった。すると由紀は
「いいの? 彼とデート行ったことないからめっちゃ欲しい!」
聞き方も悪かった。そんな些細なことで話が食い違うなんて思わなかった。けれども一番ショックだったのが、好きな人がいるなんてことを由紀が一言も言ってくれなかった事だった。
「本当にいいの? もらおうとしてなんだけど、せっかく当たったんなら自分で使えばいいのに……」
戸惑いの色を浮かべながら由紀が聞いてくる。
その言葉に心が揺れる。頭も揺れる。もともとは由紀と一緒に行くために買ったものだ。本当は自分のために使いたかった。でももうそれは叶わない、彼氏という存在がある限り。由紀の表情は分からない。俺は横を向いて、彼女の顔を見ていなかった。
「ああ、いいんだよ」
思わずぶっきらぼうに言ってしまった気がした。思わず由紀の顔を見てしまう。由紀は幸せそうに笑っていた。白石の笑った顔を見て幸せと思ったのか、彼氏と仲良く話しているところを想像して嫉妬したのかはわからない。感情がごちゃ混ぜになっている。
「それじゃ、また今度。必ずお礼するから!」
由紀が手を振りつつ別れを告げた。
迷う。今ここで、彼氏とではなくて俺と一緒に行こうと誘おうか。
最後のチャンス。何度も何度も心の中では誘い続けてきた。迷う…
「由紀!」
想像よりもずっと大きな声が出てしまった。周りの人も驚いてこちらを見ている。
「綾……どうしたの?」
「……また今度な」
結局それしか言えなかった。
「そうだね。また今度ね!」
白石は手を振りながら歩いて行った。俺はそれを見えなくなるまで見送った。
見上げれば雪。東京の雪が、はらり、はらりと舞い落ちてくる。先ほどよりも勢いの強くなった雪は落ちては消え、落ちては消えを繰り返す。まるで今の気持ちを表しているようだった。その様子は限りなく切なく驚くほど綺麗だった。