8.無価値な涙の跡(3)
ディルクがもとの部屋へ戻ると、テリエナが立ち尽くしたまましくしくと泣いていた。ローデリヒはユニカと対面する前の無気力な表情に戻っている。
ディルクはその正面、ユニカが座っていた椅子に腰掛け、脚を組んで兄妹を眺めた。
各々都へやって来たこの二人は、その後一度も接触していなかったようだ。要するに、この二人に直接的な協力関係はなく、根元の方でたまたま結びついていただけなのだ。
「何か話したいことがあるなら話してもらって構わないが。久しぶりの再会だろう」
テリエナはちらりとローデリヒの横顔を覗ったが、ローデリヒの方は無反応だった。やがてテリエナもうつむき、鼻を啜っただけで何も言わない。
「きょうだいの再会というのはそれほど感じるところのないものなのかな。それとも、お互いに今どこで何をしているのか、何となく知っていたのか?」
やはり反応したのはテリエナだけだ。彼女は上目遣いにディルクを覗った。
「お答えできることがあるなら、お答えしなさい」
エリュゼにせっつかれると、テリエナは肩をすくめながらうつむいたまま言う。
「兄さまは近衛騎士になられたって……わたしは、それだけしか……」
「もっと再会を喜んでもいいんだ」
ディルクが撫でるような声で言うと、テリエナは再度兄の横顔を見た。けれどまったく彼女を見ようとしない兄の冷たい態度に、やはり寄る辺ない思いをするしかない。
「卿も、テリエナがユニカのそばに仕えていることを知っていた……いや、最近知ったのかも知れないな。その機会があったのは、およそひと月前だ」
それは、ローデリヒが衛兵になりすましユニカを襲った時のことだ。あの時、ユニカの隣にいたのがテリエナだと気づいたのだろう。
「その時卿はユニカの殺害に失敗し、しかもかなり目立つけがを負った。私ならそういう者は秘密裏な計画から外す。けれどもう一つ、卿には手柄を立てて叶えたいことが出来た。そのけがを利用できると言って近衛に居残り、命令書偽造の任務を引き受けたんじゃないか。命令書の偽造など数日でバレる。罪も重いし、誰もやりたがらない。それと引き替えにして、卿は〝誰か〟にテリエナをユニカから離すことを願い出た。卿と〝誰か〟の約束通り、テリエナはユニカのそばを離れていいことになっていたよ。逃げ切る前に私が捕らえただけでね」
テリエナは休暇を終えても城に戻らず、侍官の職も返上する届け出を用意していた。ユニカに毒を盛っていたことやハーブのブーケを届けたことは認めさせたが、それが誰の指示によるものなのかはまだ聞き出していない。しかし罰することが出来る材料はすでにそろっていた。
もし、ローデリヒが妹をユニカのそばから引き離そうとしていたというディルクの推察が当たっているなら、彼の行動は意味を成さなかったことになる。それどころか、ヴィクセルの死やライナの負傷、自分が捕縛される原因になった。
怒りに燃える目でディルクを睨み返してくるのを見たところ、それを一番よく分かっているのは本人のようだ。
「〝誰〟と約束をしたのか、教えてもらえないか?」
「死を賜りたく存じます」
「もちろん、卿が望むと望まざるとに関わらず。卿は王家を守るための剣であったはずだ。その立場を棄てて復讐に走ったのだから、誓いを違えた騎士は死なねばならない。だが贖罪が先だ」
「……」
「言っておくが、卿が自由に口を開けるようにしているのは、何も話さずこの場で舌を噛み切って死んでもよいという意味ではないぞ。それに卿が口を割らない時、次に締め上げられるのは誰か分からないわけではないだろう?」
ディルクはあからさまな視線をテリエナに向けた。彼女はそれを感じ取っているのだろうが、恐ろしくて顔もあげられないようだ。
「そしてほかにも、卿が何もかも告白することで守られる命があることを思い出させてやろう。……ルウェル」
ディルクが騎士の名を呼ぶのと同時に応接間の扉が開く。彼がこの部屋へ戻るのと一緒に連れてきて、廊下でしばし待たせていたルウェルは右腕に赤子を抱えていた。赤子は甲高い笑い声を上げながら、ルウェルの襟、そして彼の前髪にしがみついている。
「だあーもうっ! 髪はやめろ髪は! 毟れる! 抜ける!!」
言葉では抗議できるものの、ルウェルの左腕は思うように持ち上がらない。扉を開けたあと、はしゃぐ赤子を落とさないようにその背中を支えるのがやっとだ。
「ディルク、助けて!」
「好かれ過ぎるのも考えものだな」
もう少し緊張感を醸し出して姿を見せて欲しかったのだが、現れたルウェルの様子は何とも間抜けだった。呆れて笑いながらも、ディルクは蒼白になったローデリヒを横目で確認しながら席を立つ。そしてルウェルの髪をがっちり掴んでいた赤子をその腕に引き取った。
「さぁ、父上だぞ」
ディルクは赤子を揺すって宥めながら、ローデリヒの前に立った。騎士は身を乗り出そうとするが、エミが素早く彼の首に巻いていた鎖を引き締めてそれを戒める。
「分かるのかな。少し驚いたみたいだ。こんなに可愛い息子がいるのになかなか家にも帰れず、それでも卿はよく任を果たしてくれていた。これはその褒美だ」
赤子がローデリヒに向かって笑いながら手を伸ばすので、ディルクは少し身を屈めてやった。赤子の手がローデリヒの頬に触れる。
「この子も強い武人に育ち王家に尽くしてくれればよかったんだが、」
ディルクがあっという間に身体を起こすので、赤子が父親に触れることが出来たのはほんのわずかな時間だった。
「父の不忠な行いゆえに、この子が王家に忠誠を誓う機会は永遠にないだろう」
ローデリヒを見つめ続ける赤子の首に、ディルクは指を回した。
「――非道な真似を! 一国の主となる者が、罪のない赤子を手に掛けるのですか!」
堪らず叫んだローデリヒの喉は、即座に鎖によって戒められる。
「私は卿が復讐に走ったことを批難しようとは思わない。卿が騎士であったためにそれは罪に問われるが、卿が決意してやったことならそれもいいだろう。復讐が生きる意志の糧になることもある。ただ、こうした対価を支払わねばならない可能性も充分に考えておいてもらいたかったものだ」
冷ややかにローデリヒを見下ろしながら、ディルクは赤子の首にかけた手に力を込めた。まだ呼吸を妨げるような力ではない。しかし赤子は何か不穏な気配を感じ取ったようで、突然けたたましく泣き始めた。
「私や、魔女を排除しようとする者たちの前に、まずはあの魔女を裁きにかけてください! それさえ叶えばいい、我々は……」
「卿にそれを訴える資格があるのなら聞いてやらないでもなかったが。卿の場合、そもそも〝復讐〟が成り立たないことを知ってもらおうか。ルウェル、テーブルの上にある書類をこちらへ」
「ん、これ?」
ルウェルは大きな百合の紋章が表紙を飾った紙の束を持ってディルクの隣へやって来た。そして促されるままそれを広げた。
「なんだこれ。名簿?」
「八年前の夏の、ブレイ村への人の出入りの名簿と、後半は同村で死亡した者の名簿だ。村の導師が懸命に記録し教会が保管していた」
ルウェルは適当に分かったような相槌を打ったが、テリエナとローデリヒは目を瞠ってルウェルが広げているを紙の束を見つめた。
「卿らはユニカに家族を殺されたと思い込んでいるようだ。疫病に冒されたのは弟君だったそうだな。その弟を救ってもらうためブレイ村へ向かうという便りがあったのかもしれないが、そのあと、村へ入ったという報告はあったのか?」
返答はないが、テリエナが微かに首を振って否定している。
「だろうな。その中に卿らの生家『ディールス』の名はない。ブレイ村へ辿り着く前に力尽きたんだろう。当時はジルダン領邦の全域、ビーレ領邦の北西部をわずかに残してすべての地域に疫病が蔓延していた。旅の途中で卿らの両親が病に罹ったとしても不思議じゃない」
エリーアスが教会から持ち出してくれたこの名簿に、ローデリヒ、テリエナの肉親の名がないのは確かだ。ただし、これが不完全なものであることをディルクはわざわざ告げたりはしなかった。
彼らの家族がブレイ村に辿り着いていた可能性もなくはないが、村が滅ぶ前に死んでいたとも考えられる。もちろん、〝あの日〟村で生きていた可能性もあった。
しかし、彼らの家族が、どこで、どうやって最期を迎えたか、今となっては確かめる術がない。
この冷淡な宣告が彼らの心を挫きさえすればよいのだ。
「ローデリヒ・ブレンナイス」
そして、ディルクの標的はあくまでローデリヒだった。
テリエナは、恐らくユニカを排除しようとする勢力の中枢たる人物を知らないだろう。捕縛されてからずっと怯えてめそめそ泣き、あっさりとユニカに毒を盛ったことやブーケを運んだことを認めた。つまり、命をかけて守る秘密も持っていないと考えていい。彼女は最末端の駒だろう。
それに比べ、ローデリヒには勢力の横の結びつきをある程度把握している気配がある。締め上げるなら彼の方だ。
手立てが整ったら敵の攻略に時間はかけない。
「卿の復讐などただの幻だ。それでもまだ、秘密を秘密のままにしておくか? ならば、その対価は卿の息子の命で支払ってもらう」
血が滲むほど唇を噛みしめディルクを睨み付けていたローデリヒだが、彼はやがて力なく項垂れた。




