7.繋いだ虚ろの手(4)
「殿下、テリエナを捕らえてください。一昨日から非番でお城も降りているはずです。思えばハーブを持ち込むことが最後の仕事だったのかも知れません。誰の命令か、あの娘から色々と聞き出せるかも知れません」
揺れる灯火越しにエリュゼが見据えたディルクの目は、なぜか機嫌よさそうに歪んだ。
「そこにもトカゲの尻尾があったか」
「え?」
「いや、何でもない。明日の朝一番に手配しよう」
ディルクも葡萄酒を一杯干し、デカンタを持ち上げてエリュゼと自分の杯を再び満たす。注がれたもののエリュゼは困った。酒には弱い。今飲んだ一杯分がそろそろ効いてきそうなほど弱い。
けれど王太子に乾杯を求められたのでそれには応じ、一口飲んだ振りをしておく。
「審問会の話に戻すが」
「わたくしがその場にいたとしても、何のお役にも立てないと思いますが……」
審問会に出るよりユニカのそばで世話をする方がいい。ハーブのことに気がつけたのだって、彼女の周りで目を光らせていたからだ。
王太子はエリュゼがそう考えているのも見透かしていた。彼は途端に視線を険しくした。
「その考え方を、まずやめろ。卿はプラネルト伯爵だ。王家から領地を預かり、税を集め、都にいては王の執政を支えるのが役目だ」
「そうです、確かにそうなのです。ですから伯爵として王家に仕えているようでは、ユニカ様のおそばにいられないのです。こんなにもユニカ様のお立場は不安定で、いつ誰に何をされるか、不安でたまらないのに」
「それもこの審問会までの話だ。〝証書〟のことを公表する。その後必要になるのは彼女に政治的な後ろ盾があるという事実だ。王妃様が卿に求めた役目は侍女としてユニカを世話することではなく、王の直臣としてユニカの味方になることではないか?」
エリュゼは腹立たしいような、悲しいような気持ちになった。目頭がじわりと熱くなったのでぐっと息を止める。
涙を引っ込めることは出来なかったが、エリュゼは目を潤ませたままディルクを睨み付けた。
「ほかの当主様達が認めてくださらないのです! 女が議場へ出てくることなど……ですから、そちらで無為な時間を過ごすよりユニカ様をお起こしして、お食事をご用意して、お湯浴みのお手伝いをして、病人達の看護をしている方がずっとよいではありませんか」
「そうだろうな。忙しく働いている分、卿は誰かの役に立っている気になれるのだから」
エリュゼの胸にぐさりと刺さる言葉を吐きながら、ディルクはまた頬杖をついた。右手で優雅に杯を回しながら、中で波打つ葡萄酒を見つめて笑う。
「だが、そうしている内に『プラネルト伯爵』はどうなる。このままでは今のところユニカの唯一の味方である卿の存在も貴族社会から消えるだろう。それでいいのか? ユニカを孤立させないための卿が孤立してどうする?」
「それは、ですが――」
「言い訳せずに聞け。これから審問会の流れを打ち合わせる。卿は必ず議場へ来るんだ。そしてユニカの後見であることを名乗り出ろ。ユニカが王家と臣下に認められた存在であると知らしめることが出来るのは、私と卿だけだ」
「……」
エリュゼは杯を包み込む両手に力を込めた。出来るなら、形だけではない伯爵家の当主としてユニカを支えたいという気持ちはもちろんある。
しかし、そうするにはあまりに力がなく、議場から逃げていた節があるのも本当だ。自分が歓迎されていない場所にいるのは辛い。
本心を認めると、瞼に溜まっていた涙が大きな粒になって葡萄酒の中へと落ちていった。
「分かりました。殿下、どうぞご指示を」
顔を上げたエリュゼの目つきがまるで変わったことに気づいて、ディルクは満足げに目を細めた。
* * *
何度目かのキルルに首を絞められる夢を見て、ユニカは目を開けた。
見慣れない部屋だ。そして暗い。寝台の傍らにか弱く揺れる蝋燭の火が一つだけある。
悪夢の合間に養父と話した気がする。けれど、それもきっと夢だろう。
なんだか左肩が熱く、心臓の鼓動に合わせて痺れと疼痛が走った。おかげでユニカは思い出した。ここは王城で、毒を仕込んだ刃物で襲われたのだと。
喉と口の中がからからで不快だった。水が欲しかったが、寝台のそばのテーブルに置いてあるのは燭台と鈴だけだ。
仕方がない、誰か呼ばねば。
肩も痛いが、腕も信じられないくらい重かった。けれどユニカはうつぶせに寝ていたので、左手を伸ばすしかない。
何とか鈴の柄には届いたものの掴むことが出来ず、それは派手な音を立てて転がり落ちた。意図しない形で鳴った鈴の音を聞きつけて駆け込んできたのは、王太子付きのティアナだ。彼女は鈴を拾い上げると、明かりを増やしてユニカの顔を覗き込んでくる。
「みず……」
「ただいまお持ちいたします」
そう言ったティアナが用意してきたのは水ではなく食事だった。もちろん水も飲ませてくれたが、ただの水ではない。すっと鼻を抜ける薬草の匂いがした。薬が混ぜてあるらしい。
無駄なことだと思いながら、ユニカは喉の渇きに任せてそれを飲んだ。
「ここは殿下の宮? 私はいつ戻されたの」
「昨晩でございます」
どうやら丸一日分の記憶が抜けている。何度も恐ろしい夢を見て目を覚ましたのは覚えていたが、時間感覚はまるでなかった。
左手が痺れてまともに動かなかったので、ティアナが食事の介助をしてくれた。
用意されたのはよく煮込んだ麦の粥だ。あまり食欲はなかったが、ユニカは口へ運ばれるそれを渋々啜っていた。
そういえば、兵舎へ駆けつけてくれたエリュゼはいないのかしらと思いながら、ユニカはまた一口粥を飲み下した。
あの侍女がユニカのもとへやって来た理由をもっと詳しく聞きたかった。
「食事中だったか」
その時、寝室の扉の前に人影が現れた。王太子の声に驚いたユニカは思わず噎せた。
「おやすみを言いに来たんだが」
ティアナはユニカの口許を拭くと、素早くその場所をディルクに譲ってしまった。
彼は寝台の縁に腰掛ける。ティアナがテーブルに置いた粥の器を取り上げて、ひと匙すくってユニカの口許へと運んできた。
「まだ途中だろう。口を開けて」
「……嫌です」
「食べないと元気になれない」
食べたくないわけではなかった。この人に食べさせられる理由が分からないだけだ。なぜ王太子がこんなことをするのだろう。
ユニカがむっとしたまま顔を背けると、彼はさもいいことを思いついたという顔で器を置いた。
「じゃあこれは?」
そして、代わりに薄皮も全て取り除いた蜜柑を見せる。
ユニカはますますむっと唇を引き結んだ。
本当は、粥よりそっちが食べたかったのだ。ティアナが先に粥を食べるようにと言うから我慢させられていたものを。
ディルクはにこにこしながらユニカの返事を待っているだけで、蜜柑をどうしようとはしてくれない。
ユニカが仕方なく唇を開くと、彼は嬉しそうにそれを摘まんで口許へ持ってきた。
彼の指ごと咥えてしまわないように慎重にそれを受け取り、ユニカはそっぽを向きながら甘くて瑞々しい果実を食べた。
「毒が抜けてきているんだな。顔色も今朝よりずっとよさそうだ。ああ、昼間に伝師殿がいらしたよ。しばらくこの部屋にもいたそうだが、まともに話が出来なかったと心配なさっていた」
「エリーが?」
伝師は連絡役としては自由に動けるが、自分の意志ではどこへ行くことも許されない。
しかし、アリーアスが仕える導主は子供の頃から彼とアヒムのことを知っている人物だ。ユニカもペシラで会ったことがある。その導主に対してはちょっとわがままがきく、とエリーアスが言っていたので、彼にせがんで王城まで派遣して貰ったのだろう。
夢現に養父と話していたと思ったが、きっとそれは養父に瓜二つなエリーアスだったのだ。
悪いことをしたな、と思った。
エリーアスはエリーアスであって、養父の友人で、従弟だ。朦朧としている状態だったとはいえ、ユニカが彼のことを「導師様」と呼んで手を伸ばせば、彼はどんなに虚しいだろう。
あんなに心配してくれているのに、エリーアスのことはとても好きなのに。絶対に、彼に縋ることは出来なかった。
ユニカは、彼と同じ〝喪った側の人間〟ではないからだ。
エリーアスはユニカが亡くしたものも解ってくれているけれど、やはりユニカは〝奪った者〟である。
あの時、キルルの指がこの首に絡みついてきたから。
知らずのうちに震えていた手が、そっと別の手に包み込まれた。
「大丈夫か」
額が触れ合いそうなほど近くにディルクの瞳があった。我に返ったユニカは慌てて顔を反らす。
「平気です」
「もう横になりなさい。本当は明日の朝見て貰おうと思ったんだが、今晩から使うといい。楽に寝られるはずだ」
ディルクはユニカの身体を支えながら横たえさせた。そして毛布は掛けず、一度寝室から出て行く。戻ってきた彼は両腕で大きなクッションを抱えていた。濃緑の天鵞絨の地に金糸で唐草模様の刺繍がしてあり、四隅に金の房飾りもついている。
「私の昼寝用。貸してあげよう」
彼はその豪華なクッションをユニカの背中に添えてから毛布を掛けた。左肩を庇い、うつ伏せになるか横を向いて寝ることしか出来ないユニカが背中を預けて眠れるようにとの気遣いだろう。
その巨大なクッションはふかふかしていて、ほどよく身体が沈む。やわらかいので身体を預けて仰向けに近い体勢で寝ても痛くなさそうだ。
「ありがとう、ございます」
「そんなにすんなりと礼を言ってくれることもあるんだな」
「……それは」
ユニカが狼狽えると、その顔をよく見ようとディルクは再び寝台の縁に戻ってきた。
ユニカは毛布を引き上げ隠れようと思ったが、右手一つでは少し遅かった。その手は掴まれ動けなくなる。覗き込んできたディルクの視線から逃れるために、ユニカはせめてぎゅっと目を瞑った。
そんな彼女の頬や唇を、何かがなぞっていく。ディルクの指、掌。少し筋張った男性の手。目を瞑っていると、その感触で思い出されるのは養父のことだ。
ユニカが炎の中に沈めてしまった者。奪ってしまった者。
ユニカの罪を知る者の憎悪の瞳が脳裡に浮かび、彼女ははっと目を開いた。
本当に嫌がって怒ったと思ったのか、ディルクは手を引く。しかし、ユニカはきっとした眼差しでディルクを見あげ、今し方離れた彼の袖を掴んだ。
「お願いがあります。〝あの騎士〟に会わせて欲しいの」
「〝あの騎士〟?」
首を傾げながらも、ディルクの瞳は少しだけ剣呑に光った。とぼけているだけで気づいたはずだ。
「地下牢を出る時に、私を見ていた騎士よ。彼は誰? 私のことを恨んでいたわ」
「君が気にすることはない」
「いいえ。訊きたいことがあります」
私は、あなたの誰を殺したのか、と。




