3.『娘』の真偽(2)
ディルクは侍女達の後ろをついて歩きながら周りの風景を覚え込んでいた。
ユニカが暮らしているとはいえ、西の宮は閑散としていて目印になるような装飾品などがない。苦労しながらの道を記憶する。
いささか腕が疲れてきたので、ディルクは立ち止まってユニカを抱え直した。
揺り動かされても彼女は呻き声一つ立てない。ディルクの衣服にまで染みてきた血はとうに冷え切っている。
「エイルリヒ、息をしているか確かめてくれ」
「ええー……」
「手をかざしてみるだけだろう」
ユニカの落とした本と襲撃犯が棄てていった短剣だけを抱え身軽に歩いていたエイルリヒは、渋々ユニカの鼻先に手を伸ばす。そのまま少し考え込むように唸ったあと、
「虫の息ですね」
簡潔にそう述べると、二人からさっと離れた。血がつくのが嫌らしい。
「生きてはいるか」
振り返れば、ディルクが歩いてきたあとにはユニカのドレスからしたたり落ちた血が点々と落ちている。腕と袖の中でぬめる血糊の感触といい、おびただしい出血量の実感があるディルクはユニカを見下ろしながらふと笑った。
普通の人間なら失血によってとっくに死んでいるような状態で、この娘は生きている。それは、この娘が〝本物〟だという証だった。
兄弟の前をゆくフラレイが遠慮がちに振り返った。
まだディルクたちに送り届けられることに迷いがあるらしく、時々ああして様子を窺ってくる。
その覗き見の間隔がだんだん短くなってきたと思ったら、彼女はいよいよ歩みを止めた。
「ユニカ様のお部屋です」
西の宮の奥まったところまで来たな、と思ったら当然のこと。ユニカは宮の中でも南の端にある部屋を住まいにしていた。陽当たりが考慮された一等の部屋とはまた別の、隅っこの部屋だ。それでも前室、主室、寝室、衣装部屋、侍女たちの控えの部屋がそろっている。
調度品も一流だ。滑らかな艶のある木製の家具、白で統一された布製品。床に敷かれた絨毯の藍色は北にあるマルクエール王国特産の毛織物である証。
部屋を一見すれば、ユニカが受けている扱いは王族のものだった。
ディルクは寝室に通され、ユニカを寝台に寝かせる。
ティアナとフラレイはテリエナを別室へ運び、またすぐに戻ってきた。
「フラレイさん、本当にお手当は必要ないの? 傷を縫うならわたくしにも出来ます。今からでも道具を取りに行きますわ」
「傷を縫ったりしたら、きっと大変な事になります」
「どうして?」
「どうしてって……」
ティアナは知っているはずだ、とフラレイは目で訴えかけるが、ティアナはまるで気づかないふりで瞳を潤ませる侍女を見つめ返した。
ユニカの噂は、城に勤める者ならたいてい聞いたことがあるはずだ。
天槍を招き操る力があるとか、病や怪我を癒す力があり、王がそれに執着しているらしいとか、ユニカ自身が不死らしいとか。憶測の域を出ないが、これらの噂は広く囁かれていた。
「ユニカ様はすぐに傷がふさがる方なので、傷を縫ったりしたら糸がとれなくなってしまいます」
「すぐにとはどれくらいのことかしら」
「針が刺さったくらいなら、瞬く間に」
フラレイは警戒しながらも、問われればぽろぽろと答える。
兄弟はユニカの枕元にたたずみながら侍女たちのやり取りを聞いて口の端をにたりと持ち上げた。
「しかしフラレイ、ティアナには医学の知識がある。とりあえず傷を診て貰おう。君にもこの人がどれくらいの回復力を持っているかはっきりとは分からないのだろう?」
「はい」
「医官の手配は、我々からはしない。しかし傷の状態を追って陛下にお知らせすることも出来る。彼女に任せてもいいね?」
「……はい」
ディルクの撫でるような声音はフラレイを充分に安心させたらしい。言葉も彼女に不利を感じさせないものだった。畳み掛けるようにエイルリヒがフラレイの手を取り、寝室を出るように促す。
「ティアナ、頼む」
兄弟とフラレイが退出するのを見送ったあと、ティアナは衣装部屋へ入った。裁縫箱がどこかに置いてあるはずだ。
難なくそれを見つけ出すと裁ち鋏を取り出し、寝台に横たわるユニカを見下ろす。
ユニカが着ているのは、淡い水色の地に白い大柄の薔薇が描かれた、清楚だが目を引く美しいドレスだ。無惨にも血に染まり、もう着ることは出来ないだろう。
もったいないし申し訳ないとは思ったが、ティアナはユニカの襟元に鋏を宛がうと一気にドレスを切り裂いていった。
慎重にユニカの身体を裏返しながら、下着類もすべてはぎ取り、血で汚れた傷の周りを拭う。するとユニカは初めて呻き声をあげた。
「申し訳ございません。傷の様子を見せていただきますね」
なるだけそっと傷の周りを綺麗にし、胸と腹、静かに身体を転がして腰の傷口を確認して、ティアナは眉を顰めた。
どの傷も出血が止まっていることが分かった。まだ濡れてはいるがとても刺されたばかりの傷口には見えない。
「本当に……」
国王秘蔵の『天槍の娘』。ティアナも噂はよく知っていた。でも噂に過ぎないと思っていた。様々な謂われにも何かからくりがあるだけなのだと。
国政に口を出すわけでもなくただ城の端に住み着いているだけなら、ティアナが仕える王子の将来の妨げにならない限り放って置いてもよい存在。
エイルリヒからの手紙にあんなことが書かれていなければ、ティアナはさしてこの娘に興味を抱かなかったのに。
「本当に不死なの……この方は」
ぞっとした。人は怪我によって、病によって、老いによっていつかは死ぬ。それは覆ることのない真実だし、誰にも通ずる理だった。だからユニカの噂も信じていなかったのだ。
しかし、それが通用しない人間がいるのか。
ティアナは上着を脱ぎ、それでユニカの身体を隠すと、主室へ繋がる扉を開けた。
「どうだ?」
自分では気がついていなかったが、ティアナはうろたえていた。ディルクに問われてもすぐには言葉が出ず、一拍おいて噛み締めるように言う。
「出血は止まっております。とても先ほどできた傷とは思えません。縫わなくて正解ですわ。どうぞご確認を」
エイルリヒは嬉々として寝室に飛び込んできた。あとに続くディルクも口許が弛むのを隠せていない。フラレイは二人の様子に気づかないほど、こちらもやはり興味津々といった様子でついてきた。
ティアナはそっと上着の端をめくり、ユニカの胸元にある傷を見せる。
ディルク以外の二人には、いくらか治った状態だということが分からなかったらしい。エイルリヒはきょとんとしながら傷を見るだけで、フラレイはその生々しさに堪えかねて顔を背けた。
「普通なら、とうにこときれていてもおかしくないほどの傷です」
ティアナが眉根を寄せながら言うとディルクは得心した様子である。
「あとのことは二人に任せますね。フラレイ、顔が真っ青ですよ。外へ出ましょうか」
エイルリヒはフラレイを気遣うふりで寝室を出て行った。微かに笑みを浮かべているのは彼女を安心させるためではない。
二人がいなくなったのを気配で感じると、ディルクはおもむろにユニカの枕元に手をつく。そして寝台の縁に腰掛け、彼女の長い黒髪を一筋すくい上げる。
それだけでふわりと香る、どこか官能的で上品な匂い。この娘に似合っていると思った。香水を与えたのは王だろうか。
「会えて嬉しいよ……ユニカ」
ティアナの視線も気にせず、ディルクは真っ白になったユニカの頬に口づけを落とした。
「このあとの手当はどうする」
「傷の手当ては必要ありません。むしろこのまま観察するのもよいかと思います。ですが、傷は深いのですぐにお熱が出て辛くなるかと……そのお薬はご用意しようと思います」
「分かった、任せよう」
ティアナはよけておいたシーツと毛布をユニカにかけてやり、自分の上着をその下からそっと抜き取った。
ユニカに何か着せてやらなくてはと思ったが、ディルクがしばらくそこに居座るつもりと見えたので先に薬を取りに行くことにする。
「殿下のお着替えもご用意して参りますね」
ディルクは頷くだけで返事もしない。しきりにユニカの髪や青ざめた頬を撫でている。ほくそ笑むその横顔は手にした駒をどこに運ぶか考えている時のそれだ。
「君は独りだな。誰にも守られていない」
寝室を出ようとしていたティアナは振り返りかけるが、ディルクが眠るユニカに向けた独り言だと気がつき、そのまま部屋を出た。
「陛下はなぜ君を守らない? 不死を与えてくれるかも知れない大切な君を」
この娘を快く思わない勢力は必ずある。彼らの不満は国王へ向けられることもあるだろうが、先ほどのようにこの娘に直接矛先が向くこともあるだろう。
今上の王は賢君と名高く、亡きクレスツェンツ王妃とともに民にも人気があった。娘を王の唯一の汚点として排除したいと考えるまともな廷臣は多いはずだ。また国王に感じる不満をこの娘に向ける者もいるかも知れない。
この部屋へ来る途中、西の宮を警護している兵は一人もいなかった。王城の内部ではあり得ないことだ。
しかしユニカを守る者はいない。
彼女に与えられたのは西の宮の片隅と、わずかの侍女。豪奢な暮らし、王からの贈りもの。
彼女の生活は不自由のない贅沢なものに見えるが、安全が保証されているとは言い難かった。城内でユニカが孤立することについて、王は対策をとっていないように見える。
「君は王家にとってのなんなんだ? なぜここにいる? 一人きりで、何がしたい?」
色を失ったユニカの唇を、ディルクはゆっくりと指でなぞった。血の色が戻り、熱を帯びたそれに触れられることを期待しながらそっと離れる。
しかし、寝台から立ち上がろうとしたところでディルクは急に動きに詰まった。振り返れば、上着の裾をユニカに掴まれているではないか。
「……し、さま」
彼女は誰かをしきりに呼んでいた。目は開いていないので、夢を見ているらしい。
「よくお休み。近くにいてあげよう」
上着を掴んだユニカの手を解き、ディルクは彼女の耳許に囁きかけた。すると彼女はか細い声で肯き、また深く眠りに沈んでいった。
力の抜けた手を毛布の下に戻してやりながら少し意外に思う。孤立しているように見える彼女にも心細い時に頼れる相手がいるのか?
疑問は解決できないままもう一度ユニカの髪を撫で、ディルクも寝室を出た。
主室ではエイルリヒがすっかりくつろいでカウチに座っていた。そしてユニカのものと思しきドライフルーツを摘んで食べている。
主室には彼一人でフラレイがいない。ティアナが諸々の用意を手伝わせるために連れて行ったらしい。
ディルクは座れる場所を探して室内を見渡した。いかんせん、自分も血塗れだ。血がついても拭き取れる所にしなくてはと思い、部屋の真ん中にあったテーブルの椅子を選んだ。
「マティアスが戻らないな。この部屋が分からないからか」
「いえ、今し方戻って来ましたよ。血痕をたどって来たって。カミルを温室に忘れてきたことを思い出したので回収に行かせました」
「ああ、そういえば……」
「それから、彼女を襲った男は取り逃がしたそうです。ドンジョンへ入る門の周辺で見失ったって。おおかた兵の詰め所に逃げ込まれたんでしょうが、マティアスにそこを検める権限なんてありませんからね」
「まあ、王家の私的な空間で彼女を襲うくらいだ。組織的で当然だろう。どうせその男を捕まえてもトカゲは尻尾を切るだけだ」
ディルクは血の染み込んだ上着を脱ぎながらエイルリヒが手を伸ばす先――ドライフルーツの皿の横に置かれた短剣にちらりと目を遣る。
その遺留品も大して手がかりにならない。この手の短剣は、貴族の成人男子が正装時に帯びるものだ。城兵に任じられる者なら必ず自分の剣を持っているが、近頃は庶民の間でも流行しているらしく、市井では同じ鋳型から大量に作った安価な短剣が流通していた。
置き去りにされた短剣もそうした質の悪い剣だ。どこで誰が買い求めたか調べるのは時間がかかるばかりで、やはりトカゲの尻尾で終わりそうだった。
「でも捜索は続けさせます。右腕には火傷、左肩には兄上が付けた傷。これを同時に負った者ならかなり目立つはずです。締め上げ方によってはユニカの命を狙う貴族の名前がちらほらと出てくるかも知れない」
「出てきたところで、彼らは至極真っ当なことを考えているからな。どうやってユニカの存在の正当性を示せばいいのやら」
「その前に、強硬な連中からユニカを守ってあげなくちゃいけないでしょう。相手が分かれば守りやすいじゃないですか。兄上が王家へ入ったことで少なからず波が立っています。ユニカを排除しようとする動きは間違いなく活発になるはずです」
ディルクは不適な笑みを浮かべた。テーブルの真ん中に飾ってあった一輪挿しの薔薇に手を伸ばし、指先で撫でる。
「だから、兄上がしっかり守ってあげるんです」
孤独な娘のすべてを包み込み、この手の中に囲い込むために。
ディルクが軽く引っ張ると、薔薇の花弁はいとも簡単にむしり取られた。