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天槍のユニカ  作者: 暁子
第2章 籠の中の争い
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7.繋いだ虚ろの手(2)

 苦しい。息が出来ない。


 刺された左肩を中心に背中が、腕が、胸が、不快な痺れに締め上げられている。


 胃も痙攣しているのか、裏返ってそのまま出てきそうな痛みと猛烈な吐き気が止まらなかった。中のものはすっかり吐いてしまったと思う。それでも苦い胃液ばかりが喉の奥から込み上げてくる。


 寝台のそばを離れないのはエリュゼだろうか。喘ぐユニカの背をさすり続けていた。ユニカが嘔吐(えず)くとすぐに始末し、口の中を濯がせて額や首筋に浮かぶ汗をぬぐってくれる。


 しかし呼吸が辛いのはどうしようもない。空気を求めて大きく息を吸おうとすれば胸にひびが入るような痛みが走る。喉の奥が痺れ、徐々に閉じていっている気さえする。


 それでもまだ死んでいない。かえって苦しい。いっそのこと首を絞めて貰いたい。


(楽に、して……)


 ユニカは鉛が詰まったかのように重い腕を持ち上げ、口許をぬぐってくれていたエリュゼの手を掴んだ。


 彼女は驚き目を瞠る。そしてユニカを励ますような言葉を囁き、それでは少しも楽になどならないのに、またユニカの背をさする。


 違う、そうじゃない。


 苦しいのは嫌なの。もう、やめて。


 首を絞めないで……手を放して……!


 若い女の指がユニカの細い首にぐるりと巻きついていた。


 なめらかとはいえない働き者の手だ。


 かさついた親指がぐっと喉にめり込む。


 ユニカは女の腕を掴み、引き離そうと必死に爪を立てた。


 苦しい、死にたくない。


(お願い、やめて、許してキルル――!)


 ユニカは締め上げられた喉の奥で懸命に叫んだ。


 するとキルルの指から力が抜け、ずるりと滑る。


 上半身を真っ黒に焦がした彼女が、ゆっくりとユニカの上へ倒れてきた。




 

 

 突然青白い光が弾けた。


 エリュゼは悲鳴をあげて飛び退く。とっさに盾にした左手の甲に熱した火箸を押しつけられたような痛みが走った。恐る恐る確かめてみると、人差し指の付け根から手首にかけて、すっぱりと開いた裂傷が出来ている。


 エリュゼは早鐘を打つ胸を落ち着けながら、うわごとを言うユニカを見下ろした。今のはユニカの〝天槍〟だろうか。


 ユニカは息苦しさのあまり悪い夢を見ているのかも知れない。そして恐怖から身を守ろうとして、無意識のうちに……。


 エリュゼは身震いした。左手の傷から溢れる血がぽとりと音を立てて床に落ちる。ユニカが正気でないだけに、また〝天槍〟を放たれれば、次はけがで済むか分からない。


 少しの間呆然としていたエリュゼだったが、彼女が我に返るのは早かった。


 持っていたハンカチで傷をきつく縛ると、寝台の上に取り落としていた手ぬぐいを拾ってユニカの汗を拭いてやる。


(わたしがユニカ様のためにして差し上げられることは、今はこれしかない)


 自分の命の心配をしている場合か。ユニカには、生きてクレスツェンツが遺したものを引き継いで貰わなくてはならないのだから。




* * *

 



 日が暮れてしばらくすると、昼間から降り続いていた雪が止んだ。そんな中、ユニカは静かに運ばれ東の宮へと戻された。


 彼女の容態は落ち着きつつある。相変わらず呼吸は浅く苦しげだし、意識も朦朧としたままだが、それでも少しは楽になったように見えた。


 エリュゼが左手の手当を終えてからユニカの部屋へ入ると、ティアナが蜂蜜湯をユニカに飲ませているところだった。


 それが終わると、ティアナは抱えていたユニカの身体を上手に横たえ、毛布を整えて、様子を見守っていたエリュゼに黙礼して出ていった。


 入れ替わりに王太子が入ってくる。騒動のためにすっぽかした諸々の仕事の処理をしてくると言ってどこかへ行ってしまったが、ユニカの世話の手配はぬかりなくしてくれていた。


「落ち着いてきたか」


「はい。さすがに危ういかと思われましたが、これで快方に向かうのでしょう」


 彼は頷き返しつつ寝台のそばへやって来て、熱を持ったユニカの頬を優しく撫でた。エリュゼが見ていなければそのまま口づけでもしそうな妖しげな手つきだ。


「ユニカを刺した刃物はこれだ。見たことがあるか? エスピオナが好んで用いるナイフで、毒が仕込んである。これはきれいに洗い流してあるから、触っても大丈夫」


 エリュゼはディルクが差し出して見せた刃物を手に取った。


 鳥のくちばしのような弧を描く分厚いナイフだった。峰についたいくつもの返し刃が見た目にも禍々しい。その返し刃も分厚く、溝が彫ってあった。毒を染みこませておくためだろう。


 エスピオナが用いる毒は強力だと話に聞いたことはあるが、エリュゼのような弱小貴族にとってエスピオナは縁遠い存在である。この武器や毒の力を実際に見たのは初めてだ。


 エスピオナを召し抱え統御するには、彼らに忠誠を誓わせることの出来る政治的な力と莫大な財力が必要だった。例えば王家や、太守権を与えられた大貴族のような。


「これの出どころが、ユニカ様を亡き者にしようとした首魁の居場所ということでしょうか」


「そう言っていいのかは、少し難しいところだ」


「なぜです?」


「私に宛がわれたエスピオナに、これの持ち主、あるいはこれを用いるエスピオナがどの家に仕えているか調べられないかと訊いてみた。他家との接触はほとんどないので難しいかも知れないと言われた割に、これを見せただけで分かったよ」


 手がかりが見つかってよかったではないか。そう言いかけて、しかしエリュゼは硬直する。


 他家の〝爪〟の形を知らない王家のエスピオナが、一瞬で出どころに気づいた。ということは。


「これは、王家のエスピオナが用いる〝爪〟だということですか……!?」


 ディルクが苦笑しながら頷くので、エリュゼは気が遠くなりそうだった。


 王家のエスピオナが、これを騎士に渡した。


 王家のエスピオナが。


 王家とは、国王と王太子。この二人のことだ。


「陛下のご命令だと……?」


「そうだとすると陛下のお言葉が矛盾する。卿は、〝このこと〟を知っているそうだな」


 ディルクは手に丸めて持っていた一枚の羊皮紙を広げる。百合の花の縁取りで飾られた証書を見て、エリュゼは力強く頷いた。


「これは私が陛下からお預かりした。ユニカを守るための盾として。公表の時期も打ち合わせてある。こんなものを私に託しておきながら、陛下がユニカの殺害を命ずるのはおかしいだろう」


「では、ユニカ様の排除を企てる派閥に王家のエスピオナが荷担している、と」


「そういうことになる。騎士の中にユニカの排除を望む者がいたのと同じに。だが王家のエスピオナを探る余力はない。ユニカの安全には更に気を配ることにして、この部屋に出入り出来る人間は限定しよう。警護の騎士も身許を洗い直した上で信頼できる者をつける。取り急ぎ今夜は――エミ」


 ディルクに呼ばれ、若い侍女が現れた。彼女はその場で恭しく腰を折る。まとめた黒髪には翼の形をした金の簪が挿してある。――王家の家紋、有翼獅子紋の翼だ。


「彼女に番をして貰う」


「侍女に、ですか……?」


 その侍女は一見してほっそりとした普通の貴族の令嬢でしかない。エリュゼとそう歳も変わらないだろう。


「私のエスピオナだ」


 それを聞いてエリュゼはただ驚いた。エスピオナは高い戦闘能力を身につけた特殊な使用人でもある。この娘は恐らく王太子の私的な生活空間での警護のためにあてがわれたのだろうが、見た目はまったき侍官でしかなかった。


 ディルクが彼女の能力を信頼しているのは結構だったが、エリュゼは素直に安心することが出来なかった。


「それはつまり、彼女は王家にお仕えするエスピオナということなのでは?」


「問題ない。この〝爪〟が王家に属するものだと答えたのはエミだ。ユニカを害そうという意志があるなら答えて疑われるような真似はしないだろう。しらばっくれて私から〝爪〟を回収し、仲間へ報告しに行けばいいのだから。そうしなかったなら、この件にはきっと関わっていない」


 エミは何を言われても微動だにせず、変わらぬ微笑みを浮かべているだけである。信用できるか迷うところだったが、エリュゼが渋々頷くと、ディルクはエミを寝室に残し外へ出るようにと促してきた。


「ところで、卿は普段どこで生活しているんだ? アマリアに屋敷は構えているのか?」


「非番の日にはベラトール地区にある屋敷へ戻っておりますが、いつもは侍官宿舎にいただいたお部屋を使っております」


 エリュゼは当たり前のこととして答えたが、前を歩いていたディルクは足を止め、怪訝そうに振り返った。


「王の直臣が侍官宿舎に?」


「ユニカ様が住んでおられる西の宮は王城の中でも最も奥まったところ。ベラトール地区はアマリアの東の外れです。馬も馬車も持っておりませんし、徒歩で毎日内郭まで通うのは不可能です」


「卿は伯爵位を与えられた王の執政の補佐官だ。議員館に部屋を申請すればいい。女中(メイド)も付くし、侍官宿舎より内郭に近いじゃないか」


「いえ、……結構です」


「なぜだ」


「それらしい働きをしておりませんので」


 またそれか、と思われたことだろう。ディルクはちょっと呆れた様子だった。


 彼は黙って踵を返し、どこへ行くつもりなのか告げないまま、再び歩き始めた。


「ならば、それらしい働きをすればいいのではないか」


「ユニカ様のおそばにいよ、という王妃様からのご命令です。それに、ほかの侍女があまりに頼りになりません。『使えない』という烙印を捺されてきた者ばかりなのですわ。王妃様がいらっしゃる時には、必ず一人は頼りになる者をユニカ様のおそばに仕えさせてくださっていたのに……。ツェーザル侍従長がよそでいらなくなった娘を掃いて除けて、西の宮に送り込んだのだと思います。何も知らない娘達はユニカ様を恐れてすぐに辞めていきますから」


 そうは言いながら、今ユニカに仕える侍女たちはそれぞれ一年以上は保っている。今までになく図太い娘達がそろってしまったらしい。


 彼女たちはユニカを恐れているが、それ以上に甘い汁も吸えることに気づいているとエリュゼは見た。自由にお喋りをしたり、高級なおやつとお茶のおこぼれに与ったり、勝手に遊びに行ったりしていても俸禄が貰えるという、彼女たちにとってはとても甘くて美味しい汁だ。


 時々、エリュゼは相手が泣くほど厳しく叱ることもあったのだが、そうしても彼女たちは二、三日無断で欠勤して、またけろっとした顔で戻ってきた。


 反抗的で気の強いリータ、泣き虫だが気ままなフラレイ、気が弱くて辞める決心が付かないらしいテリエナ。思えば最悪な相乗効果で三人には連帯感があり、エリュゼが彼女らの失敗を補ってしまうので、ユニカの生活がちゃんと成り立つのだ。


 思い出していよいよ侍従長に人事の刷新を願い出た方がよい、とエリュゼは感じた。


 次の仕事を見つけて一人意気込むエリュゼに、ディルクは背を向けたまま冷や水を浴びせかける。


「王妃様のご命令、そして侍従長の仕業、か。どちらもただの言い訳だな。卿とて分かっているんだろう。今の卿には、侍女の真似程度のことしか出来ない。出来なくしてしまったんだ。爵位に伴う責任から卿が逃げたために。違うか?」


 エリュゼが答えられないでいると、ディルクはようやくある部屋の前で立ち止まった。


 彼自ら扉を開けて、先に中へ入っていってしまう。誘われてはいないが帰ってよいとも言われていないので、エリュゼは仕方なくディルクに続いた。

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