3.『娘』の真偽(1)
「きゃああああ!!」
硝子越しに悲鳴が聞こえ、ディルクはゆっくりと顔を上げた。手許にある貴族のリストを畳んで立ち上がる。エイルリヒもカップを置いて温室の扉の方を見ている。
「ティアナの声か?」
「違います。でも、」
兄弟と寡黙な侍従は四阿を出た。
彼らが温室の扉へたどり着いた時、ばしんっと鞭を打つような音とともに硝子の向こうに青白い閃光が弾ける。それを見た三人はマティアスを先頭に温室を飛び出した。
白く輝く庭の眩しさにディルクは眉根を寄せる。
しかしすぐに目を瞠った。
雪の上に飛び散る赤い血の花弁。石像に追い詰められた女に向かって、衛兵隊の制服を着た兵士が赤い刃を振り上げる。女は青白い顔でじっと彼を見つめるばかりで逃げようとしない。
それに気がついたディルクは思わず叫んでいた。
「やめろ!!」
娘の肩がびくんと跳ね上がる。そしてほとんど間を置かず女の胸に短剣が振り下ろされる。
「やめろ! 何をしている!」
「ちょっ、ディルク……!?」
エイルリヒに制止されるのを振り払い、ディルクは駆け出していた。すれ違いざまにリータを運んでいた兵士の短剣を腰から抜き取る。
雪の上を走ったのでは取り逃がしてしまう。ディルクは一瞬でそう判断し、短剣を振りかぶって女を襲った兵士に投げつける。
短剣は兵士の左肩をかすめただけだったが、驚いた彼は剣を取り落とした。
「マティアス、追え!」
兵士は短剣を拾うことなくドンジョンの区画へ向かって身を翻した。ディルクの後ろに続いていた影のような侍従は逃げた兵士に目標を変え、滑るようにそのあとを追っていく。
石像に寄りかかっていた女は、くずおれるすんでのところで駆け寄ったディルクが抱きとめた。
「しっかりしろ、聞こえるか!」
うつ伏せに倒れかけていた彼女の身体を仰向けに抱え直し、その顔にかかっていた黒髪を払うと、血のにおいの中にふわりと覚えのある香りが漂う。
「兄上」
遅れて駆けつけたエイルリヒは、胸から腰まで血に染まった娘のドレスを見てあからさまに顔を顰めた。
「もしかして、死んでます?」
「いや、だが……」
ディルクの衣服にも染み込みながら、おびただしい量の血が娘から流れ出ていた。左胸の肩に近いところに一カ所。腹と、腰か背にも刺し傷があるようだ。これでは到底――
「まずいな、〝彼女〟だ」
「彼女? まさか、」
「ユニカ様……っ」
雪のないところを回って駆け寄ってきたフラレイが、血の染みた赤い雪の絨毯を見て思わず叫んだ。ディルク達に視線を向けられて彼女は気まずそうに後退り、そして誤魔化すように倒れていた同僚の許へ駆け寄る。
「まさか、嘘ですよね」
「ストールの落とし主だよ」
「なっ、ちょっと待って、死にそうじゃありませんか? この人……!」
「彼女が本物なら、死なないんだろう」
フラレイと一緒にやって来たティアナはディルクの傍に跪き、ぐったりしているユニカの鼻先に耳を寄せてみる。かすかに呼気を感じると、次は左胸の上にある傷の側に触れる。ドレスの生地が血でぬめった。
「ティアナ?」
「……」
しかし、血は止まっている気がした。ディルクに問われてもティアナは黙ったまま傷口を見つめる。そしてやや置いてからリータを抱えてきた兵士たちを振り返った。
「あなた方はそのままリータさんを医官のところへ運んでください。父も詰めているはずだわ。刺傷三カ所の怪我人がいるから、大至急縫合の準備をして西の宮へ来るように伝えて――」
「い、いけません!」
同僚を抱え起こしていたフラレイが、突然うわずった声でティアナの言葉を遮った。一身に注目を浴びて気まずそうにしながらも、彼女はぼそぼそと続ける。
「ユニカ様に何かあった時は、まず陛下にお知らせする決まりです。医官の手配が必要なら陛下がなさいます。だから……」
「何を言っているのあなたは、この血の量が見えないの。手当が先に決まっています!」
「いいえ! 陛下にお知らせするだけです! 医官を宮へ入れないでくださいませ! これは陛下がお決めになったことでございます!」
半ば悲鳴のような声ではあったが、フラレイの拒否はきっぱりとしていた。西の宮の掟を持ち出されては東の宮でディルクに仕えるティアナは反論できない。彼女は指示を求めて主を見上げる。
「では、まずは陛下にお知らせするとして、この方はどこへお連れするのがいいのだろうか。このまま雪の上に寝かせておくわけにもいくまい」
フラレイは返事に詰まった。今更、ディルクがユニカを抱えていることのまずさに気がついたのだ。
彼らがユニカを抱えたまま西の宮へ来る? 冗談ではない。しかし相談できる同僚はのびてしまっているし、自分一人ではユニカもテリエナも運べない……。
「一緒に部屋へ運んであげます。案内してくれますか?」
「え、はい、いえ、あの」
エイルリヒは同僚を抱えるフラレイの手に自分の手を重ねて囁いた。息を呑んで身体を強張らせる娘を宥めるように、彼は少し首を傾げて屈託無く微笑む。
「西の宮に入られると不都合なのは、僕らもなんとなく知っています。でも詳しくは知りません。そしてこれだけの大騒ぎを目撃してしまいました。城内での刃傷沙汰です。
事情がよく分からないから、このままだと公にして捜査するしかないんですよね。兄上や僕、まだ滞在しているウゼロの使節にに危害が及んだら大変です。誰が捜査のために動くのかなぁ。近衛隊長あたりが直接指揮してくれるかも知れませんね。
だけどあまり大事になると陛下がお困りになるのでは? 城内での傷害事件を放置は出来ないけれど、君たち西の宮の者を表に出すのはちょっと……ね? まぁ詳しい事情は分からずに言っていることなんですが」
フラレイは、目の前にある公子の青い瞳を見つめながら震えだした。そして順々に、ディルクやティアナの顔を窺っていく。
「あ、あの、」
すっかり怯えきったフラレイは、エイルリヒに軽く肩を叩かれた途端にぼろぼろと涙をこぼし始める。
「泣かないで、大丈夫。事情が分かればいくらでも黙っておいてあげますし、なかったことにもできます。兄上が全部いいように処理してくれますから」
「でも、西の宮へ人を入れてはいけないというのも、陛下がお決めになったことで……」
脅しは利いたはずだがなかなかしぶとい。いや、この娘は自分で判断する力を持たないのだ。そう気がついたエイルリヒは内心舌打ちしながらティアナにちらりと視線を送った。もう一押しを任せるつもりで。
「いい加減になさい! このままでは、殿下にも陛下にもご迷惑がかかります! お城に仕える女官ならどうするのが一番王家のためになるのか、時には掟を超えたところまで考えるものですよ!」
とりあえず大きな声を出しただけなので我ながら訳の分からないことを言ったなとティアナは思ったが、フラレイは首を竦めながら涙目で頷いた。