2.いてはならぬ者(2)
「何を心配していたのか知りませんが、兄上は逢い引きに温室を使っただけですよ。暖かいし、ここは王家の庭でしょう? 誰も来ないはずですから」
別の四阿にもお茶が用意されていた。エイルリヒは席に着き、テーブルに鎮座する山のようなお菓子を眺めて舌なめずりをする。
「逢い引きですか……まずいのでは。まだ殿下は王家にいらしたばかりで、そういう浮いた話が早々に出てくるのはどうかと思います」
「何を言っているんですか。兄上をいくつだと思っているんです? 二十一ですよ。妃候補になりえる恋人や愛人の一人二人三人いてもおかしくありません。今回の相手はシャスハト男爵の娘でしたっけ。商人上がりでも貴族なら、相手にしても問題ないでしょう」
「シャスハト男爵……まさかリータ殿ですか!? ティアナ、どうして殿下に会わせたりするんです!」
突然非難されても、ティアナは涼しい顔で焼き菓子を皿の上に取り分けている。
「エイルリヒ様、お約束通りわたくしが作って参りました。お口に合うとよいのですけれど」
「美味しいに決まってます。それじゃあさっそく」
「今日は特別に、カミルにもあげるわ」
テーブルの傍で呆然と立ち尽くすカミルの前にも、ケーキの乗った皿が差し出された。恨めしげにそれをくれたティアナを睨むが、彼女はついと顔を反らしただけで堪えた様子などなかった。
「お口に合いまして?」
「はい、とても美味しいです。想像していた通りの味です」
「よかった。作ってきた甲斐があります」
やけに親しげなエイルリヒとティアナの様子を怪訝に思いつつ、カミルは大人しくなってケーキをつついた。ティアナの作る菓子はクヴェン王子に相伴する形で何度か食べたことがあるが、無視できないほど美味しいのだ。
リータは、確か〝あの娘〟付きの侍女の一人だった。名前くらいしか知らないけれど、ディルクに近づけるのは少々まずい。
と思うのも、ディルクが入城する前日、カミルは王から直々に頼みごとをされていたからだった。ディルクが西の区画へ立ち入らないよう、また〝あの娘〟と接触しないよう気をつけて欲しいと。
ティアナもあの場にいて同じ頼みごとをされたはずなのに、なぜ彼女はあっさりと〝あの娘〟の傍にある女官をディルクに引き合わせたりしたのだろう。
頼みごとに答えられなかったからといって、王は二人を罰したりしないだろうけれど、
(落胆されるだろうなぁ……)
そしてきっと自分やティアナ、二人の人事を決めた王家の家令の株も下がる。
考えている内に胃がむかむかしてきた。緊張で内蔵が全部縮こまっているような感じがする。
「カミル、顔が青いわよ」
「う、ちょっと、胃が」
「いやだわ、わたしのお菓子のせい?」
「違うでしょう。僕はなんともありません。どうせもうしばらく待っていなくちゃならないわけですし、気分が悪いならそこのベンチで横になっていても構いませんよ。兄上が戻ってきたらきちんと断って休みなさい」
エイルリヒの前でそんな真似は出来ないと思ったカミルだったが、ティアナが膝掛けを広げて用意し始めるし、まだ一言も喋ったことのないマティアスまでもが、自分の上着を毛布代わりに使えといわんばかりに脱いで押しつけてくる。
「お仕事の重圧もあって疲れているのよ。殿下がお戻りになるまでの間だけでも寝ていたら?」
「……では、殿下のお戻りに気づいたらすぐに起こしてくださいね。エイルリヒ様、申し訳ありません、失礼いたします」
マティアスから上着を借りると、カミルはよろよろと四阿の外にあるベンチへと歩いて行った。そしてそこに腰掛けた途端、ぱたりと倒れる。
「本当に、ただの眠り薬ですか?」
「身体に合わなかったのかも知れません。もともと緊張が続いて疲れているのは本当のようでしたし、体調もよくなかったのかも。ごめんなさいね、カミル」
ティアナはずり落ちかけた同僚の身体を巧いことベンチに乗せ直して、彼が落としたマティアスの上着を拾い、そのまま戻ってきた。
「ついでなので、あのまま風邪でもひいて貰いましょう」
「それがいい。兄上から少し遠ざかってくれればありがたいですから。そのうち始末も考えなくては、ですけど」
エイルリヒはカミルが手をつける前だったケーキを掴み、乗っているジャムを見つめてえ笑いながら幸せそうに齧りついた。
「まぁ、お行儀の悪い」
カミルの人事は、ディルクやエイルリヒにとってはまったく予想外だった。普通に考えれば死んだ王子に仕えていた侍従を新しい世継ぎに宛がったりはしない。しかしどうもカミルの親族をたどると王家の家令に繋がるらしい。その伝手で王子付きを続投することになったようだ。
馬鹿なので使えない排除しようとエイルリヒは主張したのだが、ディルクはカミルの馬鹿正直さを侮ってはいけないと言うので、今は排除するか取り込むか様子を見ているところである。
「ティアナ、このジャムはもしかして、」
「はい、いつかお手紙に書いてくださっていたように、ブルーベリーのジャムに林檎のジャムを混ぜてみましたの」
「嬉しいな、僕のことはなんでも覚えてくれていますね。ねぇ、やっぱり一緒に公国に帰りましょう。年が明けたら僕の成人の儀礼があります。同時に結婚式も挙げればいい」
つい数日前に、つまりディルクの入城の日に対面を果たしたこの二人は、実は大公が内々に決めていた婚約者同士だった。公表されていないので、ディルクすらそのことを知らなかった。
ティアナの父・イシュテン伯爵は、シヴィロ王国の廷臣でありながら古くからの親ウゼロ派貴族である。ウゼロ大公とは個人的にも親密で、娘は大公の子と妻合わせるつもりでいた。大公もそれを諒承し、結果、成立したのがエイルリヒとティアナの婚約である。
二人は互いに婚約を知ってから、それぞれの親に内緒で手紙をやり取りしていた。ゆえに数日前にようやく対面を果たした仲とはいっても、互いのことはよく知っている。
「わたくしはエイルリヒ様と大公様からおおやけの手続きを経てお呼びいただき、華々しく嫁いでいくのが夢ですわ。その夢ごと、わたくしを攫ってしまうおつもりですの?」
「派手に迎えにくるのもすごく楽しそうですけど……ティアナはもう十七才です。求婚されたこともあるんじゃありませんか? 誰かにとられないかと心配なんです」
「ご心配には及びません。そんなことは父が許しませんわ。もちろんわたくしの心も」
「世継ぎという立場の兄上に迫られても、きちんと断ってくれますか?」
「殿下には大切なお役目があります。わたくしや父の力を手放すようなことはなさらないでしょう」
「だといいんですけど」
半分は冗談、半分は本音のやり取りを楽しんでいたエイルリヒだったが、急に大仰な溜息をついて肩を落とした。
「ディルクが乗り気じゃないことくらい、僕も父上も知っています」
「お身内のことですものね。気が進まないのも無理は……」
「違います」
エイルリヒはティアナが言いさした先をぴしゃりと否定した。ひと口大のケーキを口に放り入れて飲み下すまでの間、彼はしばらく黙る。
「僕や父上が先に動き、主導しているのが面白くないんです。ディルクは、自分であの女を殺したかった」
そのために彼は目を覚ました。気怠い夢を貪るような暮らしをやめ、シヴィロ王国の世継ぎになることを選んだのだ。
「それでも、ディルク様は大公殿下の提案をお請けになりました。もう、執着せずにはいられませんわ」
「そうですね」
選んだからには、彼は逃げない。逃げられないなら、彼は冷静沈着に勝利を得ようと駒を動かし始める。ときには自分もその駒となって。
ディルクがそういう気性であると分かっていたから、エイルリヒは彼と結託することを父に進言したのだ。
「ではまず、親シヴィロかつ親ウゼロの貴族の動きからご報告いたします」
ティアナはエイルリヒの相槌に微笑を返しながら、エプロンの裏側に作り付けてあるポケットから折りたたんだ大判の紙を取り出した。
シヴィロ王国の廷臣とその一族の名が書き連ねられた紙を間に広げ、エイルリヒとティアナは剣呑な視線を交わし合った。
綺麗な緑色……でも青にも見える。まるで湖のようだわ。こんな色の瞳はなかなか見たことがない。
ずうっとこちらを見つめて話を聞いてくれるディルク。初めこそなんとしてもこの人の心を捕まえ自分のものにしなくてはならないと考えていたリータだったが、十分もしない内に思い通りには話せなくなった。
「あ……」
腰に添えられたディルクの手が、時折思い出したように動く。その力加減がなんともいえない。ただ撫でさする手つきでもなく、強く身体を引き寄せるほどでもなく。
そのたびにリータがぴくりと震えて話をやめると、ディルクはくすりと笑うのだ。悪戯のつもりなのか、すっかり彼の調子で楽しまれているらしい。もちろん嫌ではない。
「それで?」
甘い声で先を促され、リータは一つ頷いてからまた口を開く。
「陛下が、あの方の血を毎晩ご所望だというのは本当ですわ。いつも就寝前に医女が血を採りに来ますの。それさえなければ、と嘆いていらっしゃる廷臣の方々は多いでしょうから、すぐに殿下のお耳にもそんな声が届くのではないでしょうか」
「そうか……どのような賢君でも反目する臣下はいる。そうした者たちが立てた噂だと思っていたが、君が見ているなら本当なのだね」
ディルクが物憂げに足許を見つめる横顔にも、リータはうっとりしながら見とれた。
見つめられるのもいいけれど横顔も素敵だわ。でも、
(もう一回キスしてくれないかしら……)
リータの視線はディルクの唇へ降りていくが、また彼がこちらを覗き込むように見つめてくるので慌てて顔を反らす。今のは恥じらうような仕草でちょっといい感じ。顔に出さないよう気をつけながら、リータは心の中でにまにまと笑う。
「しかし、その娘も哀れだな。西の宮にずっと囚われているということだろう?」
「囚われてなんて」
リータはつい声を尖らせてしまった。はっとなってディルクの表情を窺うと、案の定、彼は目を丸くしている。
気まずく思って視線を泳がせると、続きを促すようにディルクの右手が膝の上で重ねられていたリータの手をそっと撫でる。びっくりして一瞬息が詰まるものの、自然と愚痴がこぼれた。
「あの方は、王家の一員のように贅沢な暮らしをしていますのよ」
ユニカに与えられた西の宮は、かつて王の妹でありディルクの母にあたる王女が住まいにしていた宮だった。
大庭園が近く、温室や図書館へも通いやすい。王女のために作ったのだろう、広くて明るい浴室もある。調度類も王家が使う品格のものを使用し、ドレスや化粧道具、珍しいお菓子の類がユニカの部屋からなくなることはない。
先日ユニカが落とした豪華な絹のストールも、最近王から貰ったものだった。
「賤しい生まれのくせに、自分に宿った特別な力をだしに陛下に取り入って、国庫の財を思うままに使っているようなものです」
リータは、ユニカがディルクの興味を引いているところも面白くなかった。何も知らない彼には、ユニカが自堕落でつっけんどんで可愛げのない女だとよく言っておかなくては。
「これは聞いた話なんだが、西の宮にいる娘は、ブレイ村の滅亡に関わった〝あの娘〟なのか?」
ディルクにビスケットを取ってあげようと手を伸ばしていたリータは硬直した。
「ご存じでしたの?」
「大きな事件だったからな。噂にもなる。病が公国までくることはなかったが、対応のためにハンネローレ城も随分浮き足立っていたよ」
「恐ろしい病でしたもの。肌も口の中もただれて、血の涙を流しながらたくさんの人が亡くなっていったとか……」
心細げに声を震わしてディルクにすり寄ってみると、彼はくすくすと笑いながら肩を抱いてくれた。
八年前の初夏。シヴィロ王国の南東、海辺のジルダン領邦から爆発的な勢いで疫病の流行があった。海運業者の間から始まったその病は、恐らく船で運ばれた新しい病であろう。
高熱と発疹に始まり、やがて発疹が破れて爛れ、それは口腔内や目に及ぶ。爛れた箇所からは出血が始まり、炎症で腫れ血走った目から血の涙を流し始めれば、それが末期症状だ。
疫病は王国の南部を流れるフロシュメー川南岸を遡るように西北西へと流行を広げ、王都アマリアへ迫った。
関門の封鎖措置は物流を麻痺させ、なおかつ疫病の侵攻を食い止めるには至らない。封じ込めに失敗したことに気がついた王都が恐慌状態に陥りかけた頃。
病は突然消えた。ある日を境に、急激に終息していった。
ある日とは、疫病の罹患者がジルダン領邦の西、ビーレ領邦で確認されたという報せがあってから、ふた月が経とうとしていた頃だ。
その日の夜、ビーレ領邦の中でも南の国境に近いブレイ村に、無数の雷が落ちた。〝天の槍〟が、村を焼き尽くしたのである。
数日後に到着した調査隊が見つけたのは、七百を超える炭化した遺体と、焼け落ちた教会堂の前で祝詞を歌い続けている少女――ユニカだったという。
見つかった遺骸の数は村の人口の三倍以上にのぼった。近隣の町や村から人が流入していたらしい。
理由はすぐに知れた。人々の間に流れる噂によると、村にはあらゆる病や怪我を治す力を持った娘がいて、疫病を恐れた者、治癒を願って娘にすがりに来た者が、ブレイ村に集まっていたのだ。
無数の落雷に滅ぼされた一つの村。しかし本当は何があったのか、その日の出来事を知っているのは生き残った娘ただ一人。
癒しの力を持ち〝天槍〟を招く、当時ようやく十を数えていたユニカだけだ。
「娘はなぜ王城に召されたのだろう」
「わたくしも詳しくは存じ上げませんが、最初にあの方を城へ迎え入れたのは、亡き王妃さまだそうですわ」
「王妃さま? ますます分からないな、どうして?」
「さぁ……王妃さまは衛生学に明るいお方でしたから、病を収束させるべく自らビーレ領邦へ赴かれました。どうしてあの方を連れ帰ったのかはわたくしも存じません」
あからさまに嫌な顔をしてみると、これ以上ほかの女の話をするのは面白くないというリータの気持ちをディルクも察してくれたようだ。眉尻を下げて困ったように笑ったあと、ディルクはリータの頭を引き寄せてそっと額に唇を押しつける。喜ばしい不意打ちにリータは小さく悲鳴を上げた。
「ではこれが最後だ。陛下がご執心だという娘の血や力は本物か? 傍にいる君なら、何か見たことがあるんじゃないのか?」
低い声でディルクが呟くと、その吐息が、熱と湿り気のある呼気が眉間をくすぐる。
「あ、あの方は、小さな傷を負っても瞬き一つの間に治ってしまいますの。血を飲むことで他者の傷が癒えるかどうかは分かりませんが、きゃ……っ」
ディルクの腕がするすると肩へ降りてきた、かと思ったら、少し乱暴なくらいに胸の中へ抱き込まれた。
「続きを」
身動きできないくらいの力で抱きしめられているが、心地いい。ディルクの右手が頬に添えられ、優しく顔を上げさせられる。続きを話せば、この続きをしてくれるのだろうか。
「手も触れずに、蝋燭に火をつけたり、陛下からかのお手紙を燃やしているのを見たことがありますわ。そういうとき、決まって青白い火花と一緒にぱちっと、何かが弾けるような音がしますの」
「……」
「村を焼き尽くしたのもあの方だともっぱらの噂ですわ。ご機嫌を損ねては〝天槍〟の力で焼き殺されるのではと、恐くて」
「心細い思いをしているのだな」
前髪を指で除けるディルクの瞳は、真っ直ぐにリータを見下ろしている。髪から離れた指がゆっくりと彼女の輪郭をなぞり、やがて唇に触れた。
「ありがとう。もういい」
ディルクはリータの耳許で囁くと、うっとりしながら名残惜しそうに目を閉じた彼女の口許に、唇ではなく薬を染み込ませた布を押し当てた。